内田樹「下流社会 学ばない子どもたち 働かない若者たち」

   講談社 2007年1月
 
 内田樹さんの教育論である。副題のように、今の日本の子供がなぜ学ばなくなったかを論じているもので、その理由として《子供たちが早くから消費社会にさらされ、消費者として学校に登場するからであり、教育の場も消費社会の特徴である等価交換の場として捉えているからだ》という諏訪哲二氏の「オレ様化する子どもたち」(中公新書ラクレ 2005年3月)の説を紹介したものである。内田氏は、その説に全面的に賛同するとともに、例によって内田氏の打ち出の小槌である「始原の遅れ」論を、等価交換に対峙するものとして出してくる。

 気がついたときはすでに自分は「債務者」である。だから、その「債務」を清算しなければならない。この「始原の遅れ」の意識がオーバーアチーブすることを私たちに義務づける。

 しかし、これが《われわれは原罪を負っている》ということとどう違うのだろうという気がする。この「始原の遅れ」というのはレヴィナスに由来するものらしいけれども、ユダヤキリスト教的なこういう原罪意識って好きでないなあと思う。文明の進歩というのは、原罪意識を消していくことなのだと思う。
 その等価交換論の前に、今の若い人たちは「知らないこと」、「わからないこと」があっても気にならないし平気である、ということが強調される。例えば、文章を読んであちこちに意味がわからない言葉があれば、内田氏は「自分だったら不愉快である、我慢できない」という。知らない言葉にであった場合、「知らないままでもいい言葉」と「これは知らないとまずい言葉」の区別を自分はいつもしている。「知らないけれど、知らないとまずい言葉」と「知らないけれど、知らなくて大丈夫な言葉」の区別ができるし、その区別によって、「知らないけれど、知らないとまずい言葉」についてはいろいろな方法で学習するのだ、という。
 これについては、わたくしも内田氏にまったく同感で、間違いなくそういう区別をしながらいつも本を読んでいると思う。そして、そのような区別をしているのは、何が大事で、何が大事でないか、何が根幹的であって、何が枝葉末節であるかということを、常に意識しているからであり、これは何と関係があるか、どこでどうつながるのかをいつも考えている。それに対して、現在の若者たちは、「わからないことを気にしない」という方向を採用しているのだ、「鈍感になるという戦略」を採用しているのだ、と内田さんは言い出す。
 ここから内田氏の議論は諏訪氏の「オレ様化…」の方へと議論を移していくので、この部分をなんとなく読み過ごしてしまったのだが(ただ、「「顰蹙」とか「魑魅魍魎」とかは「書け」と言われても僕だって書けません」の「僕だって」にはひっかかったが)、「下流社会」を読んだあと、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」を読んで、東氏のいうデータベース・モデルによれば、ずっとこれらの現象をうまく説明できるのではないかと思えてきた。つまりわたくしも内田氏も「大きな物語」という神話がまだ流通していた時代に成長した人間であり、「大きな物語」への信憑がすでに大きくゆらいでしまった現在にあっても、発想の根幹には「大きな物語」的構想をいつも前提にしているということなのだと思う。さらに言えば、本を読むというのは、一見何の関係もないように見えているものの間に関係を発見していくこと、その相互関係を発見することによって、ばらばらに見えていたさまざまな事物が、大きな一つのストーリーの中で、まとまった構造へと収斂していくことを期待すること、そういうことであると思っている。そういうことが「知的」な作業ということだと思っている。たとえ、本田透氏に「大人にもなって恥ずかしげもなく「知」なんて言い出す人、信用できませんよ」と罵倒されようとも、である。
 だから、あるものと別のものでは、重要性において差があるのは当然であることになり、《「知らないけれど、知らないとまずい言葉」と「知らないけれど、知らなくて大丈夫な言葉」の区別》は必然のものとして生じてくる。
 ところがデータベース・モデルによれば、すべてのものごとはデータベースとして等価なのであり、それらの間に優劣の差はない。もし子供たちもまたデータベース・モデルで世界をみているとすれば、すべてのものごとの間に優劣の差はなく、たとえば学校で授業をきくことと自宅でゲームをやることの間に差はないことになり、それにもかかわらず、授業をきくことを強制されるならば、「どうして教育を受けなければならないのか?」という疑問が涌いてくるのは、当然であることになる。
 教育しようとする側においては「大きな物語」が前提とされており、その「大きな物語」からの帰結として、若者たちが教育を受けなければならないことは、疑問の生じる余地のないことなのであるが、「大きな物語」を前提としてない若者にとっては、そういう大人の態度はただただ不可解ということになる。
 東氏は《ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる》という。ポストモダンの社会でも、ジャンクなサブカルチャーから模造された「神」や「社会」はそれでも機能しているということなのだろうか? ポストモダンの時代においても、人間は「神」や「社会」をやはり必要とするのだろうか?

