今日入手した本

川端康成伝 - 双面の人

川端康成伝 - 双面の人

 小谷野氏は今まで、作家の伝記を三冊書いていて、これが4冊目である。今までのものもすべてもっているが、谷崎潤一郎里見紝の伝記は読んだが、久米正雄のものはまだ読んでいない。その作品を一つも読んでいない作家の評伝というのはどこからとりついていいのかよくわからない。もっとも谷崎だって里見だって、わたくしはほとんど読んでいないのだが。
 川端についても同じようなもので、読んでいるのは、「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」くらいではないかと思う。一方、三島由紀夫の作品は結構読んでいて、川端の作品?で一番印象にあるのは、三島の「春の雪」の帯につけられた異様にテンションの高い讃であるかもしれない(因みに、小谷野氏はこの推薦文を本気で書いていない「褒め殺し」の文であるとしているが、わたくしは本気なのではないかと思う。どこかで川端康成というひとは、自分に偽物意識、自分は本当の一流ではないという意識を持っていて、三島の「豊穣の海」(少なくとも「春の雪」や「奔馬」)の本気に気圧されて、そんな自分がノーベル賞をとってしまったという負い目からあのような「過剰」な文章を書いてしまったのではないだろうか?)。また、同じくかなりの作を読んでいる倉橋由美子の「夢の浮橋」は川端の「千羽鶴」などを下敷きにしていると思っているので、川端への興味はどちらかというとそういう方面からのものである。またわたしの師匠である吉田健一が、川端の死を「大往生です。何もいうことはありません」といったのも、三島の死を「事故死」とした(情事の好きな文士が媚薬の量を間違えた、あるいは蝶気違いの文士が蝶を追いかけて崖から落ちた)のと並んでよく覚えている。
 もう一つ川端の名前で思い出すのが、林達夫の「新しき幕明き」にある次のような文である。「(戦後すぐの軽薄な言論の横行に辟易としていたときに)私の心に素直に這入ってきてなぐさめになってくれた文章に、たった一つの川端康成氏の小さな感想文がある。島木健作を追悼して、「私の生涯は『出発まで』もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。・・・」と静かに語る氏の言葉ほど当時その不思議な重量感をもって私の肺腑をついたものはなかった。」
 川端というひとは、なかなかこのような枯れたひとでは本当はなかったということは、本書で小谷野氏が縷々述べるところであるようであるし、この島木健作の追悼文をふくめた終戦直後の川端の言動に小谷野氏は批判的なのであるが、とにかく川端氏の追悼文が、林氏にこのような感想を抱かせたのは事実である。もっとも林氏は意外とだまされやすいひとでもあるようで、この川端の文のエピソードのあと、ドーデの『月曜物語』の「最後の授業」を読んで嗚咽したなどとも書いている。篠沢秀夫氏の「フランス文学講義2」によれば、ドーデはアルザス地方のことを知らないからこんなことを書いているので、もともとここはドイツ語圏なので、これからフランス語を話すのが禁止されるわけではなく、母国語でないフランス語の授業がなくなるだけなのだそうである。案外とこの追悼文はドーデの小説のようなアジ効果をひそかにねらったものであったのかもしれない。少なくとも戦後しばらくは、降りていたほうが安全という川端の嗅覚のようなものの現れであるのかもしれない。
 詳細な索引があるので、後のほうにでてくることにも言及したが、実はまだ「序文」を読んだだけである。その「序文」の22ページの以下の文章の文意がとれなかった。「しかも、当初川端に師事していたのが、不遇のゆえ精神に変調を来し、川端を恨むようになった耕治人が、この内田と一緒にいたということが、この解題に書いてある。」 誤植だろうか? 「耕治人が」⇒「耕治人で」?