池澤夏樹他「堀田善衛を読む」
集英社新書 2018年
このような本が刊行されたのは今年が堀田氏生誕100年(没後20年)にあたるということのためらしい。わたくしは堀田氏の本は「ゴヤ」しか読んでいない。手許の本の奥付は1977年刊の10刷となっている。30歳の年であるが、何でこれを読もうと思ったのかはおぼえていない。読後、何となくスペインという国について少しわかったような気がしたことだけ覚えている。
本書に鹿島茂氏の「「中心なき収斂」の作家、堀田善衛」という論があり、そこで鹿島氏が solidarité 連帯 ということを書いている。その辺りを少し引用してみる。
「フランス語に‟solidarité”(ソリダリテ)、連帯という言葉があります。これはフランスを理解するためのキーワードです。この‟solidarité”を求めるということは日本にはない。これが日本という国の一つの特徴です。フランス文学はどんなに身勝手な文学のように見えても ‟solidarité”つまり社会というものを通して他の見ず知らずの人と、ある種の連帯を求めていくという要素があります。
ところが、日本の私小説は、個人主義的というところは似ていますが、社会の部分が決定的に欠けている。だから、日本の私小説はかなり特異な文学になるわけです。
この社会とは何かと言ったら、自分ではない他者です。他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出す。そいう視点が日本の私小説には決定的に欠けている。」
ここの部分を読んで、この solidarité は自分にも決定的に欠けているものであることを感じた。以下、それについて少し書いてみる。
このsolidaritéは、コミュニタリアニズム(共同体主義)とはまったく異なるものなのだろうと思う。リバタリアンがある局面においてはリバタリアン同士が結びつくというような方向なのではないかと思う。
「池澤夏樹、文学全集を編む」という本の、石牟礼道子との対談で池澤氏が自分について、「皆で一緒に何かやるというのが本当にだめなんですよ」といっている。「チームを作るのがだめなんですね」、と。池澤氏というのは今一つよくわからないところがある人で、眼高手低というか、いささか理論倒れの傾向があるし、自分(あるいは自分の理論)へのこだわりがちょっと強すぎる感のあるひとで、それにわたくしの偏見であるがいかにもインテリ風で、髭なども生やしているし、あまりそばにいてほしくないタイプのひとであると感じるのだけれど、ここでいっていることは実によくわかる。君子の交わりは「淡きこと水の如し」をよしとするはずで、自分を君子であるというつもりはさらさらないが、べたべたとひっついている奴に碌なのはいないとは感じる。
池田清彦氏に「他人と深く関わらずに生きるには」という本がある。タイトルを知っているだけで、どんなことが書いてあるのかは知らないが、でもそうだなあと思う。この反対が余計なお世話である。池田氏はリバタリアンを自称しているひとであったと記憶している。吉田健一は、友人の苦境に対してできることは見て見ぬふりをすることだけといっていた。
大岡昇平の「鉢の木会」という文章に、「「鉢の木会」の連中(神西清、中村光夫、福田恆存、吉田健一、三島由紀夫、吉川逸治、大岡昇平)はみんな孤独である。徒党を組むなんて、殊勝な志を持ったものは一人もいない」とあった。わたくしには、人が一緒になにかをするということが、すぐに徒党を組むという方向に思えてしまう。
しかし、そういう方向に話が向かうということは、わたくしが日本人であって、日本での中間団体というと、鹿島氏にいわせれば家の延長であり、ムラ社会を引きづっていて、機能集団とは決してならないということがある。
日本の中間団体は共同体化する、あるいは共同体化しない限りうまく機能しないということを何とか克服しようとして堀田氏が志向しようとしたのが、フランスで solidarité といわれるような何かであったというのが鹿島氏のいわんとすることなのだろうと思う。
堀田氏もとりあげたいわゆるフランス・モラリストの系譜のモンテーニュなどがその例として取り上げられている。しかし、たとえば渡辺一夫さんのようなひとが日本で何らか一定の影響力を持ったかといえば、そういうことはなかったように思う。モンテーニュは決して潔癖主義的なひとではなかったということも鹿島氏は指摘し、禁欲主義的方向の危険性ということもいうのだが(これはおそらく吉本隆明経由)、どうも日本では(あるいは世界のどこででも?)清貧の思想にはフランス・モラリスト路線はまず勝ち目がないのではないかと思う。
禁欲主義といえば本家本元はもちろんピュウリタニズムであって、わたくしなどには、最近の#me too運動にも微かにピュウリタニズムの匂いを感じる。(現在のピューリタニズムの象徴が禁煙運動であって、この運動が一定の成果を上げた後は矛先は今度は飲酒に向かうはずである。) それでカトリーヌ・ドヌーブさんのいうことにも一理あると思ってしまう。もっともドヌーブさんのいっているのは恋愛方面の話であるのに対し、#me too運動はもっと即物的な方面の話なのであろう。
ごく最近では、何とかという写真家がセクハラ云々で問題になっている。わたくしなどはまったく知らない名前だったが、一部の方面では著名な人であったらしい。一部の方面というのはいわゆる進歩陣営といわれる方面で、わたくしが若い頃、進歩的文化人と呼ばれる人たちがいて随分と偉そうな顔をしていたものだが、その人たちがシュンとしてしまったのが、いわゆる全共闘運動の成果の一つだったのでないかと思う。要するに進歩的文化人というのは偉そうな顔をしたいひと、人の上にたって下のものを指導する立場にあることに快感を感じるひとがその大勢を占めていて、その時々で偉そうな顔をできる問題を探し当ててそこに参加してくるわけであるが、もとより一兵卒として働くつもりはさらさらない。大学教授などというのにはそういう人がたくさんいて、その学説は民主的、教室では暴君などというひとが掃いて捨てるほどいた。
鹿島氏がいう ‟solidarité” はこれとはまったく異なるものであるが、日本にはこれは根付かないような気がする。なにしろ日本では上下関係がわからないと対人関係がはじまらない。それゆえの名刺交換である。
日本での人間関係はとにかく疲れるので、鍵のかかる部屋にこもってひとりで考えるということが、個人の基本的なありかたになってしまう。それではまずいぜというのが、鹿島氏のいわんとするところであると思うが、そうはいわれてもである。
最近のフランスでの黄色い服を着たひとたちの運動も ‟solidarité” のあらわれなのであろうか?
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上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(2)
「世界一「考えさせられる」入試問題」という本が最近文庫化された。オックスフォードとケンブリッジの入学試験での面接問題を紹介し、著者が回答例を付したもので、そこに「フェミニズムは死にましたか?」というケンブリッジ大学古典学での問題も紹介されている。よくこのような地雷を踏むような問題を出せるものだと思うが、別に正解があるわけではなく、当意即妙に論理的かつ根拠をもった解答をすればいいらしい。
ここでの著者の解答例は穏当かつ微温的なものだと思うが、「この言葉(フェミニズム)は1880年代にフランスで生まれ、イギリスには1890年代に女性の権利を求める女性たちを揶揄する言葉として導入された」というような歴史的展望が示され、しかしこれが広く女性運動を指すようになったのは1960・70年代であり、いわゆる「ウーマン・リブ」の運動の過激あるいは行き過ぎによって、この言葉は否定的な意味合いも帯びることになった。それで1998年の「タイム」誌に「フェミニズムは死んだか?」という有名な質問がでることになったが、これは女性運動一般が死んだか?という意味ではなく、1960・70年代のフェミニズムは今でも有効であるかという問いであったのだという。
女性参政権運動のように、それが達成されれば使命を終える運動もある。60・70年代の運動も90年代にはその掲げた目的の多くが達成された。そのことが「フェミニズムは死んだか?」という問いがでてきた背景だったのだ、と回答例には書かれている。その後、女性たちは「女の子パワー」を楽しむようになった。最近の報告では、多くの女性たちがフェミニズムを拒絶しはじめているとされ、それはフェミニズムの中核をなす価値観に女性たちが疑問を抱くようになったからだという。
この前の(1)で紹介した「ウーマン・リブ運動は超観念論的である」という丸谷才一氏の揶揄はおそらく1960・70年代の運動、男こそが諸悪の根源であり、戦争も暴力もすべて男がもたらす厄災であり、この世が女性の支配する世界になれば、すべての不幸が地上から消えるであろう(とここまで極端ではないかもしれないが)といった方向をからかったものだったのだと思う。そして男性からフェミニズムの問題をみる場合、大きな声ではいわれないかもしれないが、ウーマン・リブやフェミニズムの運動というのは不美人たちのしている運動に違いないという抜きがたい偏見がそこに伏流しているように思う。丸谷氏の論も「今度、一度運動の集会を見にいってみよう。少しは美人もいるかもしれない」といった結びになっていたように記憶している。女たちは自分たちを能力でみてほしいと言っているのに、男たちは美人か不美人かという視点からしか女をみない、それが許せないというのがフェミニズムの起点にあるものだという思い込みが男の側には抜きがたくあって、フェミニズムの運動が不美人の失地回復運動のように見えてしまうのである。「わたしを容姿だけで評価しないで、もっとわたくしという人間全体をみて!」
