小谷野敦「里見紝伝「馬鹿正直」の人生」

  中央公論新社 2008年12月
 
 なんだかよくわからなかった。里見紝というひとを知らないためだろうと思う。前の「谷崎潤一郎伝」では、谷崎という人にある程度の先入観を持っていたから、意外な事実を知ったり、そんなこともあったのかといったことが新鮮だったのだが、なにしろ里見紝については何のイメージも持っていない。本書で書かれている克明な事実がどのような意味をもつのかがつかめなかった。いつ誰々とどこへ旅行したということは、里見紝の伝記は本書が嚆矢なのだそうであるから、後世の研究者のための基礎的な資料として供されているのだと思うけれど、今後に研究者が続く前提は、里見紝というひとに魅力があることである。本書を読む限りにおいて、里見紝は、ちょっと風変わりな信念をもった普通のひとという印象で、谷崎潤一郎のような強烈な個性のひととは思えなかった。小谷野氏がその全作品を読破し、単行本未収録の小説や随筆まで読むことにしたのは里見紝に強い魅力を感じたからであろう。その情熱の源となった里見紝というひとの魅力が、わたくしにはうまく伝わってこなかった。里見と自分に共通するものは、嘘が嫌いだということであるといい、紝の有名な「まごころ哲学」というのは、結局「馬鹿正直」のことなのだと、氏はいう。自分は、里見の「馬鹿正直」をわがこととして受け止めた、ともいう。だが本書を読んだだけでは、「まごころ哲学」も「馬鹿正直」も、わたくしには「わがこと」のようには思えなかった。
 わたくしは里見紝の小説を一つしか読んでいない。丸谷才一選の「花柳小説名作選」(集英社文庫 1978年)に収められた「いろをとこ」である。これは「色男」ではなくて「情人」という意味の「いろをとこ」である。小谷野氏は「これは中年男と藝妓の愛人のやりとりを描いて、最後に、その男の戦死を告げて、それが山本五十六であることをほぼ明らかにするもので、山本をモデルとしていることで有名だが、軍人批判ともとれるし、やや作為が不明である」としている。しかし、これは軍人批判なのだろうか? 「中年男と藝妓の愛人」ではなく、「藝妓とその愛人(情人)である中年男」だと思う。
 「花柳小説名作選」巻末の野口富士男・丸谷才一両氏の対談で、以下のやりとりがある。丸谷「山本五十六はこの芸者にとって、要するに旦那ではない。」 野口「違いますね。」 丸谷「情夫(いろ)ですね。連合艦隊司令長官が、旦那ではなく情夫であった、ということは、日本一の情夫だったんですね。」 野口「戦前から戦中にかけての花柳界において、芸者とはこういうものであった・・ということを示す代表的なものですよ。」 丸谷「西洋の貴婦人がいろんな男をつまみ食いする。小説家と遊んだり、詩人と遊んだり、役者と遊んだりする。それに近い感じで、この芸者は連合艦隊司令長官と遊んでいたわけですね。そういうところで日本の芸者の社会的格式みたいなものを示すのに、この短編小説は逸すべからずものだと思ったんですよ。」とある。
 両氏のやりとりは、小谷野氏が批判する「江戸幻想」に通じるのではないかと思う。この芸者には別に旦那がいる。その目を盗んで(というかほとんど公然と)連合艦隊司令長官と遊んでいる。それは山本が連合艦隊司令長官であるからではなく、男として(つまりオスとして)魅力があるからである。この男女関係が面白くて、里見紝はこの小説を書いたのではないだろうか。芸者は山本五十六という人間がなにを考えているのか、まったくわからない。「しらば」(という言葉をこの小説で知った)ではおし黙って(真珠湾攻撃の作戦について?)ただただ考え込んでいる男が何を思っているかはわかりもしないし、興味もない。もちろん男も芸者の精神生活などにはまったく興味がない。その点で、この男女は対等なのである。しかし、江戸の吉原において対等な男女関係がありえたような見方を小谷野氏は「江戸幻想」として否定している。
 丸谷才一氏の「花柳小説論ノート」(「星めがね」(集英社 1975年)収載)に、「もともと小説といふのは世態人情を描くものだが、その目的には、ちようど西洋では上流社会に舞台をしつらへるのが最も好都合だつたと同じやうに、いやそれよりももっと、近代日本では花柳界が適してゐた、と考へるのである。・・・すなわち花柳界は贋の市民社会といふことになるのかもしれない。・・・究極はまがひものにすぎないのだけれどとにかく恋愛の自由があつたし、さまざまな階層、さまざまの職業の男たちが語りあふこともでき、そのかたはらには女たちがゐた。そして、結局は見せかけにすぎないにしても、一種のフェミニズム、一種の男女平等さへあるやうな仕掛けになつてゐる。なかんづくすばらしいのは、様式化され洗練された風俗があることで、このため花柳小説には小説が本来持つてゐなければならない美的な情趣が添へやすいことになつたのである」とある。なんだか「いろをとこ」の解説のようでもあるが、「江戸幻想」そのものだと思う。小谷野氏はそれを結局は「まがひもの」であり「見せかけ」であるとして否定するのだが。
