山田風太郎 「戦中派復興日記 昭和26年 昭和27年」

  [小学館 2005年10月10日初版]


 「動乱日記」(昭和24・25年)に続く、山田風太郎6冊目の日記である。「動乱」で医学校に通いながら作家になってしまった山田風太郎は、ここではひとり立ちの作家として、書きまくり読みまくっている。たくさん読んでいるなかでもモームが目出つ。書いた作品から見ればまったく違っているけれども、山田風太郎モームと非常に近しい感性をもったひとだったのではないかと思う。成育史にも共通するものがある。
 わたくしの世代の多くの人がそうであるのかもしれないけれども、わたくしは関川夏央の「戦中派天才老人・山田風太郎」でまず山田風太郎を知り、それから「忍法帳」シリーズを読み感嘆し、「魔界転生」に驚嘆し、「戦中派不戦日記」などを読み呆然とし、「あと千回の晩飯」などで笑い、「警視庁草紙」や「幻燈辻馬車」などを読んで、この人はひょっとすると日本第一の作家なのではないかと思い、というような形で山田風太郎を読んできた。
 最初に読んだ「天才老人」で、そこで描かれた山田風太郎はほとんど生活不能者である。ストーブのつけかたをしらない、電気器具の使い方をほとんどしらない。電燈とテレビのスイッチをひねることぐらいはできるらしいが、銀行などとんでもない。外出するときは奥さんが一緒で奥さんが財布をもっているから、奥さんとはぐれたら、もう駄目、ただうろたえるだけ。(こういうタイプの奥さんがいないと生活できないのではないかというもう一人の人間が司馬遼太郎であるように思う) しかしこの日記シリーズを読んでいると、とてもそんな生活無能力ではない。自分の筆一本で生き抜いているたくましい人間である。なぜ、それが晩年はそうなってしまったのであろうか? 奥さんへの愛情なのだろうか? 奥さんに自分がいないとこの人はどうしようもない人でと思わせるための戦略なのであろうか? 本書を読んでも、なかなか大変な女性関係の修羅場をくぐってきたひとのようであるから、山田氏の女性観というのも一筋縄ではいかないものがありそうである。
 「天才老人」のころには「不戦日記」と「虫けら日記」は出版されていた、それ以降の分の日記は出版されていない。昭和21年以降の日記も出版したいという申し出があるが峻拒している、などと書いてある。奥さんにも自分が死んでからもそんなことは許可するなと言い渡してあるとも書いてある。それなのにこういう本が出てくる。不思議である。厭なら滅却してしまえばよさそうなものであるが、そうしなかったから世にでてくるわけである。やはり未練があったのであろう。チェリビダッケのレコード化拒否と似たようなものであろうか? 駄目といってはいても、死後には世にでてしまうことを半ばは覚悟し(あるいは期待?し)ていたのであろう。
 モームは最近は流行らない作家であるが、読み返して(というほど読んではいないが)みたくなった。モームの作品では学生時代、英語の勉強に読んだ「ロータス・イーター」という短編を妙によく覚えている。ある男が自分の死の予定から逆算して引退し、それでえたお金を元手にどこか風光明媚な土地で暮しているが、死ぬ予定の歳になっても一向に死なず、金がなくなってきて困っているというような話だったように思う(記憶で書いているので相当に違っているかもしれないが)。なんでこんな話を覚えているのだろうか? ロータス・イーターというのは「安逸に暮す人」というような意味らしいが、わたくしは若いころから隠遁志向があったのであろうか? 


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

戦中派復興日記―昭和26年 昭和27年

戦中派復興日記―昭和26年 昭和27年