これもまた(1)で紹介した三島由紀夫の「第一の性」で、女性は自分に対する賛辞を決して素直に賛辞であるとは受け取らず、その賛辞の頭に「美人ではないけれど」をつけて受け取ることをするとある。「あなたは頭がいいわね。(美人ではないけれど)」 では美人であればいいのかといえば、「あなたとてもお綺麗ね。(頭は空っぽだけど)」ということになるらしいから、とにかく難しいわけである。
「男流文学論」で、小倉千加子さんが「関西でいったら甲南を出て、あるいは神戸女学院を出て、そしてこういう(谷崎松子のような)優雅な生活を送っている人」ということをいって「私は向こうの方が賢くて私はアホな生き方をしていると思っている」という。ここが問題なのだと思う。フェミニズムというのはたまたま女性に生まれるということがたまたま男性に生まれるのより絶対的に不利であるという前提が出発点になっているのだと思うのだが、女性に生まれたことも悪くない、女の子であることを利用しよう楽しもうという方向もでてきているということである。「女の子パワー」である。上野さんはそれに否定的なのだが。
本書「女ぎらい」第3章は「性の二重基準と女の分断支配―「聖女」と「娼婦」という他者化」と題されていて本書の理論的背景を述べた章なのであると思うが、なんとも観念的である。「二重基準」「分断支配」「他者化」などこなれていない言葉ばかりである。たとえば、ここではサイードの「オリエンタリズム」が援用され、男が西洋、女が東洋といった類比が展開されていく。そしてオリエントの女としてプッチーニの「蝶々夫人」が例示される。「西洋の男」に都合のいい「東洋の女」の物語である、と。プッチーニは家庭生活に悩まされた人で、おそらくヴィクトリア朝道徳の偽善にふりまわされたひとだろうと思うので、「蝶々夫人」という夢物語に惹かれるところがあったのであろう。そもそも、オペラの筋などというのは荒唐無稽なものと決まっているのであるから(例えば、「トゥーランドット」におけるカラフのトゥーランドット姫への一目ぼれ、そしてリューという都合のいい女・・)、男というのはこういう夢をみるものなのか、哀れなものだなあ、と思って大所高所から見物をしていればいいのに、上野氏は「蝶々夫人」を見るたびにむかついて、気分よく見ていられないのだそうである。なんだか心が狭いような気がする。
さて、本章には「人種」も歴史的な構築物であると書かれ、「人種」という概念は帝国主義の世界支配のイデオロギーと共に誕生したとされる。しかし、われわれには同胞と余所者を区別する仕組みが長い狩猟採集生活の中で生得的に備わっているのであるから(農耕の生活に入って以降の人類の時間はその影響が遺伝的に固定されるにはまだ不十分であるとするのが常識的な生物学的見解であろう)、「人種」というものがかりに歴史的構築物であるとしても、そういう歴史的構築物をつねに必要とする志向というものがヒトには備わっているということを無視すると議論が平版になってしまうと思う。
だから、ジェンダーという概念が歴史的構築物であるとしても、セックスの方は生物学的なものであり、男と女でそもそも染色体構成が違い、ホルモンが違い、そのホルモンの違いが胎生期の脳の形成に決定的な影響をあたえるのであるから、生物学的に男女には決定的な違いがあって当然なのであるが、どうもそのような点はほとんど視野にはいってきていないようにみえる。
「男が男として性的に主体化するために、女性への蔑視がアイデンティティの核に埋め込まれている―それがミソジニーだ」というのが上野氏の定義なのであるが、何だか頭でっかちで、普通に読んでもなかなか理解できない言葉である。「男が自信をなくした時、それでも自分は女よりはましなのだと思って自分をなぐさめる」というような意味合いかと思うが、しかしと上野氏はいう。そういう男でも母から生まれたという事実はある、と。だから、それを救うための女性崇拝という側面もミソジニーにはあるのだ、と。そこから性の二重基準(男と女で性道徳が異なること)が生じることがいわれ、「聖女」と「娼婦」、「妻と母」と「売女」、「結婚相手」と「遊び相手」、「地女」と「遊女」といったように女性が二種類にわけられることになることがいわれるのだが、しかし、男がそのようであることについては、かなり強固な生物学的な基盤があることは、「利己的な遺伝子」をわざわざ繙くまでもなく、人間を進化の観点から論じた本にはどこにでも縷々書かれているところであると思うのだが、それらは無視されている。
人類が一応一夫一婦制をとってきながら、実態としては男が娼婦あるいは婚外の異性の存在を必要としてきたことの背景には上記の生物学的基盤があることは間違いない。男性同性愛の場合にはパートナーとは一期一会なのだそうであるが、女性同性愛の場合にはきわめて強固なパートナー形成になるのが普通だそうである。「分割して統治」しようとしてそのような二重基準を男が作ってきたというのはあまりに理論倒れしている、あるいは被害妄想が生んだ論であると思う。
男がしていることを女にもさせよ!というがフェミニズムの基礎であるとすれば、女性が解放されれば、女性もまた「結婚相手」と「遊び相手」の双方をもつことが望ましいことになるのだろうか? おそらく行き着く先は「結婚相手」が消滅してすべてが「遊び相手」になることが望ましいという世界であろう。
上野氏の理想とするところは一夫一婦制の堅持の方向ではなく、まともな大人同士の自由な交流という世界なのではないかと思う。18世紀フランスのサロンのような世界かもしれない。しかし、ここに男女の絶対的な非対称性が出てきて、それは妊娠出産は今のところは女性にしかできないということで、少なくとも妊娠の時期には女性に圧倒的な身体的負荷がかかり、子育てにも大きな負担がかかるということである。
どうも上野氏が攻撃している男性というのはあまり上等でない部類に属する男ばかりであるような気がする。男にも女にも上等な人とそうでない人がいるなどといってしまえば、あまりにも身も蓋もない話になってしまうが、上野氏が口をきわめて罵っている吉行淳之介も男であるわたくしにはなかなか上等な人間にみえるというあたりに、おそらく問題が潜んでいるような気がする。
前の(1)で紹介した三島由紀夫の「第一の性」で、三島は男性の特性はデリカシイであるといっている。これを訳すと「思いやり」あるいは「見て見ぬふり」になるのだと。わたくしは吉行の文学というのは人間関係へのデリカシイをひたすら描いたものであると思っているので、吉行がそんなにダメな人間であるとは思えないのである。上野氏が激しく非難する吉行のミソジニーというのは、女性がそのデリカシイの欠如の故に自分の内面にずかずかと踏み込んでくることへの拒否ということなのだと思う。この自分の内面に他者が入り込んでくることの拒否という姿勢はまた三島にも強くあって、そのことを橋本治は「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で「塔の中の王子様」として強く批判している。三島にとって他者とは自分の絶対性を脅かしに来るものであったのだが、それは三島が自分の絶対性を信じる近代的な知性の持ち主だったからなのだと橋本治はいう。一部引用する。「男にとっての「他者」とは、別に「女」だけではない。それ以前、「自分以外の男」はすべて「他者」である。「他者」によって自分が脅かされる―それは最大の危機である」 この議論のほうがずっと射程が長いと思う。要するに、吉行は別に「女嫌い」なのではなく、自分のなかにずかずかと踏み込んでくるような無神経な他者が嫌いなのである。そして女性がたまたまデリカシイの欠如によって自分の内面に踏み込んでくることが男性の場合より多い、という理由で「女嫌い」に見える、というだけのことなのである。要するに吉行も三島も人間嫌いであったという身も蓋もない話になってしまうのかもしれないのだが、それゆえに橋本治はいう。「女達の声が生まれる―どうして他者と向き合えない? どうして他者を愛せない?」 何で自分だけを愛しているのだ! もっと他者に目を開け! 上野氏もいう。「どうして女と向き合えない! どうして女を愛せない!」 しかし、それができない理由は男性が女性を支配しようとするためではなく、男性が女性よりもずっと弱い性であるからというのが三島由紀夫たちのいいたいことなのではないかと思う。
バロン=コーエンによれば、共感する能力は平均して女性のほうが男性よりも優れている。それに対し男性の脳は論理化する能力において平均して女性よりも優れている。そうであれば、デリカシイ(≒共感能力)が欠如しているからという理由で男が女を嫌うというのは理論にあわない。しかし三島由紀夫はたとえばこんなことをいう。「男が女より強いのは、腕力と知性だけで・・、その知性というのも、もともと男が感情の弱さをカバーして、女に負けないようにと発明した一種のルールにすぎない・・。男心と来た日には、正に、「複雑微妙、感じ易く、傷つき易く、ガラス細工のように高尚な芸術品・・(だから)男のデリカシイは、(それを防御するための)一種の社会的訓練の結果と言えます。」 そしてある女性同士の会話を示して、「ここにはデリカシイというものがみじんもありません」という。だが、デリカシイが社会的訓練の結果男性が後天的に獲得したものというのはバロン=コーエンの生得説と対立することになる。