 小谷野氏は里見紝に惹かれる理由として、その「馬鹿正直」ということを挙げる。「徒党を組んだり、仲間のために嘘をついて作を褒めたり、卑怯な論陣を張ったり」しなかったひとだという。里見が長男にあてた手紙に「づるく立廻つて攫ひ取る得より、正直であつたがためにみるバカの方を尊しとする精神なくして、どうして明るくあり得よう」とある。それを小谷野氏は賛美するのだが、「いろをとこ」以外の小説を一つも読んでいないので、里見紝の「馬鹿正直」については、なんとも判断できない。
 丸谷才一氏の「誰も里見紝を読まない」(「遊び時間」(大和書房 1976年)所収(初出のタイトルは「里見紝への一視点」1961年の同人誌「秩序」))で、「里見紝はもともと私小説の作家ではない。・・生まれながらの物語作家である。彼は、凡俗な都会人の生活のなかにロマネスクな世界を構築する点で、他に類をみないほど西欧的な作家なのだ」とまるで小谷野氏とは正反対のことをいっている。里見紝は「隠者には絶対なれない男」で、それが「私小説の傑作を書くはずはない」という。「話上手な隣人を連想させる」ともいう。そして晩年の小説を評して、里見紝が失ったものは多いけれども、失ってよかったものが一つある、それは「まごころ哲学」だといっている。「馬鹿正直」など全然評価していない。
 この丸谷氏の論に対する小谷野氏の反論は、本書の397ページの註4にある。丸谷氏は市民小説を理想とし、小谷野氏は私小説をよしとする、その違いなのであろうが、テキストは一つであるのに、これだけ見解が違うのは面くらってしまう。
 本書のキーワードは「馬鹿正直」である。本書を読んでもその「馬鹿正直」ということがピンとこなかったので、「リアリズムの擁護」(新曜社 2008年)も読んでみた。じつはこれでは「大岡昇平幻想」が一番面白かった。河上徹太郎もなかなかやるひとなのだとか、小林秀雄長谷川泰子だけではなかったのだとか、こちらもゴシップ好きなので、いろいろと面白かった。
 しかし小谷野氏が一番書きたかったのは、巻頭の「リアリズムの擁護−私小説、モデル小説」であろう。そこで氏は、西洋の小説家は「貴族ないしブルジョア階級に属し、サロンや社交界というものがあったので、小説のネタにすべきものはそこでゴシップとして数多く耳にしたのである。・・日本の貧しい文士やら、学生時代から作家生活に飛び込んだ者に、同じことをやれといっても無茶な相談なのである」といい、(だから、というように論がつながるのかどうかがよく見えないのだが)、小説を書きたいと思うものは、まず私小説を書いてみればいい、という。しかし、わからないのが、そこでいきなり花袋のいう「皮剥の苦痛」の論がでてくることである。氏の論のなかでは、「馬鹿正直」と「皮剥の苦痛」がどこかで通じているように見えるのだが、よくわからない。自分の身辺に題材をもとめることと、「皮剥の苦痛」はまったく関係のない話だと思う。
 丸谷氏も小谷野氏もともに日本には社交界もサロンもないことをいう。丸谷氏はそこから、日本の疑似サロンとしての花柳界に題材をもとめることをいい、小谷野氏は自分の身辺という本当の体験に題材をもとめよという。
 小谷野氏は小説はリアルなものでなければいけないとしている。このリアルが問題なのだと思う。読者が小説に求めているものはリアルなのだろうか? あるいは小説家が自分の小説に求めるものはリアルなのだろうか? リアルというのは何かの目的のための手段なのだと思う。それ自体が目的であるとは思えない。いろいろあるなかの一つの手段であって、唯一の手段ではないと思う。
 小谷野氏は「拵え物」であるように見えるということをそれ自体で否定的にみているようである。小説を書くときに、自分の知らない世界を題材にすると「リアル」でなくなる。だから自分のよく見知ったところに取材せよという。それはよくわかる。しかし、それと私小説は何の関係もないと思う。自分のよく知った世界に架空の人物を活躍させるというやりかたもあるであろうから。
 しかし、架空の人物もまたリアルでない。一番リアルなのは自分である。だから私小説ということになるのだろうか? 読者にとって作者が興味ある人物であるとは限らない。読者が読みたいのは自分が興味をもてる人物が動きまわる小説であるはずである。
 小谷野氏は、自分が「リアリズムや私小説の擁護を始めたのは、私自身が私小説「非望」を発表してからのことである」と言っている。本当に正直なひとである。しかし、それなら、なぜ氏が私小説を書くようになったのか、ということが読者に理解されないと、氏の私小説擁護の論はとてもわかりにくいものとなる。
