鹿島茂 「吉本隆明1968」 (4)高村光太郎と四季派の詩人たち

    平凡社新書 2009年5月
 
 ちょっと気になって調べてみたら、吉本氏は1924年生まれ、吉行淳之介も同じ年の生まれで、山田風太郎は1922年生まれだった。吉行氏は厭戦派だろうか? 「戦中派不戦日記」の山田青年は愛国青年であるかもしれないが、吉本氏とはずいぶんと肌合いが違う。同じ世代でも戦争に対する反応はさまざまであったはずである。
 8月15日の敗戦に際して書かれた高村光太郎の詩「一億の号泣」に吉本青年が感じた違和感というところから、高村光太郎をめぐる論がはじまる。吉本氏によれば高村もまた「知識によって階級離脱してしまった中層下層階級出身者」なのである。
 中層階級ではあるが芸術家というより江戸の残映の色の濃い職人的仏師であった高村光雲の息子光太郎がパリに留学して全身芸術家であるロダンに師事することから生じるドラマが問題とされる。
 さて、鹿島氏は1968年当時、地方出身の学生にとっては大学に合格して東京にでてくることは今の若者がアメリカやヨーロッパに留学する以上の異次元体験であったのではないかという。日比谷・新宿・戸山といった都立名門高校出身者がパリジャンで、地方の無名高校出身者はセネガルやマリなどからやってきた留学生のようなものだった、と。鹿島氏は県立湘南高校出身というその中間なのだそうである。それで地方からでてきたものはものすごく背伸びをするか、いじけてしまうかのどちらかだったと。
 わたくしが大学に入ったのは1966年だけれども、地方から出てきたひとに一番感じたのは、大学に入ってはじめて挫折するひとがいるのだなということだった。出身高校で一番どころか県で一番とかその地方で一番などというひとがたくさんいて、ひょっとすると俺は日本で一番頭がいいのではなどと思っていたひとが少なからずいた。なにしろ先生が解らないと「お前解いてみろ」などといわれ、先生の代わりに教えていたなどというのである。そういうひとが自分よりもっと頭がいいひとがいるということを大学に入ってはじめて発見するのである。これは見ていてなんだか可哀想な感じがした。そういう点でいえば、わたくしにとっての留学体験は麻布中学に入ったときで、自分より頭のいいひとがたくさんいることを発見していじけてしまい、小説などに逃避するようになってしまった。そしてこの逃避が同時に背伸びでもあったわけで、15・16・17とわたくしの人生は暗かったのである。後になって福田章二(庄司薫)の「喪失」を読んだとき、そこにでてくる高校生たちのイヤったらしさが身につまされた。「赤頭巾ちゃん気をつけて」に描かれている日比谷高校ほどは麻布高校はイヤったらしくはなかったと思うけれど(そのころ一番生意気な生徒が多くいたのは教育大付属駒場高校だったような気がする)、挫折は早くしておいたほうがいいのかもしれない。いずれにしても、挫折すると人間は素直でなくなる。それが問題である。
 閑話休題、西洋に留学して高村光太郎は、西洋と東洋の落差に打ちのめされた。一般にそういう落差に直面した場合、二つの対応があると吉本氏はしている。一つは西洋人も東洋人も同じ人間という見方の方向で、もう一つは隣の隣人でさえ何を考えているのかわからないのだから、ましてや離れた西洋人などわかるはずがないという方向である。
 ひろげれば、「普遍」と「個別」という問題で、そうであるなら、これは何も西洋と東洋の比較だけでなく、もっと一般に「学問」と「文学」ということなのではないかと思う。「学問」は「普遍」を前提にしなければ成立しない。「文学」はわかる奴にはわかるということが成立する世界である。
 しかし問題は「普遍性」を西洋が独占していることである。最近、金聖響氏と玉木正之氏の「ロマン派の交響曲」を読んだが、そこに《西洋音楽の基礎であるトニカ−ドミナンテ−トニカの動きでのドミナンテ−トニカは緊張から解放だから、ある種の「間」あるいは「ため」がそこで生じる。その感覚はヨーロッパの人間には自然に備わっている。しかしその一点をのぞいては西洋の人間と非西洋の人間の間で音楽にかんする感覚において変わるところはない》という金聖響氏の言があった。しかし、トニカ−ドミナンテ−トニカの動きというもの自体が西洋音楽にしかないである。西洋音楽にしかないものが普遍であるというのはどういうことなのだろうか? 普遍文法のように、西洋以外の音楽でも分析していくとそこにトニカ−ドミナンテ−トニカの動きをみつけることができるのだろうか?