まとめてみる。男性は生得的に論理的であり、一方女性は生得的に共感能力にすぐれる傾向を持つ。また進化論的必然から男性は多婚的であり、女性は単婚的である。しかし、ここからは男性が傷つきやすい性であるとか、それにくらべて女性はタフで打たれ強い性であるといったことは導出されてこない。そこでもう一つ、男性は自己批評的な性であり、女性は他者批評的な性であるという補助線を導入してみる。これを少し延長すると、男性は自己否定的な性であり、女性は自己肯定的な性であるという命題も導出されてくる。つまり男性は自分を好きになれず、一方、女性は自分が好きであるということになる。吉行淳之介や三島由紀夫の人間嫌い(≒女嫌い)はここからでてくる。だから男性がそれでも自己を肯定できるようになるために多大な努力を払うことが要請されることになる。一方、女性は何もせずにいても自己を肯定できる存在であるということになる。だが、これは上野氏が書で描く男性像・女性像とは大きくことなる(正反対?)の像であるのかもしれない。
上野氏は女性のなかでは際立って論理化能力に優れたひとなのだと思う。それにもかかわらず論理化能力での競争において、対等なリングにはたたせてもらえず、女性であるということの故につねにハンディキャップを負って闘うことを強いられてきた、そのことへの怨嗟が氏の行動にパワーを与えてきたのであろうと思う。一般的にフェミニズムの運動は男性と平等な場で競えることを目指すものである。
ここで、論理と共感以外にもう一つの因子を導入してみることにする。客観性ということである。それは自分をも客観的に見る能力をふくみ、それゆえに自分を笑うことのできる能力でもあり、ユーモアとも通じる何かである。この能力は相対的にみると男性のほうに女性よりは多く配分されていると仮定する。この仮説が正しいとすると、男性は女性にくらべ自分を信じることができにくい性であるということになる。
デリカシイを共感と結びつけると話がうまく展開しないのだが、デリカシイが自己批評・客観性と結びつくのであれば、それが相対的に男性に多くみられるとすることを説明できるのかもしれない。ここから女性がタフで、男性が傷つきやすいとする説がでてくることも導出できるのかもしれない。
自分が信じられる性と信じられない性が相対したら、自分が信じられる性のほうが強いに決まっている。吉行淳之介が「春夏秋冬 女は怖い」というのはそのことであるのだろうとわたくしは思う。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で橋本治は、三島の最大の禁忌は「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」であり、「恋によって自分の絶対が脅かされること」であったという。なぜそのようなことになるか、それは三島が「自分の絶対性を信じる近代的な知性」の持ち主だったからだという。女だけではなく、自分以外の男もすべて他者である。その他者にむかって歩き出すことができない。なせか、認識者である三島が自分の正しさに欲情しているからだという。
三島が信じたのは知性であったかもしれないが、吉行の場合はそれとは違う皮膚感覚といったものであったかもしれない。吉行の場合もそれは絶対であって、それを基準に他を裁く。そして自分の皮膚感覚に違和を生じさせるものを排除し、拒絶する。
「男流文学論」で富岡多恵子が「三島が死んだのは結婚がいやだったから」という説を披露している。「要するに、たかをくくっていたわけよ。結婚ぐらいできる、と・・・だけど、やってみたら、そうはいきませんよ。…結婚はやっぱりそんなになめたものじゃない。彼はなめてかかっていたのと違いますか」 上野千鶴子は口をとんがらせて「結婚なんて女を殺さないと同じように男も殺さないですよ。」と反論しているが・・。小倉千加子がおちょくって、「上野さんは女三島由紀夫なんですよ。」といっている。三島は、自分は相手が全部理解できるが、相手は自分のことは一切理解できないという関係が可能であると信じて結婚したが、結婚してみて、そうは問屋がおろさなかったという話なのだと思う。上野氏は「貴族的な結婚というのは、愛情の交流などはなから期待しないのではありませんか?」といっていて、ここらに氏の本音があるのではないかと思うが、「どうして女と向き合えない! どうして女を愛せない!」などというのはフェミニストの建前ではあっても本音ではなく、貴族主義的なサロンでのその場限りの淡い交流といったほうがずっと上野氏の理想に近いのではないかと思う。
「鏡子の家」の清一郎が問題なのだと思う。「鏡子の家」を執筆した当時の三島の想定していた生き方というのがそこに描かれているはずである。しかし、「鏡子の家」が発表当時不評であったのは、そこに描かれた生き方があまりに子供っぽいと読者には感じられたたためではないかと思う。「金閣寺」流の華麗なレトリックをとりさってみると、三島の小説で描かれているものは案外と凡庸で底の浅いペシミズムあるいはニヒリズムのように見えてしまうということである。
近世のひとである橋本治は近代のひとである三島由紀夫や吉行淳之介の抱える病弊を糾弾できるしっかりした物差しをもっている。しかし、上野氏は近代の人であって、氏がミソジニーとして糾弾するものも近代の産物なのであるから、それを切ろうとすると刃は自分のほうにも向かってくることになるのではないかと思う。
ものごとを最低の鞍部で乗り越えてはならないといった言い方がある。あるひと(もの)を批判しようとするならば、そのひとのつまらない欠点などをあげつらってはならず、そのひとのもつ最高の美点において批判しなくてはいけないといった意味なのだろうと思う。どうも上野氏の三島批判や吉行批判は最低の鞍部でそれを越えようとしているように見える。
わたくしがなぜ吉行や三島にこだわるのかといえば、わたくしの大学1〜2年のときの神輿が吉行や三島だったからで(高校のときは太宰治)、どうも吉行や三島への批判が他人事とは思えないからなのだと思う。一浪してなんとか大学に潜り込んで、やれやれこれでもう勉強しなくてもすむなどと思って、まただらだらと小説などを読むようになったのだが、最初にいきあたったのが吉行で、ちょうど吉行がマンの「トニオ・クレーゲル」や萩原朔太郎をみつけて救われたと思ったのとちょうど同じことが、自分には吉行によっておこったのだと思う。要するに自分と同じような感受性を持つ人間をみつけたといった感じである。しかし吉行ほど強い人間ではないわたくしは、どうも吉行路線一本でいけるかなという不安もあったようで、それでいろいろと読んでいくうちに、吉本隆明経由で福田恆存にいきあたったことについては、ここで何回か書いていると思う。もっともその当時の福田理解はかなり吉行にひきつけたもので、福田=ロレンスの「山に入って、道を説くな。そうすれば涅槃にはいれるであろう」というのも吉行路線だと思っていた。多分、D・H・ロレンスも上野氏からはミソジニーの人ということになるのではないかと思う。その数年後にでた庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」をも福田恆存路線を喧伝する本である思っていたのだから、わたくしの読みは随分と偏っていたのであろうと思う。吉行をぐだぐだと読んでいて、やはりこれより福田恆存路線かな?などを思っているうちに、東大闘争というか東大紛争というかの渦中に巻き込まれることになり、福田恆存の属した「鉢の木会」のつながりで三島由紀夫や吉田健一を読むことになり、三島がああいう死に方をしたので健一路線一筋でいくことにしたということについても何回か書いていると思う。そしてわたくしが愛読してきた著者のほとんどが上野氏からはミソロジーのひとといわれるので、口を尖がらせてグダグダとあれこれ書いているのだと思う。
それでは吉田健一もまたミソロジーのひとかといえば、この人そもそも女にあまり興味がなかったひとなのではないかと思う。だから自分なりに女を描こうとしたのであろう「本当のような話」は随分と無理をしているというかつくりものめいた感じをあたえる。それゆえ、吉田健一の描く女はみな男性の同類の嫌疑があり、鎧兜をまとっているようでウッカリ手も握れまい、などと石川淳にからかわれることにもなる。
人類の歴史において、そのほとんどは人間=男であったわけで、いまだにそれは大きくかわってはいないのかもしれない。だいぶ以前、おそらくわたくしが22〜23歳のころ、NHKの教育テレビの成人の日の特集か何かで「大人になるとはどういうことか」といったテーマで討論会のようなものをやっていたのをみたことがある。福田恆存とか庄司薫とかもでていたので見たように記憶しているが、そこで喧々諤々、大人になるとはという議論が続いて、かなり終わりに近づいたころ、ある女性の参加者が、「何だか議論が、男性が大人になるという方向ばかりで、女性が大人になることについての議論が足りないような気がするのですが」といったことをいって、それをきいて男の参加者達が「ああ、そうだ、この世には女というものもいたのだ!」とはじめて気がついたような本当にびっくりしたような顔をしていたのをいまだに鮮明に覚えている。フェミニストたちの憤怒を思うべし!
この「女ぎらい」に文庫版増補として「諸君! 晩節を汚さないように―セクハラの何が問題か?」という30ページ長の結構長い、最近の「#MeToo」運動などをからめた文章が収載されている。ここでいわれるのはセクハラが生物学的なセックスの問題ではなく、社会的に構築されたジェンダーの問題であるということである。男が自分が優位な性であることを確認するための行為であるというのである。これまた随分と理屈っぽい文章であるが、わたくしからみるとセクハラをするようなひとは社会的地位とは関係なく人間としてあまり上等ではないということにつきるのではないかと思う。人間として上等でないひとはたくさんいるから、そういうひとが社会的地位をえるとセクハラをする。要するに、今、男性が権力を握っているからセクハラをするのが男性の側であるが、もしも女性が権力を握るようになれば、女性にも人間としてあまり上等でないひとはたくさんいるから、女性だってある割合セクハラをする人間がでてくるに違いない。それではこれは、女が自分が劣位な性ではないことを確認するための行為ということになるのだろうか?
