谷川俊太郎「質問箱」

  ほぼ日ブックス 2007年8月
  
 糸井重里のwebsiteの「ほぼ日刊イトイ新聞」での谷川俊太郎への質問と答えを収載したもの。なんだか少し安直につくられた本だなあという気がした。64の質問とその答えがおさめられているのだが、質問も概して短いし、答えもそれほど長いわけではないので、原則、質問が右ページ、対の左にその解答となっている。ところがその質問が行分けされており、答えも行分けされている。普通の質問をなぜ行分けするのかがわからない。ページをかせぐためとして思えない。たとえば、「ぼくは、いまの仕事をやっていることに/いつまでたっても自信がもてません。/谷川さんが、/「この仕事でこのままずっといけるかな」/と思われたのは、いつごろですか。/またそのきっかけを教えてください。」という質問は、/のところで改行される。谷川氏の答えもまた改行される。谷川氏はもちろん詩人であるわけだけれども、答えはまったくの散文である。詩は言葉の一番濃い使い方だから、100ページの本にに30足らずの詩がおさめられているだけでも十分に堪能できる。しかし、この本は、あっという間に読めてしまって、もう終わり?という感じなのである。なんだか谷川氏が詩人であるということに甘えた本づくりになっているのではないだろうか?
 むしろ面白いのは、最後の付録みたいなあつかいの谷川俊太郎糸井重里の対談である。糸井氏が「気の利いた答の雛形というものは、世に中にはたくさんあります。それを使わずに生きていたいということが、言葉にかかわる人間の、まあ言ってみれば、野心です」といい、谷川氏は「詩というものはすぐに、いわゆる英語でいう「クリシェ」っていう決まり文句になるんです。決まり文句のほうが通用しやすくて、みんな安心して詩的だと思っちゃうわけ。だから詩人というのは、作ることと壊すこと、両方やんなきゃいけないんです」といっている。
 わたくしが思うのは、ここでの谷川氏の答えは「気の利いた雛形」であり「クリシェ」になってしまっているのではないだろうか、ということである。「ほぼ日刊イトイ新聞」を見ているのは普段詩などは読まないひとがほとんどであろうから、谷川氏の答えは実に意外で実に新鮮にみえるのであろう。しかし、詩とか文学とかに親しんでいるひとがみると、ああ、あの手というのが見えてしまうのではないだろうか?
 たとえば質問4。以下改行は無視して、散文として引用する。質問「どうして、にんげんは死ぬの? さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。(こやまさえ 六歳)(追伸:これは、娘が実際に母親である私に向かってした質問です。目をうるませながらの質問でした。正直、答に困りました〜)」 谷川さんの答「ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、「お母さんだって死ぬのいやだよー」と言いながら、さえちゃんをぎゅーっと抱きしめて、一緒に泣きます。そのあとで一緒にお茶します。あのね、お母さん、言葉で問われた質問に、いつも言葉で答える必要はないの。こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなくて、ココロもカラダも使って答えなくちゃね。」
 しかし、谷川さんはそれを言葉で答えている。もしこれを読んだひとが、「そうか、そうきかれたらそうしてやろう」などと思って、そのまま実行したら無残なことになる。それはすべて知識によるものであり、アタマによる行動だから。だから、このお母さんがまったく無意識にこどもを抱きしめ、「お母さんだって死ぬのいやだよー」といって泣くのでなければ、こんないやらしい行動はないことになる。谷川氏のいっていることは、アタマだけじゃなくて、ココロもカラダも使って、ということなのであるが、ココロもカラダも使ってなどと考えて何かをするのであれば、それはまったくただアタマだけがしている行動になってしまう。
 一般に文学というものの困ったところは、無意識ということからどんどん離れていくことである。(口はすねたように噤んだまま/またしても私の犯す言葉の不正/その罰として/終夜聞く潮騒//すべての言葉は美辞麗句/そう書いて/なお書き継ぐ//夜半に突然目を覚まし/ひとしきり啜り泣く私の幼い娘/私は正直になりたい//瀕死の兵士すら正直ではない/煙草の火が膝に落ちる/もう夢を見ることもなかろう/こんなに眠いのだが 谷川俊太郎 鳥羽7 (谷川俊太郎詩集 続 思潮社 1981年))
 私は正直になりたい 瀕死の兵士すら正直ではない。言葉は嘘をつくのである。詩人は言葉の泥沼のなかにいる。だから「どうして、にんげんは死ぬの? さえちゃんは、死ぬのはいやだよ」ということには、どのように答えても嘘になることは瞬時にわかる。そして、それに対する嘘の答えも無数に知っている。
 精神医学はこういう問いに対するマニュアル的な解答を用意している。「そうか、さえちゃんは、死ぬのがいやなのか? そうなんだね」といったものである。これは何も答えていない。ただ、問いを確認しているだけである。そして、相手にもっと語ってもらうことをうながすわけである。誰かが聞いてくれているところで語る、そのこと自体に意味が、おそらくなんらかの治療効果があるとするのである(これをもっと発展させていけば、人工無能とか人工無脳の世界になる)。
 医者になりたてのころは、患者さんに「先生、もうわたしは長くないんじゃないですか?」などといわれると、「そんなことはありません。あなたは千年も万年も生きます」などと反射的に答えてしまったものであった。少し訓練をつんでくると「どうして、そう思うんですか?」と問い返せるようになる。さらに甲羅を経ると「そうですか、そう思いますか」と返せるようになる。
 「どうして、にんげんは死ぬの? さえちゃんは、死ぬのはいやだよ」という問いに答えがあるはずがない。これは一時期、世の中を騒がせた「なぜ人を殺してはいけないか」といった問いと同じである。これに対するまともな答えはあるはずはないのに、大の大人が一生懸命にいろいろと答えていた。
 先日とりあげた「<脱>宗教のすすめ」で竹内氏は、あなたは死ぬのが怖くありませんか、という問いに、怖くありません、といって、例の「生きているうちに死はなく、死んだら私はない」というエピクロス説をとりあげている。倉橋由美子も「城の中の城」でエピクロス説を支持していた。
 吉田健一によれば、可愛がられている犬の目というのは沈んだ色をしているのだそうで、それは、飼い主の愛情とか、水とか、乾いた寝床とかに恵まれているから、あとは人生とか、退屈とか、孤独とか、努力してみたところでどうにもならないものといつも向きあっていなければいけないからなのだそうである。
 世の中にはどうしようもないことはたくさんある。なんだかこの「質問箱」はそれをはぐらかしてしまって、クリシェとしての解答を示しているような気がする。この手の本であれば、橋本治の「青空人生相談所」(ちくま文庫 1987年)のほうがずっと誠実で真剣に解答しているように思う。

谷川俊太郎質問箱 (Hobonichi books)

谷川俊太郎質問箱 (Hobonichi books)

青空人生相談所 (ちくま文庫)

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