小谷野敦「『こころ』は本当に名作か 正直者の名作案内」
新潮新書 2009年4月
漱石の『こころ』を論じたものではなく、副題のように、どのような文学作品を薦めるかを示したものである。
小谷野氏の読書量は驚くべきもので、前の『里見紝伝』でも里見氏の全作品を読んだといい、そんなことは「時間さえ掛ければ誰にもできる」とこともなげに書いていたが、本書でも「十年くらい前からは、意図的に、未読の古典名作を読むようになり、たいていは読み終えたのではないかと思っている」と書いている。丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士・三氏による『文学全集を立ちあげる』(文藝春秋 2006年)などを読んでも、なんでみんなあんなにたくさん本を読めるのだろうと思う。何もせずに朝から晩まで本を読んでも一日3冊、年に千冊ではないだろうか。十歳から七十歳まで読んでもたったの六万冊である。もちろん本ばかり読んで暮らすわけにはいかない。実際には一生かかって一万冊がやっとではないだろうか? 同じ本を二度三度と読むこともあるのだから、正味は五千冊? なんでみんなそんなにたくさん本を読めるのだろう。こちらの本を読む速度が遅いのだろうか?
小谷野氏は『少なくとも十五年くらい前から「古典主義者」』なのだそうで、それで古典名作を読んできているらしい。ところで氏は「つまらないものを最後まで読む」のは「短い人生をムダにするもの」だから「つまらなければ早いうちに放り出すのがよい」ともいっている。とすれば、里見氏の作品にしても、未読の古典名作にしても、つまらないものはさっさと抛りだしたのであろうか?
ここらへんが特に古典的作品の場合には問題となるところで、面白くなくても退屈でも、とにかく知識人としての教養として読んでおかねなならない何冊かの本というような圧力は歴然とある。たとえば、小谷野氏が「日本人必読の名作たち」の中でも最高峰としているのは「源氏物語」「シェークスピア」「ホメロス」「ギリシャ悲劇」であるが、シェークスピアはともかく、源氏物語やホメロスあるいはギリシャ悲劇は面白いだろうか。「古典を読め」というのと「面白いと思えないものは読むな」というのはどこかで相反するところがあると思う。
丸谷才一氏は『文学全集を立ちあげる』で、キャノンということをいう。そこで「知識人が必ず読んでいなければならない、あるいは読んだふりをしなければならない、そういう文学作品がキャノンです」といっている。丸谷氏がいうのは西洋なら、ホメロス、聖書、シェークスピア、ゲーテ、日本なら「古今」「新古今」「源氏物語」「論語」「唐詩選」。鹿島氏は「新人作家がほとんど昔の文学作品を読んだことがないまま小説を書いている」ことを非難し、そういうひとが小説の骨法を学ぶためにもキャノンを収めた文学全集は必要といっている。小谷野氏は自分が小説を書くために古典を読み、日本の作家志望者に、小説を書くためには最低限こういうものは読んでおけということで本書を書いたのだろうか?
本書での小谷野氏の主張の根幹は「文学作品に普遍的な価値基準は存在しない」である。そんなことは当たり前ではないかと思うのだが、そうではないといっているひともいるらしい。たとえばカントとか。しかしカントはむかしのひとである。カントは普遍性ということをいったのかもしれないが、だからといってカントがいったことが普遍的に正しいというわけではない。とはいっても、カントは哲学の世界におけるキャノンであり、キャノンという言葉はどこかで普遍的な価値基準という考えに通じるところがある。
小谷野氏は、文学が「分かる」というのは「面白いと思う」ということだという。しかし、たくさんの本を読んだあとで、はじめて面白いと思えるようになる本もあるだろうと思う。大人ぶってまずいのを我慢して酒を呑んでいるうちに、いつの間にか酒好きになるようなもので、無理をして面白いと思えない本を読んでいると、ある時突然、その本の面白さが卒然とわかってくるというような場合もあるはずである。「ユリシーズ」とかシェーンベルクの12音音楽などを最初から面白がるひとがいるとは思えない。面白がるのはすべての本を読んでしまったり、音楽を聴いてしまったりしたそのあとであろう。『春の祭典』をはじめて聴いたとき、ストラビンスキーという作曲家はふざけていると思ったものである。
本書は二つの部分から構成される。前半が小谷野氏が日本人向けに「日本のキャノン」と思うものを紹介する部分で、後半が世間では名作といわれているが小谷野氏はそうと思わない作品の分析である。
まず、前半で小谷野氏が名作としてとりあげている作品である。それについて、わたくしが既読かどうかを記し、小谷野氏の感想へのコメントもところどころでくわえる。恥ずかしながら、わたくしは、キャノンをほとんど読んでいないのである。
『源氏物語』:読んでいない。小谷野氏は「面白い」というのだが。実は小谷野氏も「言うまでもなく面白い」と書いているにもかかわらず、どのように面白いかは書いていない。だから氏がなぜ日本文学最高峰の古典と判断するのかはよくわからない。
『シェイクスピア』:さすがに「ハムレット」「オセロウ」「マクベス」「リア王」くらいは読んでいるが、これだって、昔、福田恆存にかぶれなければ読んでいないかもしれない。むしろ吉田健一訳のソネット集のほうが好き。ラフォルグの「ハムレット」も素敵(これも吉田健一訳だけれども)。
『ホメロス』:読んでいない。西洋文学を読むためにはこれとギリシャ悲劇は必読と脅迫されて何回かトライしたが、そのたびに挫折した。ついでに大恥を記せば「聖書」も読んでいない。あちらの本を読んでいると、聖書にあたらないといけない場面がでてくるから、さすがに辞書がわりに持ってはいるが。
『ギリシャ悲劇』:読んでいない。「ギリシャ悲劇の特性は、その徹底した不合理にある」というのはなるほどと思った。小谷野氏は、ギリシャ悲劇はオペラに引き継がれているというが、むしろミサ曲とかオラトリオといったほうにではないだろうか?
