磯田道史 「殿様の通信簿」

  朝日新聞社 2006年6月30日初版
  
 これは昨日の朝日新聞の書評で、浅野内匠頭がとんでもない殿様だったという話が書かれた本というような紹介をされているのが目にとまって、それで買ってきたのだが、なかなかそれだけの本ではない。
 「土芥寇讎記」という本があるのだという(「どかいこうしゅうき」と読むらしい)。江戸幕府の隠密が集めた諸大名の評判記のようなものらしい。
 それで例えば水戸光圀の評判はどうか? それによれば、学者ではあるが女癖が悪いということになっている。悪所、すなわち遊郭に通って女色にふけっているというのである。それについては、磯田氏は光圀のために弁じていて、当時の殿様などというのは不自由なもので、学者や芸能人などとは会おうとしても会えなかった。それが出来る場所は茶室か「お忍び」の外出しかなかったという。この当時遊郭は文化サロンでもあって、そこには詩文、書画、管弦の達人も集まっており、身分を超えた交流ができる場であったから、学芸に関心のあった光圀としては、それが目当てではなかったかというのである(この辺り、遊郭を美化しているような趣もあって、小谷野敦さんあたりからかみつかれるかもしれない)。
 公儀隠密もその辺りは大目にみて(何しろ、孔子様も「吾、色を好むごとく、徳を好む者を、いまだ見ざるなり」といっているくらいであるから)、光圀が自分の知識をひけらかして、学者をいじめることの方を問題にし、本当の学者ならそんなことはしない、という(なかなか的確な?)批評をしているのだそうである。そのお忍びの悪所通いが、諸国漫遊伝説のもとになったのではないかという。
 そして浅野内匠頭。この人、生前はまったく無名であったという。なんの業績もないひとであると。
 まず内匠頭という名前。これは御所の建築内装役の長という意味である。しかし浅野内匠頭がそういう仕事をしたわけではない。まったく名前だけである。同じように信濃守といっても信濃の国をおさめているわけではない。みな虚名、虚職である。「禁中並公家諸法度」に「武家の官位は公家の定員外」という規定があって、幕府は朝廷に申請することで、何人でも内匠頭や信濃守をつくれたのだという。
 さらに位階がある。浅野内匠頭は「従五位下」。一方、吉良上野介は「従四位上・左近衛少将」。浅野内匠頭は赤穂五万三千石の大名。一方、吉良上野介はわずか四千二百石で大名ではない。それなのに吉良の位が高いのは、吉良家が足利家の子孫だから。大名の席順は石高ではなく官位できまる。だから大名は官位をすごく気にした。あらゆる歴史において、人間が貴族化し食うにこまらなくなると、恋愛、遊興、位階の三つにしか興味をもたなくなる。(庶民は位階がないから、宗教に凝る。)
 一方、浅野家にも特殊な事情があった。浅野家は江戸時代において珍しく築城をした大名なのである。三代家光は不安神経症気味のところがあり、大名の謀反を恐れ、岡山の池田光政を恐れて、岡山と姫路の間に赤穂城を作らせた。この築城に十五年かかっている。それが浅野家をおかしくした。軍学好きが増え、武ばってきたのである。だから浅野内匠頭という武人が、吉良上野介という文人を馬鹿にするという構造が、この事件の根底にある。そして、もちろん位が高い吉良上野介は身分の低い浅野内匠頭を馬鹿にするのである。
 さらに大石内蔵助。その祖先は大阪夏の陣で獅子奮迅の活躍をし、敵の首級をあげたことで有名であり、その祖先の功により筆頭家老になっているのだという。それで大石は吉良の首にこだわったのだ、と。
 さて、浅野内匠頭の評判は。これまた、無類の女好きというものである。この「土芥寇讎記」で書かれたのは内匠頭二十四歳の時であるから、女好きも仕方ないと磯田氏はいうのであるが、美女を差し出す人間を重用したりするばかりか、政務を放り出して、夜昼となく酒色にふけっていたらしい。それで政道は家臣に丸投げで、藩政はもっばら大石内蔵助らがおこなっていた。よく話題になる赤穂浪士の打ち入りにおける大石のリーダーシップも、もともと大石がリーダーだったとすれば、当たり前かもしれないと、磯田氏はいう。「土芥寇讎記」によれば、大石らは女色にふける主君をいさめない不忠者とされている。
 浅野内匠頭の三十歳くらいを描く別の評判記では、内匠頭が下女に非道のことをしたので、いずれ改易になるだろうと噂されていることが書かれている。こんなことを書かれるのだから、相当なことをしたのだろう、そうだとしたら、松の廊下以前にも内匠頭は何回も暴力事件を起こしていた問題児だった可能性もあるのではないかと磯田氏は想像している。
 さらに内匠頭の母の弟は、松の廊下に先立つこと21年前に、芝増上寺での将軍家綱の法事で、同役を刺殺している。そう見てくると、われわれの理解している赤穂浪士の物語は、事実とは著しく違っているのではないか、と磯田氏は推定している。
 次が池田綱政(浅田氏の郷里である岡山の二代藩主)。これまた無類の女好きで生涯に70人の子供を作った。しかし歴史書には、岡山後楽園を作ったとしか書かれていない、それは変ではないかと磯田氏はいう。
 それで「土芥寇讎記」の評価は、ほとんど馬鹿殿様。綱政の父、初代岡山藩主光政は名君といわれた人である。また学問をした人でもある。
 中世から近世への移行とは、神仏への信仰でうごいていた社会が人間の知的な判断でうごくようになるという変化であるという。しかし近代とは違って官僚制が十分に完成していないので、すべての判断を生身の治者がしなければいけないことになる。それには超人的な知性が必要になるが、光政はそのもとめに応えようとした人であった。しかし綱政は、そんなことはいやだと思った。そんなものは家臣にまかせておけばいいと思った。人生を楽しもうとした。その遊び相手は旗本奴などの男伊達であり、身分へのこだわりをもたない、当時としては珍しい差別意識をもたないひとであった。
