小谷野敦 「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」

  中央公論新社 2006年6月25日初版
  
 末尾の「跋文」で小谷野氏自ら書いているように「自分を信じ、数々の失敗を重ね、死の恐怖に襲われながら、堂々たる人生を歩んだ藝術家として」の谷崎潤一郎を描く伝記である。
 「自分を信じ」というところが大事であり、谷崎をそういう人とみるのは別に従来からの谷崎観と変わるところはないわけであるが、小谷野氏は従来はそういう「自分を信じる」人を肯定することができなかったひとであるように思う。本書を書くことによって小谷野氏は「自分を信じる」ことをできるようになったのではないだろうか(あるいは本書によって自分なりの方法論を発見できたのではないだろうか)。本書は、そのことによって自分もこれからは「堂々たる人生」を歩みたいという宣言でもある。
 「死の恐怖に襲われながら」というのは、たとえば谷崎が若いころ十年近く苦しんだ「鉄道恐怖症」である。長時間とまらない汽車や電車に乗れないという症状だが、小谷野氏も一時その症状に苦しんだらしく、氏が谷崎に親近感を持つようになったのは、その線からでもあるらしい。氏もいうように「鉄道恐怖症」のような症状は、現在ではパニック障害という病名がつけられて認知されるようになっているが、わたくしが医学の勉強をしていた30年前にはまだそういう病名がなく、不安神経症とか強迫神経症の症状とみなされていたように思う。そういう症状の患者さんに言語によってそういう不安はなんら根拠がないものであることを説明していた自分を思い出す。現在ではパニック障害にはうつ病の薬が奏効することがわかってきており、逆にそういう効果から、これが状況に対する反応であるよりも脳に生じた器質的な変化によるものであろうという方向に理解が変わってきている。もっともそのような変化が脳に生じるのは状況への対応によるのであるかもしれないが。谷崎がそして小谷野氏がそれを克服できたのは「自分を信じる」ことができるようになったからなのかという点については、医学の分野でもまだ決着はついていない問題である。
 もちろん、「死の恐怖」とは文字通りの「死の恐怖」でもあって、河野多恵子氏は谷崎を「このうえなく死を恐れた作家であった」といっているのだそうである。多くの知識人はそういう時に宗教に走るが、谷崎にとっての神は、その時々に崇拝する女性だった、と小谷野氏はいう。これもまた新しい指摘ではない。本当に才能ある人間はおのれの才能が永遠に消滅してしまうことを恐れるのであろうか? 最終章「終焉」の谷崎の死からあとは、ほとんど様々な関係者の死の列挙という異様な構成になっている。これまた小谷野氏が発見した方法なのではないかと思う。
 やや新しい指摘としては「松子神話」への異論提出がある。これまた小谷野氏の創見ではなく、先駆があるようであるが、小谷野氏の主張は女は女房になるとつまらない女になってしまうという点にあり、「もてない男」を書いていたあたりの女性観とはほとんど百八十度違ってきてしまっているような印象である。
 女房になる前の女とは非日常の女である。女房になった女とは日常の女である。谷崎の女性崇拝とは女を非日常の世界にとどめておくための策略であったというのが小谷野氏の主張であるが、小谷野氏も認めているようにそれは失敗するのである。女房にしてしまったら終わりなのである。ではどうしたらいいのか? どうしようもないのである。そういう矛盾の中で生きた人間としての矛盾した谷崎像を小谷野氏はそのまま提示している。裁かないのである(まったく裁いていないわけでもないが)。これまでの小谷野氏は裁く人、論争の人であった。この本で小谷野氏は今までとは違うところにでたように思う。いいたい奴にはいわせておけ、俺は俺の道をいくという境地に達したのではないだろうか。これから小谷野氏はいいものを書くような気がする。
 松子夫人ばかりではないが、旦那あるいは情人が有名人であったということ以外に何もないひとが、自分が何ものかであったようなことをいうのはいやなものである。
 わたくしは谷崎潤一郎は「瘋癲老人日記」以外に読んでいないから、本書ではじめて知ることが多かった。名前だけ知っていた「妻君譲渡事件」も大体どのようなものであったかがわかった。奥さんをモノ扱いなのであるからひどいものである。昔の小谷野氏なら絶対に許さなかっただろうと思う。そういうことをできるというのはそれだけ自分のエゴを肯定できるということで、すなわちそれが「自分を信じ」ということなのであろうが。
 私小説の対極にあると思っていた谷崎が自分の身辺から多く題材をとっていたのは意外であった。無から有をつくるわけにはいかないのであろう。では「瘋癲老人日記」は私小説であるかといえば、そうではないのは、自分を客観視、あるいは滑稽な存在と見ることができているからである。そして滑稽な存在であるとみながらいささかも自己憐憫におちいることなく、「自分を信じ」続けることができた点が、《大谷崎》なのである。
 心のこもった丁寧な造本の本。
 

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生