[音楽関連]内田義彦 谷川俊太郎「対談 言葉と科学と音楽と」
藤原書店 2008年4月
内田義彦氏は1989年に亡くなった経済学者で、晩年、その著作が評判になっていたのは知っていたが、読むことはしないままになっていた。印象としては根源的な問いを発する思想家というものであったが、1970年を通過していて「根源的」というようなものになんとなくうさんくさいものを感じることが多かったわたくしとしては、敬して遠ざけたままになってしまったということなのであろう。
ここに収められた谷川俊太郎氏との3つの対談は、1980年から1982年にかけておこなわれ「広告批評」に掲載されたものらしい。それがいまなぜ本になって復刊されたのかはよくわからない。ここでは「音楽 この不思議なもの」と題された最初に収載されている対談(実際には1982年におこなわれた一番最後の対談)のみをとりあげる。それによって、ドイツ音楽とロマン派音楽ということを少し考えてみたいと思う。
ここでの内田氏の印象は、前に中野雄氏の「丸山真男 音楽の対話」を読んだときの丸山真男氏に感じた印象にきわめて近い。生真面目で徹底して精神的な音楽の聴きかたである。内田氏は、自分の音楽の聴きかたは全然片寄っていた、といい『クラシック。なかでも圧倒的にドイツ』として、『“音楽”としてはほとんどまったくヨーロッパ。それもドイツで、その中核が「第五」』という。もちろん、ベートーヴェンの「第五」である。『僕の場合は、徹底的にベートーヴェンでしたね。その回りに他のものが流れこんできているというか。つまりモーツァルトなんかにしてもベートーヴェンの世界にとけこませたところで聴いていた。(中略)本当に徹底してベートーヴェン』ということになる。
わたくし自身の場合を考えても、音楽はクラシック一辺倒で、入門はやはりベートーヴェンからだったと思うけれども、最初に、一番身に沁みたのは「悲愴」「熱情」「告別」とかいったピアノソナタであったように思う。
もしもベートーヴェンという作曲家がいなかったら、西洋音楽というのはどうなっていただろうと思う。いくらバッハやモツアルトが偉大であるとしても、彼らは音楽を作っただけである。しかし、ベートーヴェンは音楽に+αを持ちこんだ。その+αがなければ、シューベルトもブラームスもシューマンもワーグナーもマーラーもショスタコーヴッチも生まれなかったであろう。その+αをロマン主義とかロマンチシズムといっていいのか、それが問題なのであると思うけれども。
小林秀雄の「モツアルト」は、モツアルトを論じたものではなくて、アンチ・ベートーヴェンをいおうとした本だろうと思っている。ゲーテがハ短調交響曲をきいて異常な興奮を示したというのがその枕になっている。メンデルスゾンがゲーテに「第五」をピアノで弾いてきかせたところ、「人を驚かすだけだ、感動させるといふものじやない、実に大袈裟だ」といって黙りこんでしまった、という。そして小林秀雄は「今はもう死に切つたと信じた Sturm und Drang の亡霊が、又々新しい意匠を凝して甦り、抗し難い魅惑で現れて来るのを、彼は見なかつたであらうか」といい、「ゲエテは、壮年期のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかつたであらうか」と書く。「ベエトオヴェンといふ沃野に、ゲエテが、浪漫主義音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」として、そういう異常な自己主張のない作曲家としてのモツアルトの像を追求していくわけである。
この対談で、谷川俊太郎氏が「ロマンチシズムみたいなものが人間の自我を無制限に拡大していった結果、いわゆる近代の芸術は人間を袋小路にまで追いつめてしまった、という面があるような気がするんです」といっているが、これは小林秀雄「モツアルト」のエコーであると思う。ロマン主義は「人間が到底追い切れない世界だろうという気がする」と、氏はいう。谷川氏がいうロマン派とはマーラーとかリヒァルト・シュトラウスの後期、それからディーリアスなのであるが。「ベートーヴェンというのは、そこ(バッハ的な世界)から一歩脱して「オレが」ということで悩んだ人なわけでしょう。で、その「オレが」というふうに悩むことが、人間をある秩序から逸脱させて、ある意味では人間を人間以上に過信させたようなことがあると思うんです」というのも、そのまま「モツアルト」である。