 西洋音楽の不思議はそれが物理学的な基礎をもつということである。ある低い音の響きの中には、かりにそれをCとすると、GもEもそしてB♭もふくまれているから、それがサブドミナンテを誘導する。主和音から下属和音への動きも、ドミナンテ−トニカの動きなのである。これは物理学が決めてしまう普遍的なことのように思えるが、カデンツにもとづく音楽は西洋だけで生じた。そもそも西洋音楽は低音に基礎をもつ。ド−ソ−ド、あるいは、ド−ファ−ソ−ソ−ドの低音の動きが音楽を支配する。それに対して雅楽などは高音だけでできているような音楽である。コントラバスだとかチューバといった独奏をほぼ前提としない低音で音楽をささえることを主な目的とした楽器というのは西洋以外では作られなかった。西洋が世界を支配したから西洋音楽が普遍であることになったのだろうか? それとも西洋文明が世界を制しなかった別の歴史でもカデンツにもとづく音楽は必ず発見されるのだろうか? それが音の物理に由来するものなのであるがゆえに。
 しかし、本書で議論されるのはそのようなことではない。マルクス主義が「科学」と「普遍性」を装う思想であったので、地方からでてきた学生たちが日比谷高校出身などのパリジャンと対等に立てるために利用できるものであったということである。それが地方出身の学生たちのほうが容易にマルクス主義に魅せられた理由だという。
 マルクス主義の普遍は、経済という下部構造がすべてを規定するという仮定に依存する。ところで、鹿島氏は後書きで、本書はそれを意識したわけではないが、最近氏が凝っている人口統計学や人口動態学とかなり関係しているような気がするということを書いている。トッドの「帝国以後」の《社会に変化をもたらすのは、人口の増加と15歳以上の男子の識字率の上昇、それとそれに続く女性識字率の上昇と出産調整である》という説を紹介している。これもまた普遍性の側の主張である。人口は数であり数字として示すことができる。識字率も同様である。人口に影響する要因は様々であろう。気候の変化、戦争、疫病、農業革命、流通革命などいろいろ考えられる。マルクス主義はこの様々な原因のなかでも生産力の増加に決定的な重要性をみた説なのかもしれない。人口についてはあるいは将来は減少に転ずることがあるかもしれない。しかし識字率については、これから上昇することはあっても減少に転ずることはないと仮定してもよさそうである。なぜか? 人間とはそういうものだから、というのでは説明にはならないかもしれないが、それはわれわれが居心地のよさを求めるのと同じくらい基本的な欲求であるように思われる。本書に伏流するテーマはこの識字率の上昇なのである。日本は識字率という点では、とっくに(江戸時代に?)離陸していたとしても、教育の普及による知識の拡大というところまで意味を拡張すれば、それがそのまま本書のテーマである。もっと一般化すれば、知恵の木の実の話であり、プロメテウスの火であって、われわれはたとえ不幸になってでも知恵や知識を求め続けるのである。
 さて、吉本氏は高村光太郎についての議論の中で、「芸術の想像や理解は普遍的なものであるか」という議論をしている。ここでも氏はそうでもあり、そうでもないといっている。われわれはロダンの彫刻をみて感動する一方では、女房子供の気持ちでさえさっぱり理解できないのだから。ただ、と吉本氏はいう。美術と文学では少し違う、と。なぜなら視るということは人の基本的な生理であり、原則として誰にでも可能であるが、文字は抽象的なものであるので差別的に働くと。それにもかかわらず文学が成立するのは、こころが万人に普遍的であるという仮定によってであると。
 視ることだけではなく聴くことも人の生理機能である。口承文学は書物ができるまえから存在してきた。だからこのあたりの吉本氏の議論はなんとなく変である。しかし吉本氏がいうのは、パリでの光太郎が、モデルの女がなにを考えているかはさっぱりわからなくても、それでも女の形態を模写できるということに悩んだのだということである。
 光太郎の父光雲は、抜群の技量をもつ仏像彫刻の職人であったが、家の中では絶対の権力をもち、頑固で、親分的受容性をもった。一方母は古風で没我的であった。これは典型的な下層庶民の感情、優しくて細やかな家族的感情である。しかし同時に日本の特殊性の象徴でもあり、それが芸術家ロダンと対立した。一般には、こういう日本的で細やかな家族感情(封建的優情)は、ひとがインテリ化し西欧化してくるほど弱くなっていくと考えられている。
