論語と聖書

 
 「論語子路篇に以下のようなところがある。

 葉公孔子に語げて曰く、「吾が党に直躬という者有り。其の父羊を攘みて子之を証せり」 孔子曰く、「吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り」と。(葉公が孔子に話しかけて言うには「わたしの村に正直者の躬という男がいて、その父親が迷いこんで来た羊を自分のものにしたのを、父が盗んだと証言しました」。それをきいた孔子が言った。「わたしの村の正直者は、それとは違い、父は子のため隠し、子は父のため隠します。それこそが心が真っ直ぐということなのです。」

 これは渡部昇一氏の本で知った。おそらく、教科書問題とか自虐史観とかを論じた文のなかにおいてで、どの国も自分の国の歴史のなかの暗い部分、問題な部分については、あまりはっきりとは書かなかったりぼやかしたりするもので、それは世界に共通のことである。それなのに日本の歴史教科書だけは葉公の立場で、直躬こそが正直者という立場で書いている。おかしいではないか、ということであったように思う。
 読んだときはなるほどね、と思ったもので、それで昨今の朝日新聞の騒ぎをみていて、思い出した。
 林達夫氏は「共産主義的人間」で、ソ連時代の教科書であらゆる過去の偉業はすべてロシア人のよるとされているのをからかっていたが(ラジオを発明したのも、蒸気機関をつくったのも、ペニシリンを発見したのも、飛行機の製作も、ロケットを初めて作ったのも、電球の発明も、質量保存の法則の発見もみんなロシア人なのである! 面白いことにソ連が打倒した帝政ロシアの時代のことであっても、それはロシア人の優秀性を示すものとして誇られるのである)、ソ連の場合は暗いところを隠すどころか、過去を捏造していたのであった。
 過去に朝日新聞慰安婦問題の報道などをみていて感じた違和感は、「本当に残念なことに」「大変悲しいことに」戦場において日本軍はこのようなことをしていました、というのではなく、「ほら、こんな悪いこともしていたんですよ」と実にうれしそうに嬉々として報告している印象を強く感じさせる報道姿勢から生じていたように思う。沈痛というようなトーンはなく、ほらまた過去の日本軍の悪行を一つ発見しました。それをみつけた自分をほめてくださいというような感じなのである。
 渡部昇一氏の論(あるいは遡って孔子の論)は「共同体」という問題にいきつくはずで、共同体というのは内と外を峻別し、共同体の内と外ではそこで働く倫理や規範が異なる二重規範を特徴とする。そこには人類に普遍的に適応される規範というものはなく、ある規範が働くのは共同体の外だけで、共同体の内側ではそれとは別の規範が作動することになる。葉公あるいは直なる躬さんは普遍主義者であって、正しいことはどこでもいつでも正しいとする人である。
 孔子は共同体を親兄弟といった比較的狭い範囲に限定していたように思われる。だが、渡部氏は日本人というものをも共同体の成員とみなしたいようである。それならば、日本の外には普遍があるのだろうか? 渡部氏は日本の外側に存在する普遍を主張するひとびとこそが間違っているのであり、世界のそれぞれにはそれぞれの特殊があるという方向のように思える。それならば、「普遍は存在しないというのが普遍的に正しい主張であり、普遍は存在するというのは世界の一部でしか通用しない特殊な思考法である」ということになるのだろうか?
 普遍が存在するという思考は一神教に由来すると思うのだが、多神教こそが普遍的という考えもあるうるのだろうか? 古代中国の葉公が一神教の信者であったわけではないから、正しいことはどこまでいっても正しいという思考法がそのまま、一神教であるとはもちろんいえない。それなら原理主義的とでも言い換えたほうがいいのかもしれない。
