小松秀樹「医療崩壊」(番外)高橋源一郎「ニッポンの小説」


 高橋源一郎氏の「ニッポンの小説」(文藝春秋 2007年1月)を読んで、これは医療問題を論じたものではないかと思った。もちろん、高橋氏が医療問題を論じる気がないことは120%間違いない。これはその題名の通り、「ニッポンの小説」を論じたものである。わたくしにしても、小松氏の「医療崩壊」を読んでいろいろと考えているときでなければ、そんなことは思わなかったかもしれない。だから、小松氏の本を論じている連続記事の中で高橋氏の本をとりあげるなどということは無茶なのであるが、それでも自分では強引で無理なこじつけをしているつもりはない。「ニッポンの小説」の主題は「ニッポンの小説」と死者とのかかわりである。また第三章のタイトルは「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」である。わたくしがいっていくこともあながち見当外れでもないことは、おわかりいただけるかと思う。
 わたくしが「ニッポンの小説」を読んで感じたのは、高橋氏が論じているのが死者であるのに大して、小松氏が論じているのは、死体なのであるなあ、ということである。また「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」という問いには、小松氏は、そんなことはできるわけはないではないか、それは科学の問題である、と答えるのではないかと思った。わたくしもまた躊躇なく、そんなことできるわけないではないかと答える人間である。それは事実の問題である、というであろう。わたくしも「死体」の側の人間なのである。誰がどこで言っていたのかは忘れたが「臨床の医者ほど即物的な人間はいない」というのがあった。ドイツ語のザッハリッヒであろうか? 神も仏もあるものか、人は死ねばゴミになる、の世界である。唯物論などという立派な主義主張ではなくて、タダモノ論。
 しかし、このタダモノ論者はすごく評判が悪い、ほとんど人非人の扱いである。それでも小松氏は勇敢に、人の死は当たり前のことである、ということを啓蒙していくことにより、タダモノ論で前線を突破できるものと信じている。
 わたくしは、タダモノ派は永久に少数の側にとどまると思っていて、それをいかなる手段によっても多数派にできるとは信じない。そこが違うのであろう。
 多くの人が住んでいる世界は、「死者」の世界である。すなわち、それと対になった「生者」(などいう言葉はないのかもしれないが)の世界でもある。そこでは生きていたひと(生者)が、死者になるのである。死者はもはや言葉を発しないが(物理的には)、残された生者は死者の言葉を聞き、死者に拘束される、というのが「ニッポンの小説」の主題となっている。
 死者をして(充分?)死なしめるためには、多くの時間と、多くの儀式と、多くの手続きがいる。「喪の儀式」がいる。日本の古来からの考えによれば、非業の死をとげたものは、なかなか「死んで」くれない。「本当に死んでもらうためには」供物を捧げなれればならない。そして現在においては、医療事故死という非業の死をとげたものについては、医療裁判が重要な供物となってしまっているのではないか、そうわたくしは思っている。
 一方、臨床の医者が住んでいる狭い世界では、「生体」が「死体」になるのである。「生体」という言葉は熟していなくて、ほとんど医療の世界でしか使われないものであるが(「生体解剖」「生体肝移植」・・・)。
 「生体」から「死体」へ変化は、生物学的現象である。あるいは生物学的現象がそこで終って、物理化学的現象のみがおきる世界へと移行することである。生物学の世界には「死者」はいない。いやったらしい言い方をすれば、エントロピーの減少という物理学の世界ではありえない世界から、エントロピーの増大する当たり前の物理化学世界への移行があるだけである。生物学の世界には「死者」はいない。「死者」がいるのは人間の世界だけである。一部の人にとっては犬や猫も「死者」の仲間に入る権利をもつのかもしれないが、それは人間から見てであり、犬や猫同士に生じるのは生物学的現象だけであって、彼らの間には「死者」は存在しない。
 死は生物界にあまねく存在する現象であるが、医療をおこなう動物は人間だけである。それが医療が根源でかかえている矛盾である。どのような啓蒙によっても、その矛盾は克服できないのではないかと、わたくしは思っている。それで、小松氏の啓蒙への情熱が今ひとつ理解できないところがある。もう一ついえば「法」をもつのも人間だけであり、「法」には生物学的な根拠など一切なく、科学ともまったく無縁のものなのであるから、「法」を科学の下において制御しようというのも、不可能の探求なのではないかと、わたくしには思える。