 明治の文学者や芸術家は知的な上昇を遂げると、世界共通の普遍性の回路に入り、精神的自由を獲得したが、一方では、この封建的優情にいつも絡めとられそうになってきた。だが、多くの文学者にとっては、家父長的なヒエラルキー(封建的劣性)のほうが問題となったので、この封建的優情の問題はあまり意識に上らなかった。その中で「家」の崩壊と「私」の肥大が進んでいった。
 「「家」中、ひとりの悪党なし」という考えが下層庶民社会の特徴と吉本氏はいう。こういう「濃密な優情」は光太郎にとってだけでなくまた吉本氏にとっても乗り越えがたい鞍部であった。だからこそ、氏はこの問題にこだわるのだと鹿島氏はいう(もちろん、ということはこれをとりあげる鹿島氏にとっても、この問題はとても大きな問題だったということである)。人が安定的に身を置いて地盤とすることのできる心的なトポスを吉本氏は「環境社会」と呼ぶ。これを欠くと誰でも、精神的な宿無しいわゆるデラシネの状態に陥る、と鹿島氏はいう。
 この後、高村光太郎は性欲の強い人だったとか、長沼智恵子は当時としては日本人離れした、セックスにおいて何一つ物おじしない人だったのではないかといった議論が延々と続くが、これは高村夫婦のあいだの個人的な問題であり、普遍性にはつながらない議論であると思うのでパス(鹿島さん、こういう話題が好きなのである)。
 ただ二人の生活が浮き世離れした生活感のないものだったという指摘のみが重要である。そういう生活も大正期の経済上昇期に咲いた徒花である個人主義的な社会においては、放置され黙認されることも可能であった。しかし、昭和の不況期にはいるとそれが許容されなくなってきた。それではじめて光太郎は自分の生活感情の基盤を意識することになり、今までの自分と智恵子の間の生活が、性という自然(普遍)のうえに成立していると考えてきたように、大衆の動向もまた自然の運行のような必然と考えるようになった。それで、うしろめたさを感じて後ろ向きに戦争に協力したプロレタリア詩人たちとは異なり、積極的に前のめりになって戦争にかかわっていった。それを吉本氏が問題とするのは、氏もまた高村光太郎と同じような精神の傾きをもつことを自覚したからだと鹿島氏はいう。
 昭和12年ごろは、好景気でありながら格差が進行する時代であった。その時におきた日中戦争は民衆に異常な興奮をひきおこした。その心理的カニズムを内田樹氏は以下のように説明しているという。「「原始化した個であることの不利」を共同体に帰属することで解消したいが、共同体に帰属することで発生する個人的責務や不自由は引き受ける気がない。」 つまり、自己利益は確保したいし共同体からの分け前ももらいたいが、自分ではなにも支払いたくないということである。具体的存在でない「想像の共同体」は自分に干渉してくることはないし、自分を抑圧もせず、苦役も課さない。どこにいるか目に見えない共同体メンバーとは顔をあわせる必要もないし、誰ともかかわる必要がない。つまりひとりでいるのと変わらない。
 光太郎もまたこの共同体に回帰したのだが、民衆とはまったく異なる回路を通ってだったと吉本氏はする。自分と智恵子との生活がピュアだったように、現在の汚れた世界を浄化するものとしての戦争を夢想したのだと。デカダンス生活で汚れていた自分は智恵子によって浄化されたと光太郎は信じ、昭和12年の世相をデカダンズに陥っているとみた。当時の格差社会で敗者となった人間は利潤追求に血眼になる人間をデカダン人間として嫌悪し、浄化された世界を希求した。そこで聖化されたものとして夢想されたのが天皇だが、天皇は資本家の手先に取り囲まれている。それを除けばという発想がでてきた。しかし昭和11年の2・26事件は挫折した。
 次が四季派の詩人、たとえば三好達治。かれらは、所詮、ボードレールを暗唱しているクマ公、ハチ公にすぎないとされる。なぜなら、感性のレベルでインテリであっても、認識論レベルでのインテリではなかったからと。だから彼らにとっては戦争も長屋の横町の切った張ったとかわらないものと認識されてしまう。彼らの詩では、人間社会の葛藤や矛盾や対立も描けず、ましてや権力などでてくる余地はなかった。多くの日本人と同じに彼らにとって戦争は天然災害と変わらず、自然災害がいつかは収束するように戦争も終わったと感じられた(終戦)。日本の民衆はただ流されていく。しかし知識人までがそれでいいのかというのが吉本氏の問いであった。
 