男はポルノを読む。それなら女でこれに相当するものはおそらくハーレクイン・ロマンスのようなものであり、最近はそれのポルノ版のようなものもでてきているらしい。ポルノは大人の童話であるといわれる。ハーレクイン・ロマンスもまた大人の童話なのであろう。
男であるわたくしの偏見であるかもしれないとも思うが、ポルノにはどこか含羞のようなものがあると思う。「こんなことに熱中しちゃって、へへへ、お恥ずかしい」といった感じである。含羞というのは自己批評の産物である。一方、最近の女流作家の書く小説の一部には女性の感じている性感というのがいかにすばらしいものであるかということをただただ書きたいのではないかと思うものがあって、そこには含羞といったものは微塵も感じられない。
伊丹十三の「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」の巻頭に「性感論的女性論」という村上節子との対談が収載されている。そこで村上氏は「性は女が神と交合するための儀式で、男はその儀式の道具になって生を燃焼しつくす」などということを言って、それに対し伊丹氏は「どうも、とてもついてゆけない話ね、それは、なんで神が出てくるのかね、・・・どうも女の人というのは肉体、あるいは生理について過大な意味づけをしたがるようなんだけど、そういう思い込みは一種の性の神秘化であって、むしろ性差別の産物なんじゃないかね」と答えている。この対談でめだつのは伊丹氏が「なんだか馬鹿な話してるね、どうも(笑)」といった自己批評あるいは韜晦のようなものをつねにもっていうのに対し、村上氏が一貫して真剣であるということである。ここでも伊丹氏は「男であることの一つの証明としてのセックス」という上野氏と同様の視点をとっているし、「おそらく、女のほうが男を人間としてちゃんと見てるんでしょうね」ということもいっている。また女性の「対人関係における感度の良さ」ということもいっている(これを伊丹氏は生物学的な脳の構造によるものではなく、性差別の社会が生み出したものとしているが)。
もしも男が女よりいくらかでも優れていることがあるとすれば、男の自己批評性というか自己を客観的にみる視線のようなものだけではないかと思うのだが(ユーモアというのはそこから生じるのだと思う。ユーモアは男性のものであるといえば女性から怒られるだろうか?)、そういう良さというものを上野氏の議論は根扱ぎにしてブルドーザーで一気に消し去ってしまう、いささかデリカシイに欠ける行き方になってしまっているのでないかと思う。それは吉行や三島の文学を最低の鞍部でこえてしまうことで、あまり実りのあるものとはならない非生産的なもののように思えるのである。
「フェミニズム」は死んだのだろうか? 最近の上野氏はもっぱら介護の専門家であって、フェミニズムの陣営の一部からはわれわれの戦線から逃亡したといった批判もでているらしい。上野氏はきわめて明晰なひとであるから、フェミニズム運動の場の生産性がめっきりと低下してきていることは感じているだろうと思う。
巻末のセクハラを論じた文で、大学におけるセクハラ問題が表にでた嚆矢として京大矢野暢教授事件(1993年)がとりあげられている。矢野氏の本は何冊か面白く読んでいたので、この報道があった時は意外に感じたものだった。現在も社会学者として大いに活躍されているO元京都大学教授もセクハラで退職したという噂をきく。知的能力があるひとが人間として上等であるとは限らないのである。別に京大にそういう人間が多いということではなくて、本書によれば、東大でも「出るわ、出るわ」だということである。この京大の2例はたまたま文系であるが、東大の場合には「文系より理系」なのだそうである。大学の出世競争で偉くなるひとが人間として立派であるとは限らないことは、少しでもそこにいたことのある人間であれば誰でも知っていることであろう。それで、上野氏は東大でのセクハラ撲滅のために大いに頑張っているらしい。上野氏はセクハラは女性蔑視と男としてのアイデンティティの確認が核心にあるというが、セクハラをする偉いさんというのは別に女性だけでなく、自分の下の男性だって蔑視しているに違いない。
男としてのアイデンティティの確認ということについていえば、伊丹氏は「数の人」ということをいっていて、「数の人」はセックスをやらないと鼻血がでるというようなことではなく、自分の男らしさの証明がすんでない人が、自分で自分の男らしさを納得するための手立てなのだといっている。上野氏の論と伊丹氏の説は一見すると同じことをいっているようにみえるが、上野氏によれば男性性の根源からそれは発生するとされているのに対し、伊丹氏の場合は男性が成熟すればそれは克服されるものとみなされているようである。もっとも両氏ともに広い意味での精神分析学的な見方を採用しているという点で通底するものがあると思われる。
伊丹十三は「男たちはみんな男らしくあらねばならぬ」と思っているというし、三島由紀夫も男は「何くそ! 何くそ!」と人の笑い者になるまいとして歯をくいしばって生きてきているという。どうもここらへんがわからないところで、わたくしなどははじめから競争から降りているというか、社会の中でどこかに自分の居場所さえあればいいと思っていて、ひとを押しのけてなどという気持ちが欠けているように思う。男らしさが足りないのであろう。
吉行淳之介は「戦中少数派の発言」で、昭和十六年十二月八日、真珠湾の戦果に歓声をあげる当時中学五年生の同級生のなかで、一人そこから孤立していた自分を回想している。吉行氏はそれを生理とか心の肌の具合とかいっているわけであるが、わたくしも自分に何か男として足りないものがあるように思っていて、競争原理からはじめからおりてしまっているところがあると感じている。わたくしは大学にはいって吉行氏が「トニオ・クレーゲル」や萩原朔太郎に発見したようなものを吉行氏の初期の創作に発見したわけで、どうも上野氏が「女ぎらい」の代表例として吉行淳之介を挙げるのをみると、理屈以前に生理的に反発するものがあることを感じる。そういうことがあってここでは必要以上に上野氏に厳しいことを書いてしまったかもしれないが、わたくしは吉行氏はセクハラをするようなひとの対極にいるひとであると思うので、どうにも本書でいわれていることに納得できないものが残ってしまうという感じを禁じえないのである。たぶん、繊細さが足りないと感じるのであろう。何だか上野氏の論がブルドーザーで地ならしをしているように見えてしまうのである。もう少し惻隠の情のようなものがあってもいいのではないだろうか。武士は相見互い、というのも男世界でしか通用しない言葉なのであろうか。
- 作者: 上野千鶴子
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オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題:「あなたは自分を利口だと思いますか?」 (河出文庫)
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- 作者: 三島由紀夫
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- 作者: 上野千鶴子,富岡多恵子,小倉千加子
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- 作者: 橋本治
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- 作者: サイモン・バロン=コーエン,三宅真砂子
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春夏秋冬 女は怖い?なんにもわるいことしないのに? (光文社知恵の森文庫)
- 作者: 吉行淳之介
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- 作者: 三島由紀夫
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- 作者: 吉行淳之介,荻原魚雷
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女たちよ!男たちよ!子供たちよ! (文春文庫 (131‐5))
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上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(1)
朝日文庫 2018年10月
2010年の刊行された単行本の文庫化で、文庫化に際し2編の文が追加されている。
この本を読んで、どこかで丸谷才一氏が、まだウーマン・リブと呼ばれたりもしていたころのフェミニズムのある集会を評して、観念論に門構えとしんにゅうをつけたみたいと揶揄していたのを思い出した。随分と理屈っぽい本である。
本書は学術論文ではないのだからそれでもいいのかもしれないが、フロイトやセジウィック、フーコー、サイードといったひとの言説があたかもそれが真理をいいあてた説であるかのように自明のものとして導入されているところが多々あることに面食らった。人文科学の分野ではまだまだこんな手が通るのだろうか? そしてそれと裏返しの関係として、生物学からの観点をほとんど完全に欠いているように見える点も気になった。進化論とか脳科学とか進化心理学などの成果は一顧だにされていないように思えるし、精神医学といえばフロイトとラカンではちょっと困るとのではないかと思う。