谷川氏にくらべれば、内田氏はベートーヴェンを古典派として位置づけていて、ロマン派とは違うものとしているようである。内田氏は最初の音楽体験の一つが「アイーダ」の行進曲だったといい、その中に哀しみみたいなものを感じた、それが「人生というものを音楽という媒体によって体験した最初だった」という。だから「第五」もそれと同じで、dennoch 「にもかかわらず」という感じなのだ、と。「アイーダ」の行進曲も、勇壮な行進曲であるにもかかわず、そこには哀しみがある。「第五」もそうで、特に第二楽章に孤独というか一人というものを感じる、と。
ここで内田氏がいっている、音楽が人生と結びつくというような感じ、それは多くのひとが西洋音楽に接して感じることなのではないかと思う。それを一番わかりやすい形で示しているのが「第五」で、マーラーもショスタコーヴィッチもそれなしには、存在しえなかっただろうと思う。
丸山真男は、作曲の目的は『心のメッセージの伝達』であるなどという、随分とストレートなことをいっているが、いわゆるロマン派の音楽(ショパンはシューマンなど)が、しょせん『個人的体験』『私小説』であるのに対して、ベートーヴェンは「人類に向かって呼びかけを行なった。《第五》や《第九》はその典型です」という。ベートーヴェンは音楽に『意思の力』『理想』を持ちこんだ、人間全体、つまり人類の目標、理想を頭に描いて、《響き》でそれを表現した、と。内容はロマンティックで形式はクラシック、丸山氏にとって、人間の理想の追及が『ロマン』なのである。
わたくしは、モツアルトからベートーヴェンの音楽への変化というのは、サブドミナンテ優位の音楽からドミナンテ優位の音楽への移行だろうと思っている。ここでは、主として、ソナタあるいは交響曲のソナタ形式で書かれた第一楽章の第一主題のことを考えているのだが、モツアルトの場合は主題は基本的には歌であって、息が長く、トニカ−サブドミナンテ圏で動いて、最後にだけ、カデンツの進行があり、わずかにドミナンテがそえられる、という場合が多い。一方ベートーヴェンの場合は、主題はいわゆる動機的なので短く、必然的にカデンツの進行をその中に含ませることができない。モツアルトの優雅とはサブドミナンテの優雅であり、ベートーベンの野暮と野蛮というのはドミナンテの野蛮というか暴力性に由来するのだと思う。「人を驚かすだけだ、感動させるといふものじやない、実に大袈裟だ」というのも、ドミナンテの大袈裟のことであろう。
いうまでもなく西洋の調性音楽の基礎にあるのはカデンツの機能和声である。音楽の中心にあるのは主和音(トニカ T)ではなくて、属和音(ドミナンテ D)である。だから、TDTという動きだけで音楽を作ることはできる。しかし、それではとても単調である。それで、トニカはまず下属和音(サブドミナンテ S)にいく。トニカを構成する和声の倍音の中には微かに導音をフラットした音がふくまれているわけであるから、その点からみれば、これはドミナンテからトニカへの解決でもある。従って、トニカからドミナンテへの動きは必然をふくまないが、トニカからサブドミナンテへの動きは必然である。ドミナンテからトニカへの動きも必然で、それがいわゆる解決である。TからSにいった場合、またTにそのまま戻ることもできて、それがいわゆるアーメン終止となる。それは宗教曲の最後に用いられるように、静的であって動きとはあまり感じられない。したがって通常は、Sはまずいわゆる四六の和音(主和音ではあるが低音が根音ではなく属音)にいき、それからDにいく。それでカデンツはT-S-四六-D-Tとなる。そこでの低音の動き、ハ調でいえば、C-F-G-G-Cの動きが西洋音楽の根源を形成する。西洋音楽は低音の上に構成される音楽なのである。
「第五」のいわゆる「運命の主題」「運命が扉を叩く主題」は、最初の2小節がトニカである。次の3小節がドミナンテで、6小節からまたトニカに戻るのであるが(T−D−T)、5小節目におかれたフェルマータは、そのトニカに戻る前の溜め、あるいはじらしであって、そのフェルマータこそが、ドミナンテの作曲家ベートーヴェンの真骨頂なのであろう。6小節目にA♭の音がでるが、これはサブドミナンテではなくて、次のG音への倚音であろうから、21小節まで、基本的はトニカとドミナンテだけで動いていく。サブドミナンテがはじめてでてくるのは、22小節からの主題の確保の部分である。S-D-Tが2回繰り返された(25小節〜33小節)あとは、再びTとDだけの動きとなり(33小節から51小節)、52小節からのCを根音とする減和音を通って平行長調である変ホ長調のドミナンテで終止する(58小節)。要するに第一主題の提示の部分はほとんどが主和音と属和音だけでできている。