 やつめさす
 出雲
 よせあつめ 縫い合わされた国
 出雲
 つくられた神がたり
 出雲
 借りものの まがいものの
 出雲よ
 さみなしにあわれ
    (入沢康夫 「わが出雲 わが鎮魂」 冒頭 思潮社 1968年)

 
 本田透氏の「喪男の哲学史」を読んでいると、自分のそとにある客観的な存在によって何かを説明することへの嫌悪感を非常につよく感じる。自分と関係ないものはほとんど存在しないとでもいいたいような姿勢であり、バークレイ僧正の唯心論に近い何かである。本田氏は現代に生きる人であるから、自分がみていないものは「存在しない」とはいわないであろうが、自分にかかわらないものは「関係ない」のである。そうであるなら自分にかかわるものだけでつくりあげられて捏造された「神」が、従来からの用語の「神」となんらか関わるものであるとであるとはとても思えない。神とは絶対に自分を超越する外部であるはずなのだから。
 そして「大きな物語」というのもまさに外部に存在するのである。本田氏が「セカイ」系とよぶ思考は、東氏の論においては「大きな物語」に相当する。本田氏は自分とはかかわりのない外部で自分を支える思考法を否定し、自分とかかわりのあるものだけで自分をささえる「キモイ」系思考を、それに代替するものとして提示する。世界には所与としての正しさなどというものはない。なにが正しいか、あるいは正しいということばが問題であれば美しいかは、個々人が決めるのであり、自分の外には基準はないことになる。大きな物語を信じるとは、自分の外に物差しがあることを認めることであり、それを信じないとは、自分が世界の物差しであるとすることである。つまり、自分が神になるということである。
 とすれば浮かんでくる疑問は次のようなものである。

  • 内田氏によれば、現代を特徴づけるものは消費社会への移行なのであるが、それと「大きな物語」の崩壊は相互に関連しているのか?
  • 東欧圏の崩壊、共産圏の崩壊によりマルクス主義への信頼が決定的に崩壊したことが「大きな物語」への信頼を打ち砕く最後のとどめとなったと東氏はいうのだが、それならば「大きな物語」への欲求というのは人間に基本的に備わった性向なのではなく、歴史のある過程でたまたま生じた一過性の現象であったのだろうか?
  • 大きな物語」への希求は人間の脳にその基盤を持つものなのだろうか? そうであるらば、いままでの「大きな物語」は崩壊したとしても、人間は「データ・ベース」モデルには満足できず、これからもまた新たな「大きな物語」を常に探していくことになるのだろうか?

