小松秀樹「医療崩壊」(4)「Ⅲ 社会の安全と法律」

 
 本章「社会の安全と法律」は、医療と法律との関係についての小松氏の個人的見解を述べた章であるが、本書の中でもっとも違和感を感じた章である。
 小松氏はここで、「結果違法説という法律の論理を、医事紛争に持ち込むのは適切ではないと思う」といっている。それは「死の数だけでなく、分類、分析、因果関係の捉え方や知識の蓄積に、司法の世界と医療の世界では圧倒的な差がある。(中略)死についての医療の膨大な知見を無視して、司法の考え方だけで判断するのはあまりに偏狭である。(中略)私は医療における死の全体像をつかまないで、医療における死に関する罪を決めることは、明らかな誤りだと思っている」からである、ということからである。
 植木哲氏という法律家の書いた「世間の常識・医師の非常識」という文がある。これに小松氏は噛みついている。ここで植木氏は、医療行為がどれほど神聖な行為であろうと、司法はそれにかんしては中立であり(法の無関心)、そこから生じた結果(死亡等)に大きな関心を持つといい、医的侵襲が違法になるかどうかの判断は「結果の重大性に重きをおいて評価する方法」(結果違法説)と、「行為の悪性や不注意の程度に重きをおいて判断する方法」(行為違法説)があるが、伝統的に法は被害者の権利を守ることに存在価値を見出しているので、結果違法説が通説とされているとして、死亡や健康侵害をもたらす医療行為は、結果の重大性で違法と判断される、と述べている。小松氏は、それにいたくご立腹であり、植木は「世間の常識・医師の非常識」などというが、小松がいう「世間」に入るのは日本では、増殖著しいクレーマーか官僚の一部と法律家ぐらいである、などといっている。さらに小松氏は、『こと医療に関する限り、「医師の常識・法律家の非常識」が正しい』などといっているのであるから、ほとんど八つ当たりである。
 小松氏がそのように主張するときの根拠とするのが、医療は基本的に統計・確率に依存するということなのである。医療行為の結果として生じる様々なできごとは全体としては確率論的に分散する、だから医療行為の一つの結果を見て、その結果から医療行為の適否を判断することはできない、という。「結果違法説」をとると、普通の医師は皆犯罪者になってしまう、という。論理的にいって、まことに小松氏のいう通りである。
 本章のはじめのほうで、小松氏は「刑罰の目的は再発の防止と応報である」といっている。そう簡単にいいきっていいのかどうかにはわたくしはわからないが、それはここでは論じないことにしても、しかし、本章の後の部分では、小松氏は応報については一言も論じない。医師を処罰しても再発の防止のためには何の役にも立たないということだけを主張するのである。わたくしは結果違法説というのは応報の論なのであると思う。日本で結果違法説が通説とされているのは、「被害者の権利を守る」ためなのであるかもしれないが、もっと普通の日本での世間での言い方に直すなら、被害者の恨みに応える、あるいは被害者に怨念を残さない、ということなのではないかと思う。誰も罰せられないとすれば、怨念のもっていき場がなくなってしまう。医療裁判では医療事故の再発防止などという観点はほとんど一顧だにされていないのではないかと思う。《恨み晴らさでおくものか!》というのが医療裁判の中心にある情念なのではないだろうか?