『ドン・キホーテ』:堀口大學訳の正篇を半分ほどいったところで挫折。
『ガリバー旅行記』:読んでいない。最近、ヴォルテールについての本を読んでいて、スウィフトはやはり読まねばいけないかなと思い、買ってきたがまだ読んでいない。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』:これは読んでいる。じつはかなり決定的な影響をうけた。たしか高一の夏休みに、これと大江健三郎の『われらの時代』を続けて読み、それまでの文学志望をやめた。なんでこれらを続けて読んだかは、覚えていない。若い時というのはそういう滅茶苦茶なことをするものなのだろう。後知恵でいえば、『ウェルテル』がゲーテ自身の経験を書きながらも、自分をこえる普遍的な感情を表現しているのに対し、大江氏のものは『われらの時代』などといいながら、徹底的に個人的感情を垂れ流しているだけに思えたといったことなのかと思う。とにかく、日本の現代文学に近づくと碌なことはないと思い、文学方面にいくのを止めることにした。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』:読んでいない。ルソーは西洋のもつ害悪の面の源泉の一人であると思っているので、これからも読まないと思う。
オースティン『プライドと偏見』『エマ』:『高慢と偏見』は読んだ(中野康司訳)。小谷野氏は『プライドと偏見』について、「そこには、激しい情熱はない。たとえば同程度に人格が優れ財産のある男であれば、別の男であっても構わないのだ。だが実際には、多くの人間は、そのようなやり方で結婚相手を探すのであって、「大恋愛」の末の結婚などというのはむしろ稀なのである。実際にはそのような結婚こそが理性的なのであり、・・つまり、オースティンの小説は「恋愛小説」ではなくて「結婚小説」なのである」と書いている。竹内靖雄氏は『世界名作の経済倫理学』(PHP新書 1997年)の『高慢と偏見』の章で、『恋愛とは多くの場合「愚行」なのであり、そのような「愚行」をおこなう男女を世間は「嗤う」』といっている。
『プライドと偏見』は本書でとりあげられている作品でいえば田山花袋の『蒲団』の対極にあるものだと思う。両方を愛読するひとがいるというようなことをわたくしは想像できない。前者を愛するひとは後者を「嗤う」だろうと思う。だが、小谷野氏は『蒲団』を『日本近代文学中最高傑作だと思う』というのである。ここらあたりがよくわからないところである。
どういうわけだか、わたくしも『蒲団』は読んでいる。以前、大塚英志氏の『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書 2003年)という変な本を読んでいたら、最後に唐突に『蒲団』がでてきて、何だかわけがわからなくてびっくりした。それで『蒲団』を読んでみた。抱腹絶倒というか、漫才などである自分をわざと愚かにみせて笑いをとるそういう芸なのかと思ったが、どうもそうではなく、真面目に書いているようなのだった。そこに書かれているのは間違いなく「愚行」である。
「普通なら恥しくてひとにはいえないことを書くのが文学的人間の特権だというわけですか。ちゃんとした生活をしている人間が文学もやるのでなくて、文学のために私生活があって、それも異常なものであるほど結構ということになるらしい」というのは倉橋由美子氏の「文学的人間を排す」(『わたしのなかのかれへ』講談社 1970年 所収)の一節である。紋切り型の私小説批判であろう。
小谷野氏は『「蒲団」を悪く言う男がいたら、それは間違いなく、女にもてる男である』という。それならわたくしはもてる男ということになるのかもしれないが、問題はそういうところにあるのではない。「普通なら恥しくてひとにはいえないことを書く」ことのほうにある。それは小谷野氏のいう「正直」の問題につながるが、オースティンはそういう「正直」を歯牙にもかけない人であったことは明らかである。オースティンが書いたのは「社交」の世界であり、「社交」と正直は両立しない。
小谷野氏は、『オースティンが面白い理由を小説の形で提示したのは、倉橋由美子である。倉橋の『夢の浮橋』は、中産階級の娘の結婚を描いて、「同じ階級に属していれば、誰でもいい。交換可能なのだ」という理念を明らかにしている』と書いている。『夢の浮橋』(中央公論社 1971年)の主人公の桂子さんは英文科の学生で、卒論を初めイーヴリン・ウォーで書こうと思ったが、その英語が難しいのでオースティンでいくことにしたという反時代的女性、つまりフェミニズムの正反対にいるひとである。とにかく『夢の浮橋』はとんでもない小説で、人間には上等な人間とそうでない人間の二種類があるという見解のもと、全共闘の学生は上等でない人間で、体育会系の人間は上等な人間であるとされ、上等な人間は恋愛などという愚行はしないとされている。
これは「本気になるのは野暮である」という貴族主義的見解を称揚した本で、そういう世界が川端康成の『千羽鶴』を模したような舞台設定のなかで展開されていく(「『千羽鶴』は背徳的な乱交の物語だが、そのセックスに憑かれた現在は、決して単なる現在ではなく、鎌倉という古い都市の地理や茶道によって過去とつらなっているし、それは一方においてはこの頽廃の淵源を暗示しながら、他方においてはその頽廃をさわやかに飾る役割を果たしているのである。」(丸谷才一「梨のつぶて」 晶文社 1966年))。
