山田風太郎 「ラスプーチンが来た」

  ちくま文庫 1997年10月 ちくま文庫版初版 1984年単行本初版
  
 関川夏央氏の「おじさんはなぜ時代小説が好きか」を読んでいて、久しぶりに山田風太郎を読んでみたくなった(「おじさん・・・」で関川氏がとりあげているのは「八犬傳」であるが、これは山田風太郎の作としては例外的な芸術家小説であり、氏の本領ではないように思う)。それで本棚に並んでいる未読の山田風太郎の小説の中から任意にとりだした「ラスプーチンが来た」を読んでみた。読んでみたら、乃木希典正岡子規夏目漱石もでてきて、同じ関川氏の「「坂の上の雲」と日本人」にも繋がった。もっとも子規も漱石も点景であるのだけれども。
 山田氏も司馬遼太郎と同じで、精神主義嫌いの合理主義者であるので乃木希典などは散々なのだけれども、山田氏が司馬氏と違うのは、女性への畏敬の念というか、聖女信仰みたいなものがある点であるように思う。悪い男はでてきても、悪い女はでてこない。あるいは悪い女であっても女であることによって許されてしまう。司馬氏でそれに相当するものは宗教的な何かへの畏敬の念であろうか。合理主義者でありながら宗教的心情を深く尊敬している。
 山田氏は、男は男であることによって女より劣るとするのであるが、ある意味男の馬鹿馬鹿しさを体現した、三島由紀夫のいう「足が地につかない」人間の愛嬌のようなものを描くことを好んだように思う。
 それで本書では、その愛嬌ある快男児明石元二郎である。明石元二郎日露戦争でロシアの後方撹乱のためレーニンらによるロシア革命を支援し、後の台湾総督になった人物である。しかし、ここにでてくるのは若き日の明石元二郎であり、伝記的事実には一切依っていない。というか完全な法螺話である。それならば主人公は明石という固有名詞である必要はないことになる。しかし、書き出しは、
 「明石元二郎
 最初に、この名前についてご存知ない読者のために書く。」
 というものである。
 そして、その履歴の紹介のあと、
 「以下はすなわち若き日の明石元二郎の物語である。この若い化物が、さまざまの化物と戦う物語である」として、小説に入っていく。
 なにしろ後年の凄い経歴を知らされたあとだから、明石が常人とは思えぬ行動をしてもなんとなく読者は納得してしまうのである。こういう書き方もどこかに手本があるのかもしれないが、「解説」にも書かれているように、そのあと、荒俣宏の「帝都物語」でも踏襲されている。
 この小説は最初、週刊誌連載中は「明治化物草紙」という題だったらしい。それが「ラスプーチンが来た」というタイトルになったわけであるが、そのラスプーチンがでてくるのは小説の後半を過ぎてからである。最初この小説を書き出したときにはラスプーチンが出てくる予定はなかったのではないだろうか? 怪僧ラスプーチンが日本に来たなどというのも山田氏の完全な創作なのであるが、少し風呂敷を広げすぎて、最後のほうは収拾にだいぶ苦労している印象がある。
 ラスプーチンは化物ではあっても愛嬌がない。それよりは小物であるが稲城黄天といういかさま宗教家(これにもモデルがあるらしい)にはずっと愛嬌がある。下山宇多子(明らかにモデルは下田歌子)はもう少し可愛く描いてあげればいいのにとも思う。でもそうするとヒロイン竜岡雪香が際立たなくなるのだろうか? 雪香に純情をささげる津田七蔵などは案外戯画的な山田風太郎の一面なのかもしれない。
 なんて書いてきたところで、森まゆみが聞き手の「風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く」(ちくま文庫 原著2001年)の「明治小説の舞台裏」を読み返してみたら、「ラスプーチンが来た」についても語っていて、最初からラスプーチンを出すつもりだったと書いている。本当かしら? でもラスプーチンがニコライ二世に信用があったのは皇子が血友病であったことによるので、そこから本書を発想したと言っているから、やはり本当なのだろう。
 同じ本に「結局、女の人の方が偉いよ、はっきりいって」という発言がある。その理由というのが、女の人のほうがバイタリティがある。男のほうが弱い。それは、「男は傷つくけど女は忘れるから」という理由なのであるが。「男は奥さんに死なれて三年たつと死んじゃうけど、だんなが死んだ奥さんというのは元気でますます(笑)」というのは、その通りの事実であるが、わたくしもその理由は男が繊細で弱いからである思ってきた。しかし、それには、進化論的な由来もあるらしい。いずれにしても、山田風太郎が女のほうが偉いといっているのは本音であると思う。
 関川夏央「戦中派天才老人・山田風太郎」(原著 1995年。かなりのひとはこの本によって山田風太郎を知ったのではないかと思う。わたくしもその一人)では、関川氏は山田氏のことを「日常生活において不具にひとしい」と書いている。ストーブがつけられないし、外出時にも財布をもたず夫人とはぐれるとどうしようもなくなるのだそうである。若いときの日記などを読んでいるととてもそんな人ではないように思えるのだが。司馬遼太郎も、夫人がいないと日常生活ができないひとではなかったかという印象がある。そういう点でも、山田風太郎司馬遼太郎は似ているところがある。
 その「天才老人・・」に以下のようなところがあった。

