橋本治「その未来はどうなの?」(終)

 
 第七章は「TPP後の未来はどうなの?」である。
 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)に参加した後の日本の未来はどうなるのか? そんなことは自分には分からないと橋本氏はいう。氏が指摘するのは、TPPもその一つの例であるように、さまざまな問題についての日本での議論の進め方はとてもおかしいということである。
 『日本は「初めに結論ありきの国」』である。だから、TPP交渉に参加するということは、そこでの議論を踏まえて参加するかどうかを決めるのではなく、TPPに(そこでの議論の結果がどうであれ)参加するとすでに決めているということであるし、TTPに反対しているひとはTPP交渉をはじめること自体に反対する。
 これは貿易についてのとりきめ、関税についてのとりきめであるにもかかわらず、それが消費者にどのようなメリット、デメリットがあるかではなく、「恩恵を被る業種のメリットとデメリットの問題」なのである。自動車や電化製品を輸出する企業は関税撤廃大賛成、高い関税で守られている農業関係者は大反対。賛成する側はそのメリットばかりを強調し、反対する側はデメリットばかりを強調する。だからメリットとデメリットの比較検討ということがなされない。
 (おそらく)賛成する側は、TPPで国内農業が壊滅するかもしれないと考えているが、そうなったら農家に補助金を出せばいい、と思っている。しかし、日本の財政状態を考えたら、そんな補助金は出せるのだろうか? (おそらく)輸出が拡大すれば景気もよくなって、補助金も出せるようになると考えている。東日本大震災の後でも、そういう議論が可能であるのかはいたって疑問なのであるが・・。
 TPPに参加すれば、日本は今よりもいっそう「大食料輸入国」になる。そうすると日本に農産物を輸出する国は、「貧しい第一次産業しかない国」ではなくなっていく。日本は先進国中唯一の非西欧系である。当然、後進国は日本をモデルにする。中国や韓国が工業製品輸出についてのライバルになってくる。その過程で明らかになってくることは「もう先進国が工業製品を輸出する時代じゃない」ということである。工業製品の輸出というのは先進国を追いかける後進国の仕事となるのである。だから(TPPに参加したとしても)これからの日本が輸出を拡大するという方向でやっていけるのだろうか、と橋本氏は疑問を投げかける。なんで日本が円高なのか? 世界がまだまだ日本からはむしり取れると思っているからではないのだろうか?
 日本は「これからどうなるんだろう?」ということは盛んに考える。そして、こうなるのであれば、こうした方がいいとする。「どのようにしたいのか?」はまず考えない。自分の未来予測が間違った場合にはどうしたらいいのかを、少しも考えない。
 TPPについても、それに参加した場合におきるであろうさまざまな事態を予測し、それぞれのケースについて、どう対応したらいいかを考えたうえで、決断する、それしかないだずなのだが、と。
 