本書はジェンダーを論じたものであるので、生物学からみたセックスとは異なる視点がとられていること自体は当然なのであるが、従来は文化的なものとされていた男女の差が、本当は生物学的な基礎をもつのではないかと見直されてきているものが多々あるのであるから、それへの配慮を欠いていることはやはり問題であると思う。どうも本書は自分に都合の悪い言説は一切無視するという傾向がみられるように思う。
「共感する女脳、システム化する男脳」というタイトルで訳されている本(原題は The Essential Differense 「本質的な違い」2003)の著者サイモン・バロン=コーエンは「(この本で論じているようなテーマは)政治的に扱いが難しく、1990年代にはとても発表することができなかった」と書いている。フェミニズムの運動はある時期、脳科学の学問研究に抑圧的であったのである(今でも禁煙運動はタバコに関する学問研究に抑圧的に作用しているのではないか、とわたくしは疑っている)。
さて、表題にあるミソロジーというのはまだ日本語として熟していない用語であるが、通常の訳は「女性嫌悪」あるいは「女ぎらい」、もっとわかりやすくは「女性蔑視」のことであると上野氏はいう。しかし、通常の日本語での「女嫌い」「女性蔑視」とは随分と趣の異なる含意をもつ特殊な用語である。この言葉は男性にとっては「女性蔑視」、女性にとっては「自己嫌悪」と性によって非対称にあらわれてくる、と上野氏はいうのだが、本書で扱われるのはほとんどが男性の女性蔑視のほうである。
そこで、とてもわかりにくいミソジニーという言葉を理解するための具体例として上野氏が提出してくるのが、吉行淳之介である。上野氏のいう「女好きのミソジニーの男」である。下世話にいえば、人間としての女は嫌いだが、生物といしての女は好き。
しかし、ここでの吉行氏をめぐる議論は人文科学の学問的手続きとしても、かなり杜撰なものであるように感じる。上野氏にいわせると、吉行は「女の通」ということになっていたが、「性の相手が多いことは、それだけでは自慢にならない。とりわけ相手がくろうと女性の場合には、それは性力の誇示でははなく、権力や金力の誇示にすぎない」として、「作家吉行エイスケと、美容家として成功した吉行あぐりの息子として生まれた淳之介は、カネに困らないぼんぼんだっただろう」という。しかし、いささかでも吉行の書いたものを読んでいれば、吉行淳之介はぼんぼんなどではなく、しばしばカネに困っていたひとであると思っているのではないかと思う。金持ちのボンボンと思うひとはまずいないはずである。あまり売れない作家であったエイスケは淳之介が中学五年の時に急死しているわけだし、あぐりさんの美容室がどのくらい流行っていたかはしらないが、淳之介が親の金で遊び暮らすぼんぼんの生活をおくっていたとは到底思えない。
また、吉行が銀座のバーでモテたのは、「カネばなれがよいだけでなく、「ボク、作家の吉行です」と自己紹介したからこそだろう」と書く。これまた「だろう」という推測ではあるのだが、かつて吉行読者の一人であったわたくしとしてはは(そしてある程度吉行を読んでいるひとならみなそう感じるのではないかと思うが)、吉行は「ボク、作家の吉行です」というようなデリカシーのないことは決して口にしないひとであったであろうと確信している。そういうことを平気で言う人であれば、氏の書く小説があのようなものになったはずは絶対にないとわたくしは感じる。もしも氏がモテたとすれば、氏がある種の繊細さを持つ人であったからであろうと思う。「原色の街」での一エピソード、望月五郎と春子という女の写真撮影をめぐるエピソードを耐えらられないと感じる主人公元木英夫は、それを自分の感受性の鋭さではあっても優しさではないと自己分析をする。吉行氏の小説のモチーフはそういう感受性あるいは繊細さの提示であって、物語はそれを具体的に示すための装置に過ぎない。上野氏は吉行氏の小説やエッセイをどのくらい読み込んでいるのだろうかと疑問に感じる。そしてミソジニーということの一般論からの類推で勝手に吉行氏の像をつくりあげているとすれば学問的手続きとしては論外である。「吉行を読めよ。女がわかるから」という男とか、「女が何か知りたくて、吉行を読んでいます」という女というのもいたのかもしれないが、それはどこの世界にも程度の低い人間はいるというだけの話であって、そういう人間から上野氏は被害を被ったらしいけれども、それだからといって吉行淳之介が悪いということにはならないはずである。そもそも何かのために文学を読むということ自体、文学の享受のしかたとしても論外である。
上野氏は、吉行の作品を読んでわかるのは女がどのようなものであってほしいかについての男の幻想であるとして、なんとサイードの「オリエンタリズム」まで議論に持ち出してくる。男(西洋)が女(東洋)に抱く幻想が書かれているのが吉行の作である、というのである。なんとまあ大袈裟な! 牛刀で狗肉を割くような野蛮である。そういうことをしたら文学の繊細な手触りなどどこかに消し飛んでいってしまう。
上野氏は吉行が自作の指標の一つとしたであろう永井荷風の場合、荷風と娼婦との関係は「女がその境界を越えて自分の領分に入ることを決して許さない。女と目線の高さを同じくしてつきあったというより、女を別人種と見なすからこそ、成立した関係である」としている。そして吉行もまたそうなのである、と。それはその通りである、と思う。
橋本治は「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」でのなかで、三島の原理を「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」であったとしている。それゆえに、恋愛というのがその原理を覆す可能性のある恐ろしいものとなりうるがゆえに排斥されるのだ、と。そして三島に体現されたこのような原理は多くの男に、大なり小なり共有されているものであるから、そこに女たちの「どうして他者と向き合えない? どうして他人を愛せない?」という声が生まれてくるのだという。
ここで上野氏がいっていることも、それと同じことなのだと思う。なんで男は女と向き合えないのか? 女をモノ扱いするのか、一個の人間として見られないのか?
中村光夫の最初の長編小説「『わが性の白書』」に、ある男が銭湯にはいっている場面がある。何でここでは気が晴れるのだろうと考えて、たぶん女が絶対に這入ってこないせいだろう、と思う。この場面を、ある女性評論家がバカじゃなかろかというように言っていた。しかし、かつてイギリスのクラブは女人禁制であったという話もある。イギリスでの女性参政権獲得が1928年である。
吉行淳之介に「春夏秋冬女は怖い」という本があって副題が「なんにもわるいことしないのに」である。それによると、男は自分というものを客観的にみている。しかし、女は自分しか見ていない。男は繊細であるから、見て見ぬふりということができる、しかし女は平気で人の中にまで踏み込んでくる。だから怖いということになる。
三島由紀夫はその「第一の性」で、男はみな英雄で男の栄光の源はすぐに足が地につかなくなってしまうことにあるという。ところが地に足がついていて地上の現実こそがすべてである女は、それゆえに愛の専門家となるのだが、「(地に足がつかず、現実がみえない)男は愛についてはまだお猿クラスですから、愛されるほうに廻るしかない」ことになる、という。男は自分のしたいことをしたいから、抛っておいてほしいのだが、女はそれを許してくれない。「わたしはあなたが好き」といって勝手に侵入してくる、だから女は怖いということになる。ミソジニーの根源は男だけのクラブには勝手に侵入してこないでほしいという男の切なる願望に発するのだと思うが、女から見ると自分の中に閉じこもっていて自分のほうに目をむけてこない男が許せないわけである。
そして、男が女を怖いもう一つの理由として、男は自分に自信がもてない存在であるということがあるのだが、それなのに(男がら見ると)女がなぜか自信をもっているように見えるということがあるのではないかと思う。そのあたりのことはたとえば山崎正和氏の戯曲「おう エロイーズ!」などによく描かれているように思う。山崎さんというひとは政治とかいった自分の外部のことを論じている場合と、戯曲で個々人を描く場合とで、まったく別人なのではないかと思うくらい肌合いの違う論をなす不思議なひとである。
その山崎氏をふくむ丸谷才一と木村尚三郎の「鼎談書評」で、吉田健一の「まろやかな日本」が論じられている。そこで丸谷氏は「吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の習慣は不思議でしょうがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇蹟的存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか」といっている。
本書の第二章で、上野氏は「男の値打ちは、男同士での覇権ゲームで決まる。男に対する最大の評価は、同性の男から、「おぬし、できるな」と称賛を浴びることではないだろうか」と書いている。「男でないわたしにはよくわからないが」という但し書きつきではあるが、上野氏もまた村落的学者共同体のなかで生きているひとなのではないかと思うので、女性としては例外的に「おぬし、できるな」という賞賛に反応するひとなのではないかという気もする。叙勲などというのも公認「おぬし、できますな」であると思うが、上野氏などにもいずれその順番がまわってくるのだろうか?