 大きな物語を信じるというのは、この世界に何らかの秩序があると信じること、世界がカオスでなくコスモスであると信じることである。現在、唯一生き残っている大きな物語は科学であると思う。ただ科学はモノにだけかかわる。そう遠くない昔までは、科学が説明できるのは無生物の世界だけであった。無生物の世界と生物の世界の間に不連続なものはないことになり、生命の世界も基本的にモノの言葉、科学によって、ある程度語れると信じられるようになったのは、比較的最近のことである。現代にあと残っているのは、もはや「こころ」あるいは「精神」といった世界だけである。そこはまだモノの言葉、科学によっては語れないとするものが多い。
 人間の世界、たとえば経済を、マルクスは「科学的社会主義」で解明しようとして失敗した。こころの世界を、フロイトは「精神分析学」という科学で解明しようとして失敗した(とは思わないひともまだ多いであろうが、精神分析学が科学でないことは、これから否応なしに暴露されていくであろう)。そういう熱い科学ではなく、冷たい科学が、生命の世界、こころの世界に土足で足を踏み入れようとしている。こころの世界はどんどんと追いつめられようとしている。本田氏もまた精神の世界を死守しようとする。そこでは精神の世界はすでに人間のものですらなくなろうとしている。それはもはや男の中にしか存在しないのである。女は肉体、男は精神。さらに男でも物質世界に現をぬかす「モテ」などは人間ではない動物である。ただ「喪男」だけが精神を持つ人間であるとされる。《哲学とは「知」の問題ではありません。哲学とは「血」なのです。血を流さない哲学、他人事の哲学など、哲学と呼ぶに値しません。》 モノは血を流さない。生物も物理的に血を流すだけである。女も肉体が血を流すだけ。精神が血を流すのは男、それも一部の男だけである、ということである。
 消費社会とは物質がすべてを宰領する世界である。精神など片隅に追いやられる。もしも、大きな物語を作ってきたのが精神であるとするならば、消費社会は「大きな物語」を崩壊させることになる。だから問題は、「大きな物語」は精神が作ったものなのかということに帰着する。科学は精神が作ったものであったとしても、それは客観的に存在するものの解明であり、精神はそれを明らかにする役割を果たしているだけであり、科学は発明するのではなく発見するだけの行為であって、科学の説明は外部にすでに存在している構造をわれわれの言葉に翻訳するとことであるとしているものは今でも多い(ポストモダニズムはそれに反対するのであるが)。
 「大きな物語」を想定するということが人間に普遍的なものではなく、歴史のある時代にだけ生じたものなのであり、ポストモダンの時代になって、われわれはそれを必要としなくなっている、ということなのであろうか? 少なくとも有史以来の人間は大きな物語を持ってきているのであり、その太古以来?の尻尾をわたくしも内田氏も引きずっているのに、われわれのわずか40〜50年あとの世代では、すでにそれが消失していて、そのことにとくに困惑を感じていないとすれば、われわれはとんでもない歴史の転換点に生きていることになる。人間はある歴史の時点で動物から人間になり、また現代においてふたたび動物へと帰ろうとしていることになるからである。
 最後の問題は、大きな物語への希求は人間の脳に構造的に組み込まれた性向なのかということである。「科学」の世界で、こういう問題につねに説明役としてしゃしゃり出てくるのが「進化論」である。人間は動物としてはきわめて弱い生き物なのであり、それが生き延びてこられたのは、人間が集団で生きることをしてきたからであり、人間の脳が何らか「大きな物語」への希求を構造的に備えているのは、それがなければ人間の集団はばらばらになってしまい、進化のどこかで絶滅してしまっていただろう、というような方向の説明である。
 進化論的説明とは、今あるものはすべてよし、としがちである。人間が進化で生き残ってこられた理由が、たとえば火を手に入れたためであるとし、それの獲得以降の人間は進化の圧力を排除できるようになってきたのだ、それ以降に人間に生じた変化は剰余であるということになれば、多くの問題は進化で説明しなければいけないものではなくなる。
 しかし進化の圧力は種にかかるのではなく、個体にかかる。人類の中である種の個体が言葉を獲得し、それが生き残りに有利に働くとすれば、それはあっという間に人類の中で広がっていくはずである。
 とすれば、大きな物語を脳が生み出すということもまた人間の進化の過程で意味があったはずである。大きな物語を信じるものは信じないものよりも人類として強者である、ということが過去にはあったのかもしれない。しかし、弱者も生き残れる時代にようやくなったので、われわれは大きな物語をすてることができるようになってきたのかもしれない。しかし、一方では、現代では資本主義という価値一元論が世界の原理となってきており、強者と弱者が二極分解しつつあるということがある。ようやく弱者が生き残れる時代が来たと思った途端に弱者はより弱者となっていく構造ができてしまった。
 本田氏はデカルトについて、「そもそも精神なんて脳の機能にすぎないわけです。つまり精神も肉体の一部なんです。まだまだブラックボックス的ではありますが、例えば脳のある部位をこう壊せば精神のこの機能がこう壊れる、というような脳と精神の相関関係はかなりわかってきています。また、様々な感情が特定の脳内ホルモンが分泌された結果生じる化学反応にすぎないこともだんだんわかってきました。(中略)つまり、「脳神経」という「構造」を「機能」という側面から見ると「精神」(自我)に見えるというだけのことです。「光は粒子でもあり波である」というのと同じようなものです」といっている。「光は粒子であるが波であるように行動しているように見える」だと思うけれども、それは擱いて置いて、そのあと本田氏が、「にもかかわらず、我々は未だに「自我」を特別視します。「肉体的」なものは下等なもので、「精神的」なものは上等なものであると考えたがります。これは現代の我々の世界観において「肉体」と「自我」が分裂しているからです」といっている。これがわからない。
 デカルトがこの二分法の基礎を作ったのは確かであるけれども、本田氏は同じものの別の側面であるといっているのである。問題は「肉体」と「自我」の分裂というときの「肉体」から「脳」が除外されていることなのである。もちろん「肉体」という機械をあやつる部分の「脳」は肉体の中に入れられる。しかし「精神」機能を担当する部分の「脳」は機械ではないのである。機械は動かされるものではあっても自ら動くものではない。「脳」はどこからも動かされることはない、自ら働くだけである。