そこにあるのは、「恋愛? そんなものは召使いたちにさせておけ」という世界で、貴族たちは既婚者同士が愛人関係になるのが当たり前であった18世紀西欧の貴族たちのように優雅に生きる。だから、小谷野氏のいうように上等な人間同士では「交換可能」なのであるが、倉橋氏のすべての小説がそうであるように『夢の浮橋』もまた氏の観念の産物であるので、『夢の浮橋』では、交換はスワッピングという観念の形で描かれる。現実の倉橋氏は『ヴァージニア』(新潮社 1970年)に描かれているようなひとであり、およそそんな世界にはいささかの関心もないひとであったであろう(「トミヒロを愛していない、でしょう?」「それは少しちがうようですね。しかしわたしは愛のために結婚したのだともいえません」)。『ヴァージニア』に「わたしはあるひとから、トマス・マンが『トニオ・クレーゲル』のもっともロマネスクな展開が予想される二つの箇所で、「だがこの人生ではこんなことはけっしておこならないのだ」と二度にわたっていっていることを注意してもらった」というところがある。こんなことというのは「恋愛」なのであろうが、「スワッピング」もまた「この人生ではけっしておこならない」ことなのである。
倉橋氏は小谷野氏の本の「あとがき」で描かれている水村美苗氏に似たようなひとだったのではないかと思う。実生活の苦労などはあまり知らないひとで、世間知らずのお嬢さんのままで一生を終わったひとではないだろうか。とにかく struggle というような発想がないひとで(「日本人の眠りはもっと植物的なもので、わたくしたちは四つ足の台の上ではなく藺草の茎でできた床のうえで、二枚の植物性のフトンのあいだに挿入された一本の植物のように、横になった樹のように眠る」『ヴァージニア』)、どろどろしたものや醜いものは苦手で、そういう世界には背を向けて、自分の中に小さな美しい人工の世界を築こうとしたのであろう。(「これが吉田健一の特徴で、文学といえば深刻になって人間の暗部を露出して見せたり、悲惨なものを描いて告発したりするもの、といった固定観念とはまるで縁のないところでこの人の文学は成り立っています。吉田健一は自分が楽しめることを書いて楽しんでいるだけです。ギリシャの哲人にいやなことを避けて楽しむことを勧めたエピクロスという人がいましたが、吉田健一の文学は、日本には珍しい徹底したエピクロスの文学だといえるでしょう」『偏愛文学館』講談社 2005年)
この倉橋氏の見解には同意できないところもある。倉橋氏はニーチェの後裔の貴族主義者で(だから三島由紀夫を賛美した)、貴族と賤民の間の溝は永遠に埋まらないとしたが、吉田氏は啓蒙主義者で人間の向上の可能性をいささかは信じていたひとだったと思う。一方、倉橋氏は「狂」の部分を持たないひとだったと思うが、吉田氏は「狂」に通じる暗い部分があり(なにしろラフォルグにいかれたひとだから)、それを克服することに一生を使ったひとなのだと思う。晩年の洪水のような執筆も、なによりも自己説得のためのものであり、《文学者としてではなく、ただの人間として生きる》という試みの実験報告だったのだと思う。三島由紀夫の死を、倉橋氏は「英雄の死」と賛美したが、吉田氏は「事故死」と断じた。蝶狂いの文士が蝶を追って崖から足をすべらした、あるいは情事好きの文士が媚薬の量を間違えた、のだと。
オースティンの小説の主人公のように「賢く」生きることができるのかという問いを、吉田氏も倉橋氏もそれぞれに違うやりかたで追ったのだと思う。
バルザック『従妹ベット』:『ゴリオ爺さん』と『谷間の百合』は中学か高校時代に読んだが、これは読んでいない。最近、鹿島茂さんなどもさかんにバルザックを薦めている。やはり読まなくていけないのかなあと思うのだが。
ユーゴー『レ・ミゼラブル』:読んでいない。ユーゴーはフランスでは詩人として高名というのだが、どんな詩を書いているのだろう。
ディケンズ『荒涼館』:読んでいない。中学のころ『デイヴィッド・コパフィールド』で挫折。ディケンスで読んでいるのは『クリスマス・キャロル』だけ(汗)。『荒涼館』についてはナボコフが『ヨーロッパ文学講義』(TBSブリタニカ 1982年)で熱く語り、ローティも『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店2000年)のナボコフの項でまた熱く語っている。読みたいと思っていたのだが、翻訳は絶版だと思っていた。本書によれば入手可能なようである。今度トライしてみよう。実はi-PODの中に原著が入れてある。
「Fog everywhere. Fog up the river, where it flows among green aits and meadows; fog down the river, where it rolls deified among the tieres of shipping and the waterside pollutions of a great(and dirty)city. Fog in the Essex marshes, fog on the Kenitish heights. Fog creeping into the cabooses of collier-grigs; fog lying out on the yards and hovering in the rigging of great ships; fog drooping on the gunwales of barges and small boats. Fog・・」 読みたくなる。
『文学全集を立ちあげる』ではディケンズは『荒涼館』『大いなる遺産』『オリバー・ツイスト』が選ばれていた。
シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』:読んでいない。『嵐が丘』は読んだが。
『ポオの短編』:さすがに『アッシャー家の崩壊』『黒猫』『黄金虫』とかいくつかは読んでいる。
メルヴィル『白鯨』:中学のころ読んだはずだがほとんど記憶にない。それで、千石英世氏の新しい訳がでたときに再読しようとしたが挫折した。
アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』:中学のころ読んで面白かった。『三銃士』は篠沢秀夫氏が必読というので買ってきたが一巻で挫折。
トルストイ『クロイツェル・ソナタ』:読んでいない。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』は読んだが。
ゴンチャロフ『オブローモフ』:読んでいない。
マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』『王子と乞食』:読んでいない。本書を読んで、読もうかと思い。『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』を買ってきた。
ヘンリー・ジェイムス『鳩の翼』:読んでいない。『大使たち』は買ってはあるが読んでいない。
『水滸伝』その他の、シナ白話小説:読んでいない。
馬琴『南総里見八犬伝』:読んでいない。
泉鏡花『草迷宮』『歌行灯』:読んでいない。
川端康成:『雪国』『千羽鶴』は読んだ。
谷崎潤一郎:『瘋癲老人日記』だけ。『細雪』は挫折。
というわけで、小谷野氏のいう「日本人必読」の一級品はほどんど読んでいないことがわかった。
それにくらべて、氏のいう二位級はまだ読んでいる。以下、列挙すれば、『ある女』。太宰治(『お伽草紙』『津軽』などがすき)。フロベール『感情教育』。ゾラ『ナナ』『居酒屋』。『風とともに去りぬ』。『ハワーズ・エンド』。
以上で、キャノン篇がおわり、以下が小谷野氏が本当に書きたかったのであろう後半部の第三章「私には疑わしい「名作」」である。
まず夏目漱石。漱石の作は職業小説家になってからのものは面白くないという見方をするひとは多いと思う。筆が伸びていないというか窮屈である。漱石は『坊ちゃん』『猫』にとどめをさすという見解のひとは少なくない。大岡昇平とか吉田健一などもそうだったように思う。だから小谷野氏の見解が特異というわけではない。ただ最後の『明暗』だけは、それでもいいという留保をつけるひとは多い。わたくしは『明暗』もまた挫折したのだが、『それから』はなんだかとってもシュールな感じで、好きである。『こころ』を名作とするひとは、いまだに多いのだろうか。
鴎外もほとんど読んでいない。石川淳氏がさかんに褒めるので史伝にトライはしたのだが読めなかった。翻訳はいいらしいが、『即興詩人』も読んでいない。『沙羅の木』という詩は好き。「褐色の根府川石に/白き花はたと落ちたり、/ありとしも障u葉がくれに/見えざりしさらの木の花。」 これだって傲慢の詩ではあるのだろうが。
ドストエフスキー:小谷野氏は(少なくとも後期の)ドストエフスキーはキリスト教作家であるという。それは確かにそうなのだろうが、そのキリスト教はロシア正教であって反西欧であることが重要なのではないだろうか?
以下はブルマ&マルガリートの『反西洋思想』(新潮新書 2006年)によるのだが、ロシア正教は《神学に比較的無関心で、儀式、典礼、修道生活を重んじる》点で、ギリシャ正教やカトリック教会とは異なり、宗教は精神的なものであって、知的なものではないとする見方をとる。ロシア正教内部の争いは神学論争ではなく、ハレルヤを2回唱えるか3回か? 聖化されるのは5斤のパンか7斤か? 行進は太陽にむかってするべきか、背をむけてするべきか?、といったことをめぐっておこなわれた。「理性による詭弁」よりも「素朴な信仰」というのがロシア正教の根っこにあるものであり、「論理的思想」ではなく「神秘主義」なのであった。論理に走る「西洋の心には魂がなく」、「人間としてほんとうに重要なこと」については絶望的に無能であるとした。ここでいう西洋とはフランスであり、そのフランスに遅れをとったコンプレックスからドイツで生じたロマン主義がロシアに伝搬し発展したのがロシア正教であったのだという。ロマン主義は啓蒙主義に敵対したのであり、カトリックがスコラ哲学で徹底的に理性で神を論じたのを、素朴で純粋な信仰の欠如として批判した。そういう行き方は昨今の反グローバリズムの動きとパラレルであるかもしれないので、そうだとすれば、ロシア正教の問題は現代の問題とも直結する。だとすれば、ロシア正教の伝道師であるドストエフスキーもまた現役の作家ということになる。
わたくしは反西欧としての「スラブ」という見方を福田恆存氏から教えられた(『(チェーホフは)自己の内部にあつて他の不純物の下に埋もれてゐるスラブ人の素朴な心を発掘しようと意識的に努力した芸術家のひとりである。ゴーゴリが、トルストイが、より以上にドストエフスキーが、このスラブ魂発掘にその生涯をゆだねた。』「チェーホフ」「福田恆存評論集2」新潮社 1966年) このスラブ魂というのがほとんどロシア正教である。たとえば、ナポレオンに対するクトゥーゾフ将軍。
小谷野氏はゲーテの『ファウスト』を論じて「清純な娘による救いという結末が、もはや現代社会においては時代遅れなのだ」とし、「まさか、十九世紀のドイツ人だって、そんな清純無垢な乙女がいると信じていたわけではあるまいが、それでもやはり、女が社会へどかどか進出してきて、その本性を剥き出しにしている現代社会に比べれば、若くて美しい女に幻想を抱く余地はあっただろう。明治時代の文学青年の文章など見ていると、やはりそんな感じである。そういう意味で、ドストエフスキーの『罪と罰』とか、トルストイの『復活』とか、いずれも時代遅れ、二十一世紀が終わるころには古典のリストから消えているのではないかと、私は思う」という。
この「清純無垢な乙女がいると信じ」たいという気持ちがなぜ性懲りもなくおきるかといえば、それはわれわれに「魂」があるからというのがドストさんのいいたいことなのである。本当に「清純無垢な乙女」がいるのかという事実の問題ではなく、そういうもの存在を信じるようにわれわれは作られている、ということなのである。あるいはそういうものを信じられなくなったら人間もうおしまいということである。だから、女が社会へどかどか進出してきて、その本性を剥き出しにしようとしまいと無垢な女性への希求はあるし、ひょっとすると、そうであればあるほど、それはいや増すのかもしれない。