「第一の性」で、三島由紀夫は、男は子供の時から競争原理の中で生きてきて、その英雄ごっこの延長戦上にあらゆる政治・経済・思想・芸術の成果が生まれてきたのだといっている。こういう競争原理がどれくらい日本の村落的性格に由来するのかはわからないけれど、上野氏を駆動してきたものの根源に、もしも自分が男と差別されずに公平に扱われるならば、もっと上にいけるのにという心情があったのではないかと思う。「セクシー・ギャルの大研究」などというのを書いていたころには、まさか将来、自分が東大教授になるとは考えてもいなかっただろうと思う。
氏に「ケアの社会学」という本があって、何だかものものしい本で本屋さんで見て、何で今頃こんな本を出すのかなと思っていたら、学位論文なのだった。東大教授になってからのものである。上野氏には「家父長制と資本制」というこれまたものものしい雰囲気の本があって、学位論文なのかなと思っていたら、違っていたらしい。上野氏ほどの盛名があって東大教授にまでなれば、今更、学位なんて関係ないのではないかと思うのだが、学者社会のメイン・ストリートに入ることになるとそうでもないのだろうか。江藤淳さんが東工大教授になってから学位をとったことを思い出した。
くだらないことばかり書いていたら、なんだかまだ30ページくらいまでである。もう少し書くつもりでいる。
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春夏秋冬 女は怖い?なんにもわるいことしないのに? (光文社知恵の森文庫)
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セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (岩波現代文庫)
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- 作者: 上野千鶴子
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全共闘運動と『ジャン=ジャック・ルソー問題』
亀山郁夫氏と沼野允義氏の「ロシア革命100年の謎」を論じていたときに、鹿島茂氏の「ドーダの近代史」(単行本)(「ドーダの人、西郷隆盛」(その文庫化))を思い出した。というか本当は逆で、最近文庫化された「ドーダの人、西郷隆盛」を読んでいたら、これが亀山氏と沼野氏の議論の根底につながる部分があるのではないかと感じた。
前に「ドーダの近代史」を読んだときは、西郷隆盛の章(「陰ドーダの誕生」)までで中断してしまっていて、その先の中江兆民の項を読んでいなかったのだが、今回は「中江兆民のところまで読み進んで、そこでのジャン=ジャック・ルソーについての論を読んで、ああこれはひょっとして、かつての全共闘運動と関係がある話かもしれないと感じた。ということで、ほんの思いつきである。その思いつきを、以下少し書いてみたい。
その前に、この中江兆民の章の(3)の冒頭に以下のような記述があるのが少し気になった。
「世に全共闘神話というのがある。/ 一九六八年から一九七二年までの時代に学生だった団塊の世代は、ほぼ全員が全共闘で、ゲバ棒を片手に機動隊と渡り合っていたというイメージを抱いている人が少なくないのだ。/ これはとんでもない錯覚である。/ まず、東大や日大など全共闘の運動が激しかった大学においてさえ、学生の90パーセントは無関心派で、実際に身を以て活動に参加した突出部分は2、3パーセントにすぎない。つまり、50人のクラスでいえば、活動家は一人か二人で、その周りに3、4人のシンパがいるといったところで、たいていの学生は、ストライキに賛成投票することはあっても、バリケードに加わったりせず、バイトをしたり、旅行をしたり、あるいは自宅で勉強したりして、明るく楽しい学生生活をエンジョイしていたのである。」
わたくしは1968年には東大医学部の一年生(M1)だったが、一学年100名くらいのクラスに、まず民青系の活動家が4〜5人いたと思う(ただしそのシンパはほとんどいなかったが・・)。その多くは医者になった後に民医連系の病院に就職し、そのまま現在にいたっている。ということで、一過性ではない筋金入りの日本共産党系が一定数いたということである。一方、それに対する全共闘系の活動家も当初はコアの部分が5人くらい、シンパが10名くらいはいて、さらに紛争が長引いて、1968年末から1969年の安田講堂封鎖とその解除にいたるあたりではシンパのかなりがゲバ棒とヘルメット・覆面の活動家になっていったと思う。またストライキ当初には“ノンポリ”であった部分のかなりもその時期には全共闘シンパとなっていた。
相当頻繁にクラス会というのが開かれていて、そこには常時30〜40名は参加していたように記憶している。そこに参加せず、バイトをしたり、旅行をしたり、あるいは自宅で勉強したりしていたひとがクラスの過半ではあったとは思うが、わたくしのように民青・全共闘どちらに賛同するわけではないにもかかわらずクラス会にはほぼ皆勤するような人間も5〜6名はいたわけである。この一年間だけ、アテネフランセに通ったのであるから、わたくしもまた明るく楽しい学生生活をエンジョイしたことになるのかもしれないが、この間、医学の教科書などはただの1ページも開いたことはなく、吉本隆明だとか福田恆存だとか三島由紀夫だとかをひたすら読んでいた。というか、本を読むことが自分にとって本当に必要なことであると感じたのはこの時がはじめてで、ということはやはりわたくしも、全共闘運動の渦中にいたということになるのだろうかと感じる。さらに、一言つけくわえておけば、数名であるが、積極的にストライキ解除を目指して活動していたひともあった。そういう“右派”?もまた広い意味での活動家であったとみなすとすれば、自分の身の回りでの見聞から言えば、学年の40〜50%のひとが何らかの活動をしていたように感じるので、上記の鹿島氏の全共闘運動神話批判は、わたくしが過ごした学生時代の実態とはいささか異なると感じるので、ここに記しておく。
さて、「ジャン=ジャック・ルソー問題」である。この「ジャン=ジャック・ルソー問題」というのはカッシラーの著書の題名で、1932年に発表されたものということであるから、ほとんど100年近く前の本である。そこで言われていることは、ルソーという思想家は「何を」語ったということよりも、「どう」語ったかの方がはるかに重要な思想家であるということである。(鹿島氏はここで「シニフィアン」と「シニフィエ」という用語を使っているが、このソシュール由来の言葉がどの程度日本で流通しているのかがわたくしにはよくわからない。その日本語訳の「能記」と「所記」などというのではもうまったく問題外であるが、鹿島氏はフランス語の先生でもあり、アンとエというフランス語での能動と受動のニュアンスがよくわかっているから、なんら違和感はないのであろうと思われる。しかし氏も「われわれの用語でいうなら」としてこのシニフィアンとシニフィエを導入してくるのであるから、これは業界用語である。「シニフィアン・ドーダの人である兆民」というような表現は一般書のなかで用いるのはいささかつらいのではないかと感じた。わたくしは最初、丸山圭三郎氏の本でこの語に触れたのだが、なじめなくて、随分と戸惑ったものである。)
さて、鹿島氏は以下のような部分をカッシラーの著書から引いてくる。「ルソーにとって確かなこと、かれが思想と感情の全力をあげてつかみとろうとしたもの、それはかれが目ざしている目標ではなく、かれを駆り立てている衝動なのであった。かれはこの衝動にわが身をゆだねようとする。かれは、その世紀の本質的に静的な思考方法に、自分の思想の全人格的力動性、感情と激情の力動性を対置する。そしてこの力動性こそ、いぜんとしてわれわれをひきつけて離さないものなのだ。」 この部分を読んで、ああ、これはかつての全共闘運動のことではないか、と感じたわけである。
全共闘運動がもたらした大きな功績の一つが、その当時には存在していた進歩的文化人をほぼ一掃したということがあるのではないかと思うが、「お前は静的だ! なぜ跳ばない?」という批判に当時の進歩的文化人(といっても、その1.0であり、後に、全共闘運動に参加したひとの一部から進歩的文化人2.0とでもいうべき人たちが出てきたと思うが・・)は対抗できなかったのである。「お前のいっていることは口先だけだ! 全人格がかかっていない!」という批判、つまり、「お前は考えるだけで動いていない」という批判がとても大きな破壊力を持ったわけである。
カッシラーは鹿島氏もいっているようにルソーにかなり好意的であって、「ルソーの内的感覚の真実性はどの文章からもわれわれにせまってくる」といっている。鹿島氏も「その文体に宿るこうしたド迫力、「一切の知識の重荷や華美をふり落とそうとする渇望」の激しさということをいっている。
「ルソーの文体は思想的というよりも、むしろ文学的、より正確には詩的と呼んだほうがいい。ルソーの作品が文学として生き延びているのはまさにそのため」と鹿島氏はいう。ルソーはロマン主義の先駆であったというわけである。
橋本治氏は全共闘運動について、「あれは、「大人は判ってくれない」ですよね。それだけなんですよね。「大人は判ってくれない」で、なんか2年くらいドタドタやってた」といっている。(「ぼくたちの近代史」) しかし、そうではありながら、あの当時の運動は、「君たちの気持ちはよく判る!」などと言われると、「そんなに簡単に判られてたまるか!」ときり返してしたと思う。ルソーがパリの社交界にはいって感じた感覚とパラレルであるはずである。前者の判るは、頭での理解、理屈での理解である。後者の判るは全人的理解である。同じ判るでも、その意味が違っていた。
だから、庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」で、薫くん(ではなく友人の小林くん)はこういう。「つまり知性ではなく感性とかなんだ。」 ここで《知性を言葉で表現された内容》、感性を《言い方やそれに反映されている感情》であるとするならば、ジャン・ジャック・ルソー問題そのものである。
鹿島氏はルソーの「ルソー、ジャン=ジャックを裁く」の一部を引用し、その論理を「オタクに特有の、オレだけはピュアだが、おまえら全員は不純だという夜郎自大なドーダ論法である。/ まともな大人なら、とてもじゃないが聞いていられるような議論ではない」と批判している。しかし、ルソーの論法は「まともな大人」などというものを全否定しようとするのであるから、そんなことを言ってもルソーは何も感じないだろうと思う。
そのことをよく示しているのが山崎正一氏と串田孫一氏の共著である「悪魔と裏切り者 ルソーとヒューム」である。まともな大人の代表であるヒュームはピュアな子供であると自らを信じ切っているルソーには勝てないのである。社交の人ヒューム対森の中の孤独を愛する人ルソーである。社交には常に偽善がともなう。あるいは偽善そのものかもしれない。だが、人間は一人でいる限りは偽善をなす必要がない。バリケード封鎖の解放区というのは、都会の中に森を取り戻そうという試みであったのかもしれない。
全共闘運動はもう50年前の出来事である。それならば、それはもう過去の出来事となってしまったのだろうか? ここには鹿島氏のいう「自我パイの一人食い状態」というのが関係してくると思う。鹿島氏は今の社会は自分の自我パイをすべて自分で食べてもOKの社会である、という。しかし今から50年前にはまったくそうではなかった。だからこそ全共闘運動というものも起きた。だが、現在ではそうではなくなっている、とすれば、ある意味では現在は全共闘運動の目ざした理想が達成しているのかもしれない。
とはいっても、それは《まともな大人》なら聞いていられない状態が普通になってきているということであるかもしれなくて、世の中全体がどんどんと子供化していることを意味するのかもしれない。
わたくしは今、産業医という仕事もしていて、労働の現場でのトラブルの対応にかかわっているが、今の若い方(だけではなく、実は中年のかたのかなりも)の抱く労働観というか勤労観というのが、《他人の必要に応える》から《自分を実現する》という方向にどんどんと移行してきているのを感じて戸惑っている。それにとまどうというのは、自分が完全に時代に適合できなくなってきているということなのだろうと思うが、18世紀のヨーロッパ啓蒙においては非主流であったルソーが、現代においては主流派になってきているのだとすると、18世紀啓蒙主流の正統な後継者であった(とわたくしが考える)吉田健一氏などを範にしてきた人間としては、はなはだ困った時代になってきているわけである。
しかし、自分の都合のいいように世の中がならないのは当然であるのだから、とにかく自分の持つ物差しで、周りを測って、対応していくしかないのだろうと感じている。
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続・中学生からの大学講義1 学ぶということ (ちくまプリマー新書)
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亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(4)
第11章「ロシア革命からの100年 ポストモダニズム以後」では1990年以降のことを語るとされているのだが、ここでいきなりポストモダニズムの話がでてくるのがわからない。さらにわからないのがポストモダンという場合のモダンが西欧で20世紀初頭にでてきた潮流を指すとされていることである。わたくしなどはポストモダンというとすぐにリオタールの「大きな物語の終焉」という言葉を思い出す人間であり、そこでいわれる大きな物語の最大のものの一つがマルクス主義であると思っているので、両氏の主張がさっぱり呑み込めない。わたくしからみると、ここで「西欧で20世紀初頭にでてきた潮流」といわれているものもポストモダニズムの一種である。沼野氏はブライアン・マクヘイルというひとの定義の「モダニズム―認識論的」「ポストモダニズム―存在論的」という分類を紹介しているが、こういう非常に巨視的な世界把握といういきかたこそがモダニズムなのではないだろうか?