 わたくしの高村光太郎の印象というのは不器用であまり頭のよくないひとというものである。たとえば「雨にうたるるカテドラル」の「おう又吹きつのるあめかぜ」の「おう」である。あるいは「根付けの国」の「猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」である。いかにも不器用である。意あって舌たらず、眼高手低、要するに詩人としては二流なのではないかと思う。詩人が言葉が下手では話にならない。
 それでは何でそれでも有名なのか? その倫理マゾヒズムというか、大袈裟趣味というか、やたらと苦悩したり、感動したり、はてまた反省したり、その振幅の大きさにかかわらず、つねにいつでも真面目である、そういう姿勢のためなのではないだろうかと思う? なにしろ放蕩にまで理屈がつくのである。「父は義のために遊んでいる」というのは太宰治だったような気がするが、そういっている太宰はその言葉の嘘を知っている。しかし高村光太郎はその時その時においてはつねに正しく、しかし、その立場は変わっていくのである。こういうのを頭が悪い、あるいは知性が足りないというのではないかと思う。だから「一億の号泣」の最後の4行がおかしいとすれば、それはそれまでの詩の流れと繋がっていなという点にあるのであり、そういうことがわからないのを頭が悪いというのだと思う。高村光太郎に欠けているものがあるとすればユーモアの感覚とでもいうべき何かである。ユーモアというのは相対化の感覚の中からしか生まれない。しかし高村光太郎はいつでもその時が絶対なのである。いつでも真面目というのは根本的に不真面目な態度ではないだろうか?
 だからわたくしはなぜ吉本氏がそれほど高村光太郎に入れあげるのかがよく理解できないのだが、やはり吉本氏は光太郎の中に自分に似た何かを見つけているのであろう。吉本氏は常に自分のその時々の行動を是とするひとである。戦争中は愛国青年であったことが正しく、安保闘争においては反安保で反日共の側にあることが正しく、全共闘運動などは愚かなことで、現代においては資本主義が正しい?。 吉本氏は面従腹背のような態度が嫌いなのである。戦争中一見戦争に協力していたように見えたかもしれないけれど、心の中では反対だったんです、などというのが駄目なのである。「裏声で歌え」というのが駄目。高村光太郎は全身全霊戦争に荷担した、それは肯定されるのである。それなら宮本顕治は全身全霊で戦争に反対したのではないだろうか? それは全身全霊でなく頭だけの反対とされる。霊もなければ身もないのである。一方、佐野や鍋山は頭と体が分裂した。
 それなら高村光太郎は? ロダンの芸術の精髄のピュアなもの→長沼智恵子のなかのピュアなもの→日本のなかのピュアなものというように転回していったというのが吉本説のようである。しかし光太郎の智恵子像は光太郎の身勝手な思い込みであったし、その日本像もまた光太郎の独り合点であったというのが吉本−鹿島説である。
 しかし、このあたりは「近代の超克」あるいは「反=西洋思想」そのものなのではないだろうか? 「近代の超克」座談会には三好達治もでていたはずである。三好達治の「いにしへのふみにもあらぬうみのをさ戦死したなふ報あなさやけ」という短歌で連合艦隊司令長官という言葉を使えないのはこれが祝詞の言葉で書かれているからである。丸谷才一文章読本」からの知識だが、祝詞では征夷大将軍をエミシヲサムオホキイクサノキミと読むのだそうである。それを先祖帰りと批判しても仕方がないという気がする。高村光太郎がパリにきてノートルダム寺院に「酔える日本人」として跪いても、それは西洋の「美」に対してであって、その植民地主義にではない。「美」とは「汚れ」の上にしか咲けないものなのかもしれない。それでその「汚れ」が日本にせまってくると、芸術はなく芸としての名人三五郎の根付しかない国ではあっても、生活そのものが「汚れ」ていない国として日本が肯定されてしまうのである。
 西欧において強烈な個が芸術を生みだす。個はそれぞれ孤立しているから個である。日本で教育の普及により知識をえるようになると、それは集団からでて個になっていく。個は寂しい。寂しさが昂じると出自の集団がなつかしくなる。「知識によって階級離脱してしまった中層下層階級出身者」の問題というのは結局それに帰着する。そうするとやはり「大衆の原像」というのが問題になってくる。

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

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