「清純無垢な乙女」などを例にだすので話が混乱するが、清だってまた「坊ちゃん」を救うのである。女は救う存在、男は救われる存在、あるいは女は愛する存在、男は愛される存在などと書くと、フェミニストの怒髪が天をつくかもしれないけれども。「男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである。男は愛についてはまだお猿クラスですから、愛されるほうに廻るほかはない。そして男が愛されている姿とは、チャンチャンコを着せられた愛犬という趣がある。犬には本当のところ、どうしてこんなものを着せられているのかわからないが、(つまり愛そのものの意味はわからないが)、そうやって愛されていることの居心地のよさだけはわかるのです。」(三島由紀夫「第一の性」 集英社 1973年)
フォースターは『小説の諸相』(E・M・フォースター著作集8 みすず書房 1994年)の「予言」の章で「カラマゾフの兄弟」からミーチャ(ドミートリイ)の審判の場面から引用している。ミーチャが荒野を馬車で走る夢をみるところである(「皆さん、僕は素晴らしい夢を見たんです」)。フォースターはD・H・ロレンスとともにドストエフスキーを「予言者としての小説家」としている(あとはメルヴィルとエミリー・ブロンテ)。「予言者は思索はしないのです。予言者は歌うのです。」 頭ではなく胸、理性ではなく魂。思考ではなく直感。
「ミーチャは後ろに広がりをもつ」ということをフォースターはいう。「ドストエフスキーの登場人物は、ただの登場人物である同時に、後方に控える全人類と一緒になるという特質を備えています。だからこそ読者は、突然すさまじい感動に襲われるのです。」 それは宗教的感覚としかいいようのないものなのだろうが、それをドストさんはわれわれに体験させる能力をもっている。
竹内靖雄氏は「世界名作の経済倫理学」で、「この『カラマーゾフの兄弟』に限らず、ドストエフスキーの小説は読んで楽しめるものではない。苦痛と刺激の連続に耐えることで頭が極限まで疲労困憊することに快感を覚えるようでないと、最後まで読み通すのは無理である。とにかく、晩年の神憑り的になったジョン・コルトローンの延々と続くソロを聞かされるような体験をしなければならない」といっている。それにもかかわらず、「大審問官がキリストと思われる人物を相手に展開する毒の効いた挑発的大演説の迫力はそれこそ神憑り的で、こんなアジテーションの文章が書けるだけでもドストエフスキーは超一流の才能をもった作家であることがわかる」ともいっているが、その通りだと思う。だから『「大審問官」なんてキリスト教徒でない人間が読んで、何の意味があるのだろう」ということにはならないと思う。あれはパンと自由の問題をあつかっているので、人間が自由になることは幸福なことなのか、というこれからも繰り返されていくであろう永遠の問題をあつかっているのだと思う。
スタンダール:『パルムの僧院』を今読んでいるところなのでパス。『赤と黒』は中学のころ読んだ。
トマス・マン:小谷野氏同様、『魔の山』を中途で抛りだした。どこが面白いのだろうと思う。でも『ファウスト博士』はなんとなく読まなければいけないかと思っている。どうしてだろう。
ワイルド:読んでいない。批評は面白いというのでいつか読んでみようかとおもっている。
フォークナー:なんだか苦手なタイプの作家と思っていて、敬して遠ざけている。
ヘミングウエイ:『日はまた昇る』は挫折。『老人と海』だけ。『老人と海』はそんなに優れた作品なのだろうか。寓意があまりに露骨で興ざめな感じがする。
フッツジェラルド:村上春樹訳で『グレート・ギャツビー』は読んだが、面白くなかった。
以下、読んでいない作家が続くので列挙のみ。テネシー・ウイリアムズ、ダンテ、近松門左衛門、井原西鶴、上田秋成、樋口一葉、志賀直哉、永井荷風(『墨東綺譚』は読んだかも)。
芥川龍之介:さすがにいくつか読んでいる。
三島由紀夫:小谷野氏がいうように『永すぎた春』とか『美徳のよろめき』はいいと思う(『潮騒』は読んでいないが)。いいとこのお坊ちゃんとしての美質がよくでていると思う。それと『美しい星』もすき。これは三島氏が「おれは本当に人間なんだろうか」と思ったのが執筆の動機なのではないかと思っている。戯曲もよくて、『鹿鳴館』や『サド侯爵夫人』以外にも『十日の菊』などもいいと思う。『豊饒の海』が失敗作であるというのはそのとおりであると思うが、『春の雪』と『奔馬』はいいでのはないだろうか。『暁の寺』から変になってくるので、あの頃から死のうと思い始めたのではないだろうか。三島氏にとって誤算だったのは70年安保が少しも盛り上がらなかったことで、第4巻(当初は『月蝕』という題で予告されていたように記憶している)執筆が70年安保と重なるように計画し、ジン・ジャン姫の生まれ変わりを求めて騒然とした社会情勢の中をさまよい歩く本多繁邦を書きながら、自分は混乱の中で「盾の会」を率いて切り死にするということを考えていたのではないかと思う。70安保が争乱とならない見通しとなったことで、『豊饒の海』は根本的に構想を変えなければいけなくなり、『暁の寺』が晦渋となり、『天人五衰』がすかすかになってしまったのではないだろうか。「『春の雪』が観念的な恋愛小説になっている」というのはそのとおりであろうが、『春の雪』はそもそも観念的な恋愛小説を書こうとしたのだと思う。恋愛なんかは意志があればできる、というのが三島氏の信念であったと思う。それを見かけ上は典雅な恋愛小説の外観に包んで出すというのが工夫だったのではないだろうか?