 まず、世界が存在しているからです。あるいは、小説にとっての「外部」が。そして、その世界を、「外部」を読み解くために、小説が存在しているのであって、小説を、あるいはテキストを読むために、世界が存在しているのではない。そう、わたしはいいたいのです。
 あるいは、ある作家のしゃれたいい方に倣うなら、世界と小説の戦いでは、世界の方に加担せよ、といいたいのです。

 と、高橋氏はいう。
 まず、世界が存在している。その世界を読み解くために、医療が存在しているのであって、医療のために世界が存在しているのではない。世界と医療の戦いでは、世界の方に加担せよ! である。あるいは橋本治流の下世話ないい方によれば「仕事とは他人の必要に応えること」である。(とはいっても、われわれが認識するから世界は存在する。われわれに認識されなければ世界は存在しないという、わたくしには理解ができない、やっかいな哲学的議論が昔からあって、しかも困ったことに量子力学の世界では「観察者問題」という形で、ほぼそれに近似した議論が正統になっているらしいのである。わたくしは昔のジョンソン博士の流儀の信者で、机を蹴っ飛ばして、ほら私の足は痛い、だから外界は存在するという素朴実在論、素朴タダモノ論をどうしても棄てることができない。)
 それでとにかく外界があるということを認めるならば、世の中は実に多くのことを医療に要求する。それに対して、それは医療の仕事ではない。それは医療にはできない相談だ、とあれもこれも否定してしまえば、医療の世界は随分と痩せてしまうのではないか?、とわたくしは思う。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」である。なにしろ、世界は雑多なのである。実に広い。

 頑張ってる私だからバチ当たらないよね・・ごほうびアクセとおねだりジュエリー・・長いお付き合いの彼からはカラーストーンでバリエを増やしたい・・何度贈られても、幸せ気分を満喫できる無敵のリング・・お付き合いの長い彼からもらいたいのはペンダント・・ステディモチーフのハートは愛する人から贈られたい・・自腹アクセは安可愛か、それとも指名買いで旬を漂わせる・・定番のハートモチーフで人と差をつけたいから、ジョージ ジェンセンを指名買いです(村松明奈さん法政大学3年)・・つけるだけでガーリーな雰囲気にしてくれるミリィ カレガリのアクセに一目惚れ(井出沙織さん東洋英和女学院4年)・・おねだりにふさわしいのはやっぱりリング・・やっぱりいつかは本物のダイヤをこの手に輝かせたいもの・・