 戦中の朝日新聞は軍部も真っ青のイケイケドンドンだったが、必ずしも、そうしたほうが新聞が売れるということばかりでなく、物質主義的西欧対精神主義的東洋(日本?)の対立くらいなことはいくらなんでも考えていたのではないかと思う。蓑田胸喜の「原理日本」ほど神がかってはいなかったとしても、世界の半分は欧米に分けてやってもいいが、残りの半分はこっちのもので、これからは自分が指導するくらいなことは妄想していたのではないかと思う。半普遍主義? それで敗戦で憑き物が落ちると、ただ一つの西洋の普遍のほうに転向したのだと思う。その普遍は一神教の神ではなくマルクス共産主義であったのかもしれないが・・。だがソ連の崩壊と中国の変貌でマルクス主義への信仰は消失してしまった。それでも普遍への信仰は残ったのであり、その普遍とは、「世界には普遍的に正しいことがありそれをわれわれは認識できる」という葉公的な信条のようなものであったのではないかと思う。
 その普遍的な正しさにいたるためには懸命に学ぶ必要があり、それで学に勤しんだ人はその知識によって、学ばない愚かな民を指導していくのだというような構図ができて、「知識人が民を指導するという構造」だけは戦争中も戦争後も一貫して続くことになった。
 戦後、転向して西洋的普遍を受容に向かったときに、西洋的普遍はキリスト教的なバックボーンを持つものであるため、同事に(無意識のうちに?)入り込んできたのが、「罪の意識」で、具体的にはそれは「戦争という悪への加担の記憶」という形をとった。犯した罪は「懺悔」しなくてはならない。慰安婦の問題であるとか南京虐殺の問題であるとかの報道は「懺悔」の行為なのであり、そのような「懺悔」によって、ようやく「罪の意識」のなにほどかを除くことができるようになる。そして「懺悔」するひとは、自分の罪をしらず「懺悔」の必要を感じない人より「良心的」なのである。とすれば、これらの問題については、事実がどうなっているかよりも、肝要なのはそれを恥ずかしいと感じている自分の深い反省の気持ちのほうであって、一向に反省する気配もなく平気で日々暮らしている愚かな民と自分は違うということのほうなのである。倉橋由美子さんが「城の中の城」で、キリスト教の一番いやなところは、信者が信仰のないものを「憐れなるものよ!」といった憐憫の目で見ることであるといっているが、それに近い何かである。
 最近の朝日新聞の論調から透けてみえるのは、なぜ自分たちの些細な間違いばかりが指摘されて、自分たちの良き意思である「悲惨な戦争を二度とおこしてはならない」のほうは誰でもわかってくれないだろうという苛立ちである。「本質を見よ!」とか「基本姿勢は変わらない」といっているのはそのことで、いくら批判されても、あの戦争は正しかったなどという方向には絶対にいけるわけはないではないかということである。しかし、形勢が思わしくなくなって来た。すると、そこにいきなり出てくるのが共同体の論理なのである。「身内については厳しいことはなかなかいえないですよ!」ということで、孔子は正しかったとことになる。一方で普遍主義、もう一方で身内の論理が、時と場合によって使い分けられたり混在したりするのだから、そこでの論が傍からみれば理解不能なものになってくるのは当然である。しかし論じているひとからすれば、一方での「戦争は絶対の悪でその悲惨は絶対にくりかえしてはならないというのは普遍的な真理です!」と、他方での「大会社になれば、その内部でしか通じない論議がでてくるのは仕方がない。あなただってお父さんが悪くいわれたら庇うでしょう!」という論が、使っているひとの頭の中ではその時々で整合的であると感じれているのだから、自分のなかでは理屈が通っているように思えて、批判されるとどこが悪いのか理解できなくて呆然となるという状況になってきているように思う。
 そもそも新聞が普遍主義で一貫しているわけではなくて、オリンピックとかワールド・カップとかになると、いきなり戦時中の報道モードに戻ってしまう。滑稽なのはアメリカ大リーグにいった日本選手が今日は安打を何本打ったとかが報道の対象になることで、野球というのは団体競技なのではないだろうか? わたくしが一番嫌いなのは、オリンピックなどで出場選手の故郷の公民館かどこかでみんな集まって旗など振っている光景で、反吐がでそうである。報道しているほうも、イヤな気分に耐えながら視聴率のため、販売部数のためじっと我慢してやっているのだろうか? あれは戦時中の出征兵士をおくる光景とどこが違うのだろうか?
