J・マーチャント「「病は気から」を科学する」(8) 第7章「患者への話し方ー気遣いと治癒」

 
 分娩、放射線検査(主としてMRI)、末期がん患者の三つの問題をあつかう。相互にまったく関係がないわけだが、それぞれのそばにいるひとと患者とのかかわりが問題にされる。妊婦さんの傍にいる助産師、検査をする患者の傍にいる放射線技師、末期がん患者の傍らにいる緩和ケアの専門家がそれぞれの対象と言葉でどうかかわるか?
 本書の著者は女性で少なくとも二度の分娩の経験を持つようであるが、最初の分娩はとんでもない経験であったらしい。出産とはどのようなことであるかということが知識としてあってもそんなものはなんの役にもたたない衝撃的な出来事であったらしい。男であるわたくしには金輪際理解できるはずのないもので、本書の記載を読んでも何かわかったとはとてもいえない。
 最初の児の病院での分娩で、自分が痛みと苦しみでのたうちまわっているのに、介助でしている助産師さんは「まったく正常な分娩なのに何を大袈裟な!」という対応である。しかも勤務帯のシフトで次々と担当が変わる。著者にいわせれば現代の定型的なお産で、確かに周産期の死亡は劇的に減っているにもかかわらず、あいかわらず女性にとって悲惨な体験であり続けている。それで著者は二度目の分娩で自宅出産の選択をしている。そこでは同一の助産師さんが最初から最後まで分娩にかかわった。
 膨大な数の妊婦を対象にした調査で、分娩中に一対一のサポートを継続的に受けた妊婦では帝王切開や鉗子分娩の頻度が有意に少なくなり、麻酔の使用も少なく、分娩時間が短く、児も健康である頻度が高かった。
 著者も帝王切開が救命的である治療手技であり、安全になされうるものであることは認めている。しかしそれは必要以上におこなわれているのではないか? 理想的な割合は5〜10%とされているのに、実際には英国での分娩では26%、米国では33%におこなわれている。
 先進国においては一対一のサポートがおこなわれているケースでも、帝王切開などの医学的介入の頻度は減らない。それは持続的サポートがおこなわれているにもかかわらず、医学的介入がなされてしまうからなのだという。
 自宅出産は英国で3%、米国では1%なので、病院出産との比較は困難である。そうではあるが、自宅出産のほうが帝王切開などの頻度が低く、児の健康状態がいいことが明らかになっている。病院で出産すると、わずかな危険でも帝王切開などが選択されてしまうのではないかと著者は主張する。できることはなされてしまう。
 著者はまた自宅出産は誰でも推奨できるものではないこともみとめている。
 大事なのはどこで産むにしても精神的なサポートが非常に重要であるということだ、と。
 一対一のサポートなど金銭的に困難であるということがよくいわれる。しかし米国では普通分娩で3万ドル、帝王切開では5万ドルが請求されることを考えると、そうはいいきれないのではないかと著者は主張している。
 
 次はMRI検査で患者さんに閉所恐怖がある場合の問題。MRI検査は頭部にヘルメットのようなものを被って、狭い空間で30〜60分くらいガンガンと音がするなかで一時間くらいを検査をするので、検査途中でギブアップしてしまう閉所恐怖のひとがすくなからずいる。本書では特に子供がMRI検査をする場合につき、ヘルメットをパイロットのマスクであると説明したり、マスクに風船ガムの匂いをつけることでのりきっている症例が紹介される。
 また小手術については全身麻酔下ではなく、局所の麻酔でおこなわれることがしばしばある。その場合、患者をリラックスさせる対応をおこなった場合には痛みも不安もともに少なくなることが示されている。また合併症も少ない。また治療時間も短くてすんでいる。
 一般に患者さんに、「これからちょっと痛いですよ」などといって処置をすることが患者の側にメリットがあるとはいえないという見解が紹介されている。患者に不快とか痛みとか恐怖を感じされる言葉は使わないほうがいいのではないか? 事実だけをいうほうがいい? 「これから造影剤を入れます」など。
 リラックスさせる目的の文章をあらかじめ読ませるだけでも効果があるのだという。やっているひとがいっている。「馬鹿げているようですが、本当にきくんですよ!」 しかしそういうやりかたを西洋医学にとりいれるのは非常に難しい」とその方法を開発したひともいっている。薬の効果のような「実験と結果」を示すことができないから。
 
 最後ががん末期患者への対応。そこで一番必要とされるのは、薬でもなく治療でもなく、話をすることだという。余命1年以内と推定される末期肺がん患者について、通常の治療のみの場合と緩和的なケアを併用した場合、後者は患者のQOLはずっと高く、うつ傾向が低く、化学療法を受けることは少なく、ホスピスで過ごす時間が長かった。平均生存期間も3ヶ月延びた(8.9から11.6月に)。緩和ケアの専門家と話をするというだけで、これだけの差がでる(うつ症状の発現が少ないことが原因?)。
 そのようなケアをうけず、ただ治療のみを受ける場合、化学療法はくりかえし行われる傾向がある。なぜなら化学療法自体が希望をつなぐ手段となってしまうからである。