 医療の基本が統計と確率であるのは確かだとしても、統計が科学として機能しうるのはマスを相手にした場合だけなのであり、個々の事例においては科学とはならないのでる。80%生きていて20%死んでいる人間などというものはいないからである。つまり臨床の現場は科学の論理が貫徹する場ではない。
 臨床の場において大切なことは、患者さんや家族の側への科学的説明ではない。患者さんや家族の側と《怨》の関係に入らないように細心の注意をすることである。時には患者さんの側の罵詈雑言に耐えることが、そのための最良の方法であることさえある。さまざまの医療事故において、病院関係者が記者会見をして「世間をお騒がせしました」などといって頭を下げるのも、《恨》を回避するためのささやかなおまじないなのである。そんなことをしてもほとんど効果はないであろうが、それをしないと《恨》を増幅するかもしれないのである。
 大事なことは相手側の《気が晴れる》ということなのである。この対立関係において「自分は決して大きな顔などしておりません。小さくなって恭順の意を表しております」ということを全身をもって表現することが大事なのである。そして医療裁判においては、訴訟の側にとっては、裁判所は《気を晴らす》ための場所になっているのだろうと思う。判決は手向けの花なのである。ご主人の遺影の前で、奥さんが「あなた、今日、ようやく判決がでました。あなたの恨みを晴らすことができました」などといっているテレビドラマなど、いくらでもありそうである。忠臣蔵の世界は続いているのである。
 池上彰氏の「ニッポン、ほんとに格差社会?」(小学館 2006年11月)によると、死刑制度が存続している先進国は日本とアメリカと韓国だけなのだそうである。2004年の世論調査では、「死刑もやむをえない」と考える日本人は81%にのぼるのだそうである。これは、日本人の意識の中で、刑罰が《再発防止》よりも《応報》に大きく傾いていることの明白な証左なのではないかと思う。そういう背景を抜きにして、医者の論理だけで、医療裁判を論じることはできないと思う。
 小松氏もこの章で述べているように、医療のリスクという概念を大きく変えた本に、1999年アメリカで刊行された『人は誰でも間違える』がある。これは《人は誰でも間違える》から医療事故は仕方がない、ということをいった本ではなくて、《人は誰でも間違える》のだから、間違える人間を前提に、どのようなシステムを構築すれば、少しでも医療事故が減るか、ということを論じたものである。
 小松氏もいうように、「かつて、世界中で、医療過誤はあってはならないことにされていた。医療過誤は罪であり、処罰すべき対象だった。忌み嫌うべきものであり、ことさら明らかにすべきものではなかった」のである。これは現在でも検察が抱いている論理であり、多くの国民が抱いている論理でもあるのかもしれない。1999年の『人は誰でも間違える』が医療の世界での過誤や過失についての見方を一変させたわけではなく、それ以前からこういう見方は潮流としてはあったのだとしても、この本が刊行されてからまだ10年もたっていない。とすれば、医者の世界の中にも、相変わらず、「医療過誤はあってはならないことであり、忌み嫌うべきものであり、ことさら明らかにすべきものではない」としているものもいまだに多いのではないかと思う。これは大方以下のような論理によるのではないだろうか。「患者のほうでは全然わかっていないが、医療行為なんて不確実であてにならないものなのだ。それでもわたくしは最善を尽くしている。最善を尽くした結果が悪かったからといって、それによって責めを受けるいわれはない。最善を尽くした結果はすべて正しい。だから今度はたまたまうまくいかなかったとしてもそれまた最善の努力の結果なのだから正しい。しかし、こういう理屈は患者には通じないだろう。なにしろ相手は素人なのだから。仕方ない、どうにかして言いくるめてしまおう」
 そして小松氏のいっていることも、結果的にはこの論理とほとんど同じなのではないかと思う。「患者のほうでは全然わかっていないが、医療行為は統計的分散にしたがうものなのだ。われわれは最善を尽くしている。最善を尽くした結果が悪かったからといって、それによって責めを受けるいわれはない。今度はたまたまうまくいかなかったとしても、それは統計的分散がたまたま悪い方にでただけである。科学の論理からはそれは避けがたい帰結なのだが、こういう理論は患者には通じないだろう。なにしろ相手は素人なのだ。しかし、みなもっと勉強して欲しい。われわれ医療者側も、もっと患者側を啓蒙しなければ!」
 最初の回id:jmiyaza:20070104で引用したポパーの「寛容と知的責任」での《古い職業倫理》と《新しい職業倫理》の区別にしたがえば、小松氏の論は明らかに《古い職業倫理》の側なのではないかと思う。《知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです》という側ではないかと思う。ポパーによれば、これは必然的に《あやまちのもみ消し》へとつながる。《わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないことになります。この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。そしてまたいつでも知的に不正直でした。それはとりわけ医学においてそうなのですが、権威を擁護するためにあやまちのもみ消しを招くのです》とポパーはいう。
 小松氏のいっていることは、医療者がこの領域における一切を知ったとしても、それでも統計的分散のために、ある程度の悪い結果がでることは避けられないということである。人間が有限の存在であり、しばしば間違える存在であるから悪い事態が起きるのではなく、《統計学的分散という神》の存在のために、悪い事態もおきてしまう、というのである。