沼野氏はロシア革命を「一種の二項対立現象」であるといって、「旧体制の悪 対 善なるボリシェヴィキ」「革命か反動か」「敵か味方か」といった世界を二項対立の図式で見るいきかたがいかに危険で、いかに恐ろしい結果を招来しうるかを、人類はそのあと百年かけて学んできた、といっている。しかし、そのような二項対立的見方はそもそも人間の存在とともに古く、すでにゾロアスター教にあり、キリスト教の黙示録や千年王国説にもある。マルクスの思想の根源にもそのようなキリスト教的歴史観があることもまた、つとに指摘されているのであるから、両氏の話は何だか全然ピント外れであるような気がする。そもそも近代ヨーロッパの成立は宗教戦争の悲惨の認識の結果から生まれたウエストファリア条約が出発点になっているはずである。
亀山氏は沼野氏の言に対して、20世紀末になって、二項対立ではだめなんだという反省からデリダらの脱構築の考えがようやく出てくると応じている。それに対し沼野氏は「西側でポストモダンが云々されるはるか以前から、ソ連ではポストモダン状態が成立していた」と述べる。亀山氏はその研究生活をソ連におけるアヴァンギャルド運動の研究からはじめたひとということで、そこでいろいろな名前があげられるのだが、でてくる名前は誰一人としてわたくしは聞いたことがないひとばかりで、もちろんそれはわたくしの不勉強のせいではあるのだが、そういった運動がソ連の崩壊に少しでもかかわったとはわたくしにはまったく思えない。
322ページには「精神性と言葉だけの国 ロシア」という項目が立てられていて、ロシアがアメリカに先駆けて宇宙開発に成功したのはコスミズムの精神的背景があったからではないか、ロシア的精神性を抜きに、ソ連の宇宙ロケットのことは語れない(沼野氏)というようなことがいわれる。精神性がもろに物質に接合してしまうのだ、と。それがロシア精神なのであり、アメリカはそれに比べるとほとんど物質しかないのだそうである。本気かね(正気かね)と思う。ここから神風特攻隊までは一歩であると思う。
さらに、もしもロシア革命が失敗に終わっていたら、その後のロシアがどうなっていたかそれを考えるのが文学者の仕事ではないだろうかと沼野氏がいい、亀山氏はレーニンの(早すぎる)死がなかったらということに一番関心があると応じている。
最終章は「ロシア革命は今も続いている」と題されていて、1917年のロシア革命の当時ロシアでは民衆のあいだでスキタイ主義的な自然力の爆発、動物的な人間の欲望の解放による大きな混乱があったことがペレストロイカ末期あたりから歴史家によって指摘されるようになってきていて、それがロシア革命の根本原因であるとする説があることが紹介され、その民衆の暴発を統御していくためにはレーニンの暴力は不可避だったのではないかということがいわれる。そして、これが革命が犯した原罪であり、それの償いをすることが革命政権に課せられたものであったはずなのに、それをしなかったことでレーニンは穢れている、ということがいわれ(亀山氏)、この原罪をはじめて自覚した最初のソ連の指導者が(レーニンではなく)ゴルバチョフであり、(その自覚ゆえに?)ゴルバチョフは暴力を行使せず(もし行使すれば天安門事件を乗り切った中国のようにソ連も生き残れたのかもしれなかったのに)、ソ連は崩壊したということがいわれる。何で原罪とか穢れなどという言葉がでてくるのだろうか?
さらに亀山氏は「社会主義というのは、堕罪以前のアダムとエバの世界、資本市議というのは堕罪によって生じた社会現実です」というようなことまでいう。「プーチンという巨大なボリシェヴィキと、二枚舌でマゾヒスティックに権力を受け入れる国民という」現在のロシアの構図が示すものが「ロシア革命は今も続いている」ということなのだそうである。
この二人の対談の一番の根底にある問題意識は《ロシア的霊性》とここでいわれているような何かであると思う。そしてそれに対立するものが西欧の合理主義であるとされる。ロシア人のメンタリティは西欧のそれとはどこか決定的に異なるとされ、つまるところそれはロシア語に帰結するとされる。ロシア語はそれぞれの語がきわめて多義的で言葉一つ一つの奥行が深い詩的言語で、ロシア語を発語するという行為がロシア人にとって一種の霊性の中に入っていくことであるのだということがいわれる。
一方、それに対するグローバリズムの言語である英語は即物的でまことにつまらない言語である(と亀山氏はいい、沼野氏はそれを少したしなめているが、沼野氏によれば、それなりの歴史のある英語も最近の拝金主義によって毒されているのだそうである)。いずれにしても、スラブ人は霊性と精神性の民、言葉の民、ということになり、とすればロシア語を解さない人間には所詮、ロシアのことは理解できないことになる。
亀山氏はロシアの民衆には全体の中にあってはじめて個は完成するという他人依存的なことろがあり、それはロシア正教に由来するという。そこからはなかなか個人がでてこない、と。
そういう特性を持つロシアという国にたまたま革命がおきてソ連という国家ができてしまった。そうだとするとソ連という国家が後に残した様々な問題もロシア語とロシア人とロシアの文化についての知識がなければ、何もわからないことになる。
ロシア文学者としてすっとロシア語とともに生きてきたお二人にとって、ロシア語を一句も解さない連中がロシア革命について得々と語っていること自体が納得できないのであろう。それでこのような対談が出来上がることになったのだと思うが、両氏がそもそも文学を志向したのも西欧の出自である文学形式である小説というものが導きの糸となっているのではないだろうか? ロシア的霊性について西欧的個人が論じることの分裂がこの対談ではいたることに露呈していて、それで本書が何だかよくわからないものになってきてしまっているのだろうと思う。
最近、刊行された鹿島茂氏の「ドーダの人、西郷隆盛」は以前刊行された「ドーダの近代史」の文庫化であるが、単行本になかった片山杜秀氏との対談が付録として収載されている。そこに、
片山「全共闘も行き着くところはエコロジーでした。清貧を良しとし、土と密着することで則天去私になれ、という。・・・」
鹿島「ロシア革命もフランス革命もそうでした。「禁欲を思想の核心に据えるものはすべてだめだ」と吉本隆明が一貫して言っていますね。まさにそのとおり。」
という部分がある。
その昔、政治と文学というような話があって、しかし、それを語るのはもっぱら文学の側の人間であって、政治の側の人間がそのようなことについて一顧だにすることはまずなかったが、東側の崩壊以降、文学の側でもそれを語る人間はあまりみないようになった。ということは政治と文学という話題における政治はもっぱら社会主義を指していたということであり、文学の側の人間の社会主義的な何かへの片思いの産物であったことになると思うが、実は社会主義への片思いではなく、西郷隆盛的な何か(鹿島氏のいう陰《ドーダ》)への思慕であったのかもしれない。もっとも《ドーダ》理論?の開祖の東海林さだお氏によれば、《ドーダ》は自由業の業のようなものであって、文学者というのもまず自由業の亜流であるからには、正統的《ドーダ》である陽《ドーダ》にどっぷりと冒されていることになり、本書での両者のやりとりも謙遜の衣を被った陽《ドーダ》の応酬である嫌疑は免れない。
本書での通奏低音は、ロシアが持つあるいはロシア語が持つ「精神性」あるいは「霊性」といったもので、それは本来政治とは別な何者かであるのだが、アメリカの物質性あるいは拝金主義に対抗し抵抗するものとして、本書ではなにがしか政治とかかわるものであるとされる。
その昔、進歩的文化人というのがいて、東側崩壊後、ぬるま湯的進歩的文化人はいても筋金入りはいなくなってきたなあという印象を持っていたのだが、こういう場所で姿を変えて生息していたのだというのが本書の読後感である。何で大人しく専門に従事して、ドストエフスキーとかチェーホフの翻訳に専念していないのだろうか。
そしてロシア革命を論じながら、またスターリンを語りながら、たとえばオーウエルの「動物農場」の話などは一切でてこないのである。「動物農場」では霊性などという言葉は薬にもしたくなく、人間が政治にかかわることから生じるおぞましさがひたすら朴訥に語られていく。
ナポレオンがこっそりと牛乳を隠したことから「動物農場」では何かが変わり始める。精神と物質との対立とか霊性と拝金主義がどうとかといった話ではなく、もっと素朴な何かから崩壊は始まるのである。
- 作者: 亀山郁夫,沼野充義
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- 作者: 鹿島茂
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亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(3)
