E・ウォー「大転落」 

   岩波文庫 1991年


 「ブライズヘッドふたたび」を読んで大変面白かったので、ウォーの小説処女作である本書も読んでみることにした。
 なんとも人を喰った話である。題名通り主人公が転落していく話なのであるが、巻き込まれ型とでもいうのだろうか、主人公は何も悪いことをしているわけではないのに運命に翻弄されひたすら落ちていく。精彩をはなつのは主人公の周りに出没するとんでもない人物たちである。

 なんでこの人間て被造物は、ひとつところにじっとしておれんのだろ? 上がったり降りたり、出たり入ったり、ぐるぐる回ったりしちゃってさ! なんでじっと座って仕事ができないのよ。発電機が階段を必要とする? 猿が家を必要とする? 人間なんてさ、何て未熟で、自己破壊的で、時代遅れのできそこないじゃない! ちっぽけな進化の舞台の上でさ、はねまわったり、喋りちらしたりしちゃって、くすんでて、下品なんだから! この生物学的副産物の考えること、甘えること、ああ、おぞまっしい! 言葉にならないくらい退屈なんだなあ! この中途半端な、調子の悪い肉体! この不安定な調整不良の魂ってメカニズム。一方の側には、動物の調和のとれた本能と安定した反応があって、他方には機械のもつ不変の目的性があるってのに、その真ん中の人間なんて、自然の存在からも、機械の行為からも同じように疎外されてる。ああ、邪悪な生成!

 これはたまたま開いたページにあった、さして重要ではない人物の独語である。著者がこのようなことを考えているわけではない。この人物もあの人物もすべて真面目な考えはからかわれ、悪党が生きのびるという話である。
 このような、無垢な主人公が遍歴を重ねながら、社会や人間の不正をあばき諷刺するというのは、ヴィルテールの「カンディード」以来のヨーロッパのピカレスク小説の伝統なのであるのだと、「あとがき」で訳者が書いている。わたくしは何もかも読んでいない人間なので、当然「カンディード」も読んでいなかったのだが、実は、S・J・グールドらが「社会生物学派」を攻撃するために書いた「サンマルコのスパンドレルとパングロス風のパラダイム」というとんでもない題名の論文の後半にでてくるパングロスというのが、「カンディード」にでてくるパングロス博士という「この世のなかはつねに最善にできている」という主義の人物に由来するということは、社会生物学論争をあつかう本にはどこにでも書いてある。欧米の知識人はみな「カンディード」などという本まで読んでいるのか、そういうものも読んでいなくてはいけないのか、困ったなあと思い、例によって本だけは買ってきてあったので、始めのほうをぱらぱらと読んでみた(なかなか面白そうである。天が下、新しきことなしという気がする)。たしかにいわれて見れば、この「大転落」とどこか雰囲気が似ているようにも思える。それは主人公の運命が似ているというよりも、小説を書くことへの姿勢、物語のそとにいてその物語もあやつっている作者の位置取りが似ているのだと思う。この小説での作者の位置と「ブライズヘッド・・・」でも位置は明らかに違っていて、「大転落」での位置は「黒いいたずら」における作者の位置とほぼ同じである。
 「黒いいたずら」では物語が最初から動くのに対して、「大転落」では、始動に少し時間がかかる。小説は最初は我慢が肝心ということを、最近また学んでいるような気がする。
 原題は Decline and Fall であり、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」の Decline and Fall of the Roman Empire のもじりであるらしい。それで「衰亡記」と訳されることが多いと訳者も書いている。「大転落」という訳名がそれよりいいのかよくわからない。別の訳者の「ポール・ペニフェザーの冒険」という訳名のあるらしい(ポール・ペニフェザーは無垢なる主人公の名前)。その方がいいような気もする。
 「黒いいたずら」のあとがきで訳者の吉田健一氏は、「このウォーの創造物を前にして、われわれはその生気に感じ入るばかりである」と書いている。本書でも同様なのであるが、その生気あふれる人物たちに無垢な主人公が翻弄されるわけである。そういう受身の主人公を除いて、生気あるれる人物たちだけで物語をつくると「黒いいたずら」ができあがるのだろうと思う。
 翻訳は秀逸。

大転落 (岩波文庫)

大転落 (岩波文庫)