「第五」というのは実によく構成された音楽だと思うのだけれども、その理由として、第一楽章がとても短く(特に提示部を反復しない場合)、ソナタ形式ではあるけれどもほとんど単一主題でできているようにきこえる点があるのではないかと思う。ベートーヴェンは歌うアレグロを書くのが不得意なひとで、通常のソナタあるいは交響曲などの終楽章を書くのにとても苦労した人なのではないかと思う。その点でそれを得意としたモツアルトにつねに劣等感を感じていたのではないだろうか。「エロイカ交響曲」は何であんな音楽がいきなりでてきたのか理解できない奇跡的で真に革新的な音楽だと思うけれども、いかんせん、3楽章以下が腰砕けである。あれだけ大きな第一楽章を書いてしまうと後がつらいのである。「第五」では第一楽章が短くなったおかげで、最終楽章が大きなソナタ形式の楽章であってももたれない。ベートーヴェンは終楽章をいつもロンドといった歌う主題による楽章とするのではなく、ソナタという論理的構成の楽章にしたかったのであろう。しかし、一曲の中に長大なソナタ形式の楽章が二つあると、構成的には苦しくなる。
「第五」の成功の最大のポイントはあの目立たない第2主題の発明にあったのではないかと思う。もしもわたくしが作曲家であって、「運命の主題」を得ることができたら、有頂天になって、第1主題のあとに長大な移行部を書き、じらしにじらしたあとに、甘美で陶酔的な第2主題を出し、展開部では、その二つの主題がからみあい、また反発しあい、上になり下になりという様を書き、再現部では展開部でさんざんあつかった第2主題はさすがに簡潔にあつかうこととして、コーダでちらっと第2主題がでてきたと思ったら、すぐに「運命の主題」がそれを否定して終わるというような曲を構想するのではないかと思う。疲れる音楽であるし、意図が見えみえである。
ところがベートーヴェンは実にうまい発明をした。ソナタ形式の解説にはかならず、第2主題は第1主題とは対照的なものとなると書いてある。わたくしのもっているスコアの諸井三郎氏の解説にも、この(第1楽章の)「第2主題は第1主題に対し、はるかに静的な性格をもち、激烈な第1主題に美しく対照している」などと書いてある。しかし、これは一般的なソナタ形式の説明であって、この場合にはあてはまらないだろうと思う。
第2主題は、4分音符がただ続くだけだから、「運命の主題」の実に特徴的なリズムとは確かに対照している。というかとにかく目立たないのである。B・Es|D・Es|F・C|C・B|の4小節であるが、後半2小節は前半2小節の反行のような動きとなっている。それが3回くりかえされる。あとの2回を諸井氏は主題の確保であるといっているが、違うと思う。確保というのは、一度主題が提示されたあと別の違う動きがあり、その後にふたたび主題がでてくることであると思う。第2主題は、最初がヴァイオリンで提示され、そのあとクラリネット、さらにフルート(+ヴァオリン)と繰り返されるのであるが、聴いている側からすると最初のクラリネットの部分は単なるエコーである。そのあとのフルートもオクターブ上でくりかえされるわけだから、またまたエコーである。ところがそのあとの4回目に相当する部分では音型が変わり(主題から第2・3小節目の動きをのみをとりだしたように、上昇−下降の動きに圧縮される)、もう転調がはじまってしまう。つまり第2主題は歌いおわる、一息つくということが一切ないままに展開されて不安定になっていく。主題は確保されない。転調は、75小節目からヘ短調−変イ長調と動いていって、さらに83小節からの高音部のEs・F|Ges・F|の2度の上昇−下降(変ロ短調?)の動きのなかで、低音がA・B・H・Cと半音で上昇していき、94小節目でCからDへ低音が上昇して変ホ長調の属和音の導音となると、以降8分音符の動きが回帰して第1主題の世界に戻り、110小節からは「運命の動機」も再現して変ホ長調で提示部が終止する。
124小節ある提示部のうちで、本当の第2主題の部分は63小節から74小節までの12小節と全体の十分の一に過ぎない。第2主題の提示の部分でも、実は低弦が| ソソソ|ド |という運命の動機を奏していることは有名であるが、この部分は目だたない。しかし、転調がはじまったあとのA・B・H・Cの低弦の半音上昇の部分では、それが「運命の動機」のリズムでクレッシェンドしてくるので、目立つ。だから、そこはもう第一主題の世界に戻ってしまっている。とすれば、多く見積もっても、第2主題部分は高々20小節である。第1主題の提示が58小節あるから著しくバランスを欠く。展開部でも第2主題はあつかわれない。提示部で第2主題の前にホルンが吹く導入の主題は第二主題と関係しているが、その最初のBの3つの8分音符の反復はあきらかに運命の動機であるから、展開部であつかわれるこの導入主題も聴くものにとっては第一主題の展開である。