 磯田氏によれば、綱政の筆跡はみごとなものなのだそうである。その綱政の文章。
 『もとより荒磯の波の音、浜の松に響きて、ゐも寝ず。独り寂しく臥しけるに。たのめる月は隈なく閨のうちにさし入り。せめて仮寝の友ながら。なお慰め難う覚えて。
    ひとり寝は いとど物憂き
      荒磯の 波のまくらに 月を浮めて』
 古文の教科書にでも載せたいくらいである。もっともその意は、参勤交代の旅にでて、江戸上屋敷での生活と違って、閨に女がいない、寂しい、というものであるから、文部省推薦ではないけれども。
 父光政はリアリストであった。しかし綱政はどうも公家になりたいと本気で思っていたようである、と磯田氏はいう。田舎の岡山に自分だけの「源氏物語」の世界を作ろうとした。彼の女好きと公家好きは表裏一体であるという。
 江戸時代は二つに区分できる、と磯田氏はいう。関が原から50年とそれ以降である。最初の50年は戦国の気風を残していた。光政はその時代の人間であった。しかし綱政の時代、元禄以後となると、太平の世になってしまったという。戦場の記憶は忘れられ、京都の宮廷文化に憧れるようになる。この憧れは天皇への憧れと通じて、明治維新の伏線になるというのが磯田氏の説である。だから、雛人形の普及は天皇の民衆への浸透のバロメーターなのだそうである。これが天下万民にいきわたったところで徳川幕府は倒れたのだ、と。
 なんだか唐様で書く三代目みたいな話である。どうもわたくしは成り上がりというのが嫌いで、田中角栄が宰相になったとき、嫌な世の中になったと思った。マスコミが今太閤などと囃しているのを不愉快に思っていた。そもそも太閤秀吉が嫌いである。要するに武ばったことが嫌いで文弱であるというだけのことなのだが。そういう人間は乱世には生きられないことは自覚している。しかし、丸谷才一流に文弱を正当化するつもりもない。貴族化すると、恋愛、遊興、位階だけになるのかも知れないが、位階へのこだわりというのも生々しくていやで、恋愛、遊興だけなら平和でいいのにと思う。そういうことでこの綱政という殿様にはとても親近感をもった。そしてこのあたりを読んでいて、何故か山田風太郎の「室町少年倶楽部」を思い出した。
 次が前田利家。これは池田光政と同じ戦国の気風を残した人。戦国の人の行動原理はいたって単純で、強いものがえらい、強い方につく、である。利家は信長信者で、今日に続く信長人気は利家の宣伝によりところが大きいのだ、と。ちなみに明治天皇は無類の信長好きだったのだそうである。
 前田家は徳川家を倒しうる最大の存在であって、前田家がことをおこしていれば、徳川三百年はなかった。その鍵を握ったのが利家の子である前田利常である。その小説より奇である数奇な人生は本書にあたってもらうしかない。
 よく戦国時代は実力主義であるといわれるが、その前提は人間の査定能力である。戦国を生き抜くためには「人目利き」である必要があった。日本人は査定を不得意とするが、戦国や明治といった危機の時代には、その能力が回復するらしい、と磯田氏はいう。
 家康は応仁の乱・戦国以来の《おのれの土地を実力で守る》という「私」の世界に「公」というものを回復させようとした。
 江戸時代の大名家の政治は家老や用人がおこなっていた。稟議書の起源はそこにある。現在の官僚制を批判するものは多いが、その起源は江戸時代の日本であるのだから、容易なことではそれは覆せないことは知っておかねばならない。先例重視の伝統も江戸に起源をもつ。
 磯田氏によれば、江戸の殿様は、《飢えをしらず、やわらかくうまい食事に箸をつけた最初に日本人》であるという。戦争による死のおそれや、飢餓による空腹の恐怖から解放されると、苦労した年寄りと豊かに育った若者の間では考えの違いが生じる。日本人は長期安定の時代をむかえると、過去にとらわれ行動が形式化しやすい。しかし、大きな激動の時代となると、また柔軟性を発揮する。戦国時代しかり、幕末維新しかり、戦後数年もまたしかり。
 磯田氏がここで描いた数人の殿様は「戦国から元禄へ」「変革から安定へ」という時代に生きた人びとである。その生きかたはわれわれにもまた示唆をあたえるであろうというのが磯田氏のいいたいことのようである。
 本書に書かれていることははじめて聞くことばかりで、読んでいてとても楽しかったが、内容のどこまでが磯田氏の「ノイエス」であるのかはよくわからなった。すでに知るひとは知っているようなことなのだろうか? たとえば徳富蘇峰の「近世日本国民史」などを読めば書いてあることなのだろうか?
 朝日の書評で野口武彦氏が、磯田氏の文章にはどこか司馬遼太郎の口調があるというようなことをいっている。そういわれてみればそうかもしれない。それにしても大した文章家である。この人、小説家としても充分に成功しそうである。1970年生まれとあるから、まだ35〜36歳。高校生のころから古文書を読んでいたという変わった人である。末尾の肩書きに、歴史家、文筆家、茨城大学助教授とある。歴史学者でなく歴史家とあるのがいい。文筆家というのも凄い。これは出版社が書いた紹介文なのだろうか? もともとの発表場所も「小説トリッパー」とか「小説現代」である。
 この人は前に「武士の家計簿」というのを書いて売れたらしい。今度読んでみようかと思う。


殿様の通信簿

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