『豊饒の海』は世間的には失敗作といわれた『鏡子の家』(わたくしはきらいではないけれども)のリベンジを志して書こうとしたものではないかと思う(4人の主人公の代わりに4巻の物語)。精魂こめて執筆した『鏡子の家』が不評だったことと、『宴のあと』のプライヴァシー裁判で負けたことが、三島氏の生涯を決めたのではないかと思っている。東大法学部をでていながら裁判に負けたということを過剰に意識したのではないだろうか。一時は大蔵省にはいった人間なので、同期の連中に負けるものかという変な自負心が、文学という「虚」から政治という「実」へ氏を走らせたのではないかと思う。
三島氏を論じた最後に何気なく、「日本の女性読者で三島を愛読する人が多いのは、その美文によるところもあるが、三島が女性嫌悪者であり、日本の女は女性嫌悪に陥っているからである。フェミニズムによって、女が男と同じようになろうとすればするほど、女は女性嫌悪者になってしまう」という文がおかれている。何の論証もなくいきなりこの文がでてきたのでびっくりした。とても乱暴な論である。三島には女性読者が多いのだろうか? 日本の女は女性嫌悪に陥っているのだろうか? 女が男と同じようになろうとすると女は女性嫌悪者になってしまうというのは本当なのだろうか? 日本の社会のなかで能力がある女性が自分の能力を発揮しようとすれば、どうしても男と同じ土俵にあがろうとせざるをえないだろうが、そのことで女性嫌悪(あるいは自己嫌悪)になることはないと思う。自分と同じ努力をしていない同性を嫌悪するようになるのだろうか?(むしろ社会を支配している男性を嫌悪するのではないだろうか?)。一方、特別な能力がない女性は女としての自分によって生きようとするので男と同じようにはなろうとはしないと思う。そしてそういう女性が嫌うのは、懸命に男と伍して生きようと struggle している女性であろうと思う。三島を読む女性というのは(そもそも文学を読む人間が少数なのであるから)少数派であり、何らかの能力にめぐまれた女性である可能性が高いと思う。だからこの論は納得できなかった。
ついでにいえば、最後の「児童文学の古典」で、佐野洋子の「100万回生きたねこ」を論じ、「この世界に自分のためのたった一人の異性がいるという、近代的恋愛思想を表現したもので、私はそういう思想にはリアリティーがなく、害毒だと考えている」と書いている。この童話は、独立独歩で自分が自分の主人であるという生き方ばかりがいいとはいえず、みんなと一緒に生きるという生き方もあるのだぜという話で、肩肘はって生きているフェミニストたちを批判しているとのではないだろうか? 寓話だからどのようにでも解釈できる余地はあると思うのだが(たとえば、輪廻転生から解脱して涅槃に入る話であるとか)、フェミニストにもっと男と仲良くしてもいいのではといっているのというのは読み過ぎなのだろうか。自分しか愛せないひとは不幸で、他人を愛せるひとのほうが幸せ、というあたりが一般的な解釈なのだろうが。
「あとがき」で、文学の読者などいうのは、ごく少数しかいないということがいわれる。せいぜい十万から五十万人程度であると。しかし、そんなに売れる作品はめったになく、初版3千部で再版なしなどというのが多いのではないだろうか?
では両村上氏などはどのくらい売れているのだろう? そのあたりを論じているのが中島梓氏の「夢見る頃を過ぎても」(ベネッセ 1995年)である。「結論を云おう、プロパー諸君の敗けである。《両村上》は面白い。だから売れているのだ。それだけのことだ。文学的にどうだこうだといっておとしめようとしてみたところで面白い。べつだん「文学だから」読むわけじゃない。読者は面白いものは面白いから次も読む。それだけのことにすぎない」ということになる。これと、小谷野氏の《文学が「分かる」というのは「面白いと思う」ということ》がつながる。
《両村上》の作品しか面白いと思えないひとは、まだ『文学が「分か」らない』ひとなのだという方向に議論をもってゆくこともできる。もっといろいろなものを楽しめるようになるためにもキャノンを読め、というのが多くのひとが古典をすすめる理由なのかもしれない。でもそれは「これが面白いと思えないのはお前の鑑賞能力が低いためだ!」という脅迫にもつながる。「もし芸術鑑賞に段位というものがあるとしたら、そういう、名作といわれている作品がわかるようになることより、たとえば『カラマーゾフの兄弟』のように名作と言われているものでも、自分には面白くない、と自信をもって言えるようになることで、段位が上がるのだと、私は考えたい」と小谷野氏はいう。しかし「わたしは《両村上》の小説しか読まない。それ以外は全然面白くない」という女性に氏が高段位をあたえるとは思えないのだが。
中島氏は《両村上》の出発点にあるのは「いまあるこの世界に対する根本的な不信感と疑惑」である、という。「五分後の世界」の「古き良き日本の女」マツザワ少尉に憧れない男ってまずいないと思うという。「彼は戦う男としての生命と、そして愛する本当の女性を見出したのです、という「おはなし」に魅せられない人間、というのはむしろとても不幸な人間かもしれないという気がする」ともいう。「(愛されている)居心地のよさの中で、勇気百倍して仕事にはげみ、けんめいに稼ぎ、それを結局、女のため、さらには、妻のため、子のために消費して、おしまいには癌か、脳溢血でポックリ死んでゆく。これが男というものの、簡単明瞭な、多少バカバカしい全生涯です。」(三島由紀夫「第一の性」)
