内田樹「女は何に欲望するか?」

  径書房 2002年11月12日 初版


 とんでもないタイトルの本であるが、フェミニズムについて批判的に論じたとても真面目な本である。このタイトルで、その内容がわかるひとはいないと思う。内田樹氏はそれなりにメジャーになっているからいいが、そうでなければこのタイトルを見て、読んでみようと本を手にするひとは、あまりいないのではないだろうか?

 フェミニズムは、少なくとも日本においては社会的影響力を失いつつあるのではないだろうか?と内田氏はいう。フェミニズムばかりではなく、あらゆる社会理論が陥る、構造的な難点なのであるが、フェミニズムも、あらゆることがその理論で説明できるという思い込みから自由ではなかった。そのような全能感は節度を失わせる。その無節度な態度によって、信用を失ってきて、飽きられてしまったのである、と内田氏はいう。
 フェミニズムは、ポパーのいう積極的に反証を求める態度をとる科学ではない。しかし著者はポパーほど厳格な科学的態度を社会理論には求めない。ただそれがうまく適応できない事例もあると認める謙虚ささえあればいいという。しかし、フェミニストは往々にして、自分たち以外の解釈を、「父権的イデオロギーに汚染されている」というラベルを貼ることでそれで反論終りとして、よしとしてきた。これは、ある時期のマルクス主義が、反対者を、「ブルジョアイデオロギーに汚染されている」というラベルを貼ることで反論が済んだと思ったことと平行関係にある。
 それを感じ取って上野千鶴子は方向転換をはじめている。また、村上春樹は、「海辺のカフカ」でフェミニストへの強い否定的な描写をしている。これらは時代の空気を反映している。

 「ある言語のイデオロギー性が話者の自由と主体性をどのように損なっているのかを、その当の言語を用いて、反省的に記述することは可能か?」というのは、古典的な哲学的難問である。
 プラトン『国家』の「洞窟の比喩」はその典型である。人間は洞窟の中にいるほうが居心地がいい。しかし、人間は「洞窟の外」に引き出される宿業をもつ。
 この「洞窟の外」へでることを、ヘーゲルは「自己意識」と呼んだ。洞窟の外にでると、自己意識の分裂がおこる。意識する「主体」としての自己 sujet と、意識される「対象」としての自己 je にである。
 このような自己の分裂をラカンは「根源的疎外」と呼んだ。人間は、自分が本当に考え、感じていることは言葉にできないという宿命の下にある。
 フェミニズムは、この古来からの難問に新しい視点を提供したものである。
 ボーヴォワールの女性論は、コジェーヴの<ヘーゲル精神現象学』講義>の<主と奴の弁証法>に依拠している。コジェーヴは、人間と動物の違いを、動物は生理的欲求により生きるのに対して、人間は「他者の承認」を欲求する点にあるとした。その<弁証法>の<主と奴の関係>を、男と女の関係におきかえたのである。女性は男性の承認を求めて生きる存在にさせられているとした。ボーヴォワールは、女性が男性の承認を求めて生きるのではなく、女性も男性と同じに「高い地位」「高い給料」「高い成功」「権力」「威信」「利得」などが求めていきるべきであるとした。しかしボーヴォワールは、それを求めることが、「他人を奴隷にする権利」をもとめることになるのではないか、という危惧ももった。
 フェミニズム理論によれば、すべてのテキストは男性的原理に汚染されている。したがって、それを批判的に読むことが要求される。しかしレヴィナスやバルトのテキスト論によれば、テキストは個々の読者の前にすべて異なるものとしてあらわれる。なぜなら同じ人生経験をもつ読者などはどこにもいないからである。その場所で、フェミニズムのテキスト理論はつまずく。
 この難問を強引に突破したのがフェルマンである。フェルマンもまたヘーゲルの「他者による承認」という思想に依拠する。女性が、あるテキストについて何らかの違和を感じる部分があるとすれば、それは女性が知らず知らずの内に男性原理に汚染され、自分でみまいとしている部分なのである。ここでフェルマンが言っていることは全面的に正しい。しかし、それは女性にだけ成立するものではなく、あらゆる人間に成立することである。フェルマンは、それを女性にのみ成立するものであるとして、男性の場合のことは顧慮さえしない。それが問題点である。つまりフェルマンはラカンの「根源的阻害」が女性にのみ成立しているといっているのである。しかし、これは人間が人間であるかぎりもつ宿業なのである。
 ヘーゲルマルクスニーチェフロイトソシュールにつながる問題意識の系としてこの問題は存在する。マルクスによれば、われわれははじめから何者かであるのではなく、労働を通して何者かになるのであり、フロイトによれば、われわれは「本当にいいたいこと」を語ろうとしてそれをうまく言語化できないことを悟り、そのことを通じて間接的に自分の「本当にいいたいこと」の存在を間接的に知るしかないである。