 ポパーが《古い職業倫理》に対するものとしてあげている《新しい職業倫理》とは、大凡、次のようなものである。「われわれが知らなければならない知識は、一人の人間が習得できる範囲をはるかに超えている。したがってすべてを知っている権威などは存在しない。それはどの専門領域においてもあてはまる。したがって誰にとっても誤りを回避することは不可能である(もちろん、可能なかぎり誤りをさけようとすることは義務であるとしても)。ということは、現在、確立されているようにみえる理論さえ、実は誤りであるかもしれないということでもある。われわれは、誤りから学ばなければならない。そのために自己のしていることをつねに批判的な意識でみる態度が重要である。それとともに、誤りを発見するために必要なのは他人であり、とくに異なった環境にいる異なった理念のもとで育った他人である。」 つまり、専門家も素人も、本当にしらなければならない知識という点からみれば五十歩百歩なのであり、専門家の方が素人よりすぐれているなどということはありえず、専門家といわれる人も素人の前で謙虚にならなければならないということである。
 小松氏は、「法律家は理念からの演繹がいかに危ないものか自覚するべきである。理念はスランス革命を血塗られたものにした。マルクス主義の理念は人類に多大な不幸をもたらした。日本の刑法はマルクス主義と同様にドイツ観念論の系譜にあり、個人の想念を大体系に膨らませる作業の産物である。(中略)医学における論証の厚みに慣れた目でみれば、刑法の教科書の記述には、いたいたしいほどの危うさがある。刑法学は、科学者(医師も科学者である)の目からみれば、あまりに危うい」などといっている。法律家に説教しているのである。法律はどうあるべきか、医者のほうがよっぽどわかっているといっている。
 そのすぐ後で、小松氏は「医師にとってもっとも重大な能力は、自分への批判をおだやかに検討し、これを向上の機会とすることである」といっており、「批判受容力」をもつべきであるといっている。これは医者だけではなく、あらゆる専門家、管理者に当てはまるといっている。ほとんどポパーの言そのままなのである。しかし、小松氏は、植木氏の批判をおだやかに検討するどころか、それを一刀両断で切捨てるのである。科学の名において。しかし、歴史の中で科学の名において、いかに大きな悪がなされてきたかということがある。マルクス主義だって科学的社会主義だったのである。もちろんそれは科学などではない科学を詐称しているだけだという批判はあるであろう。それなら、フロイト精神分析はどうか? フロイトもまた科学を目指したのである。それまた似非科学であるかもしれない。それでは一気にとんで、外科の分野ではどうか? もしも医療が科学であるなら、医者が正しいと思う治療法を、患者の側の了解など一切なく行っていいというということはないだろうか? 五分五分ならいざしらず、絶対に手術をしたほうがいいケースであるにもかかわらず、信仰で治しますなどといわれたら、なぜその馬鹿な信念にしたがわなければいけないのだろう? わたくしは、科学者としての医師として、インフォームド・コンセントなどという風潮を嘆かわしいと思っている医者はたくさんいるだろうと思っている。あれはクレーマーがすぐ裁判に訴えるアメリカの悪しき風潮への対策としてでてきた、医療訴訟対策であると思っている医者はたくさんいるだろうと思う。
 専門家として何か正しいかは自分が一番よくわかっているのである。それなのになぜ、医療のことなどろくに知らない法律家が土足で医療の現場に乗り込んでくるのだ、それが小松の偽らざる気持ちなのだと思う。だからこの章の最後は手放しのエリート讃歌になっていく。「自覚的エリートの生き甲斐とは何か。大げさだが歴史に参加することに違いない。(中略)問題が大きいとき、エリートは本質をみようとすべきである。本質的な変革がすなわち歴史の転換である。エリートはこれを死処と考えなければならない」 小松氏が批判するマルクスなど、まさにこのように考えたのではないだろうか? わたくしがこの「医療崩壊」で一番気になるのは、小松氏のなんとなく予言者めいた口調なのである。「正統と異端という観念には、ちっぽけな悪徳が潜んでいます。知識人がとりわけ染まりやすいあの悪徳、つまり、尊大さ、独善、人よりもよく知っているといううぬぼれ、知的虚栄心といったものが潜んでいます」とポパーはいうのだが(そしてそういいながらポパーにもそういう悪徳がまちがいなくあるのだが)、小松氏もまたそういう悪徳に感染しているように思える。
・ 私は、私の教師に、当然受けるべきである尊敬と感謝の念を捧げる。
・ 私は、良心と尊厳をもって私の専門職を実践する。
・ 私は、全力を尽くして医師専門職の名誉と高貴なる伝統を保持する。
・ 私の同僚は、私の兄弟姉妹である。
 などというジュネーブ宣言のある部分は、わたくしには何か秘密結社への入会の宣誓のように思えてしまう。
 このような医療者のもっている、医療は専門職であるという信念にもとづく閉鎖性が医療の問題をこじらせてきた一番の元凶ではないかとわたくしは思っているので、小松氏の論述にどことなく感じられる医療という専門職への優越意識のようなものに過敏に反応してしまうところはあると思う。それで今回はいささか過剰に意地悪くみてしまったところがあるのではないかと思う。しかし、それでも、本章には違和感を感じるのは事実なのである。
 

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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