佐伯啓思氏『西欧の価値観「普遍的」か』

 今朝の朝日新聞佐伯啓思氏の『西欧の価値観「普遍的」か』という文章が載っていた。(わたくしから見ると)氏は右の人で(あるいは日本的価値観を称揚する人で)日本的価値観を否定するように見える西欧的価値観が普遍的なものであり世界標準であるべきとする見方には否定的なひとであると思う。
 とすれば『西欧の価値観「普遍的」か』というのは佐伯氏の根源にある疑問であると思うが、今回はウクライナの戦争について論じるなかで『西欧の価値観「普遍的」か』と問うている。
 つまりロシアにはロシアの価値観があり、それを西欧的価値観で断罪することへの疑問ということになるだろう。氏はいう。「人は理性的であるとともに、理性を超えた神秘的なものへも強く惹かれる」と。「であるとすれば、近代は宗教や神秘的存在と無縁な合理的な時代とばかりはいえないだろう。西欧が普遍的であると主張するものの見方の根底にはユダヤキリスト教的世界観がある」のだから、と。
 また言う。「ロシアはその苦難の歴史の中でロシア正教を支えにして生き延びてきた。そのロシア正教はロとシアの歴史と大地を根にした民族宗教である。その宗教を中心にして、神と皇帝と民衆が一本の糸でつながる。社会主義によって公式には宗教は否定されたとしても、宗教的なものはロシアの人々のこころの深層に「思考の祖型」として残っている。西欧においてもユダヤキリスト教的な歴史意識は残っている。とすれば、「一つの方向に向ける」のではなく、「多様なものの結合」がわれわれの目指すべき方向になるだろう」と。
 うまくまとめられていないと思うが佐伯氏の論は概ねそのような主旨であると思った。ここには書かれていないが、この論を進めると、「日本には日本の歴史意識に起因する日本的な価値観がある。それを西欧的価値観に統合していこうとする方向には反対である」ということにもなるのだろうと思う。
 西欧的価値観というのはまことに冴えない人の心を高揚させないものであり、要するに『各人勝手に好きなことをやればいい、それに互いに干渉しないようにしようではないか』というものに過ぎない。なぜなら『なにが正しいのかは誰にもわからない』からということである。多様性の尊重であり、だからこそ互いに許しおうということになる。
 どうも佐伯氏の主張にはそれぞれの国家あるいは民族にはそれぞれ固有の価値観があるという考えが潜在しているように感じる。つまり日本人ならかくあるべしというような、お前はそれでも日本人かといって、抛っておいてくれない感じというか・・。
 E・M・フォースターは「小説の諸相」(E・M・フォースター著作集8 みすず書房1994)で、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」からミーチャの「皆さん、僕は素晴らしい夢を見たんです」「彼は見違えるような、まるで喜びに輝いたような顔を見せて、奇妙な口調で言った」の部分を引用し、「予言者は思索しないのです。予言者は歌うのです」という。その歌によって「全人類が一緒になれる」のですと。
 問題は全人類が一緒になるのか、ロシア人が一緒になるのかということである。フォースターは予言的小説は謙虚さとユーモア感覚の停止を読者に要求します、という。謙虚さは自分は相対的であることを求め、ユーモアは自分を笑うという感覚の上に成り立つ。
 プーチン大統領の発言には自分はこう考えているではなく、自分は正しいことを主張していると言っているように見える部分が多い。なぜなら自分はロシアの精髄・真髄を受けついているのだから、と。
 佐伯氏はロシア的メシアニズムということをいう。「ロシアの救済を約束するものは皇帝であり、皇帝が救世主であるかのようにみなされる」とし、神、皇帝、民衆が一本の糸でつながれる、と。その神をいま演じているのがプーチン大統領である、と。これは暴論といわれるだろうことを佐伯氏は認めている。しかし西側諸国が抱く信念もまたユダヤキリスト教をその根に秘めているのだから、われわれは西欧的なものを唯一の目指すべき方向とするのではなく、ロシア的なものをふくめた「多様なものの結合」を目指すべきであろうとして氏は論を終えている。
 わたくしなどは「多様なものの結合」という言葉に納得できないものを感じる。氏のいっていることは、「多様なものの結合」ではなく、「多様なものの並立の容認」ではないかと思う。ロシアにはロシアの価値観がある。それを西欧的価値観から批判することは僭越であり越権である、と。
そして暗に「日本には日本の価値観がある。にもかかわらずそれが西欧的価値観が導入されることによってどんどん侵食され失われようとしている」とする危機意識があるように思える。それが、この『西欧の価値観「普遍的」か』という論を書く一番の根にあるものなのではないかと思う。
 わたくしから見ると、はるか昔の「近代の超克」座談会の蒸し返しである。「日本の血」対「西洋の知」。「東洋の精神文化」対「西洋の物質文化」 西洋化とは「日本精神に取り憑いた病気のようなものである。」(I・ブルマ&A・マルガリ―ト「反西洋思想」新潮新書 2006より)
佐伯氏の論はそこまでは過激でなく、西洋の物質文化は認めている。しかし「東洋の精神文化」をそれが侵食し破壊しようとしていることは許せないし、ロシアの非西欧的文化、精神性に富む文化を西欧の物質文化が破壊しようとしていることもまた許せない。とすると、現在の情勢は、ウクライナはロシア圏なのか西欧圏なのか、ウクライナは本来はロシア圏であるが、西欧的価値観の流入によってその文化が失われようとしているのかという問題にたどりつく。
 しかし佐伯氏が危惧するほどのことはないのではないかと思う。「アメリカを再び偉大な国家に!」と叫ぶ大統領が国民の半ばから熱狂的な支持を受ける時代である。
 「ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、・・壊すだんになればそれこそ刃物はいらない。・・芸術にしても民主主義にしても・・およそこういったすべての知的フィクションは・・ごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない」(庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(中央公論社 1969))わけで、知的フィクションとしての西欧的価値観が今崩壊に向かいつつあるのではないかという気がする。
 わたくしの物心ついてからの70年余りはその知的フィクションの中で生きてきたことになる。そのフィクションが崩れた後にくるものが、ロシアの血とか日本の魂とかどういうものになるのかはわからないけれど、世界がグローバルではなくローカルの分立のほうに向かう可能性はかなり高いのではないだろうかと感じている。