中島氏はさらにこんなこともいう。「「飢えた子供の前で・・」このテーゼについて私はもう何回書いたかわからない。それでもまた書こうと思う。私はそのとき、確かに「飢えた子供」であった。子供は食事にばかり飢えるわけではない。そう思うのだったらそれはあまりにも人間を即物的にしか見ないことになる。子供は食物に山のように恵まれた環境でも充分に飢えることができる。そして私は飢えた子供であった。その一人の飢えた子供を救ったのは確実に「文学」というものだったのであり、飢えた子供の前で、文学は有効どころではなかった。それがなければ生きてゆけないものだった。だからこそ、私は小説書きになったのだ。文学を「読むこと」にひきつづいて、「書くことが」より有効な、私にとっての救済たりえたからである。「文学」はそのようにして大勢の人間を救ってきたと思う。食物が足りても足りなくても、私たちはそれ以外に確実に必要としているものがあった。それは「文学」しか与えることができぬものであり、だからこそ私たちはそれを必要としていた。切実に必要としていた!」 中島氏は「夏目漱石も面白くて面白くてたまらなかった。次から次へとむさぼり読んだ ― 本が終わるのが惜しくてたまらなかった。日本の作家も面白く、外国の作家も面白かった。プルーストもドストエフスキーもミカ・ワルタリも横溝正史も佐藤愛子もトーマス・マンも北杜夫も遠藤周作も辻邦生もフローベールもサン・テクジュペリもシェンキヴィッチも高木彬光も江戸川乱歩も、何から何まで面白くて面白くてたまらなかった。わけはよくわからなかったが上林暁もロレンス・ダレルも読んだ。ヌーヴォー・ロマンも読んでわけがわからないのだが妙に興奮した。きっとこれは芸術なのだろうと思った。サガンを読んでカッコいいと思い、「地下生活者の手記」を読んで自分のようだと思い、北杜夫の文章にイカれて模倣した。・・サルトルは面白いのと面白くないのがあったが、読んでいるだけでなんだか偉くなったような気がした。カミュを読んでこれがそうかと思い、筒井康隆を読んで完全に影響をうけ、小松左京を読んでこれほど小説がうまい作家はいないと信じた。小林多喜二を読んでイヤなやつだと感じ、「田紳有楽」を読んでなんだ面白いじゃないかと思い、フォークナーを読んで暗い気分になり、レイ・ブラッドベリを読んでうっとりと詩的な気分になり、フレドリック・ブラウンを読んでゲラゲラ笑った。何もかも小説に教えてもらった」と書く。「私が夢中になって読みふけっていた小説はすべて、大なり小なりドラマティックであった。・・ドストエフスキーだっておろかな大学生だった私がその「高邁なる思想」を少しでも理解したわけでもなければ文芸評論を書こうなどと思って読んでいたわけでもない。途中でへきえきもしたしめんくらいもしたし、思想的背景なんてそもそも私という一人の18歳の読者にとってはまったくどうでもいいことだった。私はただ、スタブローギンとヴェルホーヴェンスキイの火を噴くような対決を「柴田錬三郎の時代小説よりももっとドラマチックですげえ」と思って興奮してさいごまで読んだだけなのだ」ということになる。氏は「私はごくごく単純に、「面白い小説が読みたい」人間なのである。また、「力のある小説が読みたい」人間」なのだという。だが、氏にとって現代日本の小説家でパワーがあるのは《両村上》だけなのである(あとはだいぶ落ちて吉本バナナ氏がいるというが)。
小説は「我を忘れる」ものと「身につまされる」ものの二つがあるというようなこといったのは平野謙氏だったと思う。「我を忘れ」させる原動力となるのは「物語」がもつ力で、それが中島氏のいうドラマティックということであろう。だからこそ中島氏は、延々と続く『グイーン・サーガ』を書きついでいるのであろうし、キングの『ダーク・タワー』などもそういった系列のものなのであろう。小谷野氏は「私たちは未だに、高潔な人物の悲劇、あるいは一般人でない人物の物語には、経験していなくても反応できるのである」という。それは我を忘れさせる。しかし、高潔な人物の悲劇、あるいは一般人でない人物の物語はどうも他人事で、ちっとも「身につまされない」、もっと普通の人物の話をききたい、というところから出てきたのが小人の物語である小説である。小人の話であるから、することはつまらないことばかりである。そういうものを読んでなにが面白いのだ、ということも当然でてくる。一方では、だってわれわれはみなそういうつまらない存在なのではないか、そういう真実から目をそらさずに書くというのが大事なのだ、という見方がある。もう一方では、小説とは小人のなかにもある永遠の相をさぐるこころみなのだ、というひともいる。
吉田健一氏はイーヴリン・ウォーの「黒いいたずら」(白水社 1964年)の「解説」で「このウォーの創造物を前にして、われわれはその生気に感じ入るばかりである。こういうものを型破りというのだろうか。しかし型にはまったものだというのは二流、三流の小説家の頭にしかないものなのである」といっている。この「生気」が中島氏のいう「パワー」なのであろう。
小説好きというのはこの《「我を忘れる」のも「身につまされる」のも》両方どちらも好きなひとで、中島氏はそうなのだと思う。丸谷才一氏などもそうだと思う。しかし、読者に「我を忘れ」されるためにも「身につまさ」せるためにも、作家はさまざまな技術を駆使する必要があり、多くの小説を読みすれっからしになった読者を喜ばせるためには、技巧の洗練が必要となる。そこから文学に「淫した」作者と読者の共同体も生まれてくる。(「読者は、ぼくが文学趣味に淫していると考えるかもしれない。しかしこの長編小説(「ロリータ」)はそれ自体、文学趣味に淫した作品、つまり、この詩を読んですぐ初期のエリオットの詩のパロディだと判る読者を対象にして書かれた作品なのである。」(丸谷才一「梨のつぶて」)) 文学に淫するために必要なのは、文学の伝統の中に身をおくことである。そのためにキャノンというものが要請されてくるのだと思う。しかし、淫した文学はパワーを失いやすい。
