西洋だけにあるもの?

 You tubeカラヤンが振っているヴェルディのレクイエムの「怒りの日」を見て(聴いて)、これは日本にはまったくないものではないかと感じた。

Dies iræ, dies illa
solvet sæclum in favilla:
teste David cum Sibylla
Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus.

(怒りの日にはダビデとシビラの預言通り世界は灰燼に帰す。審判者があらわれてすべてが厳しく裁かれる。その恐ろしさはいかばかりか。)
 とにかく大袈裟、大オーケストラと大合唱が目いっぱいの大音響でがなりたてる。ラッパやティンパニは大張り切り。合唱もがなりたてる。
 わたくしは大学時代合唱をやっていたので、モツアルトやフォーレのレクイエムは歌ったが、幸い?ヴェルディのレクイエムは歌わなかった。(第九は何回も歌った。これは三楽章までは素晴らしいのに、終楽章でぶちこわしになってしまうというのがわたくしの持つ偏見。三楽章までは個々の人への音楽なのに、終楽章が急に人々を扇動する音楽になってしまう。立て! 飢えたるものよ、今ぞ日は近し!・・・) 最後の楽章になって、それまでの三つの楽章を否定するというのも聴いているものを馬鹿にした話であると思う。
 それはさておき、日本のキリスト教徒はヨハネ黙示録の部分は無視しているのではないか?「七つのラッパを持っている七人の天使」など、何のこと?なのではないだろうか?
 最相葉月さんの「証し 日本のキリスト者」を入手したのでいずれ感想を書こうと思っているのだが、なにしろ大部の本なのでいつになるかわからない。一言だけ書いておけば、「キリスト者」という言葉が嫌いである。キリスト教徒ではいけないのだろうか? イスラム教徒、仏教徒なのだからキリスト教徒でいいはずである。なにかキリスト教は特別という意識がそこに透けてみえるような気がする。
 橋本治さんは「近代になってからの日本人がしでかした“宗教に関する最大の錯覚”は「“信仰”と言えばキリスト教」というやつである。と断言する。」と書いていた。(「宗教なんかこわくない!」ちくま文庫
 日本人にとって、キリスト教と言えばわれわれの罪を背負って十字架にかかったイエス様なのであって、「怒りの日にはダビデとシビラの預言通り世界は灰燼に帰す。審判者があらわれてすべてが厳しく裁かれる。その恐ろしさはいかばかりか」などということをする恐ろしい怒りの神様ではないのである。
 だから「怒りの日」の音楽を聴いても、カラヤンさんの大袈裟な身振りには何かピンとこないことになる。