 だから、本田氏は「人形」に「自我」を注入するという物語に徹底してこだわることになる。つまり「コンピュータ」という「機械」に「ソフトウエア」を注入するというイメージである。とすれば、自我というのは「ソフトウエア」であり、任意の肉体という「機械」に移植しうるものであることになる。さらに機械は完全に機械でなければならない。性欲などというものがあって、自分勝手に動いてもらっては困る。肉体は可及的に小さいほうがいいことになる。自我を収容できる大きさだけがあればいいのであり、当然、三次元よりも二次元のほうがいいことになる。
 現在においても、「自我」と「肉体」の分裂はあいかわらず存在しているけれども、その解消は「自我」を「肉体」全体へと広げていく方向にあるのであり(たとえば、ダマシオ「感じる脳」(ダイヤモンド社 2005年))、本田氏のような「肉体」を否定して「精神」に純化していく方向は時代錯誤なのではないかという気がする。
 大幅に脱線してしまった。内田氏の方にもどらなければならない。
 氏は、「自分がたちがそのような問い(学ぶことに何の意味があるんですか?)を口にすることができることそのものが歴史的に見て例外的な事態なのだということを彼らは知りません」という。だが、この20年くらいの間に人類の歴史においてかってなかったことがおきてきているのだとすれば、彼らが歴史的に見て例外の存在であることは当然である。
 また内田氏は「(子どもたちがまず学ぶべきことは)「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」です」といい、「「学び」は人類と同じだけ古い。それに比べれば、市場経済や等価交換の原理が人間世界に入ってきたのは、ごく最近のことにすぎません」という。これまた、市場系税や等価交換の原理が導入されることによって、古くからの「学び」の歴史に終止符が打たれたのだとすれば、説得力のない議論になる。本田氏は、「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」などというものには、何の価値もおいていないであろう。
 「「ほんとうの私」というものがもしあるとすれば、それは、共同的な作業を通して、私が「余人を以って変え難い」機能を果たしたあとになって、事後的にまわりの人たちから追認されて、はじめてかたちをとるものです」というのも、本田氏にはなんのことやらであろう。共同的な作業の場は自分の外にあるセカイにあるのだから、そんなところに出ることには何の意義も認めないであろうから。
 《問題は「自己に外在的な目標をめざして行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる」という点です。かりにひろく社会的に有用であると認知されているものであったとしても、「オレ的に見て」有用性が確認されなければ、あっさりと棄却される。(中略)それが教育の崩壊のいちばん根本にあることだと思います。》と内田氏はいう。氏の指摘する問題というのはまさしく本田氏が人間のあるべき美しい姿として提示しているものである。とすれば、日本の子供たちがオタク化あるいは喪男化しつつあるのであり、その故に教育が崩壊しつつあるということになる。
 集団主義から個人主義へのシフトというのは、「大きな物語」から「データベース型世界」へということもであるかもしれない。
 《「孤立した人間」を「自立した人間」として自己形成のロールモデルに掲げるということが、だいたい八〇年代半ばくらいからフェミニズムとポスト・モダニズムに支援されるかたちで日本社会全体でしだいに合意を得てゆきました。「自立」と「孤立」の間には実際には千里の径庭があるのですが、そのことを指摘した人はほとんどいません》と内田氏はいう。《「孤立した主体」にとって、理論的に最高の状態は、世界に彼の他には人間が一人もいない状態だということになります》ともいう。これをもちろん内田氏は悪口として書いているのだが、本田氏は、何と美しい世界!と恍惚とするのではないだろうか? 自分の他には、人形と二次元キャラだけ! 
 今の生徒たちは、「学校でよい成績を取ることは人間の価値と関係ない」とするだけでなく「学校で悪い成績を取ることは人間の価値を高める」としている、と内田氏はいう。本田氏は、今の現実世界で成功することは、人間の価値が低い人間にしかできない、としているのであるから、教育を受けないと現実世界でリスクを取ることになるぞという内田氏の脅しには、何の痛痒も感じないであろう。それをオレを堕落させるための「モテの魔の手」の一種だとするだけであろう。《「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が、間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り、自己決定は有用である》というという内田氏の厭味も、「俺は俺だ! で、世界は俺とは関係ない!」「世界とはモノに過ぎない」「世界より俺のほうが偉い」と嘯く(もっともこれはデカルトの思想を代弁したものなだそうであるが)本田氏には一切通じないであろう。
 《消費活動の基本は等価交換で、「等価」とは要するに「無時間」だということです》という主張から、例の「始原の遅れ」という「時間」原理を内田氏は持ち出してくるのだが、データベース型の世界観というのは無時間モデルなのだと思う。要するに、現在、人間は、時間モデルから無時間モデルへの根本的な転換をおこなっているのかもしれない。「歴史意識」から「歴史の終わり」へ、と。
 わたくしなどは骨の髄から「歴史意識」「大きな物語意識」に染まっている人間なのだということを今回、痛感した。内田氏の初期の著作に「おじさん的思考」というのがあった。わたくしのものの見方も「おじさん的思考」なのだと思う。本田氏は1969年生まれ、東浩紀氏が1971年生まれ、内田氏が1950年生まれ、わたくしが1947年生まれ。その20年位の年齢の差が、非常に大きな違いを生んで来ているのであろうか?
 わたくしは内田氏にくらべれば「大きな物語」への警戒心が強い方ではあると思う。内田氏のバックボーンであるユダヤ教が表にでてくる部分では、ちょっと勘弁して欲しいと思う。でも、やはり「大きな物語」というか「歴史」への信頼ははっきりと持っている。明らかに「時間」の信者である。「無時間」モデルには耐えられそうもない。

