内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」

  文藝春秋 2008年 1月
  
 ここでは「まえがき」だけ。内田氏はおおよそ以下のようなことをいう。

  • 今の日本には、「公的なもの」は磐石であるから、いくら批判しても構わないし、むしろ強く批判すればするほど、「公的なもの」はますます強固で効率的なものに改善される、という根拠のない楽観が広く存在する。
  • この楽観は、「ちゃんと仕事をしてくる人がどこかにいるはずだ」という無根拠な思い込みに由来する。
  • 「誰かがちゃんとやってくれるはずだ、だから私はやらなくてもいい」という当事者意識の欠如が、この楽観を生む。
  • これは今にはじまったことではなく、昔からあるものであり、「左翼」といわれた人々はだいたいそのような発想をしていた。マルクス主義者のあとはフェミニストが同じ論法を受け継いだ。
  • 自分に我慢できないことは、万人もこれに我慢できないはずである、という論理である。これはブッシュ(父)の湾岸戦争のときの論理、「世界はもう待てない」、アメリカが我慢できないことは、世界もまた我慢できないという論理にも通ずる。
  • マルクス主義の全体化」であり、21世紀になり、世界中がマルクス主義者になってしまったのである。
  • マルクス主義の難点は、現社会の不具合について当事者意識がないことである。これはすみやかに社会秩序を転覆することを使命とする以上は当然のことなのであるが、みんながマルクス主義的になるとどうなるのか?
  • われわれは歴史の経験として、マルクス主義者が社会の一定の割合以上を占めるようになると、マルクス主義的な社会秩序でさえも、維持できないことを学んだ。
  • マルクス主義からの批判が生産的に機能するための条件はただ一つ、「あまり数が多くならない」ということである。
  • なぜなら、批判をうけとめて何とかしようと思う当事者がある割合以上にいないところでは、社会秩序は維持できないからである。
  • 社会のせめて15〜20%の人間が「公的なもの」を支えるのが自分の仕事であると思っているならば、社会はまわっていくであろう。

 以上の内田氏の論理は一見なんとなくもっともらしいのであるのであるが、よく考えてみるとなんだかおかしい。マルクス主義が歴史の中で、社会体制としてはほぼ機能しないことが明らかとなってしまい、フェミニズムも往年の耀きを失ってしまったという事実に根拠をおく主張と、社会の中にある一定数の当事者意識をもった人間がいないと社会はまわらないという普遍的に通用するのかもしれない論とがごちゃごちゃになっているからである。
 内田氏もみとめていることであるが、資本主義社会転覆をめざす革命家が現在の資本主義社会に当事者意識がないのは当然であり、彼らは革命なった暁には自分が当事者になるつもりでいるのである。フェミニストにしても父権社会の転覆をめざすのであるから、現在の父権社会に当事者意識がないのは当然であり、母権?女権?社会になった暁には自分が当事者になるつもりでいるのである。
 資本主義社会は絶対に倒れないと確信していて、しかしその批判理論としてはマルクス主義は有効であるという信念から現体制を批判している“左翼”とか、父権社会は絶対に倒れるはずはなく、また本来それは望ましい体制でもあるのだが、それに内在する欠点のいくつかを補正するために、批判の論としてフェミニズムを採用しているフェミニストなどというようなものが存在するのだろうか?
 絶対に自分は当事者になるつもりはなく、ただ他人を批判し他人をこきおろすことに無上の喜びを感じる人間というのはもちろんいるであろう。しかし、そういう人間はつまらない人間なのであり、とるに足らない人間なのである。そういう人間に採用されやすい側面をマルクス主義にしろフェミニズムにしろもっているのは事実かもしれないが、しかしあらゆる論はそれを用いて他人を罵倒できる方便として使えるものなのであるから、これは何もマルクス主義フェミニズムに限定した話ではないだろうと思うのである。現にここで内田氏が用いている論、「お前は当事者意識がない!」を用いて他人を罵倒する人間だってしっかり存在するだろうと思うのである。
 いくら批判しても相手が倒れるわけはないという安心感のもとで、当事者意識のない批判を展開するものの代表は、マスコミであり、その典型としての朝日新聞なのであろう。60年安保におけるマスコミの旋回も、まさか倒れないと思って安心して批判していたら、ひょっとすると体制の崩壊もないではないと気がついて、あわてて態度を変えたのでろう。また、かつての日本社会党の(一部)は自民党政権は絶対に倒れないという安心感のもとに、当事者意識のない批判を展開したのであろう。
 わたくしの関係するところでは、医療の世界でも、医療という「公的なもの」は磐石であるから、いくら批判しても構わないし。むしろ強く批判すればするほど、医療という「公的なもの」はますます強固で効率的なものに改善される、という根拠のない楽観による批判によって、小松秀樹氏のいう「医療崩壊」がすでに現実のものとしておこってきている。こころなしか最近はマスコミの論調も変わってきているようである。要するに人間は崩壊という事実を目にしないと理解することができないのである。
 マルクス主義にしても、ソ連東欧圏が崩壊したということがあって、はじめてその神通力が失せたのであり、冷戦時代のまっさかりの時代に、「左翼」の主張は当事者意識を欠く点において欠点があり、それは批判勢力としては有効であるが、ある一定割合以上に信奉者が増えるとその役割を逸脱してしまうのである、などといっても誰も耳を貸さなかっただろうと思う。
 内田氏の論は、マルクス主義に依拠する政治体制が崩壊したという事実を自分の論の根拠にしている点でフェアではないと思う。
 『社会を一気に「よいもの」にしようと思うのは「子ども」の証拠』などという批判がマルクス主義批判として有効であるとは思えない。人間はなぜ、『「子ども」の証拠』として思えないような論に命をかけることがあるのか、というのが一番の問題なのだろうと思う。
 そしてそれはキリスト教が西欧世界に残した「負の?」遺産という側面があるはずであるし、「負の側面」なく「正の側面」だけを受け継ぐなどという器用なことはもともとできないことであるかもしれないので、「子ども」の証拠などと簡単にいわれてもなんだかなあ、と思ってしまうのである。
 

ひとりでは生きられないのも芸のうち

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