わたくしが本書を読んで一番わからなかったのが、小谷野氏は本当に小説が好きなのだろうかということであった。氏は基本的に「身につまされる」小説を好むひとであり、「我を忘れる」小説にはあまり強くは反応しないひとなのではないかと思った。「共感」にとてもこだわるからである。小谷野氏は倫理的で求道的なひとだと思う。自分の倫理的課題に応えるために文学を読んでいるひとなのだと思う。「文学全集を立ちあげる」で、鹿島茂氏は従来の「文学全集は江戸時代までの「四書五経」に代わるようなもの、一つの言葉を共有する社会に入るためのパスポートとされた。そのせいもあって、きわめて倫理的、求道的な姿勢で書物に接する姿勢がありました」といっている。鹿島氏もいうように「現代は求道性など、まったく顧みられない時代」であり、そういう姿勢ははなはだ評判が悪い。そういう中で、小谷野氏は愚直に倫理的で求道的な文学を追究しているようにみえる。きわめて反時代的なひとなのである。
わたくしは、小学校で江戸川乱歩の「少年探偵団」、中学で「風と共に去りぬ」、高校で太宰治、大学の教養学部で吉行淳之介を愛読したりはしたが、本当に本を読み出しだしたのは大学に入り、その頃周囲できわめて活発であった学生運動への反応として読み出した福田恆存氏の本からである。福田氏はきわめて倫理的かつ求道的に文学を読むひとであり本当の文学好きではなかったと思う。福田氏の属していた「鉢の木会」の面々(あるいは同人誌「聲」のメンバー)である中村光夫、三島由紀夫、吉田健一なども読むようになり、結局福田氏から三島由紀夫と吉田健一に移り、三島氏の死により吉田氏一本になったというのが簡単な読書の履歴である。中村氏の関係でフロベールなどを読み、三島氏の関係で庄司薫氏、吉田氏の関係で丸谷才一氏、三島吉田両氏の関係で倉橋由美子氏などを読むことになったが(吉田氏から直接は、ディラン・トマス、フォースター、ウォー、あるいは梶井基次郎や井伏鱒二あるいは石川淳などといったひとたちであろうか)、いわゆるキャノンはほとんど読まないままできてしまった。
吉田氏は福田氏とは異なり本当の文学好きであると思う。「私などの知っているイギリス人で、いやしくも詩人だとか批評家だとか言われる人と、英文学の話を私がしているとする。あの詩人は好きだな、と私が言うとする。相手は、「ああ、あの詩人、何とか何とか何とか」(この、何とかというところで、相手は、すぐ、その詩人の作のすぐれた詩句をたちまち暗唱する。)と応じる。決して「ああ、あの詩人は、象徴的で、極左の思想をほのかに表現する西暦何年生まれの、ケンブリッジ大学出の有望な人だね」とは答えない。そんなことを言うのは日本人である。吉田さんは、そういう点で日本人ばなれがしている。「あああの詩人、何とか何とか何とか」の種族である。」というのは福原麟太郎氏の「吉田健一・人と作品」の一節であるが(福原麟太郎著作集7 研究社 1969年)、文学好きというのはこの「何とか何とか何とか」のひとなのだと思う。昔の文人というのは、自分の好きな漢詩のストックをたくさん持っていたのであろうし、「古今和歌集」は「本歌取り」である。これは教養などということではなくて、好きな詩文がたくさんあるというだけである。
そうなると文学というのは詩であり散文であることになって、小説というものの位置が判らなくなる。あるいは劇は詩の延長であり、小説は散文で書かれるとすれば、文学は詩文に帰することになる。ただそうすると「物語」が宙に浮いてしまう。吉田氏がどこかで、何かいいたいことがあるときにそれを直接にいわずにわざわざ架空の物語を拵えてそれを表現しようとする小説というやりかたはずいぶんとまわりくどい、というようなことを言っていた。大人である文人は詩文を読み、女子供が小説を読むということであるのかもしれない。フォースターが『小説の諸相』でいっているように、ストーリィとは小説が生き物であるために絶対必要な夾雑物なのであろう。小説が不純な形式であるからこそ、近代という猥雑な時代に適合した形式となった。かつてのようにごく一部のひとだけが本を読むのではなく、誰でも本は読める時代が現代である。「教育の普及は軽佻浮薄の普及」であるのかもしれないが、現代は民主主義の世の中である。だが、現在、日本で文学を読むひとはほんの一握りである。女子供のものである小説さえほとんどのひとが読まなくなっている。「エリートは文学など読まなくなっている」だけでなく「一般大衆」も小説さえ読まなくなっている。近代小説というジャンルはその頂点を過ぎたと小谷野氏はいう。
それならばすでに頂点を過ぎた小説という形式で多くが書かれているキャノンを今読む意味というのは何なのだろうか? 「だまされたと思って読んで見ろよ、面白いから」ということであるとしても、面白いかどうかは読者の側の年齢や経験、趣味嗜好で左右される最終的には好き嫌いに帰着されるものであり、普遍的に面白いものなどあるはずはないことは小谷野氏の指摘するとおりである。
本書はむしろ、名作といわれているもの、キャノンとされているものの中にも、そうでないものがあるのだということを主張している。それはよくわかる。だが、前半で、ブルームの『ウエスタン・キャノン』にならって、日本人むけの「日本人のキャノン」をなぜ書こうとしたのかという本書の根本のところが実はよくわからなかった。
題名に忠実に第3章の路線のみでいって(題名は、「『こころ』や『カラマゾフ』は名作か」 副題は「正直者の有名作品批評」)、現在、巷では名作といわれているものも、これこれの理由でわたしは認めないということをもっと書いて、最後に、ではわたしが認める名作とはこれこれというリストをつける構成のほうがよかったのではないだろうかと思った。
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