 「里見紝伝」と「リアリズムの擁護」を読んで一番わからないのが、たとえば、「私が里見紝伝に着手したのは、母が死んだ苦悩から逃れるためだった。」(「里見紝伝」)、あるいは、「二〇〇七年暮れ、私は母を喪った。六十八歳だった。・・以来、私は参っている。参りながら仕事をしている。何もしていないと参ってしまうから仕事に没入して忘れようとしている。」(「リアリズムの擁護」)というような部分なのである。小谷野氏の痛切はとてもよくわかるのだが、それでも、読者にはリアルなものとしては伝わってこない。
 「母は私が子供の頃から、正直であれと言い続けた。大学生の頃、この世には正直で損をすることも多く、正直者は時に嫌われることを知った私は母を恨んだこともあったが、結局私はバカのつく正直者として今日まで生きてきた」と言い、「自分のことより他人のことを先だてて、実際よりも身を小さくして生きてきた母」より「年長だと思える老人を見かけると、腹が立つようになった」とまで書く。これが小谷野氏にとって何よりも切実な体験であったことは、この二冊の本を読んで頭では理解できるのだが、本当には腑に落ちるものとはならない。氏の体験の切実さというのは、言語の表現を超えているのかもしれない。
 この小谷野氏の感情は本当には第三者にはわからないものであるけれども、氏にとってはなによりもリアルなものである。だから「里見紝伝」を書くのは氏にとってはきわめて切実な行為であり、極端なことをいえば、本書は自分の母親にだけ読んでもらえればいい、誰も理解してくれなくても母親だけはわかってくれるはず、そういう本になっているところがあるように思う。だから本書は氏の「皮剥の苦痛」の書であり、私小説なのかもしれない。自分が母親に抱く気持ちに較べれば、どんな小説も絵空事、「拵え物」にみえてしまうというのが氏の正直な心境なのであろう。
 フォースターの「ハワーズ・エンド」に、有名な「この物語はひどい貧乏人には用がない。こうした連中はお話にならないので、問題にするのは統計学者か詩人くらいなものだ。この物語が問題にするのは一応の身分の人々、またはやむをえずそういうふりをしている人々である」という一節がある。「貴族ないしブルジョア階級」という一応の身分とはそういうもので、「ふりをしている人」に嘘をつくな、馬鹿正直になれといっても仕方がない。日本の私小説に出てくるのは、大体が貧乏人であり、だから本来彼らが書くべきなのは詩なのであると思う。「日本の貧しい文士やら、学生時代から作家生活に飛び込んだ者」に小説が書けるはずがないのというのは小谷野氏のいうとおりであるが、それなら小説を書かなければいいので、書くべきものは詩であった筈である。日本の私小説というのは西欧であれば詩として書かれるものの代用であったのだと思う。梶井基次郎の「檸檬」を詩としてあつかっている本もあった。
 もちろん、フォースターの言っていることは西欧に典型的な小説の見方である。それに唯々諾々としたがう必要はない。しかし、わたくしは小説は「個人」概念とワンセットになったもので、「個人」という概念は明治以降、西欧から輸入されたものであると思っている。小説もまた明治以降の西欧からの輸入品であると思っているので、西欧の小説の見方は簡単には無視できないと思う。市井のごく平凡な人間でも主人公たりうる、そういう人間のなかにも劇はある、というのが西欧の小説の基底にある考えであろう。なぜ、私小説作家が、詩ではなく小説を書こうと思ったのか? 自分の感情を歌うのは西欧では詩の領域である。
 小谷野氏はいう。「私が高校生から大学生の頃、作家になりたくて、しかし一番困ったのは、ファンタジーやSFでない小説の「筋」が思いつかない、あるいは書いても不自然になるということだった」と。しかし、なぜ、「作家になりたい」と思ったのか、「小説」を書きたいと思ったのか、それがこの文脈ではわからない。何か表現したいものがあるから、作家になるのだと思う。ただ「作家になりたい」といういうのは変だし、「作家になりたい」がフィクションを書こうにも筋が思いつかないから身辺のことを小説にする、というのも何だか順序がおかしい。
 里見紝の「馬鹿正直」が自分にとって素晴らしく思えるのは、母が私に馬鹿正直を教えてくれたから、というのは論理ではない。だから、小谷野氏は里見紝の「馬鹿正直」を客観の論として擁護しようとする。だが、それが成功しているとは思えない。
 そうであっても、馬鹿正直をよしとする氏の信念は確固として揺がない。それが小谷野氏と母との密接で私的な関係に由来しているとすれば、一見、淡々と調べたことを列挙していっているように見える本書を氏に執筆させた本源的な動機が、第三者であるわたくしにはよく見えないのは当然なのかもしれない。

里見〓(とん)伝―「馬鹿正直」の人生

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リアリズムの擁護 近現代文学論集

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