「第九交響曲」

 今日の朝日新聞の朝刊に音楽学者の岡田暁生氏が「「第九」再び抱き合えるか」という文を寄稿している。「いつか「コロナは去った」と世界の誰しもが感じるようになる日。それを祝うコンサートとして、ベートーベンの「第九」ほどふさわしい曲はないだろう。」というのがその書き出しである。しかし「三密」を避けるという現在の動きの中で、大編成のオーケストラと合唱隊と独唱者を要するこの曲の上演は困難であり、ベートーベン生誕250年の今年であるが、多くの「第九」公演は中止されるであろう、と。
 一方、「週刊 東洋経済」誌の最新号での「コロナ時代の新教養」という特集には宗教学者島田裕巳氏が「今こそ生きる意味を探れ」という論を寄せていて、イスラム圏をのぞけば世界的に宗教は衰退してきていることを述べ、今回のコロナ禍では「人の密集を避けるために集会の規制が行われている」が「そもそも宗教は人が集まることで生まれる熱気や陶酔が重要」なのであり、「宗教にとって人が集まることは本質的なこと」であるので、現在の事態は宗教にとって決定的な痛手であると述べている。
 わたくしは知らなかったが、今年3月、イタリアで感染の爆発が起きているその時に、ローマ教皇は、聖職者に対し「外出して新型コロナ患者に会うように」と呼び掛けているのだそうである。カトリックには「終油の秘跡」といって、亡くなる人に聖職者がオリーブ油を塗って最期の許しを与える儀式があり、これは(カトリックでは)死に際しての不可欠な儀式であり(この秘跡はウォーの「ブライズヘッドふたたび」でも、最後の場面で一種の「機械仕掛けの神様」となって現れる。大団円をもたらすのではなく、人を引き裂くものでとしてではあるが・・)、それを実践するようにと呼び掛けたわけであり、それによって聖職者に多くの犠牲者が出たのだそうである。
 ベートーベンの時代には現在のような大ホールなどとをわたくしはしらないが(本日の朝日新聞の岡田氏の記事には「大阪城ホールでの「一万人の第九」の写真が付されている」)、今とは比べ物にならないくらいこじんまりとしたものであったであろうことは間違いない。それでもベートーベンの頭の中には、現在のような大掛かりな演奏につながるようなイメージはあったのかもしれないと思う。Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuß der ganzen Welt! 全世界に呼びかけようというのだから。
 このような大言壮語的というか誇大妄想的というか兎に角も大袈裟なものを音楽に持ち込んだのはベートーベンであるが、これがその後の多くの作曲家に祟って、ヴェルディの「レクイエム」とかマーラーの「復活」とか「千人の交響曲」とかを生んだのであるが、一方、ベートーベンが「英雄」や「運命」や「第九」を作っていなかったとしたら、今頃いわゆる西欧クラシック音楽はとっくに生命力を失って一部好事家たちのための古典芸能となっていたであろうこともまた間違いないように思う。
 ベートーベンがその交響曲を書かず、晩年のピアノソナタ弦楽四重奏のようなものだけを書いていたとしたらというのは考えても意味のないことであるが、あのような、ある意味では空疎なハリボテのような部分もある「第九」(あるいは「荘厳ミサ」)のような音楽を書いてしまうと、バランス上どうしてもああいう鍵のかかる個室での自分一人のための音楽もまた必要になるのであろうと思う。
 「一万人の第九」という演奏会もある意味異常なものであるが、後期のピアノソナタとか弦楽四重奏の演奏を大ホールで多くのひとが聴いて拍手するというのも別の意味で異常なことかもしれない。これは本来は自分で弾いたり、仲間と合奏したりするものではないかと思う(それにしてはとんでもなく難しい曲であるけれども)。
 個人というのは西欧近代の最大の発明で、その西欧が生んだ個人の代表選手はひょっとするとベートーベンであるかもしれないが、そのベートーベンが同時に集団の情念に火をつける方向の音楽をつくる方向ついても、またその模範例を後世に残したという矛盾の象徴が「第九交響曲」ではないかと思う。
 第九というのは曲の構成からみると相当に破綻しているので(終楽章の頭で、それまでの音楽を否定するなどというのも無茶苦茶であるし、4楽章、合唱のテーマがチェロとコントラバスででてくるところなど、あんなに面白くもおかしくもない旋律がくごもった低音で延々と続くなどというのも、聴衆に我慢を強いて平気という無神経ぶりである)、指揮者も演奏に苦労するのではないかと思うが、音楽が人を醒めさせるのではなく、酔わせる方向にむかわせる力を持つということについて、それを演奏の場でどうあつかっていくかが一番難しいのではないかと思う。
 人間は集団で酔う方向と個人で醒める方向に引き裂かれているわけであるが、現在は感染症予防のために極力「個」であることを強いられている。しかし今、白い目で見られている飲み会などというのも、いってみれば小規模集団の相互確認作業のようなところもあるわけである。
 集団意識をいかに無害に発散解消させるかということは人間に課せられた大きな課題であるわけだが、音楽というのはそれを上手に使うならば、そのためのなかなか有用な手段であり続けてきたのではないかと思う。とはいっても、今次大戦後、西欧の音楽が一時、非常に無機的な方向に傾いたのは、戦中に戦意高揚のために音楽が散々に利用されたことへの反動という測名が間違いなくあったはずである。
 「三密」を避けるなどというのが、そもそもどこか人間の本性に反するわけなのであるから、そうそう長く続けられるはずはないかもしれない。
 室内楽的な小編成のオケと独唱4人以外に各パート6~7名の合唱などといった室内楽的な演奏会からまず「第九」の演奏会は再開されるのであろうか? ついでに無駄に長い4楽章も刈り込んでもっとすっきりしたものにするとか・・・。しかし、そういうものではやはりわれわれは高揚できないのだろうか?
 テレビで一部をみただけど、映画の本編もみていないが、「ボヘミアンラプソディー」のクイーンのコンサートの観客の人数というのはどのくらいなのだろう? クラシック音楽はその方面でいくらはりあっても所詮、勝ち目はないと思うのだが・・。