ということで、構成を分析すればこの第一楽章は明確なソナタ形式ではあるのだが、聴いている側としては、ソナタ形式の特徴とされる二つの主題の対比や対立ということはあまり感じられず、ほとんど運命の動機のみで終始する楽章とかんじられる。しかもこれは短く終わる。この楽章で音楽の動きが止まるのは、268小節のオーボエが吹くレスタティーボ風の部分だけである。それ以外はただ動きに動いてあっという間におわる。
そうすると聴いている側では、第2楽章がはじまると、何だか通常のソナタ楽章の第2主題がはじまったような感覚になる。はじめて運命の主題との明確な対比がでてくるのである。その主題は運命の主題とは異なり、トニカとサブドミナンテがメインの音楽である。またこの楽章の第2主題はなんだかファンファーレみたいな音楽で、3拍子ではあるが行進曲的である。速度もアンダンテでそんなに遅くはない。明らかに第一楽章とは対比的なのではあるが、同時に第一楽章の動的な感じは維持している。
となると第3楽章でまた運命の動機がでてきても違和感がない。というか通常のソナタ形式の曲で展開部がはじまった印象にどこか通じるものがある。とすると、第3楽章から切れ目なく第4楽章に続いていく部分は展開部が終わっていよいそ再現部へという感じでもある。
つまりこの曲は二つのソナタ形式の楽章をふくむ4楽章の曲ではあるのだが、それが全体として、2つの主題の提示と展開と再現というソナタ形式がわれわれにあたえる構成感にもどこか通じているところがあるというのが、「第五」の凄いのではないだろうかと思う。交響曲という音楽の形式で、3つとか4つとかの楽章が、何で続けて演奏されなければならないのだということへのはじめての納得できる回答が、ここで出されたのではないだろうか? 必然性の感覚とでもいうものを、われわれはここに聴きとることができる。内田氏がいう『音楽が人生と結びつくというような感じ』というのはそれなのではないだろうか? そしてマーラーの交響曲などが、それぞれの楽章がしばしば相互にまったく無関係であるように感じられ、それがまとめて演奏されることの必然性に乏しいように感じられるのも、われわれにはもはや必然性の感覚などというものが信じられなくなっていることと関係しているのではないかと思う。ベートーヴェンは「神」の存在を信じていたに違いないが、マーラーは「神」ではなくフロイトに頼るのである。マーラーの「千人の交響曲」が「讃歌」と「ゲーテの「ファウスト」の一部」などという相互にまったく関係ないものを強引に一まとめにして作品としているという滅茶苦茶こそが、われわれの時代をよく表しているのかもしれない。「宇宙が鳴り響く」などということを平気でいう誇大妄想も、ベートーヴェンが「第九交響曲」の第4楽章という奇天烈な音楽を作ったことと通じているのかもしれない。
それで、ロマン主義あるいは+αの問題である。
丸山真男は、自分には本当に美しさが分からない作曲家として、ドビュッシー、その他メシアンなど大部分の「現代」作曲家、ヴォルフ、R・シュトラウスなどをあげていた。おそらくこれは、+αがない、純粋に音楽のための音楽の作曲家なのである。そして心から尊敬する音楽として、ベートーヴェンの「第三」「第五」「熱情ソナタ」などをあげている。
内田氏はバロック音楽は(ただしバッハはバロックではないというのだが)自分にはイージー・リスヌングにしかきこえないという。つっかかってくるものがない、ともいう。岡本太郎氏がいっていた「座ることを拒否するイス」に通じる何かがないと困るという。要するに音楽だけでは困る。プラス何かがないとイヤだというのである。ひとを安心させるだけの音楽は困る、と。
この対談では、年上の内田氏のほうが、精神という何かを素朴に信じているが、年少の谷川氏のほうは、そういうものを素直に信奉することに懐疑的である。内田氏は昔の旧制高校的な何か、デカンショではないかもしれないが、ゲーテとベートーベンを足して2で割ったような精神活動の意義を素直に信じているように思う。谷川氏のほうは、同じベートーヴェンでも、後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏の方になんとかいきたいとしているように思う。どこまでまじめなのかよくわからないような音楽、自己表現とは異なる音楽であろうか。小林秀雄の古典派回帰の方向である。だから、それなのにディーリアスなんかに今頃惹かれるのはヤバイというわけである。内田氏のほうが「自分」を素直に信じていて、谷川氏のほうは懐疑的であるということでもある。