 橋本氏の論を読んでいると「あッ、これは丸山真男!」と思うことがたびたびある。ここなども『日本の思想』である。『「である」ことと「する」こと』である。『宗教なんかこわくない!』にあった『必要なのは・・“自分の頭で考えられるようになること”― 日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない』というのもまた典型的な丸山思想である。
 浄瑠璃などはまさに「である」の世界だから、浄瑠璃大好き人間である橋本氏は『日本の思想』をよくわかっているのである。それにもかかわらず、日本はもはや近世ではなく、近代であることも理解している。一方、多くの日本人は近代人を自負しながらも、近世的な思考パターンから少しも逃れられていない。「俺の目を見ろ、何にも言うな、黙って俺について来い、悪いようにはしない」の世界である。「俺のいうことを信じろ!」であれば議論など生じる余地がない。
 橋本氏もいっているように、ここでのTPPに関する議論は、「日本の原発計画のあり方」の議論にも多いに関わってくる。原発推進派は未来永劫重大な事故がおこることなどないといっていた。この程度の事故がおきる確率は100年で何%、もっと大きい事故は何%といった話は一切なかったし、一方、反対派は、0.000000・・1%でも事故の可能性が少しでもあるのなら断固反対で、この程度の事故までなら許容できるが、これ以上の事故の可能性があるなら許容できないという議論もまたなかった。
 今度の原発事故で、そうとう大きな事故がおきた場合におきる事態がどのようなものであるのかが明らかになった(もちろん、もっと悲惨な状態になる可能性もあったが、綱渡りでそうならなかったのかもしれないが・・)。そして、そのような事態にいたった原因もある程度解明されているのではないかと思う。
 しかし、そもそもわたくしにわからないのが、今回の事態は津波によっておきたもので、地震だけではおきなかったことなのか、今回の事態もそのようなことを想定して周到な対策をあらかじめ策定していれば、ここまでの事態にはならずに済んだのかという点である。
 それが明らかになれば、現在すでに設置されている原発についても、とりあえず、これこれの対策を追加でほどこせば、現在よりも安全性は増すとか、現在ある原発でも地震だけであれば、今回のような事態にいたる可能性は非常に低いとか、について議論できるはずである。今回の事故の規模を考えれば、今後新たに原発を設置することはきわめて困難であることは当然予想される。だから、現在あるものをとりあえずどのようにしていくべきが一番論ずべきポイントであると思うのだが、その議論の前提となるはずの問題点がいっこうに見えてこない。相変わらずの「初めに結論ありき」である。
 わたくしはモダンとポストモダンのあいだを揺れうごいている人間なので、モダンと近世をいったり来たりしている橋本氏とは波長が合う部分と合わない部分がある。ここでの氏の議論には比較的共鳴できるのだが、次の「経済の未来はどうなの?」はよくわからなかった。
 氏は2005年に書いた「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」から引用する。「エコノミストの存在理由は、「経済が存在する」という枠内に限られていて、経済が破綻しない限りはエコノミストが存在して、経済が破綻すると、エコノミストはいなくなってしまうのです。だから、エコノミストの発言を聞いている限り、世界経済は絶対に破綻しないのです。」 しかしここはよく理解できない。人間が余剰の生産を可能にして以来、経済は存在してきたはずで、世界経済が破綻したということはそのまま経済活動がなくなることではないと思う。経済学は本来、事実を後追いする学問で、おこったことを説明し、それに対してとりあえずの処方箋を書くものであっても、未来を予想する学問ではない。クルーグマンの本を読んでいてびっくりしたのだが、ほんの少し前まで経済学者の関心はもっぱらインフレをどうやっておきないようにするかということであって、デフレなどということが現実世界でおきるなどということはほとんど考えてもいなかったのだそうである。
 以前、氏の「貧乏は正しい!」を読んでいて、「資本主義とは、金はあるが力はないじいさんが、金はないが力はある若者に仕事をさせるシステムである」というような定義があって、なんとうまいことをいうのだろうとうなったものだった。しかし、金のあるじいさんは、なにも若者を働かせることをしなくてもいいわけで、たまたまある時期には、一番いい投資先が金のない若者であったわけである。しかし、若者にさせる仕事もあまりなくなってきて、もっといい投資先ができてきているというのが現状なのだろうと思う。その投資先が金が金を生むという世界である。金が金を生むというのもまたエコノミーであるというのが橋本氏には許せないらしい。エコノミーとは実体経済をあつかうべきものではないかということである。しかし、事実として金のある(それも途方もない金のある)じいさんが存在しているわけである。経済学とは事実を追認する学問なのだから、それを無視して学問体系をつくることなどできないはずである。
 世界をみれば、「金のあるじいさん」が西欧先進国で、「金のない若者」がアジアの発展しつつある国である。橋本氏がいうのは、日本はいつまでも「金のない若者」であるような気分でいるのはやめろ! もう「金のあるじいさん」になってしまったということを認めろ! ということである。もっと成長、再度経済発展などといっていないで、現状の停滞日本しかないことを認めよ! という。それはどうしようもないのだから、「これ以上はもう無理と考えたほうがいい。敗北を認めた方がいい」ということになる。もう無理して、必要もないものをなんとか需要を刺激して売ることなど、やめればいいではないかという。
 氏の書いていることを読んでいると、時々、ラッダイト運動を想起するのだが、ここらも少しその気味がある。たまたま最近の「週刊文春」で、宮崎哲弥氏が「本当は怖い昭和30年代 ALWAYS地獄の三丁目」という本から、昭和30年代とは「国民の大半が貧困に喘ぐ超格差社会で、街全体が悪臭を放っていたし、下水道の整備はおろか水道の普及率が低いため、内風呂、水洗便所は高値の花。生活全般が押し並べて不潔で、国民の4割が寄生虫に感染し、大学進学を望んでもほとんどの人が叶わず、貧しい住居環境のためプライヴァシーは守られず、東京、大阪間の移動に7時間も要し、交通事故死、妊娠中絶の件数など現在とは比べられないほど多く、凶悪な少年犯罪も多発し、幼児が殺害される事件は現在の12倍で、覚醒剤等の薬物中毒者が街中を徘徊していた」時代だったのだという部分を紹介している。今があるのは経済成長、社会の進歩の結果なのである、と。「昭和30年代憧憬は、また経済成長不要論やデフレ宿命論などとセットとして語られる場面も多い」とし、「こういう論者は、もし経済成長率がゼロになれば、格差が拡大し、失業は増え続け、社会保障は持続不能となり、財政は破綻に向って突き進むという火を見るよりも明かな帰結をちゃんと見据えていない」のだと宮崎氏はいっている。
 橋本氏は絶対に自分の主張が実現するはずはないことを知っているので、一つの方向しか見えなくなっているひとに、そうでない方向もあるのだということを示すことをしようとしているのかもしれない。しかし、わたくしが思うのは、人間は知ってしまったらもう駄目なのだということで、水洗トイレや携帯電話やパソコン(というのはもう古くて、スマホの時代なのかもしれないが)がない時代には絶対に戻れないということである。電車の座席に腰かけているひとの半分が携帯端末をみているというのは異常であり、そんなものが本当に必要なのかといえば必要ないのであろうが、それでももうわれわれはそれを知ってしまったのである。橋本氏は存外「血気」には乏しいひとなのかもしれない。
 最終章は「民主主義」についてだが、それについてはすでに論じた。橋本氏は民主主義は究極の政治形態である、という。西欧世界ではそうであろう。しかし、イスラム世界もまたそうなっていくのであろうか? イスラムもまた遠い(あるいは近い?)将来、民主主義の形態へと収斂していくのであろうか? 未来のことは誰にもわからないのではないかと思う。
 

その未来はどうなの? (集英社新書)

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日本の思想 (岩波新書)

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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貧乏は正しい! (小学館文庫)

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