 以上は「フェミニズム言語論」と題された前半の要約である。後半は「エイリアン」を題材としたアメリカンフェミニズム論である「フェミニズム映画論」であるが、わたくしは「エイリアン」を見ていないので、ふーん、と思って読んだだけである。娯楽映画でもこんな見方ができるのだなあと感心した。わたしの「教養」はまったく偏っていて、特に「まんが」と「映画」はまったく駄目で、こういう話を実感として理解することができない。困ったことである。

 さて、ポパーは、科学と非科学(偽科学)の間の線引きを「反証可能性」という点においた。こういう事実がもしみつかるならば、わたしの理論(仮説)は間違いであるということを内に含むのが科学であり、どのような事実もすべて自説を補強するものとなり、どのような事実をつきつけられても自説の間違いを認めないようなものは科学ではないとした。ポパーによれば、マルクス主義精神分析学も科学ではない。確かにマルクス主義はどのような事実を見てもそれはマルクスの主張を裏づけるといいはるようなところがあった。
 現在のフェミズムはかつてのマルクス主義のようなものだというのである。
 内田氏は、フェミニズムが社会資源の男女への公平な分配を求めるのは支持するという(生物学的人類学的性差に大きく依存しているものを除けば)。しかし、権力や地位といった社会的資源の公平な分配の要求が、そのようなものを求めても空しいのではないかという視点を否定するものであってはならないという。なぜなら価値観はばらけていたほうが社会システムは安定するから。
 もしも性差と人種差がなくなったら次に人を分けるものは何になるか? 内田氏は、「年収」と「原理主義」ではないかという。性差撤廃を主張する一部の人は「年収」による差異化を暗黙にあるいは公然と認めている。それが公平な競争の結果であるならば。もう一方には、それとは反対に「アメリカ的価値観への拒否度」を人間区分の指標にしようとするひともいる。これが原理主義である。しかし、結局は前者が主流になるのではないか? それは今よりも幸せな世の中だろうか?と内田氏はいう。
 資本主義は「他人がもっているものは自分も欲しい」ということを原理としてなりたっている。フェミニズムの原理も「男がもっているものは女も欲しい」なのである。
 内田氏の師のレヴィナスは、内田氏の著書から推定する限りにおいて、女は家にいろ!と読めるようなことを書いていて、フェミニスト陣営からの激しい批判にあっているらしい。本書は内田氏が師に代わって、フェミニズムに反論しているような趣もある。
 フェミニズムというのはマルクス主義なきあとの最強のイデオロギーではないかと思う。少なくとも虐げられたものの定義が、労働者から社会的弱者に移行したことは確かであると思われる。
 誰だったか一日50回は男に生まれてよかったと思い、一日50回は女に生まれなくてよかったと思うというようなことを書いていたが、わたくしの中に、男であることの偏見が膨大にあることは確かであると思う。今の社会が男に決定的に有利にできていることは間違いがなくて、心ある女性が歯軋りをしているだろうことはよくわかる。
 わたくしについて言えば、二十歳のころと現在では、女性ついての見方がまったく変わったように思う。それは社会にでて、働く女性をたくさん見てからのように思う。
 マルクスだって働く労働者をみて、なんとかせねばと思ったのである。そしてその善意が、結果として膨大な悲劇を生んだわけである。フェミニズムも善意の動機からでていることは間違いがない。問題は歴史において善意の理想をもとめる行動ほど悲劇を生むものはないということであるように思う。