 いま「日本海軍400時間の証言」という本をちらちらと読んでいる。敗戦後、海軍の幹部であったひとたちが秘密裏に集まってあの戦争についての検討をおこなった「海軍反省会」の記録についてのテレビ番組を書籍化したもの(2011年刊)が最近文庫化されたものである。テレビ番組も2011年の本も知らないので、今回はじめて読んでいる。これを読んで感じるのは、ジャーナリストの取材というのは地味で大変なものなのだなあということで、事実を知りたいということになれば、とにかく地を這うような作業が必要ということである。
 第二章は「開戦 海軍あって国家なし」と題されている。海軍は戦って勝てるとは思っていなかったが、戦争準備といわなければ予算がこないから(表面的には)強硬論を主張し、ぎりぎりになって戦争を避けるというのがベストと思っていたが、戦争に勝てないといえば陸軍に予算がまわってしまうから、強硬論を貫かざるをえず、ずるずると戦争がはじまってしまう。そして初戦は連戦連勝。ところが広大な占領地域の作戦を立てる参謀がたったの10人しかいなかったのだという。
 このような事態を見て、本書を書いているNHKのディレクターたちは盛んに我が身を省みている。組織の維持が優先されて正論が退けられていく、そういうことは自分たちのまわりにもあって人ごとではないということである。今の朝日新聞の内部にも同じような感慨が充満しているのではないだろうか? ここで謝ったら今までの「二度と戦うな!」路線までも信用を失ってしまうという「たてまえ」論と、謝ったらおれの部局の勢力が殺がれて、あいつの部局の勢力が伸張してしまうという「本音」論の交錯。
 この「日本海軍400時間の証言」には「文庫版のためのあとがき」があって、そこにペルシャ湾での機雷掃海任務を指揮した元海上幕僚長の言葉が紹介されている。尖閣諸島問題を論じる最近の多くの記事への怒りである。「海上自衛隊と中国海軍もし戦わば」といった記事は、太平洋戦争前に充ちていた「日米もし戦わば」という記事と少しも変わるものでなく、そういう記事こそが戦争に道を開いたのではないかということである。(少なくとも今は引退した世代までは)自衛隊の幹部は著しく非戦的、戦争回避的なのである。
 今回の事態で感じるのは、ポパーがいうところの「人よりもよく知っているといううぬぼれ、知的虚栄心、それにもとづく尊大さや独善」という知識人の染まりやすい悪徳が朝日新聞を長いあいだにじわじわと蝕んできていて、それが一挙に表面化してきているのではないかということである。
 世界に万古不易に存在する真理を知る知識人というような独善的で傲慢な自己規定は滑稽でもあり鼻持ちならないものになってきているのだということにまだ気付けていない新聞人というのもいるのだろうと思う(そういう「進歩的文化人」の像は60年安保のときにすでに破綻したはずなのだが。それを批判したのが全共闘運動であったはずなのだが・・)。
 そのような自己規定にもとづくプライドがなければそもそも新聞人でありつづけるための動機も失うわれてしまうのかもしれない。光栄ある朝日新聞人が「ネトウヨ」と同じ地平にいるなどということは考えたくもない悪夢なのかもしれない。しかし「ネトウヨ」などと馬鹿にするのではなく、根気よくそれを説得しようとする方向しか、今後の生き残りの道はないような気がする。もっとも「ネトウヨ」といわれるような人々のほうも朝日新聞などははじめから馬鹿にしていて、それとの議論など時間の無駄と思っているであろうから、どこからはじめるか道は遠い。
 「声」欄が「ネトウヨ」の人たちの論で埋まるようになればというような空想はまったく実現もするはずはないことであるが、今の世論の最大公約数はそれほど「ネトウヨ」といわれるひとの論調とも違っていないのかもしれないのだから、草の根にいるはずの想像上の朝日新聞信者&支持者ばかりに頼っていると先は暗いのではないかと思う。
 なんだか論語とも聖書とも関係ない話になってしまった。
 

城の中の城

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よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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