A・R・ダマシオ 「感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」

  [ダイヤモンド社 2005年11月10日初版]


 悲しいから涙がでるのではない、涙がでるから悲しいのだ、という説をはじめて知ったのは、下條信輔氏の「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ」(中公新書1996年)http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page331.htmlでであったと思う。これは「ジェームス・ラング説」と呼ばれるのだそうであるが、基本的に本書はその「ジェームス・ラング説」の展開である。下條氏の本によれば、W・ジェームスは「興奮するようなできごとを知覚すると、ただちに身体に変化が生じる。そしてこの変化に対するわれわれの感じ方(feeling)が情動(emotion)である」(1884年)といったのだそうである。
 本書でダマシオは「興奮するようなできごとの知覚による身体の変化」を情動(emotion)と呼び、その身体の変化をわれわれが感じるとることにより感情(feeling)が生じるのだという説を展開する。この情動と感情の区別がダマシオの場合には決定的に重要な論点となる。
 「ジェームス・ラング説」は泣くという外から見てわかる事象を悲しみと結びつけるわけであるが、ダマシオはある事象が生体にもたらすさまざまな変化(内分泌系を介する脈拍の変化、筋肉の緊張度の変化、などなど)を情動(emotion)と呼ぶのであるから、その立場からすれば、涙がでるのも情動(emotion)がもたらす二次的な関連反応なのであり、「悲しい」と「涙がでる」は同時におきる現象であることになるのかもしれない。
 このダマシオ説の利点は、進化の過程において、当初は情動だけがあって感情がない時期があり、感情はあとから出現していきたということをうまく説明できる点にある。
 外界の変化、たとえばpHの変化や温度の変化に対して原始的な生物もさまざまな反応をおこす。ダマシオによればこれも(原始的な)情動なのである。しかしこれら原始的な生き物は好きだから近寄ったり、嫌だから逃げ出したりしているわけではない。情動は基本的な生命維持機能である。その過程には思考とか推論とかは一切介入しない。
 しかし、やがてこういう基本的な生命維持機能が快とか不快とかの感情をともなうようになる。なぜ、基本的な生命維持機能だけでは駄目なのか? それは効率が悪いのだというのがダマシオ説である。ある外界の状況は体に一定の反応をおこす。もし、その反応が快あるいは不快という感情と結びつけられるとすると、われわれはその快あるいは不快の感情のみにたよってある事象に対応したほうが効率がよくなる。ある事情にどう対応すべきであるかを、理性的に一々判断するのよりもそのほうがずっと効率がいい。個々の事象はそれぞれ一回限りのものであるが、それが体にある共通した反応をおこすとすれば、その体の反応(すなわちダマシオの情動)にしたがって行動するほうが、時間の節約となる。これが進化的に感情が果たしてきた役割であるとダマシオはいう。
 こういう説明を読んでいて思い出したのが、内田樹氏の「わたしの身体は頭がいい」(新曜社2003年5月)http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page150.htmlである。この言葉はもともとは橋本治オリジナルなのであるが(「「わからない」という方法」集英社新書2001年4月)、体で考えるというような一見突飛な(なぜなら、われわれは脳で考えると思っているから)見方も、案外としっかりした基盤をもっているのではないかということを本書は推測させる。橋本氏によれば、「すべての経験と記憶のストックは、私の身体にキープされている」のだそうであるが、ある経験をした時の身体の反応さえ残れば、細部は忘れてしまっても全然さしつかえないのである。これはまたアナロジーということにも関係するかもしれない。身体に同一の反応をおこすものは似ているのである。
 養老孟司氏が昔、島田雅彦氏におこなったレクチュア「中枢は末梢の奴隷」(朝日出版社 1985年7月)でいっている、末梢からの入力のない中枢など何の意味ももたないというのもまた同じことをいっているのかもしれない。
 倉橋由美子がおそらく三島由紀夫事件に想をえて書いたのであろう「ポポイ」という小説がある(福武書店1987年)。テロリストの切り落とされた首を生命維持装置で生かす話である。まさに末梢から入力がない状態で生かされる?人間??の話である(もっとも眼と耳からの入力はあるわけであるが)。そのようにして生かしていると才気活発であった青年(の脳?)が段々凡庸になり、最後にはただ眠っているだけの存在になってしまう話だったと記憶している。
