池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (4)

 「激動」p112で池上氏はいう。「大学自治会という場はみんなの大衆組織ですから、ここで多数決をとり賛成多数が得られれば学生ストライキを打つことも可能です。しかし同じストでもバリケードでキャンパスを封鎖し、建物を封鎖し、建物を占拠するような戦闘的なストを行おうと、多数派のノンポリ学生がついて来られないので否決されてしまいます。」

 もう50年前の出来事だから、細部の記憶は曖昧なのだが、わたくしが駒場から本郷へ進学する2年前くらいから、本郷では毎年学期末から2~3ヶ月、「インターン制度廃止」を掲げるストをやっていた。だから本郷に進学した時に上級生がやってきて「お前ら、スト破りするなよ!」といわれ、何の考えもなく、ストに賛成した。どうせ数ヶ月のことと思ったのである。
だからp122で池上氏がいう、「1968年1月に東大の医学部学生大会で登録医制度導入阻止や付属病院の研修内容を掲げて、無期限ストライキ突入を決議し、医学部は紛争状態に入りました」という記述は多分にミスリーディングで、登録医制度導入阻止や付属病院の研修内容改善を掲げての無期限ストライキというのは前年も前々年も行われていたのである。わたくしの裏読みでは、これは期末試験をレポート提出に変えさせることが目的で、だからこそ「一般学生」もついてきていたのだと思う。しかし、68年のストは終われなくなってしまった。それは、登録医制度導入阻止や付属病院の研修内容改善をかかげて病院の中でデモをしたという理由で17人を処分したところ、その中に一人、その時佐世保にいてそのデモに参加できるはずのない人がふくまれていたという事件のためである(T君誤認事件)。当然、処分撤回の要求がでるわけだが、その時の教授会の対応のまずさが大きな問題で、学生ごときに頭を下げられるかといって処分撤回を長く拒んだ。そうなったらストライキ側もスト解除には動けないわけである。この辺りについての経過については当時医学部教授であった山本俊一氏の「東京大学医学部紛争私観」(本の泉社 2003年)にくわしいので、以下、適宜、それを参照していく。

 この誤認問題への大学側のまことに拙劣な対応をみて、これは長期化するなと思い、わたくしは「アテネ・フランセ」に通いだした。さらに文学部も無期限ストに参加をするのをみて、これは強権による弾圧で排除される以外にもう解決はないだろうと思うようになった。「アテネ」は紛争が苛烈化した12月でやめてしまったが、もっと続けたらよかったとあとになって反省した。東大よりもアテネのほうがよっぽど増しな授業がおこなわれていたからである。アテネのフランス人の先生がたは、フランス文化とフランス語に強い自負を持ち、それをわれわれに伝達することに情熱を持っているのが強く感じられた。一方、大学の授業では終ぞ、そのようなパッションを感じる先生を見ることはなかった。(但し、わたくしはあまり授業にはでなかったので、わたくしが見た限りではであるが。)

 なお割合最近、先輩のある先生から、処分されたT君ではなく本当にその場にいたのが誰だったかを教えられた。わたくしが大変近しくした先生であったのでびっくりした。その先生はすでに亡くなられているが、一生、そのことを背負って生きられたのだと思う。この紛争(闘争)は実に様々なひとの人生に大きな影響を与えたはずである。

 さて、ストは長期化していったのだが、当初は定期的にクラス会がもたれていた。そこにはもちろん全共闘系のひと(わたしのクラスは社青同解放派が牛耳っていたと思う。非常に優秀なアジテーターがいて「昨日佐世保から帰りました」とかいって血に染まったシャツ姿で演説していた。核マルその他の色々な色のヘルメットもあった。そして自身は活動家ではないがシンパという人もすくなからずいた。一方、民青系の人は活動家が5人くらい、シンパはほぼゼロという感じだった。いわゆるノンポリのひとはほとんどクラス会には出てこないで家でせっせと勉強をしていたらしいが、ノンポリでもクラス会ほぼ皆勤というわたくしのような酔狂な人も何人かはいた。
 このクラス会で面白いと思ったのは、全共闘系の人たちもクラス会では多数決にこだわったということである。「何々棟占拠を」というような提案をするわけであるが、もしそれが多数に支持されれば、自分達の行動がより正当化されるというということだったのだろうか?