 写していていやになったが、これは「ニッポンの小説」に引用されていた雑誌「JJ」の一部である。こういうものを延々と引用して飽きないのだから高橋源一郎という人は変な人なのである。もちろん、それを引き写しているわたくしはもっと変なのであるが。こういうものは絶対に男にはわからない世界なのだろうと思う。それが世界の半分を占めているのだから、世界は多様なのである。ところで安可愛というのは何なのでしょうか? 固有名詞? 安くて可愛いという意味? 女性なら誰でも知っている言葉? ガーリーって何? 電子辞書にはでてこないが。
 小倉千加子氏の「結婚の条件」(朝日新聞社 2003年)は大変面白かったけれど、「non・no」だとか「JJ」だとか「MORE」だとか「CLASSY」だとか「25ans」だとか「with」だとか「an・an」だとか「COSMOPOLITAN」だとか「レタスクラブ」だとか「VERY」だとか「STORY」だとか三浦りさ子だとか黒田知永子だとか岡田美里さんだとかという言葉がピンとくる読者を相手に書かれているので本当に困った。わたくしにはもう何のことやらである。この雑誌名と女性の名前の(微妙な?)違いがすぐにわかる人でないと、文意がとれない話が延々と続くのであるから、違いがわからない男であるわたくしは心底困った。
 なんでタカハシさんがこんな文章を延々引用しているのかというと、「作家というものは、たいてい男で、その男たちは、自分の「物語」を作るのに忙しく。女のことなど考えている暇はなかったのです」ということのようである。だから女たちは「JJ」で自分達の物語をつくることになったのです、ということがいいたいらしい。
 それでは、医療は「男の物語」なのだろうか? あそこの看護師さん(女性)たちも、こちらの女医さんたちも、みな「頑張ってる私だからバチ当たらないよね・・ごほうびアクセとおねだりジュエリー・・長いお付き合いの彼からはカラーストーンでバリエを増やしたい・・何度贈られても、幸せ気分を満喫できる無敵のリング・・お付き合いの長い彼からもらいたいのはペンダント・・ステディモチーフのハートは愛する人から贈られたい」なんてことを考えているのだろうか。それとも医療の世界の女性たちは例外的に男性化していて、「JJ」などには見向きもしないのであろうか? 本当かどうかしらないが、看護師さんの世界は異様に貢ぐ人が多いという噂がある。わたくしの見聞の範囲では、女医さんたちで貢いでいるひとはほとんどいないようであるが、さらに漏れ聞くところによれば、一部の女医さんたちのストレス解消法は買い物なのだそうで、彼女たちの身につけている一見なんでもないものは実は相当(非常に?)高いものであることがしばしばあるのだそうである。しかし、男医?のほとんどは数十万円の服とユニクロ製の違いが判らないであろう(そうでもないのかな? わからないのはわたくしだけかな?)。そうだとすると、それは女性同士のみせあいっこなのだろうか? それもとも、「JJ」流の自分へのご褒美なのだろうか?
 あるいは全然ちがっているかもしれないけれど、小松氏はわたくしと同じに、違いのわからない人なのではないかと思う。とにかく真面目である。あるいは真面目すぎる(わたくしもまた真面目である、という意味ではない。為念)。そしてタカハシさんも、こんな文章を引用していても、違いのわからないひとなのではないかと思う。この「ニッポンの小説」の最大の欠点は真面目すぎることである。「わたしは、およそ二十年前に作家としてデビューしてから、いったい、自分はなんのために作家になったのだろう、どういう役割がわたしにあるのだろう、と考え続けてきました」などというのを読むと、サルトルの「飢えた子供の前で文学は有効か?」とかいう言葉を思い出す。このサルトルの言葉をたしか山崎正和氏だったかが、「何たる傲慢!、何たる選民意識!」と批判していた。向う横丁の煙草屋さんが、「わたしは、およそ二十年前に煙草屋になってから、いったい、自分はなんのために煙草屋になったのだろう、どういう役割がわたしにあるのだろう、と考え続けてきました」なんていうか!、という方向からの批判であったように記憶している。
 はなしがどんどんずれていく。「ニッポンの小説」のまだはじめ五分の一あたりをうろうろしている。困った。
 それで、とにかく「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」にゆく。この問いはすでに、一種の誘導尋問を含んでいる。「死体はお経やお祈りを聞くことができますか?」という問いとくらべてみればわかる。死体は物体であるが、死んだ人は物体ではない。「死んだ人」の「人」が問題なのである。「人」というのは生きているものなのである。だから「死んだ人」という言葉は、黒い白といっているような語義の矛盾を含んでいる。人という言葉を導入することによって、死体が生き返ってしまう。そうすると「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができて」当たり前ということになる。つまり、この問いは文学の場で問われることはあっても、医療の場で問われることはないものである。「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」という問いに、「死体はお経やお祈りを聞くことはできません」と答えても、問いと答えの次元が違うから、かみあうはずがない。死体の上に人が重ね書きされているのが、死んだ人である。
 なんだか、死体死体と書いていると奇妙な気分がしてくる。せめて遺体とでも書くべきなのだろうか? しかし遺体という言葉にはすでに、「人」がたち表れてくる。遺族と一対の言葉のように、それは思われるから。
 死者は文学の世界の言葉、死体の医療の世界の言葉などということを書いていたら、丹生谷貴志氏の「死体は窓から投げ捨てよ」(河出書房新社 1996年)というなかなか凄いタイトルの本を思い出した。丹生谷氏によれば、この題名はヘラクレイトスの断片から来ているのだそうである。「死体は汚物や糞尿のように、或いはそれ以上に、投げ捨てられるべきである」というもので、死体を野辺に棄却するゾロアスター教の影響が認められるとされる言葉なのだそうである(直接にはドゥールーズの自殺に触発された題名であるようである)。
 ドゥールーズの紹介者の一人である丹生谷氏の文は難解で、わたくしにはあまりよく理解できないが、それでもこの本は老いをめぐる考察であることはわかる。そこにバルトの文が紹介されている。「老いは半ば死んだ状態である。死の虚無はまだないが、しかし、すでに老いは半ば死である。生きているのに半ば死んでいるというこのパラドクサルな状態、これに別の名前を与えることができて、それは“アンニュイ”である。アンニュイは使いみちのなく余ってしまった時間、余ってしまった生の表出である。」 それをうけて丹生谷氏は書く。「老いてある者はこの世界の営みから外れてしまい、「歴史」と「仕事」の領域の〈外〉に出てしまう。世界にとってすでに死に、しかもなお死んでいない、いわば中有の「虚無」のなかに「老人」はでてしまう。」
 それで唐突に思い出すのが、吉田健一氏の文である。「本当を言ふと、酒飲みといふものはいつまでも酒が飲んでゐたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどといふのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、といふのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まつてゐればいいのである。(「酒宴」 吉田健一全集 第八巻 原書房 1968年) そういえば、氏には「余生の文学」(新潮社 1969年)という本もあった。
 世界の営みから外れた時間こそが本来の人間の時間であるという吉田氏の論もそうだなあと思い、人間は一生、世界の営みに参加し、動ける限りは仕事をすべきであるという橋本治氏の論もそうだなあと思うのであるから、我ながら矛盾していて支離滅裂であると思うけれど、それを折衷するならば、酒をのむような境地で仕事をしろ、ということになるのだろうか? あるいは人間にとって仕事をするということは、他の動物がただ生きていくのと同じであるということだろうか?

