D・カーネマン「ファスト&スロー」(13)第29章から34章

 
 われわれが100万ドルもらえる可能性が、1)0%から5%、2)5%から10%、3)60%から65% 4)95%から100%、と変化する場合、同じ5%づつの変化であっても、同じような変化とは感じない。1)の場合は可能性ゼロがゼロでなくなるし、4)の場合は100%となる。その変化の効果は絶大である。
 しかし従来の「エコン」を想定した効用理論では同じ変化と感じるはずであることになる。0%から5%の変化は、「宝籤は買わないひとには当たらない」という話である。実際には0%から0.000000・・%への変化なのだが、とにかくゼロではなくなる。保険というのもそういうもので、あまり高くない確率だが、おきると困ることに備えて不相応な額のお金を支払う。
 単純に確率で重みをつける「期待値の法則」は心理学的には納得しがたい。しかし、1944年にフォン・ノイマンとモルゲンシュタインは「期待値の法則」が成立しないと矛盾が生じて困ったことになることを数学的に証明した。それ以来、彼らの「期待効用理論」は合理的経済主体モデルの中心におかれてきた。
 1952年アレは、それを信奉している経済学者(サミュエルソン、アロー、フルードマンなどの一流の学者)であっても、現実の場面ではそれに反した選択をする場合があることを示した(「アレのパラドックス」)。しかし、経済学者の多くはそれを無視した。それはちょっとした変則事態としか思わなかったのである。人間の合理性への信頼は容易なことでは揺るがなかった。強固に信奉されている理論があるとき、それに対して出された信念に反する事例は、それを崩す力を持たない(ポパーのいう一個の反証は理論を倒す力をもつという「反証主義」は現実には機能しないということであり、クーンのいうようにほとんどの科学者は「ノーマル・サイエンス」に従事しているのであり、現在、正統とされている説の補強こそが有意義な仕事とみなされ、それに反する説をとなえることは異端として無視されるということなのであろう。)
 カーネマンらのとった戦略は、「人間がいつも完璧に合理的選択をするとは限らない」ということを示すことであった(時と場合によっては当然、合理的選択がなされることもある)。
 見込みがほとんどない手術に一縷ののぞみをかける場合と、成功率の高い手術で1%のリスクがある場合、うまくいかなかった場合の失望はどちらが大きいだろうか? きわめてまれにしかおこらないことについては、リスクに重みをつけることはできない。しかし、おきる可能性がゼロではなく、おきればきわめて重大な事態になる場合には、それは過大な重みづけをされる傾向がある。われわれは不安をとりのぞくためには過大な投資をしがちである。
 われわれは富の状態ではなく、利得か損失かに敏感に反応する傾向がある。95%の確率で1万ドルもらえるとき、その5%のほうになって1万ドルもらえないことの落胆を、ひとはおそれる。95%の確率で1万ドルを失う場合は、なんとかそうならないことを願う。前者ではリスク回避的になり、100%8千ドル(あるいは9千ドル)もらえる場合にはそちらを選ぶ場合が多い。後者の場合はリスク追求的となり、1%しかうまくいかない可能性しかない行動に賭けてしまう場合が多い。「ダメでもともと」という考えに走る。5%の確率では1万ドルもらえることは無視されがちとなる。八方ふさがりになったひとは絶望的な賭けにでて、さらに傷を深くしてしまうことが多い。なんとか対処可能であった失敗が大惨事になってしまうのはそういうケースである。戦争でもこういうことがしばしばおきるとカーネマンはいっている(われわれがすぐに思い浮かべるのは日本の戦前の中国への進出である)。
 テロがなぜ有効かというと、テロ事件は大きく報道され、その惨状がシステム1を強く刺激し、システム2のほうが、それに自分が遭遇する確率はきわめて低いことを知識としては知っていても、そのことによってはシステム1をスィッチオフにはできないからである。だれでもそれに遭遇する「可能性がある」ということを示せればテロはほぼ目的を達成する。
 電気ショックを(危険ではない程度の苦痛をもたらすだけの軽いものでも)わずかでも受ける可能性がある場合には、それの確率には関係なく、ひとは徹底的にそれを回避する方向を選択する傾向がある。
 リスクの伝達の仕方によって受け取り方は大きく変わる。ある重篤な疾患を予防するワクチンにより生じる永久麻痺の確率は0.001%であるというのと、接種した子供の10万人に一人は永久麻痺になるおそれがある、というのでは、後者のほうが具体的な麻痺の子供のイメージが喚起されやすく、否定的にうけとられやすい。ワクチンにより疾病にかからなかった子供はイメージされてこない。
 まれな出来事が無視されやすいのは、多くのひとがそれを経験していないからである。リーマン・ショックの前には、深刻な金融危機を自分で経験したことがある銀行家はいなかった。(われわれ日本人は2年前にはじめて重大な原発の事故を経験した。それ以前にそれを経験したひとは誰もいなかった。)
 以上述べてきたようなさまざまな事例から見て、われわれがあらゆる場面で論理的な一貫性をもってすべてお事態に対応していくことは不可能である。合理的経済主体モデルで想定されているような美しい整合性には人間はほど遠い存在である。
 われわれは、ある経験を、それが一回限りのものであると思ってしまう場合には、極端な選択に走りがちである。そうならないように、カーネマンが提案するのは、われわれの人生ではしばしば選択をせまられる場面に直面するのであるから、ある選択が失敗しても、それをワンノブゼムと考えて、「小さく勝って小さく負ける」という呪文をとなえるということである。大きな博打はしないことである。そう思えなければ、金融トレーダーはやっていられない。(というようなことを読んで、わたくしが感じるのは、しかし、命というのは一回しかないものだからなあ、というものである。医療の場では、その問題が回避できない。)
 あるプロジェクトがうまくいっていない場合、なかなかそれから撤退できない場合が多い理由が、プロジェクト推進者の経歴に汚点を残すことへの配慮である。だから取締役会がCEOを更迭するのが最善の選択である場合がしばしばでてくる。だめな仕事、不幸な結婚、見通しのない研究からなかなか撤退できないのは、それまでの投資したコストを考えてしまうからである。われわれは「後悔だけはしたくない」と思う存在である。行動して生み出された結果は、行動せずに同じ結果になった場合うよりもインパクトが強い。だから、命がかかった疾病の治療で医師は何もしない方向をとりがちである。何かをしてうまくいかなかった場合のダメージがきいからである。一般に「成功は失敗より当たり前」とみなされる傾向がある。多くの場合、損失は利得の約2倍の重みをもつ。
 ヨーロッパでは、何らかのメリットとひきかえにリスクが増大することを容認しない傾向がある。害をおよぼす可能性のある行為は何であっても原則、禁止するという強い傾向がある。これを杓子定規に解釈すると何もできなくなる。しかし、倫理的にはこの原則は容認される傾向にある。両者のジレンマの解決は容易には得られそうもない。(日本はワクチン後進国といわれていて、ワクチン接種による副作用がでると、強制接種ができなくなり、任意接種となるため、先進国で麻疹の発症があるのは日本くらいなどといわれている。ヨーロッパはどうなのだろうか?)
 「術後1ヶ月の生存率は90%です」と「術後1ヶ月の死亡率は10%です」は同じことをいっているが、実際には違う効果をもたらす。前者の説明だと84%が手術を選ぶが、後者であれば50%となる。しかも医療についての素人だけでなく、医師であってもそのような傾向を示す。科学としての医学教育も、そのような言語表現の違いによる感情的な反応を乗り越えられないのである。
 システム1は、金持ちと貧乏人が出てくると、即座に貧しい人に味方する。わたしたちの倫理的直感は、問題の本質よりも記述の仕方に反応する傾向を持つ。
 