 とにかく、このストライキの時ほど本を読んだことは後にも先にもない。暇だったし、神保町も近いし・・。
 とは言っても、駒場の2年位から本を読みだしてはいた。その中で、吉本隆明の「自立の思想的拠点」に「こちらの陣営には碌なやつがいないが、向こうの陣営には何人かはいる」として江藤淳福田恆存の名前が挙げられていた。江藤は高校生時代から浪人中に「小林秀雄」など少しは読んではいたが、福田は「紀元節復活運動」などというアホなことをしている貧相なおじさんとだけ思っていたので、何で?と読んでみた。そして打ちのめされた。「人間・この劇的なるもの」「芸術とは何か」・・。そして福田が所属していた「鉢の木会」のメンバーの中村光夫大岡昇平三島由紀夫吉田健一などを読んでいくことになり、最終的に吉田の信者になって、今日に至っている。福田「カトリック」から吉田「反カトリック」へ?
 事後的にみれば、医学部の「インターン制度」問題からスタートしたわけであるが、この「インターン制度」反対が他学部にも支持が広がったわけではない。インターン制度云々は医学部以外の人間にはほとんど関心を引かなかった問題だろうと思う。これが全学に広がったのは、大学側の対応の稚拙さ、横柄さ、杜撰さ、若いやつらが何を騒いでいるのだ、下りおろう!というような態度が強い反発を呼んだということなのだと思う。

 わたくしの学生時代はまだ授業は黒板・白墨の時代で、偉い先生が授業していると、下の先生が黒板拭きに控えていて、さらに下の先生は恥ずかし気もなく「自分も早く黒板を拭かせてもらえるようになりたい」などといっている時代であった。T君誤認事件も、現場に不在だったT君の処分撤回の要求が当然がでて、大学側も再検討委員会を作った。そして、「さまざまな状況からT君が現場にいなかったことは否定できないが、完全にそこにいなかったとまで言える証拠は得られなかった」といような訳のわからないことをいって処分の撤回をしなかった。もし撤回すれば、おn処分の責任者の先生が学生達の前で頭を下げ謝罪しなければならない。〇〇先生にそんなことをさせるのはとても忍びない、というようなことだったのではないか、と邪推している。 
 ようするに完全に制度疲労を起こしていた日本の大学の体制へのアンチというのがあの運動の本質だったのではないかと思う。なにしろ、日本の医学教育というのは明治時代にプロシャから導入された医局講座制というのが昭和の40年代まで生き残っていたわけである。ひょっとするとまだ生き残っているのかもしれない。

 p113で佐藤氏は「全共闘の特徴は、近代的な代議制「ではない」というところにこそあります。」というのだが、中にいた人間としてはすくなくとも当初は、完全にそうはいえないように感じる。

 p116で池上氏は、新左翼の運動が凄惨さを帯びるようになったのは1967年の「第一次羽田事件」で京大1年の山崎博昭氏が亡くなった事件からだろう、と言っている。

 p122で、東大での上記のような大学側の対応に起こった学生たちが、6月15日に安田講堂を占拠した、とある。おそらくクラス会で全闘協側が「〇〇占拠」を提案したりしていたのはこの前あたりだと思うが、占拠する場所は安田講堂ではなかったような気がする。占拠に対して大学側が機動隊の出動を要請し、占拠者全員を排除してしまった。これが節目になった。というのは、当時は「大学の自治」という考えが大学人の多くに信奉されており、学問の自由のため、大学内での出来事は大学内で解決する、外部権力の介入は断固許さないという見方が、いわゆるノンポリもふくめ非常に広範な大学人に共有されていた、ということがある。これで運動が一気に共鳴者を増やした。
 ここから先は医学部の問題などどこかにいってしまい、ひたすら反体制の運動として先鋭化し、最終的には「安田講堂事件」に繋がっていくことになるのだが、それはまた、稿をあらためて。
 要するに1968年の出来事は、社会主義とか共産主義とか、総じて貧しい人々をなんとかしたいという社会運動から極めて文学的な方向になっていった思うのでそれを「左翼史」という枠でくくるのは無理ではないかと思うのである。