今日入手した本
- 作者: エマニュエル・トッド,石崎晴己
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- 作者: 樋口裕一
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なかなか面白い見方だと思うのだが、「自己批評」系の音楽と「誇大妄想系」の音楽というほうがより近いような気もする。ベートーベン晩年のピアノ・ソナタとか弦楽四重奏曲は内省系音楽の極致のように思うが、同じ時期に「第九」とか「荘厳ミサ」とかいった誇大妄想の極致の音楽も書いているのがベートーベンという作曲家のわからないところである。
第五交響曲は緊密な構成によるソナタ形式の手本であるのかもしれないが、同時にまぎれもない誇大妄想の部分も含んでいる。あの大袈裟なみぶり、なんともいわくありげな構成がなければ、いくら緊密な構成があったとしても第五がこれだけポピュラーな曲になることはなかったはずである。
ベートーベンというのは音楽だけでは満足できなかったひとで、そこに何らかの+αを持ち込みたいという気持ちがいつもあった。大作曲家であることだけでなく、偉大な思想の持ち主としても評価されたいという気持ちが抑えられなかった。樋口氏がいう芸術家というのはそういうことではないかと思う。音楽だけでは満足できない音楽家という奇妙なひとだったのである。
それ以来、「音楽のわくの中にとどまろうとする作曲家」と「音楽だけでは満足できない、そこになにか+αをもちこまないと我慢できない作曲家」の二つの潮流ができ、前者がブラームス派、後者がワーグナー派なのではないかと思う。そうであれば、シューマンもシューベルトもメンデルスゾーンも前者であり、ベルリオーズやマーラーが後者であるのは明らかであろう。そうであるならば著者が分類に躊躇しているブルックナーは前者、リヒャルト・シュトラウスも前者なのではないだろうか。
そしてクラシック音楽の一時期の隆盛はベートーベンが持ち込んだ+αによるのであり、近代音楽から現代音楽からはその+αがどんどんと失われていった歴史であり、それがクラシック音楽の衰微につながっているのではないだろうか? ショスタコーヴッチなどというのは現代では珍しい+αをもつ作曲家である。
芸術至上主義という方向は生命の枯れたものになりやすく、何らかの「夾雑物」を含む作のほうが生命力をもつということはあるかもしれない。とはいっても、わたくしはブラームス派であるのだが。
もしもベートーベンという作曲家がいなければ西洋音楽史はどうなっていただろうかというのは、とても大きな歴史のイフである。