 現在、医療の場では「インフォームド・コンセント」ということがしきりに言われている。医療行為をどうするかの判断は、すべての情報を医療者が患者さんの側に提供したうえで、治療を受ける側の主体的な判断にゆだねるべきという考え方である。しかし、以上のようなことを読んでくると、それが一見、公平な情報提供に見えるような場面でも、実際には情報提供の文言、表現の仕方、あるいは数値の提示法(死亡率が0.1%と千人に一人でも印象が異なる)で反応が大きく異なってくる可能性が高いことがわかる。情報提供をする側も(ほとんど無意識のうちに?)自分がしたいと思っている治療を選択させるような文章、表現法を使う可能性も高い。
 なぜ「インフォームド・コンセント」というようなことがいわれるようになったのかといえば、従来は医療者の側が「パターナリズム」といわれるような「俺にまかせろ! 黙って俺についてこい!」式のやりかたをしていたからで、そのような上下関係ではなく、医療者ー患者関係も対等な関係であるという方向が希求されるようになったからである。
 そのような対等関係への希求への反論はいろいろある。そもそも患者になるということはある種の社会的責任から降りるということなのであり、自己決定というような一種の責任を患者に負わせるのは酷であり、すべきでないという見方がある。また情報の非対称性という観点もある。同じ言葉であっても、その背景についての知識が医療者の側と患者の側では非常に大きな差があるのだから(糖尿病という病名が医療者と患者に持つ意味、また糖尿病という病名は一つであっても、その程度はさまざまであるが、検査の数字が持つ意味や重要性についての理解の差などなど)、患者側に真の理解をもってもらうことは無理であるとするような見解である。しかし、こういった見解はまともで真面目な反応なので、多くの異論はもっと感情的なものである。「医者は偉いんだ! 患者と対等などありえない! 患者ごときが医療内容に偉そうに口を挟みやがって、許せない! 奴らに医療のことなどわかるわけはないではないか! なんでいちいち素人に説明しなくてはいけないんだ! 世も末だ! 昔はよかった!」というようなものが多い。そのような怨念は医療者同士の交流サイトなどでは満ちあふれている。
 わたくしが医者になったばかりの頃には「インフォームド・コンセント」などという言葉は影も形もなかった。アメリカからそういう言葉が聞こえてきた時、これは医療訴訟対策なのであるという説明だったので、アメリカのお医者さんは大変だなあと思ったものである。それが訴訟対策のためではなく(そういう側面は濃厚にあるとしても)、医療者ー患者の対等な関係をめざす運動なのであるというようなことはいつぐらいから言われるようになったのだろうか? 少なくとも、わたくしの臨床経験の後半はインフォームド・コンセントの時代である。
 しかし、インフォームド・コンセントの前提は、客観的でニュートラルで価値中立的な情報提供が可能であるということである。だが、カーネマンの本を読めば、そんなことは幻想に過ぎないことは明々白々である。わたくしもインフォームド・コンセントの時代になって、極力、説明をするようにしているが、それで患者さんの側が十分に理解できているとは思わない。納得のための儀式という色彩が強いと思っている。もし結果が思わしくなかった場合に、患者さんの側が十分な説明を事前に受けていなかったと感じた場合、後悔の念が強くなるだろうと思うので、それをいくらかでも軽減できればというのが主目的のように思う。
 わたくしがまたEBM(エヴィデンス・ベイスド・メディシン 証拠にもとづく医療、根拠のある医療)というものに何となく懐疑的なのは、客観的なエヴィデンスなどというものがあるだろうかと感じているからだろうと思う。この手術の成功率は40%です、というのは客観的な数字である。とはいっても問題はあって、日本全体での平均かもしれないし、世界の平均かもしれないし、あるいはその病院での平均、あるいはその医師の平均ということもある。そして、40%を、40%もあると感じるか、40%しかないと考えるかは、その数字が決めるわけではない。それを説明する医師の口調、顔つきなどが決めるのかもしれないし、以前の数字との比較、あるいは別の治療法を選択した場合の予後など、その他に提供されるデータによっても受け取りかたは変わってしまうはずである。成功率が40%などというのはほとんど五分五分というのに近いわけだから、運がいいか悪いかで決まるというのとどこが違うのだろうかとも思う。しかし、「運がよければ成功します」などといったら顰蹙を買うこと必定である。
 だからエヴィデンスとして提出されるもっともらしい数字というのも患者さんの側を納得させるための手段の一つなのかもしれない。患者さんの側が、「すべてお任せします」といってくれれば、そういうデータの提示さえ必要ないのかもしれないが、そういわれたらいわれたで医療者の側は気が重く、全部自分が責任を持つということをつらく感じる。インフォームド・コンセントは責任分担の儀式でもある。
 34章までで、本書の骨格部分は終わり、第5部「二つの自己」の35章から38章と最後の「結論」はシステム1とシステム2という脳の二つの機能をめぐっての人生論的な考察にあてられている。正直にいって、ここの部分はあまりおもしろくない。われわれが知りたいのは脳というのがどのように働いているかということについての知見であって、「幸せ」とは何かというような議論ではないと思う。
 
