長尾龍一「争う神々」

  信山社 1998年
  
 羽入辰郎氏の「学問とは何か」を読んで、マックス・ヴェーバーについて以前に読んだ本などを思い出すことになった。そんなに多いわけはなく、長部日出雄「二十世紀を見抜いた男 マックス・ヴェーバー物語」(新潮社 2000年)、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」(岩波新書 1997年)、A・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」(みすず書房 1988年)といったものである。長尾氏のこの「争う神々」もその一つである。
 「あとがき」に「研究スタイルを「番犬型」と「野良犬型」に分けるとすれば、ウェーバー研究は、忠実な番犬に囲まれて、下手に近づくと噛みつかれて大怪我をする怖れのある、君子の近寄りがたい領域といえよう。しかし、野良犬は、定義上君子ではない」と書いている。言い得て妙である。この本は1998年の出版であるから、折原−羽入論争を踏まえて書かれたものではない。折原氏は「番犬型」で、羽入氏は「野良犬型」であるなあ、とつくづく思う。ちなみに長尾氏は「ハンス・ケルゼンの番犬」という自意識をもっているのだそうである。野良犬魂をもった番犬なのかもしれない。
 長尾氏は、「日本のウェーバー学者なんて、たいていはウカシロ会の会員だから」といっている。「ウカシロ会」というのは「ウェーバーが「カラスが白い」と言えばカラスが白いと信じる者の会」なのだそうである。ウェーバーの「ウ」、カラスの「カ」、白いの「シロ」で「ウカシロ会」。このウェーバーマルクスとか毛沢東とかに入れかえれば、「マカシロ会」「モカシロ会」いろいろと出来そうである。今ならデリダで「デカシロ会」とか。でも、デリダは何いっているかさっぱりわからないから、カラスが白いといっているのか赤いといっているのか、案外黒いといっているのか、それさえもわからないかもしれないけれど。
 折原氏などは本当に「ウカシロ会」だなあと思う。なにしろ、「おそれ多い。頭が高い。ヴェーバー様を何と心得る。この葵の御紋が目に入らぬか」といった感じである。もっとも「ヴカシロ会」だというかもしれない。Weberというのはどう発音するのだろうか? わたしが学生の頃はウェーバーだったような気がするが、最近はヴェーバーとなったのだろうか? 安藤英治氏の著書もウェーバーのようである。折原氏の本も「マックス・ウェーバー基礎研究序説」というのもある。誰か「Weberの人名カタカナ表記における揺れについての基礎研究序説」という論文でも書かないだろうか?
 今回ざっと読み返してみて、山之内氏の「マックス・ヴェーバー入門」はポスト・モダン思想から読み直すヴェーバーといようなものと思った。結局は、ヴェーバーは現代の不幸を予見していた、だから偉いという方向になってしまう。ヴェーバーは西欧近代社会の基礎となる合理性の擁護者であると思われてきたが、そうではなく、合理性のもたらす不幸を予見していたのだということになる。多分、どちらででもあったのだろう。近代社会に愛憎半ばする感情を持っていて、よく見れば矛盾するようなこともたくさん言っていて、だからその著書から、近代肯定の部分も、近代否定の部分もどちらでもとりだすことが可能なのであろう。ポストモダン思想が流行して近代を批判する見方の枠組みがでてきてみると、そんなことは実はヴェーバーがもうとっくの昔に言っていたではないか、ということにもなる。
 長部氏の本は最近新潮選書で再刊されたようであるが、そのタイトル通りヴェーバーを20世紀の予言者として描いている。山之内氏と同様に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の末尾のニーチェの「ツアラツストラ」からの「末人」の問題にこだわる。資本主義化していくことは人類の運命であるが、それは人間の「末人」化の問題をあわせて引きおこす、という。長部氏の「末人」理解は随分と穏当なもので、公共精神の欠如による倫理観の荒廃といったものなのだが、近代批判というとどうしてもニーチェがでてきてしまうらしい。
 ヴェーバーニーチェやD・H・ロレンスの系譜につながる西尾幹二氏のいう「悲劇人」に属するところがあると思うけれど、ニーチェやロレンスほどは徹底はしていない。ヴェーバーの愛人?であったエルゼ・ヤッフェの妹フリーダはD・H・ロレンスと駆け落ちし、「チャタレイ夫人の恋人」のモデルとなったといわれるひとである。ヴェーバーとロレンスの関係という研究は何かあるのだろうか?
 「争う神々」というのはヴェーバーの「職業としての学問」にでてくる表現で、現代は合理主義によってキリスト教というただ一つの神への信仰は失われ、それぞれの価値観という多数の神々が争う時代となっているということらしい。日本国憲法では「信教の自由」が保証されているが、これは一神教の立場からみればあり得ないものである。一神教の神も多くの神の一つだということであり、それを信じるのも信じないのも自由ということである。信仰はもたなくてもいいよということでもあり、事実、日本人の多くは信仰をもたず、残りのわずかな人々がそれぞれの神を奉じているというのが実情であろう。日本はいい国である。
