石原俊 「いい音が聴きたい 実用以上マニア未満のオーディオ入門」

  [岩波アクティブ新書 2002年5月7日 初版]


 しばらく前にiPod miniを買ったので、久しく縁が遠くなっていた音楽と接する機会が増えてきた。iPod からイヤフォンで聴く音は予想以上のいい音で、音自体に不満はないのだが、イヤフォンで聴くと音楽が頭の中で(正確にいえば、頭のやや前上方で)聴こえるのが不自然である。それでやはりスピーカーから音を聴いてみたいと思うようになった。これまでは国産の安いミニコンポで聴いていたのだが、イヤフォンで聴くiPod の音よりも数等落ちるように思えてきた。それで10年以上前に買って使わずに抛ってあった BOSE の PAM 3 というアクティブ・スピーカーをとりだしてきた。これは以前にコンピュータ・ミュージックをしていたときに買ったものなのだが、接続したときに、電源をいれただけで凄いノイズがしたので、不良品を買ってしまったと思い息子にやってしまった。息子が家をでた時に置いていったので、そのままとなっていた。本書によれば、その時わたくしがスピーカーを設置した環境というのは劣悪そのものであり、ノイズもやむなしということであったのがわかる。今回は10年前よりはいささかよい環境で聴いたせいか、わたくしには許容範囲程度のノイズしかしない。音量を上げると本棚のガラス戸がびりびりと震える。この PAM 3 というスピーカーはもうとっくに生産中止になっているらしくカタログにものっていないが、発売当時は安くて小さいにもかかわらずよく低音がよくでるスピーカーとして有名になったらしい。組み込まれているアンプが低音を増強するようにセットされているのであろう。ミニコンポのヘッドホーン端子からスピーカーにつなぐという変則的な接続をしているが、それでも以前のミニコンポよりはいい音である。そうなると欲がでて、もっといい音で聴けないかなと思うようになる。それでこの本を買ってきた。
 著者は自ら認めるオーディオマニアであるが、そういうマニアではない普通の人がそれなりにいい音を聴くためにはどうしたらいいのかというのが本書のテーマである。それで副題にある「実用以上」の「実用」とはベートーベンの「運命」は「運命」として聴こえ、間違っても「田園」がきこえてくることがないというレベルである。一方の「マニア未満」の「マニア」はもうとんでもない人たちであって、いい音を聴くために家を建て替えたり、部屋をつくり変えたりするような人たちである。ここで要注意なのは、この人たちにとっては、いい音楽を聴くことではなくて、いい音を聴くことが目的になっている点である。
 本書に書かれていることはオーディオにくわしいひとにはあたりまえのことばかりなのであろうが、たとえば、iPOD とイヤホーンできくとなぜ音がいいのかということがわたくしにははじめて理解できた。要するにスピーカーを通して音をきくのではなく、イヤフォンの振動版の音を直接きいているので、スピーカーが置かれた環境が音におよぼすさまざまな影響が一切なく、バッテリー駆動なので、電源からのノイズを回避できるし、小さいから回路が単純、というようなことがいい音につながるらしい。
 以前にアクティブスピーカーを使おうとしたときにノイズがひどかったのは、狭い部屋で、一つの電源からパソコン・複数のMIDI音源・プリンターなどと一緒とつないでいたためらしい。そうすると、電源のほうからノイズが入ってきて当然なのだそうである。iPOD とイヤホーンでいい音がきけるならば、スピーカーでいい音をきくためには、iPODならば自然にクリアしている条件であるスピーカーの設置環境、電源のとりかた、各装置をつなぐケーブルなどがすごく大事であることが、逆に理解される。
 それで、石原氏の指示にしたがって、まずスピーカーをいろいろな位置に動かしてみた。間隔をあけたり、狭くしたり、スピーカーを内向きにしたり前向きにしたり。そうするとまずステレオ効果というのが少しは実感できるようになった。今までだって一応はステレオではあったのだが、左から聴こえてくる音と右から聴こえてくる音があるな、という程度であった。それがある程度は分離してくるようになった。分離しすぎて少し気持ちが悪いくらいで、右のスピーカーのところにピアニストがいて、左のスピーカーのところにチェリストがいたりする。これはたぶんスピーカーの間隔をあけすぎているためなのだろうが、とにかく不自然にでも楽器の配置が分離すると石原氏のいうように音楽の構造が見えてくる部分がある。分離が悪いとどうしても主旋律のみが聴こえて、背景の音の動きがわかりにくい。それが見えてくるようになる。
 iPOD の音をアンプを通して聴く時も、細いイヤフォン用のコードよりも専用のケーブルを用いたほうが音がよくなる。少なくともそういう気がする。これはひょっとするとプラセーボ効果なのかもしれないが、とにかくそういう気がする。スピーカーの下に点支持するものを置いたほうが音がよくなるという。やってみると、よくなるかどうかわからないが、少なくとも音がなんとなく変わるのはわかる。スピーカーは机の上に置いているのだが、ぺこぺこの安物の机である。とにかく充実したものの上にスピーカーを置けという。それで最近ほとんど読むことがなくなった内科学の教科書を下にひいてみた。そんなこんなしていると、とにかく何かすると音が変わるのだけは実感できるようになった。
 そうなると、なんとなくオーディオマニアの気持ちもわかる気がしてくる。ある行為に対してそれなりの反応があるのだから。おそらくお金をつぎこむと、確かに音はよくなるのであろう。しかし、こういうことには収量逓減の法則が働くはずである。たとえば、倍費用をつぎ込むと音質が20%よくなると仮定してみる、スタートラインを5万円にしてみる。5→10→20→40→80→160→320で、1→1.2→1.44→1.73→2.07→2.48→2.98 で、64倍お金をつぎ込んで音質は3倍の改善である。20%増という仮定はわたくしが勝手においた根拠のないものであるから、これが40%増であるかもしれないが、少なくとも2倍投資すれば2倍音がよくなるということはないような気がする。あるいは最初はあるのかしれないが、収量逓減の法則であるから、最初は倍、次は5割増し、次が3割増し、次が2割増し、次が一割五分増し、次が一割増しというようなことになるはずである。500万円のシステムを1000万円のシステムに換えたところで音は5%しかよくならないかもしれない。しかしとにかくもなにがしかはよくなるわけである。何か投資をすればわずかでもよくなるとすると、少しでもいい音にという欲求には際限がなくなってしまう。なにしろスピーカーの下におく小さな板(インシュレーターなどという名前までついている)が何万円もしたり、接続用のケーブルが何十万円もしたりする世界らしい。ということで、最近のオーディオマニアはケーブルを変えるみるのに熱中しているのだそうである。最低300万円くらい投資しなければオーディオマニアとは認めてもらえないのだそうで、変な世界である。
 こういう話を読んでいるとワインマニアの世界などが連想される。○○○×××の何年ものなどといっても、だいたいワインなどはどういう食事と合わせてのむか、どこで飲むか、誰と飲むかで味が全然違ってくるはずである。そもそも満腹だったら味も何もないはずである。音楽だって、どんな精神状態で聴くかで全然違って聴こえるし、演奏会なら誰と聴くかでも違ってくるはずである。ヨーロッパのオペラハウスなどというのは情事の場所でもあったはずで、音楽というのはそういうことも込みでなければおかしい。
 石原氏はそういうことはよくわかっていて、自身マニアでありながら、オーディオマニアのありかたには相当批判的である。だからそういうマニアではなくて、ごく普通の音楽愛好者が今よりもある程度ましな音楽(音?)を聴く空間をつくるにはどうしたらいいのか、というのが本書の主題となっている。ちょっとした工夫で今よりもずっといい音できけるんですよ、というこことである。
 さて、それならどこまでいい音が求められるべきなのだろうか。ここで思い出すのがポパーの「正確さのための正確さを増大させようと努めるのはいかなる場合にも好ましくない。・・・問題状況が要求する以上に正確を期そうなどとけっして試みるべきではない」(「果てしなき探求」)という言葉である。オーディオというのは音楽をきくための方便であり一つの手段なのであるから、それが目的となってはおかしいということである。それがないと「一人宗教」になってしまう。われわれにとっては音楽は目的ではない。
 しかし音楽を仕事とし音楽が目的となっている人たちはいる。そういう人がどこまでも音を追求するのは当然である。よくわからないのがオーディオ評論家という人たちであって、今度の某社の新製品は一層音に深みが増したなどということを延々と書き続けている。素人に機種選択のための情報を提供しているのかもしれないが、そういう人がとりあげているのが、30万円の中級アンプであったり、40万円の標準的なCD再生装置であったり、50万円の某社のロウエンドのスピーカーであったりするのである。そんなものを買う人がいったいどのくらいいるのだろうかと思う。もちろん売っているのだから買う人もいるのだろうが。
 何十万円のワインにもちゃんと市場があるのだから、高価なオーディオにもそれなりの市場があるのであろう。しかし、ワイン評論家などというのはいるのだろうか? 呑み助たちが、あれはうまかったぜなどといいあっていれば、それでいいように思うのだが。問題はワインはお腹の中に入ってしまえばおしまいであるが、オーディオは形があり残るものだという点なのであろう。ワインのほうがあとに残らないだけ潔い。
 音楽は作曲家が曲をつくり、演奏家が演奏し、聴衆がそれをきくということで成立する。もちろん演奏を自分がすれば、作曲家が作り、自分が演奏することで音楽は完結する。しかしそれもせいぜい室内楽までであって、交響曲を演奏などということは不可能である(実は一時期わたしが凝っていたコンピュータミュージックは、「運命」だってわたくしが演奏することができるし、誰も演奏しないであろうわたくしが作った曲だってちゃんと音にすることができるというなかなか面白い世界であった。あまりにも手間隙がかかるのでやめてしまったが)。そうすると演奏を直接音楽会で聴くだけでなく、録音して聴くという世界ができてくるわけである。そして録音があるなら、それに再生の世界がともなってくる。さらには、どのような場所で再生するか、どういうコンディションで聴くかという問題も音楽享受においては大きなファクターとなってくる。作曲→演奏→録音→再生→リスナーという流れの中で《再生》は一部分に過ぎない。つまらない作曲家のつまらない演奏をものすごくいい音で聴くというようなことに果たしてどのような意味があるのか、それが問題である。
 などといろいろと書いてはきたが、著者はマニアのいやみなところがあまりない人であり、議論に自制があり、読んで感じのいい本であった。とにかく、これを読んでもう少しいいシステムが欲しいななどという気になってしまったのは困ったことである。
 おそらくオーディオ機器の進歩(とはかならずしもいえない面もあることは本書でも述べられているが)の背景には半導体などの技術の進歩があるのであろう。それで自分の分野にひきつけて考えても、医療技術の進歩は患者さんの予後の改善にさまざまな寄与をしているのであろうと思う。しかし、投資が倍になって改善は10%というようなものが多いのではないかとも思う。たしかに10%でも改善は改善である。しかし抗生物質が登場する前後の感染症治療、カルシウム拮抗剤が登場する前後の高血圧治療、H2ブロッカーが登場する前後の消化性潰瘍治療の変化といったドラマテイックな変化は最近の医療の場ではおきていないのではないかと思う。どこでも収量逓減の法則はあるのである。
 しかしオーディオの場においては最近、録音媒体に画期的な変化がおきているらしい。SACDとかいうもので、従来のCDより格段に情報量が多いらしい。iPOD でCD自体より相当に間引いて圧縮したデータで聴いても音の違いがわからないわたくしには関係のない話であるが、ひょっとするとLPからCDにかわったような変化がこの世界でもおきるのかしれないそうである。しかしそれが普及するかどうかは、現在のCDとSACDの音の違いをききわけられて、その違いを必要とする人がどのくらいいるかにかかっているのであろう。あまりいそうがないような気もする。ポパーの「正確さのための正確さを増大させようと努めるのはいかなる場合にも好ましくない・・・問題状況が要求する以上に正確を期そうなどとけっして試みるべきではない」である。
 庄司薫の「バクの飼い主をめざして」を読んでいたら、庄司氏は一方ではスタインウエイのピアノを自分で弾きながら、他方でポータブルプレーヤーを書斎にも寝室にも台所にも浴室にももっていってレコードを聴いているなどと書いてあった(1970年台の文章なのでまだCD時代ではないらしい)。庄司氏は中村紘子にピアノの弾き方を説教したという伝説のある人であるので、ピアノをよく弾く人なのであろうが、本当は、こういう生き方が格好いいのである。ピアノで「猫ふんじゃった」を弾きながら、300万円のオーディオ装置で都はるみを聴いているなどというのは、なんだか貧乏くさいなあと思うのである。別に都はるみが悪いというわけではないのだけれど。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)