第10章「ロシア革命からの100年 雪解けからの解放」で沼野氏はこんなことを言っている。「社会主義は理性による欲望の抑制というよりも、自然な状態なんじゃないですか。ぼくに言わせれば、資本主義は病気みないなものなので、病気の人と健康な人を一緒にしたら病気がうつっちゃうわけですよ。」 なんだかルソーの自然人を想起させる。
それに対して亀山氏が答える。「われわれの、たとえば70年代の安保世代はだいたいそういう感じで見ていると思います。68年にパリの五月革命があって学園紛争が起こったときに、資本主義に対してものすごい罪悪感を抱いていた。僕は72年に伊藤忠という商社に内定したときもすごい罪悪感で、やっぱり断らざるをえなかったんですよね。資本主義に対するポジティブな見方が今でもできない。ところが、1980年代くらいを境に皆その病気に感染しちゃった。罪悪感が消えちゃうわけです。」 ここで亀山氏が資本主義と呼んでいるものがどういうものなのかがよくわからないが、本書での発言から類推すると、「競争に勝って金を儲ければいい、それが正しい」という方向の思潮をさすようである。
亀山氏は「社会主義は平等に行き着くんだよね」といい、沼野氏は「人間にとって究極の選択は、自由か、平等かということになってしまう」といって、さらに「自由の結果もたらされる弱肉強食が行き過ぎると、やっぱり社会主義がよかったんじゃないか、という機運が高まるに違いない」ともいう。これに対して亀山氏は「根本は何が幸せなのかという問題」といい、「もうお金というものが絶対的価値を持たなくなりはじめた時代が来つつあると思う」として「精神的なもの、精神的な喜びのほうがはるかに金銭的なものをを上回る」というようなことをいう。
何だかとても青臭い議論なのだがしかし、わたくしから見ると、ここでのお二人のやりとりで論じられているのは資本主義とも社会主義ともまったく関係のない話で、強いていえば「清貧の思想」に綱がるような何かである。また「武士は食わねど高楊枝」とか「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」とかの路線である。こんなことを書いているが、わたくしもまた清貧の方向に幾分か毒されていることは確実で、臆病なので宵越しの銭は持つようにしているが、投資とか投機とかいう方面から意識的に目をそらせるようにしていると思う。バブルの頃、確か長谷川慶太郎氏だったと思うが、「今の時代に投機をしない人間は世捨て人である」というようなことをいっていたが、働いた対価として金銭をもらうことはいいとしても、自分の持っているお金を何らかの手段で増やそうとすることには何となく後ろめたいものを感じる、会社の一員だった時代に半強制あるいは強制で持ち株会というのに入らされたのが唯一、その方向に近づいた場面で、それ以外に投資の方面にかかわったことは一切ない。しかし、それが自分の美点であると思ったことは一切ない。
亀山氏が伊藤忠の内定を断ったというのも「武士は食わねど・・」なのであるかもしれない。あるいは「渇しても盗泉の水を飲まず」とか。とはいっても、蜀山人だったかの狂歌、玉の緒よ絶えなば絶えねなどといひ 今といつたらまづおことわり ということもある。格好良く生きることは現実には容易なことではない。
本題にもどって、ロシア革命はマルクスの思想なしにはありえなかったものである。しかし、上記のお二人の会話のどこにもマスクス主義の片鱗さえでてこない。こういう認識をもとにロシア革命100年を語っているのかと思うと信じられない思いがする。文学の方面の人の資本主義・社会主義についての認識がみなこのようなものとは思いたくないが、ここにあるのは文学は高級で、お金の話は低級、あるいは精神は物質の上に位置するといった、マルク主義とも、ロシア革命ともまったく無縁の話であるような気がする。
物質は低級で精神は高級などといっていても、われわれは食べなければ死んでしまうので、そうであるなら、何千万人もの餓死者を出すような体制はそれだけで間違っている。118ページに亀山氏の発言として、「重工業分野での生産は、第一次世界大戦勃発前の20パーセントまで落ち込むという悲劇的な状況に、旱魃が襲いかかって、すさまじい数の犠牲者が出た。こういう状況のなかで、いったい芸術に何ができるのか、何が語れるのか、ということです。芸術というのは、こうした現実に対しては完全に無力です。・・」というのがある。しかし、「完全に無力です」といいながらも、お二人とも滔々と論じ続けるのである。モダンがどうとかポストモダンがこうとか。
「飢えた子供の前で文学は有効か」というようなことを言ったのはサルトルだったと思う。その問いに対して、「子供は食事にばかり飢えるのではない。・・私は飢えた子供であった。その一人の飢えた子供を救ったのは確実に「文学」というものだった」といいきる中島梓氏ほどの強さも、両氏は持たないようにみえる。
本書におそらく一回も出てこないのが市場経済体制という言葉である。ある程度以上に社会の規模が大きくなり経済活動の範囲が拡大してくると、市場というものが存在しないと経済がまわっていかなくなるらしい、というのがロシア革命から成立したソビエトの歴史とその崩壊から、われわれが学んだことなのだろうと思う。
ソ連崩壊後は、従って、資本主義という言葉さえあまり用いられなくなって、今までであれば資本主義という言葉が用いられていた文脈に、市場経済体制という言葉が用いられるようになった。そして市場経済に対になる言葉が計画経済なのだと思う。おそらく1960年前後まではソ連も計画経済体制でなんとかやっていけていたのだろうと思う。大陸間弾道弾も人工衛星もソ連がアメリカに先行した。つまり亀山氏の若い時代、パリの五月革命や学園紛争の時代には社会主義に基づく経済体制というのは十分機能すると多くの人たちから信じられていたわけで、その当時に、今後30年か40年したらソビエトという国が地上から消え去っているなどということを予言する人がいたとしても、誰もまともにとりあげることをしなかっただろうと思う。
しかし、事実としてソ連と東側陣営は崩壊してしまった。そうすると皆、当然のことがおきたような顔をして、そんなことはとっくに自分はわかっていたというような顔で議論が始まるのである。ソ連崩壊後は、経済活動が機能するためには市場経済の体制が前提となるというのは経済学のイロハであるというような顔をみなするようになって、計画経済などということは誰も口にしなくなってしまった。亀山氏や沼野氏が今の中華人民共和国を社会主義の国とみなすのか、もはや資本主義の国であると考えているのかはよくわからないが、とにかく計画経済ではなく市場経済の方向に中華人民共和国が舵をきっていることは間違いないわけである。
むしろ問題は、ソ連崩壊後のロシアも、�殀小平以降の中国も、いわゆる西欧風の民主主義とはことなる体制で運営されているという点である。
そしてそれ以外の地域の選挙制度によって政治が運営されている国であっても、トランプ氏のようないままでとは明らかに毛色の変わった人物が選ばれてきているわけだし、ヨーロッパの多くの国でも移民排斥といった主張をかかげる排外主義的な政党が今後選挙を通して政権を取る可能性が決して低くはないことも指摘されている。
ヨーロッパの18世紀以来の啓蒙主義に基礎を持つ《民主主義》であるとか《議会主義》であるとか、あるいは《個人の尊重》といった方向に今後世界は収斂していくだろうと、冷戦の終了時に主張したひとがいたわけだが(たとえばフクヤマの「歴史の終わり」)、その予言は完全に外れたわけである。そしてフクヤマの主張に反対するものとされたハンチィントンの「文明の衝突」にしても、それは西欧対イスラムといった図式を提示したものであり、それ自体はフクヤマのものよりずっとその後の世界をいいあてていたとしても、それでも今問題になっているのは旧来からの西欧的価値観の内部崩壊とでもいうべき事態なのだと思う。そしてマルクスの思想もまたヨーロッパの啓蒙の流れの中から生まれた毛色の変わった一支流なのである。
ロシア革命というものが世界にあたえた途方もないインパクトという側面は本書では完全に無視されている。ソビエト一国のことのみが論じられ、物質と精神といった何だか青臭いとしか思えない方向に議論が収斂していく。
人文系のひとの本を読んでいると進化論といった方面にまったく関心がないようで、それでいいのだろうかと感じることがしばしばあるが、本書を読んでいると、進化論どころか、下部構造(という言葉が昔あった)にさえまったく興味がないようなのである。もしもお二人が崩壊以前のソ連あるいは(現在の?)中華人民共和国に生まれていたとしたならば、人民の敵とか非国民?とかいうレッテルを張られてしまってすぐに舞台から消えてしまう運命をたどるのではないかと思われる。紅衛兵などにつかまった日にはひとたまりもないはずである。
お二人ともに、日本に生まれてよかったのではないだろうか?
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