養老孟司 長谷川眞理子「男学 女学」

  読売新聞社1995年4月20日初版


 この本は前に養老さんの本として買ってきて、養老氏執筆の部分だけを読み、長谷川氏の部分はスキップしていた。今回長谷川氏執筆分を読んでみた。以下感想は長谷川氏執筆の部分のみ。
 「おしゃれ」:長谷川氏によると、日本人の化粧やおしゃれは画一的である。ケンブリッジ大学にいるころはぜんぜん化粧をしなかった。それはまわりで誰も化粧をしていなかったから。それは「インテリの女性はお化粧をしない」という一種のスノビズムがあるからで、それはそれでまた画一的で自己主張がないのではないかという。
 わたしの知り合いで、ときどき外国人の通訳をしているひとがいるが、それにいわせるとたしかに向うの女性は化粧をしないか、ほとんどしない人が多いらしい。インテリが化粧をしないのかどうかは聞かなかったが、誰でもかれでも化粧をするのではないことは事実らしい。日本では化粧をしないと目立つからみんなするのだろうか? イギリスのインテリは化粧をするとバカだと思われるからしないのだろうか?
 この長谷川氏の短文によれば、化粧は異性を意識してばかりではなく、同性に対する信号でもあり、性的意味合いを離れた個性の自己主張の手段でもあるという。そういわれても、なぜ女性が化粧をするのか(この場合はなぜインテリの女性はしないほうがまともだと思われているのかもふくめて)やはりわからない。それは進化的な根拠をもつのだろうか? それとも文化に規定されているだろうか? 本当はしたくないけれども、男がつくった文化によってそうしないことは不利であるような環境に生きているので、いやいやしているのであろうか? 
 そうでなくて、化粧をすることが楽しいというのであれば、それは明らかに男女差が文化でない起源をもつことを認めたことになり、一部のフェミニズムの主張にとってはかなりダメージになるのではないかと思う。
 わたくしは服装についてまったく関心がなくて、吉田健一の「男の服装の基準は目立たないこと」を拳拳服膺しているが、でも橋本治のように自分で編んだセーターをきたり、金髪にしたりする男もいるわけである。わからない。
 「文系、理系」:理系は図にして考え、文系は文章で書くという指摘が面白かった。「霊長目の中におけるヒトの位置を記述せよ」という問題に、文系の学生は系統樹を書かず、ひたすら文章で答えるのだそうである。
 理系は、事実を、文系では解釈を重視し、理系では説明がきれいにつくことを喜び、文系はきれいな説明を胡散臭いと思い、理系では仮説をすぐに捨てられると思い、文系は仮説を信念をもって守りぬくものとすると、長谷川氏はいう。
 しかし、それは対象の違いではないだろうか? モノについてなら、事実重視できれいな説明を喜び、仮説を簡単にすてることは、一貫している。しかし、相手が人間であるとすると、事実とは何かという問題がまず生じ、きれいな説明は、人間は複雑なものであるという信念に反するので胡散臭いし、仮説も人間の複雑性から、どのようにでも言い逃れ可能で容易には否定されないということがあるのではないだろうか? 
 問題は、理系の人が、そのモノをあつかう感性と方法論で人間の問題の領域へと乗り込んできているということなのであろう。そして、人間の問題について、いとも簡単に何かがわかったような言い方をすることなのであろう。そこには、人間のもつ陰影を尊重しようなどという奥ゆかしい心がけは微塵もなく、ブルドーザーで整地するように、がさつなやりかたで問題を解決したと言い張っているように見えるのである。 
 SFでも男女の役割分担がえらく「古典的」であるという指摘はまったく同感。「エイリアン」などはその点で画期的という指摘があるが、この点については、内田樹氏のアメリカ人の「女嫌い」文化の反映としてこの映画をみた、秀抜な論があった。
 10年前に書かれたということもあるのかもしれないが、概して主張が穏健で、フェミニズムの主張にも目をくばり、遠慮して?いる。日本文化が西欧文化にくらべ遅れているととれないでもない主張が散見するようにも思った。今なら、もう少し違った大胆な主張をするのかもしれない。


男学女学

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