Yiğidim Aslanım

 実は、このタイトルをどう読むのか知らない。You tube でピアニストのファジル・サイを見ていて、偶然いきあたった曲のタイトルである。最初は作曲家でもあるサイ氏が作曲した曲なのかとも思ったのだが、オーケストラは全員休んでいて、サイさん一人のピアノ伴奏で、オーケストラ後方のコーラスが物悲しい旋律を斉唱していくというだけの曲である。サイさんはトルコのひとなので、おそらくそちらの言葉なのだろうと思うがWikipediaで調べても、日本語はおろか英語の解説もでてこないので、曲についてはよくわからない。
 いろいろみていくと、どうやらサイ氏が作曲した(のではないかと思う)Nazım Oratoryosu という曲(これはオーケストラ、ピアノ、合唱、独唱と語り・・・これが極めて重要な役割・・・わたくしがみた You tube ではGenco Erkal という名の老優の大熱演・・からなる大曲で、タイトルをみれば、そらく オラトリオの一種ということなのであろう)の後に、アンコールとして演奏されたものなのではないかと思う。多分、聴衆もみな知っている旋律のようである。トルコ独立を指導したケマル・アタテュルクと関係があるのではないかという気もするが何しろ、一句も解せずのトルコの言葉であるから、全然違っているかもしれない。
 まったく偶然目にした(耳にした?)大人数がただただ斉唱する歌がもつある種の祝祭性というか祭儀性が気になって書いてみた。たまたま数日前に「第九」の持つ音楽の祝祭性というかロマンへの傾きについて書いたばかりなので、この曲の調子が気になったのかもしれない。
 小林秀雄の「モツアルト」は、そういうタイトルではあるが、いいたいことはベートーベンが音楽に導入したロマン主義の全否定で、自分が若いときにどっぷりとつかりきったランボー経由のロマン主義の路線の懺悔の書である。しかし、さすがにハイドンまではもどれず、モツアルトの悲しみの疾走までは許容するのであるが・・。しかも、ゲーテの若き日の疾風怒涛の時代の否定を借りて、自分をゲーテになぞらえるというなかなか芸の細かいところもみせている。
 音楽は宗教的儀式にその起源をもつことは間違いないわけであるが、ロマン派の音楽はその方向を全面解放してしまったので、後世のひとはその毒を消すのに大変な苦労をさせられることになった。
 しかし、多くの人数で一つの旋律を斉唱するというただそれだけのことで、そこから何等かの祭儀性がいやおうなく立ち現れてくるのだとすると、音楽がその根に持つ祭儀性の問題はきわめて根が深いことになるのだろうと思う。