 しかし、一神教の神はどこかにいってしまっても、マルクスだとかヴェーバーだとかの代理神はまだある程度は健在なのかもしれない。信仰の間の争いではなく、価値観の間の争いは残っている。とすれば。問題となるのが「価値相対主義」である。そこに真と偽、善と悪の問題がでてくる。潜在的には美と醜の問題もあるかもしれない。「価値相対主義」は「寛容は不寛容を寛容するか」という問題にいくつく。
 多数決ということは、人間には何が正しいのかを認識することができない、という理解を前提にする。しかし一方、相対性原理が正しいかどうか多数決で決めようなどということはありえない。自然科学の世界では(異論があるとはしても)客観的な真理が存在すると考えられている。それなら人間の世界のできごとにも客観的な真理が存在するとすれば、その真理を知ったすぐれた人間が多数決などに頼らず、人々を正しい道に誘導していくこともまた正当化されるはずである。マルクス主義はその前提に立ち、自分たちはその真理を知った前衛であるとする。わたくしは、日本共産党が多数決原理に立つ選挙に立候補しているのは、キリスト教の指導者が信教の自由をみとめるのと同じくらいおかしなことではないかと思っている。(長尾氏は、経済的成功と共産圏への幻滅によって、世界観政党も利益政党へと変わったのだという。)
 長尾氏は、ひとはノアの洪水を再来を信じるものと信じないものに分類できるという。信じないものは、現実主義者、保守主義者、せいぜいがリベラルか穏健革新派になるという。再来を信じるものは、何らかの意味での革命家となる。わたくしはノアの洪水の再来を信じないものである。
 第一次世界大戦ロシア革命から後が20世紀であると長尾氏はいう。その後の左翼と右翼反動との激突こそがヴェーバーが「神々の争い」として描いたものなのだという。ここでの「神」は一神教での「神」であり、相対的な価値観の間の争いではない。相手は「悪魔」なのであった。
 問題は人間が絶対的価値を認識できるのかということである。中尾氏が奉ずるハンス・ケルゼンは、それはできないという立場で、議会による多数派工作のよって「神々の争い」を人間化する必要を説いたのだという。世界観の対立は妥協不能であるが、利害の対立なら調停可能である。「「神々の争い」の行方」という論はゴルバチョフソ連の大統領であった時代に書かれているが、ゴルバチョフをヨーロッパ啓蒙思想に学んだとてもナイーヴな人として描いている。
 アラン・ブルームの「アメリカン・マインドの終焉」は本書を読んでいて思い出したのだが、60年代アメリカの反体制運動とそれへの知識人の容認を、ヴェーバーの「神々の争い」の悪しき理解として非難したものである。
 本書を読んでいて思い出した氏の「純粋雑学」(信山社 1998年)で、マッハ、ヴィトゲンシュタイン、ミーゼスなどのウイーン学派はドイツとは異なる思想潮流のなかになるという指摘を見つけた。かれらは18世紀イギリス哲学の流れのなかにあり、それを発展させたのだという。カントはヒュームの弟子であろうから、イギリス経験論の嫡子なのかもしれないが、それにもかかわらず、ドイツ哲学がイギリス経験論とはまったく異なる地平にでたことは事実で(それはカントがニュートンが真理を発見したと誤解してしまったことに由来するというのがポパーの説である)、カントは人間が真理に至ることができるという陣地にいってしまった。しかし、それとは異なり、ウィーン学派はイギリス思想を継承していたので、英米に亡命したあとでも容易に理解されたのだという。ウィーンからの多くの亡命者が第二次世界大戦後の英米の思想を席捲したということに以前から関心があり、わたくしの好きなポパーもその一人なのだが、ウィーンはドイツ圏という意識があり、イギリス思想の正統的な継承者ということは考えていなかったのでなるほどと思った。それならブダペストなどのハンガリー学派もまたドイツよりもイギリスを継いでいるのだろうか?
 長尾氏は折原氏と同じく教養学部の時に講義を聞いたひとである。いかにも学者という印象のひとで、世にもしも大学教師という職業がなかったとしたら、なかなか生きていくのが大変であったであろうと思わせるようなひとであった。
 医者の多くも(わたくしをふくめて)医者という商売がなかったらどうやって生きていけたのだろうと思う人間が多い。そういう人たちの集合体である病院という組織もだからなかなか大変なのである。日本の現在の医療問題の一部は、実はそういうところに起因しているのではないかとも思う。
 
  

争う神々 (信山社叢書)

争う神々 (信山社叢書)

純粋雑学 (信山社叢書)

純粋雑学 (信山社叢書)