(7)2011・3・24「放射線障害と生活習慣病」

 
 乳児は水道水を飲むなということになった。今までの報道は「・・が検出されましたが、直ちに健康障害が生じる心配はありません、というのが多かった。「直ちにはないでしょう」といわれると、「後からならあるのか」と思うのは人情で、今回の水道水にしても、もちろん直ちに健康に障害が生じるわけではない。ある閾値以下の放射線への暴露は何ら症状はしめさず、ただあとにある程度の発癌リスクの上昇をもらたすだけである。
 その観点からみると、これは生活習慣病ときわめて似ているところがある。血圧も250/140などということになれば症状を出すかもしれないが、通常の高血圧患者さんは何ら症状を呈さない。糖尿病も血糖500以上あるは40以下というようなことであれば症状がでる可能性が高いが、通常の患者さんは何も症状がない。高脂血症にいたってはコレステロールが500だろうが600だろうが何も症状はない。治療の目的はもっぱら何年か先の健康である。上の血圧が200ならば100%脳卒中になり、100以下なら絶対にならないというようなことはない。高い人は正常な人にくらべてややそのような病気になりやすいというだけである。糖尿病にしても高脂血症(最近は脂質異常症という)にしても同じである。血圧も血糖もコレステロールもすべて連続量であって、異常と正常の堺は人為的にひかれたものであって、正常が0、異常が1という明確な区分がどこかに存在するわけではない。
 放射線も同じであって、あるところからほんの少し危険が増すというところがあり、だんだん危険が高くなっていくわけであるから、本当は「心配なし」と「要注意」の間に明確な線は引けるはずがない。それであるなら、これもインフォームド・コンセントにすればいいのではないかと思う。これこれの食物はもし大量に摂取すれば10年後の発癌リスクは0.3%高くなります。それでも食べるかどうかは、個々人の価値観で判断してくださいということにするのである。
 医療の現場にいるものが不満に思っているのは、医療行為は絶対に確実ということはなく、大方はうまくいくけれども時には失敗することもあるというものであり、それは結果がでてみないとわからないのでが、結果がでた後で、「ほら、失敗した!」といって訴えられるのではたまったものではない、ということである。絶対、確実なことのみをしろといわれたら何もできなくなってしまう。
 放射線による汚染も、自然界にはないものが検出されるということが汚染であるわけなのだから、汚染は同位元素によっては0と1の世界かもしれない。しかし、汚染=危険ということではないわけだから、どこから危険とするかは人為的な線である。あるべきでないものがあったということを問題にすれば、汚染=悪である。しかし、ある程度以上の汚染=悪という立場もある。双方の議論がかみあうわけはない。医者は普段の行為がつねに「ある程度以上の確率」といった曖昧な世界にいるから、ちょっとくらいのことは気にしなくてもという立場のほう味方しがちである。
 さてインフォームド・コンセントが成り立つためには、人が合理的に判断できるということが前提である。しかし10年先の発癌リスクといったものが仮に数字で示せたとしても(正確な数字がだせるとは思えないが)、それをわれわれが合理的に判断することができるとはとても思えない。ひとがいかに不合理な行動をするかというのが現在はやりの行動経済学であるらしい。
 とにかく現在と将来を合理的に秤にかけることができるというのはまったくの幻想らしい。現在まで人の行動に介入する研究(たとえば、肥満はからだに悪いです。もっとやせましょう!)はすべて惨憺たる結果に終わっている。米国人が健康と栄養に脅迫的にこだわりながら、肥満率がどんどん高くなっていくのを「米国人の健康のパラドックス」というらしい。I・カワチによるとそれは食産業と広告業が公衆衛生学者よりも頭がよくて競争に勝っていることを示すのだそうである。そういう見方もあるだろうが、進化心理学からすれば、狩猟採集時代の食べ物があったら食べられるだけ食べる、次はいつ食べられるかわからないという習性がいまだに残っているからという説も強いらしい。いくら危険と思っても腹がすいていれば食べてしまう。
 そもそも水道というようなものが提供されているのが奇蹟のようなものなので、水道が駄目らなばペットボトルなどというのは、パンがなければケーキを食べればいいという発想に近いのではないかと思う。
 昔、橋本治が「貧乏は正しい!」の中で、水道が止まったら井戸を掘れ!というようなことをいっていた。水道の水がいつでもどこでも利用できて当たり前などと思っていると、いつかとんでもないことになるぞ、という警告であったように思う。
 

貧乏は正しい! (小学館文庫)

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