 ヨオロツパにさうした例があるから日本もそれに倣はなければならないといふのだらうか。確かにヨオロツパでの生きてゐるのに対するさういふ考へ方、或はそれに傾いてゐると見られる態度の例は幾つか挙げられるが、それが直ぐに頭に浮ぶのがそれがヨオロツパでは逆説的な印象を与へて目立つ為であることを忘れてはならない。サルトルが余り不景気なことばかり言ふので、それならば何故生きてゐるのだと新聞記者に聞かれた時、自分でも解らないと答へたのは今日の日本でと違つて余り奇抜なことに思はれたので新聞種になつた。(吉田健一「文学の楽み」 河出書房 1967年)

 
 吉田氏のこの文章を最初に読んだときのはいつのことだったか、もう覚えていないが、最初に読んだ時はびっくりした。わたくしもまた文学青年の一人として「生きてゐるといふのがみじめなことで、さう思はないのは何かの点で認識が不足してゐるのだ」と思っていたからである。吉田氏の「文学の楽しみ」は、そういうわたくしのまどろみを覚まさせてくれた本なのだが、本田氏の「喪男の哲学史」もまた、ヨーロッパでは例外的な不景気な見解の人間ばかりを集めて綴った哲学史のようにも思える。いつの時代にも真実に目覚めるのは少数の人間である、ということなのかもしれないが。
 これを書いている間に、ダマシオの「感じる脳」を少し読みかえしていた。そこにある《スピノザにとって、有機体は生来的かつ必然的にそれ自体の存在を貫くべく努力するものだった》という文が目に入った。
 吉田氏やダマシオの文でいわれていることは、生命力というものに繋がる何かであろう。ポストモダンの時代になって人は《動物化》したのだとしても、実は《植物化》しているのでもあり、何か生きる力のようなものが稀薄になってきているのではないかという気がする。
 本田氏、東氏、内田氏の本を続けて読んだので(読んだのは「下流志向」「喪男の哲学史」「動物化するポストモダン」の順)、随分と変な感想になってしまった。相互の関連づけをさがし、そこからそれに共通するもっと大きな何かを見つけようとする読み方が身についてしまっているのであろう。「大きな物語」という、個々の本の奥にある何かを見つけようとするのが習い性になっているのであろう。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち