ニーチェ 「キリスト教は邪教です! 適菜収訳 現代語訳『アンチクリスト』

  [講談社+α新書 2005年4月20日初版]


 ニーチェに「キリスト教邪教です!」なんて著書があるかということであるが、副題にあるように『アンチクリスト』の翻訳である。現代語訳というのがミソで、通常の翻訳ではない。シドニーシャルダンなどの翻訳でいわれている超訳というやつである。シャルダン超訳は難しい心理描写とかはとばして、ストーリー展開のみを追えるようになっているらしい。それで本書を原祐訳の『反キリスト者』(ちくま学芸文庫)と比較してみた。
 適菜訳
 「はじめに自己紹介をいたします。
 私はいってみれば、北極に住んでいるのです。つまり、世間に対して非常に大きな距離をとっている。本当の幸せは実はこっちにあるということに私は気がついてしまったからです。」
 原訳
 「−−私たちおたがいの顔を見つめあってみよ。私たちは極北の民である−−私たちがどれほど世を離れて生活しているかを、私たちは十分に承知している。「陸路によっても海路によっても汝は極北の民にいたる道をみいだすことなからん」、このことをピンダロスは私たちについて知っていたのである。北方の、氷の、死のかなたに−−私たちの生が、私たちの幸福がある・・・私たちは幸福を発見してしまった、私たちは道を知っている、私たちはたっぷり数千年もまよいぬいた迷路からの出口を見出した。」
 
 原文は読んでいないが、もちろん原訳のほうが原文に忠実なのであろう。原訳で「私たち」となっているのが適菜訳では「私」となっているのが解せないが、巻頭の主語の単数複数を学問的な翻訳で間違えるはずはないから、原文は複数なのであろう。しかしこれは適菜訳の「私」のほうが文意としては的確である。しかし学問的翻訳をする場合には複数を単数にすることなどは考えられないのであろう。ピンダロス云々は文意の上では必要ない。むしろないほうが文意を追いやすい。ということで、今回の適菜訳「キリスト教邪教です!」は読みやすく、『アンチクリスト』を理解するための本としてはとてもよくできている。
 原訳では(であるから原文でもであろう)章は数字だけであるが、適菜訳では小見出しがはいっている。これがとんでもないものであって、『キリスト教の「バカの壁」』、『教会の「自虐史観」を笑う』、『「世界の中心で愛を叫ぶ」おごり』といった具合である。真面目なニーチェ学者が読んだら激怒すること必至である。しかし、この小見出しでもわかるように訳者はきわめて今日的な意識で翻訳にあたっている。ニーチェの『アンチクリスト』が現代日本で必要な本であると考えている。
 『アンチクリスト』ははじめて読んだのだが、一読して、ああD・H・ロレンスと思った。これはもちろん逆で、ロレンスがニーチェという先達の後を追っているのである。わたくしはロレンス自体はほとんど読んでいなくて、その理解はもっぱら福田恆存経由のものなのであるが、ロレンスが集団としてのキリスト教として嫌悪したものが、ニーチェのいう邪教としてのキリスト教パウロキリスト教なのであろう。本書を読んでもニーチェがイエスを否定していないことは明白である。ロレンスのいう「愛の宗教」としてのキリスト教と「憎しみの宗教」としてのキリスト教のうちの「愛の宗教」の部分はロレンスは否定はしていないわけであるが、ニーチェが「愛の宗教」としてのキリスト教をどうみているかは難しい。ニーチェのイエス像は仏陀に近いイエス像でもあるようであって、橋本治が「宗教なんかこわくない」でいっているイエス像に近いような気がした。もちろん、これは、橋本治ニーチェを咀嚼して書いているということなのであろうが。
 生を否定して、「現生」をつまらないものと見て「来世」に期待するというようなやりかたは否定されるべきであるというニーチェの主張はいたってもっともなものであって、特に奇異なものでもない。というか本書を読む限りニーチェのいっていることはきわめて真っ当である。それはこの超訳ではニーチェの予言者的な言葉づかいが慎重に避けられていて、「イエスは、ダメな社会をなんとかしようとして反抗したのではなく、それまで力を持っていた、階級、特権、秩序などと対立しただけ。「身分の高い人間」に対する不信があったわけです。」といったきわめて平易な文体が用いられていることも大きく作用しているように思う。世にいれられない不遇な見者といった悲愴な身振りのようなものをとりさってみるとニーチェのいっていることは、われわれにとって特に違和感のあるものではない。それは、ニーチェがこれを書いてから百年以上の時間がたっていて世界がどんどんと脱宗教化されてきているためもあろう。適菜氏がこの本をつくったのは、そうはいっても薄められたキリスト教はまだまだわれわれの生き方をしっかりと規定しているとする判断があるからであろう。平等志向をふくめた広義の社会主義思想はキリスト教の残滓であるということなのであろう。
 ソヴィエト東欧圏が崩壊して、社会主義は力を弱めたが、フェミニズムなどといったさまざまな形ではまだ有力な主張をして残っている。しかし、フェミニズムもまたキリスト教思想の変形なのであろか?
 特に大きな違和感はなく読めたが、ニーチェの反ユダヤ人志向と民族を擬人化してあつかういきかたにはついていけないものを感じた。それはわたくしもまたキリスト教に毒されているからなのであろうか?


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)