 霊魂不滅説の根本的におかしなところは、霊魂が一切の入力装置をもたない点である。生きているということは末梢からの入力があるということなのである。もっとも倉橋には「霊魂」という素敵な短編もあって(「ヴァージニア」新潮社1970年所収)、それによれば?、霊魂は半透明の塊で、ひとの話がきけ、自分でもしゃべる、ということになっている。どのようにしてそれが可能であるのかは書かれていないが。
 霊魂不滅説というのは、おそらく自分という意識が死後にも残るという考えなのであろう。しかし、入出力装置をもたない自分というものは、存在しないのである。ということで、ダマシオの主張は身心論にも大きなインパクトをもつものであることはいうまでもない。この本が強く示唆するところによれば、心というのは身体反応の自覚なのである。
 身体が順調に機能していればそれは快であり幸福なのであり、順調に機能していないとすれば不快であり不幸なのである。うれしい出来事や悲しい出来事は身体に一定の反応をおこす。その反応を感得して、われわれは幸せであると感じたり、不幸であると感じたりする。とすれば、こころと身体は不可分である。身心二元論は消失する。
 というような議論をみてくると、この問題が臨床の問題とも直結することがすぐに予想される。なにしろ、身体が順調に機能していることが幸福なのだというのであるから。ダマシオの議論を延長すれば、われわれは不幸な状態においては身体が順調に機能していない、つまりホメオスターシスから逸脱している。とすれば、われわれは幸福になることによって、また健康も快復できるということになる。とすればこれは健康心理学id:jmiyaza:20060314いった最新の分野とも深いかかわりをもつことになる。
 ところでこの本の原著のタイトルは「スピノザを探し求めて 喜びと悲しみと感じる脳」というものである(なお、ダマシオの最初の本「生存する脳」(講談社2000年1月)も原題は「デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳」である。この本は三分の一ほど読んだだけで放棄してあった。したがって覚えているのはゲージという脳の損傷を受けた症例の話だけであった。脳の損傷をうけて性格が変わったなどという当たり前の話をくどくどと書いているように思えて、いやになって投げ出してしまった。今から思うと感情機能の脳局在という話と、感情機能がわわれれの社会生活におよぼす重要性ということをいいたいのであったらしい。いづれきちっと読み返してみようと思う)。、それで、なんで、ここでスピノザがでてくるのかということである。
 ダマシオによれば、スピノザは「有機体は生来的かつ必然的にそれ自体の存在を貫くべく努力するもの」であるとし、「有機体は機能の「より優れた健全性」を成就しようと努力していて」、「そのより優れた健全性がすなわち喜びなのである」とした。また「情動と感情の本質、心と身体の関係」を論じた。すなわち、「人間の心は人間の身体の観念である」というものである。
 わたくしはスピノザについてほとんどまったく知らないに等しい人間なのでhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page345.html、ここでダマシオがいっていることの正否を論じることはできないが、ここでのスピノザ像は巷でいわれているスピノザ像とは随分と違っているという印象は受ける。たしかにスピノザという補助線を引くとダマシオの主張がみえやすくはなるのかもしれないが、本書の主張はスピノザなしでも成立するように思った。最近、養老孟司氏が自分の主張は気がついてみれば、阿含経に書いてあったなどということをいっているがhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page400.html、過去の権威と自分の説が類似していると主張することが謙虚なのであるか、それとも単なる自説の権威づけであるのか、判断が難しいところである。
 こういう本を読んでいると、従来、科学ではまったくつかまえようもなかった感情といった問題が、ようやく手の届く場所にきつつある、あるいは少なくともまったく科学の埒外ではなくなってきているということを感じる。同時にそれは、人文科学と自然科学との境を壊す方向なのでもあり、医療の世界にも大きなインパクトをもつものでもあるはずである。
 医療は本来自然科学だけでやれるはずのない分野なのであるが、ひとの感情などというのはどうにも取りあつかいようもないものであった。それが何とかアプローチできるものとなっていきているようにも思える。これから数十年で医学はかわっていくであろうという予感がする。


感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