 本書でいわれていることの一番の根本は、われわれの思考の大部分は理性的なものでも合理的なものでもないということである(システム1が働く場面はそう多くはない)。ホモ・サピエンスなどとうぬぼれていても、われわれのする判断の大部分は「知恵」の産物ではないということである。それならば、本書でシステム1といわれているものは「感情」なのだろうか?
 以前読んだ脳科学者ダマシオの「感じる脳」は、いってみればわれわれは全身で考えているというようなことであった。ある事態に対してわれわれは全身で反応するのであって(脈が増え、汗をかき、筋肉は緊張し、・・)、その体の反応を脳が記憶していて、新たな事態に対して体が同じような反応をするならば、脳はそれを以前と類似の事態であると判断するとダマシオは言っていた。ここでシステム1と呼ばれているものはダマシオのいう「感じる脳」に近いのではないかと思う。
 それではシステム1もまた人間に固有なものなのだろうか? それとも動物に共通したものだろうか? 金持ちと貧乏人がでてくるとシステム1は自動的に貧乏人に与するというようなことは人間以外の動物にはないはずである。システム1は文化的なものであって進化的な根拠は持たないものなのだろうか? 自動的には貧乏人に与しないという文化圏もあるかもしれない。システム1の根拠というのが何かということが問題になる。そういうことを考えるのはやはり脳科学の分野の仕事であると思う。それで、今度はラマチャンドランの「脳のなかの天使」を読んでいきたい。
 

ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?

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感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ

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