それならば自分はどうなのだろうかと考えてみる。実は、この稿を書きはじめて、いくら何でも一回、「第五」を聴いて見てから書くかな、と思って探してみたらCDを持っていないことに気がついた。マーラーとかショスタコーヴィッチの交響曲は全部もっているし、シベリウスも、そしてなんとプロコフィエフの全集まで持っているのにである。LP時代には持っていたような気がするが、CD時代になって買いなおしていなかった。いまさら「運命」なんてと思ったのであろう。
それで「第5&第7」(クライバー)をこのセンテンスを書き出すまえに買ってきた。それでここは聴きながら書いているのであるが、つらいものがある。破綻がないというのがつらい。よく出来てきっちりまとまっているのがつらいのである。「第五」より、破れかぶれみたいな「第七」の方がまだ面白い。
同じベートーヴェンならピアノソナタや弦楽四重奏の方がずっと面白い。ベートーヴェンの後期というのは、もうやりたい放題であって、この人何を考えているのだか?であるが(あのピアノ・ソナタや弦楽四重奏を書いていたときに「第九」や「荘厳ミサ」みたいなメッセージ・ソングを書くのであるから、本当にわからない人ではある)、何をいいたいのかすぐにピンとくる曲というのはつまらない。だから謎の塊のようなマーラーが面白いし(しばしば弛緩した部分があるのも、そうなれば返って魅力にさえなるのかもしれない)、時の権力に媚を売るような顔をしながら、別の解釈の余地をしっかり残して、隠れて舌をだしたいたようなショスタコーヴィッチも面白い。つまり現在ではベートーヴェンはもう座り心地のいいイスになってしまっているではないかと思う。20世紀になっても平気であんなに甘い陶酔的な音楽を書いているディーリアスは、それがむしろ謎であるからかえって面白いということになるのかもしれない。
ディーリアスの曲をはじめて知ったのは、ジャクリーン・デュプレの弾くエルガーの「チェロ協奏曲」と一緒にカップリングされていたそのチェロ協奏曲をきいた時なのだが、継ぎ足し継ぎ足ししたみたいな奇妙な主題を持つエルガーの協奏曲は、系譜からいえばやはりベートーヴェンに繋がるものなのだと思うが(なんだか疲れ果てた老人の繰り言みたいな音楽にわたくしには聴こえる)、ディーリアスの協奏曲はもう本当に退嬰的なくらいに美しい音楽で、ドイツでは12音音楽がでてこようという時期に平気で確信犯としてこんな音楽を書いていたというのはロマン主義とは全然違うもののように思う。今の言葉でいえば、音楽オタク。シェーンベルクもまた音楽オタクであったのだと思うが、これは世界で一番進んだ音楽のオタクであった。一方、ディーリアスのほうは「好きなものが好きで何が悪い」というようなオタクである。ハープなんかも平気で入ってきてしまうし。
同じCDに収められているサンサーンスのチェロ協奏曲がなんともつまらないのは、サンサーンスにとっては音楽というものが自分の外にあって、それにあてはめて音楽を作っているからではないかと思う。サンサーンスの曲をきいてもこちらの精神が動くという気がしない。
この対談はかれこれもう25年ほど前のもので、やはり時代というものを感じる。人生なんて言葉が照れもなく使えていた時代である。ちょっと前に、精神という言葉を使ったと思うが、今わたくしが人生という言葉をきいて感じる抵抗を、今の若いひとは精神という言葉に感じるかもしれない。
それでもわたくしは精神の存在を信じていると思う。それは何かでそれが動かされることを感じるからである。それではわたくしが動かされることがあるのは何故かといえば、それを作ったひとの中にもやはり精神とでもいうほかない何かがあって、それが動いているからなのであろう。イージー・リスニングとはその動きがないものをいう。だから作った人の中でなにかが動いているのがすべての前提となるが、その人の作った曲に呼応して自分の中でも何かが動きだすかどうかは、その時々で変わってくるように思う。この対談を読んで思い出していた時には、「第五」はもっと凄い曲として想起されていたのだが。(クライバーの演奏がつまらないだろうか?)
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