 何故、可愛がられてゐる犬があんな眼付きになるかと言ふと、情を籠めた扱ひの暖かさとか、喉が乾いた時の水とか、よく乾いた寝床とか、なければ努力して得なければならないもの凡てに恵まれてゐて、後は人生とか、退屈とか、孤独とか、努力して見た所でどうにもならないものと対決するばかりであり、それでそういふものと向き合つてゐるからである。(「乞食王子」 吉田健一全集 第三巻 原書房 1968年) )

 おそらく吉田健一流にいえば、医療の仕事は、せいぜい「情を籠めた扱いの暖かさとか、喉が乾いた時の水とか、よく乾いた寝床とか」を提供するところまでにとどまるのであり、「人生とか、退屈とか、孤独とか」とかいった問題にはかかわることはできない。とすれば、「老い」の問題もまた医療のかかわる問題ではないことになる。だが、そういってしまうと「死」もまた医療の問題ではない、ということになってしまわないだろうか? 事実、「死」は医療ではあつかえないということを小松氏はいいたいのではないかと思う。

 十九世紀の後半頃からの短い期間は災害にはその対策があり、例へば渇水は貯水池、疫病は薬、飢饉は食物の輸送、戦争も国際会議で防ぐことが出来るといふ考えが行はれてゐてその結果が人為的な災害も自然のものも既になくなつたも同然だといふ気持でゐることに人を馴れさせて来た。(中略)どういふことにでもその対策があるといふ種類の考へ方が既に理性が許さない筈の何かに対する過信であつて人間は人間の状態を忘れる時に醜くなる。(吉田健一「覚書」青土社 1974年)

 小松氏が苛立っているのは、患者さんたち、あるいはマスコミ、警察が「どういうことにでもその対策がある」という前提にたっていて、医療の場におけるあらゆる失敗は対策不足の結果であるとする 「理性が許さない筈の何かに対する過信」にとりつかれていて、それは「人間の状態を忘れ」た、まことに「醜い」姿であると考えているからではないかと思う。

 併し今日の人命尊重は戦争中、或はそのもつと前から命を何かの毛よりも軽く見ることに、少なくとも表向きはなつてゐたのと、本質的には大して変りがないとしか思へない。片方は生きることに対して頬被りし、片方は死ぬことに就て考へない態度をとつてゐる。つまりは何れもさういふ思慮が足りない、何でもかでもバスに乗り遅れまいとする時勢への追随から来てゐるので、生きて行く勇気もないし、かと言つて死にたくもない人間が一番この種類の流行にかぶれ易いのではないかと思ふ。
 併し人間は何れは死ぬのである。だからどうと、そこからどのやうな結論を引き出すのも各自の勝手であるが、必ずいつかは死ぬといふことだけははつきり見極めて置く必要がある。人の命を奪つてならないのも、人間には限られた命が一つしかないからで、我々がいつまでも生きてゐるならば、人殺しも却つて人助けになるのではないだらうか。第一、死ぬ時が来ないならば、生きてゐて嬉しいこともない。自分がいつか死んで、跡形もなくなるのだといふことをよく考へてから、人命尊重も、命は鴻毛よりも軽しも言つて貰ひたいものである。併し人類はどうなるのだ、などと開き直る人間も、月日がたつうちには死ぬ。決議やデモばやりのこの頃、人間が死ぬといふのは封建的だと決議し、さういふ人間の運命に対してデモをやったらどうだろうと思ふことが時々ある。(「乞食王子」同)

