大塚英志 「江藤淳と少女フェミニズム的戦後 サブカルチャー文学論序章」

   2001年11月10日初版 筑摩書房


 去年、丹生谷貴志氏の「家事と城砦」を読んだときに、その一章「肉体の使用法」に「文学界」連載の大塚英志「サブ・カルチャー文学論」の第六回として「庄司薫とサブ・カルチャー文学の起源」というのが紹介されていて、なかなか面白そうだった。それで、この本が「サブ・カルチャー文学論」が単行本にされたものかと思ってとりよせたところ、どうも「サブ・カルチャー文学論」は文壇政治的圧力によって連載中止となり、中断したため、その一部を収載し、他の論もあわせて刊行されたものであることがわかった。その時は一部を読んだだけで抛ってあったのだが、このたび、大塚氏の他の書籍を読んで大塚氏の著作に関心がでてきたので、あらためて読み直してみた。
 ところで、丹生谷貴志氏の「肉体の使用法」は、庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」4部作を、父性が喪失した現在日本におけるフーコー的「快楽の用法」という視点にひきつけて論じたものだが、ギリシャ世界での<肉体において自由であること>への希求(それは本来、神々と獣にしか許されないものなのだが・・・なぜなら神々と獣においてのみ、意思と肉体に乖離がないから。ちなみに丹生谷氏の吉田健一論は、吉田氏の文明論を意思と肉体に乖離がない状態、獣であることが文明であるという逆説としてとらえるという特異なものであった。意思と肉体に乖離がないというのは観念論から自由であるということであるとわたくしは思うけれど・・・)を主題にしている。
 さらに告白すると、庄司薫は、わたくしが頭をどやしつけられるようにして読んだ最後の作家である。ある作家にとことんいかれるという場合、一気にガーンとやられる場合と、じわじわと効いてくる場合があって、本当に影響をうけるのはじわじわと効いてくる方の作家であるように思うが、庄司氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」が刊行された当時、それは多分わたくしがまだ二十歳前後のころであったと思うが、福田恆存氏にとことんいかれていた。そういうわたくしに「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、わたくしが福田の主題であると思っていた<やさしさ>の主題あるいは<人間関係の支配・被支配>という問題を、こちらの想像もできなかった方法でたくみに小説化したものであるように思えた。かすかに残っていた小説を書こうという色気が最終的になくなったのは、この「赤頭巾ちゃん」から受けたショックが大きかったと思う。<やさしさ>の主題というのは、<汝の隣人を愛しなさい。あなたが有徳なひととなるために>というテーマであって、一見自己犠牲的に見える行為でさえ、実はエゴイズムに起因するのではないか、という問題である。そして「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、人を支配することから「逃げて逃げ逃げまくる」ことを、実に巧みな小説的世界として提示してみせたものであるようにわたくしは思った。したがって、この「赤頭巾ちゃん」4部作は、庄司薫(福田章二)氏の思想そのものの反映であることを些かも疑ったことはなかった。ちなみに庄司薫氏が本名の福田庄司名義で書いた処女作「喪失」は、善意がすべてエゴイズムに見えてくる世界を描いたものであり、「赤頭巾ちゃん」はそれへの一つの模範解答になっていたように思う。
 ということで、庄司薫氏についてはいつかどこかで論じてみたいという気持ちがあるのだが、大塚氏が庄司氏をとりあげる視点はまったく違っていて、その語り口なのである。あるいはその小説の虚構の成立の構造なのである。小説の主人公が薫ちゃんで、それを書いているのが庄司薫であるという構造がもっぱら問題にされる。
 というあたりから、本書の主題がすこしづつかかわってくる。
 つまり、架空の小説の主人公が小説を書いているように見えるという構成は、作者の「わたし」を書くという従来の小説の構造とは正反対であることが問題とされる。作者の「わたし」ではなく、架空の誰かの「わたし」を書くことをしようとしている小説が、大塚氏のいう「サブ・カルチャー文学」なのであり、庄司氏はその嚆矢であるというのである。
 ところで、この大塚氏の本はその題名の通り江藤淳論なのだが、その江藤氏は庄司薫を全否定していたのだそうで、処女作「喪失」はめった切りであったという。そういう薫くん的虚構は現実逃避であるとしたというのである。
 大塚氏によれば、「私」と「世界」に折り合いをつけるための比較的容易な方法としては、ぬいぐるみを抱えて生きる(スヌーピーライナスの毛布)やりかたと、大きな物語に身を投じるやりかたの二通りがある。江藤氏はそのどちらも良しとしなかったというのである。
 江藤氏には「母」へのこだわりがある。氏の母は日本の近代の中で挫折したひとであった。日本の近代女性は、たとえば女学校の中とか仮構の中でしか十全には生息できなかった。日本の現実の中では生息できなかった。江藤氏によれば、堀辰雄の文学は女学校の中でしか成立しないような文学なのである。江藤氏の夢みたのは女性を崩壊させない近代なのであり、少女としての女性を護るような近代なのである。それを大塚氏は江藤淳の少女フェミニズムと呼ぶ。江藤の中には近代への憧憬と近代への嫌悪が同居している。
 日本の近代において、父性は実際には崩壊していても、職業の場においてはその擬態が続いていたので、「父」にならないならそれでは何になるのかという問いから、男は逃げることは可能であった。しかし、女性においては「母」にならないとしたら何になるのかという規範は、一切示されていない。そして現実は旧態依然なのである。少女まんがにおいて「私」を語るということをしたのは日本だけである。それはこの日本の特殊な事情を反映したものである。
 戦後の日本には大きな規範がない。歴史も地理もない国になったのである。サブ・カルチャー文学とはその規範のなさを反映した文学なのである。

 わたしは江藤氏の著作は「成熟と喪失」以外はあまり記憶にないのだが、「成熟と喪失」における「抱擁家族」論の展開をみて、なんという手品のようなというか、ここまで小説を材料にしていうことが可能であるのかという新鮮が驚きを感じたことを覚えている。それとエリク・エリクソンという名前とアイデンティティという言葉を知ったのもこの本によってであったと思う。それと同時にあまりエリクソンの説に全面的に依拠している感じがして、これでいいのかなと思った気がしたのも覚えている。ここまで強引にエリクソンに依拠するということで、なにか江藤氏のなかでそうせずにはいられない切迫したものがあるのかなという気がした。そこで引用されているカウボーイの孤独だけを妙に生々しく覚えている。
 このごろの小説の新人賞などに応募してくる人たちは、明治大正はおろか現在の小説さえほとんど読んでいないのだそうである。まんがかアニメを読んだり見たりした体験だけで、いきなり小説を書こうとするのだそうである。そういう伝統などとはまったく隔絶したところに現在の文学はある。江藤氏はそういう現実と「大きな物語」への希求引き裂かれた生きた人だったと大塚氏はいう。そして大塚氏は「大きな物語」などありえないとして、サブ・カルチャーの中で生き続けねばという。
 たとえば朝日新聞などというのもサブカルチャーなのだと思う。戦後民主主義というのは伝統とはなんの関係もない。そして朝日新聞と「新しい教科書をつくる会」とがそれぞれまったく交渉なく、それぞれのカルチャーを主張している。
 そういうサブ・カルチャーからどこか普遍に通じるものがでてくる可能性があるのだろうか?、大塚氏はそれは可能であるというのだが・・・。