 たまに女房についてスーパーに行く。外出嫌いのくせに食料品売場を見るのは楽しみなんだ。あふれんばかりに並んだ食品を、懐手して眺めながら、この光景を戦争で死んだ連中に見せたら、彼ら気が狂うだろうなあ、と思っている。
 しかし、こんな状態が永遠に続くわけはない。現在が日本史上の最高到達点だろう。十年二十年先には戦争中の状態に戻りかねない。日本というのは生来脆い国だから。その頃はもうこの世の人じゃないからぼくは構わないが、孫たちがかわいそうだと思えてならん。

 これが1993年ごろの発言である。それから10年以上の年月がたっている。
 この発言を見て思い出すのが、吉田満氏の文章である。

 私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがある。それは、彼ら戦没学徒の亡霊が、戦後二十四年をへた日本の上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている光景である。死者がいまわのきわに残した執念は容易に消えないものだし、特に気性のはげしい若者の宿願は、どこまでもその望みをとげようとする。彼らが身を以って守ろうとした“いじらしい子供たち”は今どのように成人したのか。日本の“清らかさ、高さ、尊さ、美しさ”は、戦後の世界にどんな花を咲かせたのか。それを見とどけなければ、彼らは死んでも死に切れないはずである。(中略)彼らは、一人一人のかけがえのない生命を賭けて、課せられた役割に最後まで最善をつくそうとした誠実さのどの部分が、なに故に否定されるのかをたずね求め、もし戦後世代が、そうした模索を過去のものとして一顧だにしないならば、そこには真の未来がないことを主張するであろう。(中略)
 彼らの亡霊は、いま何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で。また新聞のトップ記事に、何を見出すだろうか。(「戦没学徒の遺産」 吉田満著作集 下巻 文藝春秋社 1986年)

 これは「著作集」の付録にある吉田直哉氏の文で引用されていて、そこで最初に知った。なんだか三島由紀夫の「英霊の声」を想起させるような文章でもあるが、吉田直哉氏の文では吉田満氏がよく口ずさんだという岡野弘彦氏の歌「辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか」も紹介されている。(著作集に収められている「三島由紀夫の苦悩」はかなり正面からの三島由紀夫の死の賛歌である。)
 山田氏が基本的に戦後の繁栄を肯定しているのに対して、吉田満氏はそうではないわけであるが、それにもかかわらず、日本の現在をみて戦争で死んだ人たちのことを考えるという発想は共通している。吉田満氏の絶筆(というか食道静脈瘤破裂で入院中の口述)である「戦中派の死生観」でも「死んだ仲間」という言葉が見られる。
 山田氏が「明治」を書くときに、戦後派としての視点がどのように影響しているのだろうか? 司馬遼太郎の「明治」ものを明治のポジであり、山田風太郎が描くのはネガであるという見方があるらしい。この「ラスプーチンが来た」を読んでも別に明治をネガティブなものとして描いているとは思えない。この時代が面白い時代である、書くに値する時代であるというのが第一であろう。そして、それにもかかわらず、その時代が結果として太平洋戦争にいたるというさめた目が別にある。司馬遼太郎の場合は、それが何故なのか、どうにかできなかったのかということが常に念頭にあった。山田風太郎の場合には、人間というのは愚かしいものだから、それもしかたがないというような無常観とでもいうような見方が根底にあったように思う。歴史の動きには人智をこえたものがあり、いかんともしがたいものがあるとでもいうような視点である。「現在が日本史上の最高到達点だろう。十年二十年先には戦争中の状態に戻りかねない」としても、それをどうにかできるとは思ってはいないわけである。
 かりに「朝日新聞」史観とでも呼べばいいのだろうか、人間の理性によりこの世の中をどうにかしていけるという見方がある。それは少なくとも「朝日新聞」の場合には、どちらかといえば左の陣営に肩入れするものであり、司馬遼太郎はそれとは反対の「産経新聞」側の人間であったわけであるが、それにもかかわらず司馬氏は合理主義の人として、言説により何かを変えていけるという信念をもっていたであろう。
 山田風太郎は同じく合理主義の人ではあっても、言説の無力ということを痛感していた人なのであろう。それが現実の明治を書くのではなく奇譚としての明治を書くというやりかた、そこで「敗れていく人」への共感というかたちであらわれているのであろう。
 小説家としては司馬遼太郎よりも山田風太郎のほうにわたくしが惹かれるのも、わたくしが人間の理性でできることへの限界という見方に共感するたちの人間だからなのであろう。
 まあ、そんな難しいことをことをいわずとも、司馬遼太郎の小説より山田風太郎の小説のほうが情報量が多いように思う。それは司馬史観がすでにわれわれの中で常識となりつつあるので司馬氏の小説を読まなくても、司馬氏の見方は、言論界では随所でいきあたるものとなってしまっているのに対して、山田氏の見方はまだまだマイナーであり、それだけ新鮮であるということもあるのかも知れない。
 明治という時代にいたって無知なわたくしは、本書で明石元二郎という人をほとんど初めて知ったわけだし、下田歌子という人についてもあるイメージを持てた。それは錦絵風に誇張されているのかもしれないが、そのほうがよく記憶に残るということもある。
 それよりもなによりも、それだけ鮮明なイメージを造形できるということは山田氏の小説家としての力量ということなのであり、読める小説を書けるという点で山田風太郎は明治以降の小説家の中で屈指の人であったということなのであるが。


戦中派天才老人・山田風太郎 (ちくま文庫)

戦中派天才老人・山田風太郎 (ちくま文庫)