 「生きて行く勇気もないし、かと言って死にたくもない」というのは厳しい言葉である。
 小松氏は「人間は何れは死ぬのである」ということから一定の方向の帰結が得られるとしているようであるが、「どのような結論を引き出すのも各自の勝手」であって、医療の現場でおきるアクシデントに寛容であろうという立場も、厳罰に処すべしという態度もどちらにも行きつきうるものであろうと思う。「JJ」で「ごほうびアクセとおねだりジュエリー・・長いお付き合いの彼からはカラーストーンでバリエを増やしたい・・何度贈られても、幸せ気分を満喫できる無敵のリング・・お付き合いの長い彼からもらいたいのはペンダント・・ステディモチーフのハートは愛する人から贈られたい」などといっている若い女性たちは、自分が《いずれは死ぬ》などとは考えてもいないのかもしれない。それとも、花の命はあと数年で、そこから先には延々と《老い》という面白くもおかしくもない茫洋とした時間が続いているとでも思っていて、生き急いでいるのであろうか?
 困った。「ニッポンの小説」とどんどん関係がなくなっていく。戻そう。
 「わたしには「死者」というものが、よくわかりません。死体ならわかります。見たり、触ったりすることが、「わかる」という意味に使えるならば、の話ですが」と高橋氏はいう。そして、谷川俊太郎の詩「父の死」を引用する。(「世間知ラズ」 思潮社 1993年)

私の父は九十四歳四ケ月で死んだ。
死ぬ前日に床屋に行った。
その夜半寝床で腹の中のものをすっかり出した。
明け方付添いの人に呼ばれて行ってみると、入歯をはずした口を開け能面の翁そっくりの顔でなってもう死んでいた。顔は冷たかったが手足はまだ暖かかった。
鼻からも口からも尻の穴からも何も出ず、拭く必要のないくらいきれいな体だった。
自宅で死ぬのは変死扱いになるというので救急車を呼んだ。運ぶ途中も病院についてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。
遺体を病院から家に連れ帰った。
私の息子と私の同棲している女の息子がいっしょに部屋を片付けてくれていた。
監察病院から三人来た。死体検案書の死亡時刻が実際より数時間後の時刻になった。
(後略)

 ここで描かれている医療行為のなんと滑稽なことだろう。家族は遺体を連れ帰り、医者は死体検案書を書く。遺体と死体。そしてこの詩にあるようなことが、もし病院の中でおきれば、それは下手をすると病院の注意義務違反で訴えられるようなこともないとはいえない事例なのである。病院にいたのになぜ助けられなかったのか? もっと早期に発見し、適切な処置をすれば救命できたのではないか? などなど。少なくとも、医師法第21条にかんしては微妙な点があり、だから監察病院から人がきているのであろう。
 しかし、そういうようなことを高橋氏がいいたいのではない。氏がいうのは、これは「死」のごく限られた一部を描いただけなのではないか、ということである。描かれているのは「他人の死」ではないか、「他人の死」とはまず死体であり、死体は描写しうる、という。そして「他人の死」は周りの、生き残った人々の混乱を巻き起こすのであり、つまりは「他人の死」とは生き残った人々の、それ以降の問題に他ならないのだという。
 ここから高橋氏は詩と散文の違い、散文と口語文の違いという氏にとっての根源的な問題へと話をすすめていくのだが、それは小松氏の本とは関係ないので(本当は、わたくしがここで色々と書き散らしていることをふくめ、散文でなにかと書くということはどういうことなのか、日本の散文の文体の構造の中には根源的な欺瞞が潜んでいるのではないかという高橋氏の論点からすれば、無関係とは言えないことになるのかもしれないが、それでは次元が違ってしまい、中井英夫氏の「虚無への供物」の最後が、「それはないぜ、それはルール違反だぜ!」という感想を抱かせるのと同じような、アンフェアなやりかたになってしまうように思うので)、その問題はここでは論じない。相変わらず、150ページ辺りで停滞したままなので、稿をあらためる。


ニッポンの小説―百年の孤独

ニッポンの小説―百年の孤独