 著者は医療が専門家が素人に提供するものから、対等な人間同士が協力しておこなうものに変化しつつあることを、上のような事例は示しているのではないかという。要するに、われわれは機械ではなく、人間なのだから、精神状態は体の健康にきわめて大きな影響をあたえるのだ、と。

 わたくしの娘が妊娠したときに、助産師による自宅での分娩はどうだろうかという相談をうけた。出産というのはうまくいって当たり前と思われているが、極めて多くのリスクが潜んでいるものなので、自宅での出産を選択した場合、急変への対応が困難であるから、病院での出産を選択すべきである、と説得した記憶がある。本書でも第一子の出産の場合には自宅での分娩は推奨しないことが述べられている。出産のために入院していて、胎児の心音のモニターで、急に心音が落ちたため緊急帝王切開というような場面を少なからず見聞きしているので、自宅での出産というのは危険極まりない選択であると思っていた。
 最近、日本も助産師による自宅での出産をのぞむひとが一部で増えていることを感じる。わたくしが気になるのは、どうもそれが「自然」への信仰のようなものと結びついているのではないかということである。有機農業への一部のひとの信仰とそれはオーヴァーラップしているのではないだろうか? どうも科学一般への批判的な見方とそれは結ぶついているように感じる。人為的なものの拒否である。一方の極端から他方の極端に振れ幅が大きすぎるように感じる。
 本書の著者はそのような極端な主張をするひとではないが(基本的は科学の側のひとである)、ここに書いてあることが、そのような「自然派」に利用されかねないリスクをふくんでいるようにも思う。
 分娩というのは動物に備わった自然な課程であり、たぶん人間以外の動物で分娩についての言語的介入を要するというものはないであろうとおもう(そもそも言語というのがかなり人間に特有なものであるし)。人間は頭が大きくなったため、児頭の産道通過が困難になり、それで人間は難産になったという説明をよく聞かされる。これは裏をかえせば人間はホモ・サピエンスあり、知恵のある生き物であるという自負の表明でもあるのだろう。
 医療というのは人間の機械の部分の修理という側面で大きな成果をあげてきた。つまりどう考えてもデカルト的な心身観が現代医療の根底にあるはずで、そうだとすると患者ー医療者間の言語的コミュニケーションというようなものが医療の場で重要性を持つということ自体が認知されにくいのは当然であると思う。
 一般に注射とか針を刺すといった痛みをともなう手技をするときには、「ちょっと痛いです」というようなことをわたくしもいっている。何もいわないでいきなりというのはまずいのでないか思うので。しかし、これは単に「注射をします」でいいのかもしれない。しかし造影剤の場合は「造影剤を入れます」でいいのだろうか? 造影剤投与はわたくしは受けたことはないが、特有の体熱感をともなうらしい。事前にそのことを別に説明しておけばいいのかもしれないが・・。
 
 癌の末期については、化学療法をふくめた治療が単に患者に「希望を処方する」ためにおこなわれており結果として寿命を縮めていることは多々あるのではないかと思う。医療者としては「もう打つ手はない」ということはいいたくないし、患者さんの側も何もしてもらっていないというのは見放されたような気持ちになるということは大いにありそうである。往時のさるのこしかけとかクレスチン、現在の丸山ワクチンなどはそのような目的で使用されたりしている局面はありそうである。
 「希望を処方する」というのは中井久夫氏の言葉であるが、患者さんの精神状態が免疫機能に大きくかかわるというのであれば、充分に意義があり、効果も期待できるものなのであろう。
 安心感あるいは保護されているという感覚があることは、今ある免疫機能を今使ってしまってもいいということであり、それがプラセボ効果の根っこにあるものなのであるというのハンフリーの主張であった。
 プラセボとは偽薬のことであり、患者さんをだましているという負のイメージがつきまとう。患者さんが最善の状態で治療が受けられるための一つの方策とみることができるなら、その活用がもう少しすすむのかもしれない。
 そして、医者が一番頻用する薬は医者自身かもしれないのだが、医療の世界に昔からあるムンテラという語はドイツ語で「口での治療」ということらしい。通常は「病状の説明」というような意味で用いられるが、どこかに「口でごまかした」というニュアンスをふくむように思う。つまり治療がうまくいっているあいだは患者さんも何もいってこないが、うまくいかないといろいろ聞いてくる。それに対して「そうではないと丸め込んだ」といったニュアンスを何割かふくむ感じがする。
 わたくしが医者になってしばらくして、今度はアメリカの方から「インフォームド・コンセント」という言葉が聞こえてきた。「説明と同意」というように翻訳されていたように思うが、裏情報ではアメリカでは患者さんからの訴訟が急増しているので、その対策として、あれもこれもちゃんと説明してあって患者さんも納得していますという訴訟対策なのだということであった。
 ムンテラという語は医者が患者さんの上にいるという感じで、インフォームド・コンセントは双方が敵対する感じ、本書でいわれていることは、医者と患者が双方協力して病気にむかうというようなニュアンスなのではないかと思う。
 本書が刊行された背景には、そういう時代の変化ということもあるように感じる。

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