S・モーム 「お菓子と麦酒」

  [新潮文庫 1959年]


 山田風太郎の日記を読んでいたらモームの本をやたらと読んでいる記事が目立った。それでなんだか久しぶりにモームを読んでみたくなった。
 小説というものはこういうものなのだ、とでもいうような小説である。これを読んでも別に何かを知ることができるわけでもなく、深くものを考えるようになるというのでもない。ただ面白く読んでいって、読み終わり、本を閉じたあと、人が生きるということについて、いささかの感慨にふける、といでもいった本である。こういう本を読むと、村上龍の「半島を出よ」とか村上春樹の「海辺のカフカ」といった小説が、同じ小説といってもかつてのものとはいかに違ったものとなってしまったかということを感じる。このモームの小説は炉辺の物語を離れることがなく、どこまでいっても市井の噂話の延長線上にある。
 誰でもいうことであろうが、この小説で出色なのはロウジーという女性である。この女性を造形したことが最大の功績なのであろう。天真爛漫で天衣無縫。邪気というものがまるでない女性。こういう人間がなかなか小説にでてこないのは、まさにこういう人間の対極にいるのが小説を書く人間だからである。邪気の塊が小説家=インテリなのである。素直になれない人間、それが文学者なのである。町田康の「告白」なども、素直になることだけをもとめて、それに至ることが出来ずに破滅した男の物語であった。となれば、本書の主人公が小説家であり、狂言回しも小説家、ロウジーの相手も小説家という配置はロウジーを引き立たせるためには、実によくできた舞台装置である。そして、ロウジーが小説家を捨てて、俗物の商人に走るという物語の構造自体が、著者のインテリ批判であると同時に、苦い自己認識とも繋がっているわけである。もちろん、そんな野暮な小説ではないのだけれど。
 この小説のいいところはロウジーという女性が何かの主義主張の道具になっていない点である。どうもこれは女性でなければ駄目な役どころのようで、男にこういう性格をふると「カラマゾフ」のアリューシャとか、いきなりイエス・キリストというような方向にいってしまう。いうまでもなく、ロウジーはイエスという存在を思わせるところはまったくない、それとは正反対の存在であり、むしろイエスが西欧にもたらした栄光と悲惨の根源である罪の意識をまったくもたないという点で無垢なのであり、偽善からもっとも遠いという点において善なる存在なのである。
 というような野暮な議論ほど、この小説に似つかわしくないものはない。小説の最後ですべてのパズルが一つにおさまるという構造などは、ほとんど推理小説である。
 この小説にでてくる小説家ドリィフィールドのモデルがトマス・ハーディであはないかというようなことで本書は物議を醸したらしい。わたくしがハーディについて知っているのは後にも先にも、福原麟太郎氏の本で読んだ「牛」という詩ただ一つである。
 
 クリスマス前夜、十二時だ。
  「いまみんな膝まづいているのだよ」
 年寄がそういいった。家中が集まって
  炉の火の燃えさしを囲んでいる時。
  
 私どもはおとなしい優しい動物を目に描いた。
  みんな小屋の中の藁の上にいるのだ。
 私どもはただ一人として
  動物が膝まづいているのを疑わなかった。
  
 こんな美しい想像はいま誰もしまい
  この時世だ。だが私は思う
 誰かがクリスマス前夜に言ったとする
  「さあ、牛が膝まづいているのを見に行こう」
  
「向うの山かげの淋しい農家の庭だよ
  子供のとき、よく遊んだところさ」
 そしたら私も彼と暗い道を行くかも知れぬ
  本当であってくれと思いながら。
              (福原麟太郎著作集 5 研究社 昭和43年刊)

 詩は翻訳で読むものではないのかもしれないが、福原氏の日本語で読んでも、素晴らしい詩であると思う。それでハーディというのは古典的な作家であるようなイメージをもっていたのだが、本書を読む限りは随分と違うようである。
 「お菓子と麦酒」は今は絶版のようである。それで本棚を探したら黄ばんだ文庫本がでてきたのだが、1959年初版で1980年28刷とある。今から25年前、30歳すぎてなんでこの本を読もうと思ったのか、まったく思い出せない。読んだ記憶がないから、多分、買ってきてそのままになっていたのであろう。28刷までいった本が絶版になってしまうのであるから、流行というものは恐ろしい。今やモームを読む人などほとんどいないのであろう。だから本は気になったら、とにかく買ってしまわなくていけないのである。しかし、活字が小さいのには困った。老いの身には(苦笑)つらい。昔の文庫本というのはみんなこうだったのであろうか?
 わたくしはモームは小説はあとは「月と六ペンス」だけである。むしろ岩波新書に入っていた「世界の十大小説」というのを繰り返して読んだ。高校生の頃かと思う。小説は面白ければいいのであって、思想とかは余計である、というモームの考えは結構わたくしの中に刷り込まれているかもしれない。
 ドイツ観念論とイギリス経験主義の対立ということがある。哲学はドイツでも、小説はイギリスなのかなという気がする。ドイツが大作曲家を多数輩出しているのに対して、イギリスにはほどんどいないということには、何かがあるのであろう。もっともイギリス経験論哲学がドイツ観念論哲学に対して旗色が悪いのは、哲学=観念論という先入観を、ドイツ陣営が流布させたためなのかもしれない。哲学と音楽を除いたらドイツには何も残らないのかなという気もする。


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

お菓子と麦酒 (新潮文庫 モ 5-7)

お菓子と麦酒 (新潮文庫 モ 5-7)