養老孟司「特別授業 坊つちやん」

 2018年 9月 NHK出版
 
  いろいろな人が中学生に一冊の本をとりあげて講義するというNHKの番組があるらしく、これは養老孟司氏がお茶の水女子中学の生徒15人に夏目漱石の「坊っちゃん」について語った番組をテキスト化したものらしい。
 漱石坊っちゃん」について語っている部分が半分、養老氏がいろいろなところで語ってきたことを再説している部分が半分という感じである。
 小説の「坊っちゃん」では、四国の中学に就職したばかりの坊っちゃんが教頭の赤シャツなどと対立、それに天誅?をくわえるが、それがために、就職したばかりの松山の中学を去ることになるのが主筋であるが、養老氏はそれを自分が東大を定年の3年前に大学という職場に嫌気がさして辞職したことにパラレルなものとみている。坊っちゃんは先に一切の展望がないまま、学校に喧嘩を売ってやめてしまうわけであるが、養老氏は退官時にはすでに多くの著作を刊行していて、それが結構売れるようになっていたわけで、わたくしも氏の本がでるたびにせっせと買っていた。まだ「バカの壁」のバカ売れの前であったとしても、著述によって生活していける目途がたったので、大学を定年前にやめたのだと思っていた。氏のそういう行動は坊っちゃんよりも、漱石東京帝国大学を辞して、朝日新聞社にはいった行動のほうに近いのではないかと思う。漱石朝日新聞に入るにあたり、生活の保障について、随分と細かい点まで交渉していたということを聞いた記憶がある。
 さて、第一章は「「大人になる」とはどういうことか」と題されている。このタイトルですぐに想起するのが、内田樹さんの2002年の本「「おじさん」的思考」に収められた「「大人」になること―漱石の場合」である。ここで主としてとりあげられているのは「虞美人草」であるが、そこに「漱石が大学を辞めて、新聞小説家になった理由ははっきりとしている。 漱石は「啓蒙」家の責務をその身に感じたのである。明治の若者に「これからどうやって大人になるのか」の指針を示さなければならないという強い使命感に駆られたのである。」とある。養老氏もまた啓蒙家の責務を感じているところがどこかにあるのだろう。そうでなければ、これほど多くの著作を世に問うことはないのではないか?
 この講義で養老氏は「坊っちゃんは大人でしょうか」という問いを提出し、まだ大人になりきれていない、だからこそ坊っちゃんと呼ばれるのだという指摘をして、それゆえに「坊っちゃん」のテーマは「大人になる」ということなのであるとして先にすすむ。
 第二章「自分の頭で考えろ」では、漱石の「自己本位」という言葉を援用して「自分で考える」ようになることこそが大人になることであるとされる。そして漱石東京帝国大学を辞めて新聞社に勤めるようになったことに、その「自分で考える」ということの一つの典型的な姿をみている。
 さて、内田樹氏の「「大人」になること―漱石の場合」では、取り上げられるのは漱石の新聞社入社第一作の「虞美人草」である。「虞美人草」の主人公の一人の宗近くんは、内田氏によれば帝大出の「坊ちゃん」である。そして「坊っちゃん」の隠れた主人公である清は、やはり「虞美人草」に描かれた漱石の理想の女性である糸子とパラレルな存在であるとされている。「学問も才覚もない。けれども、人間として最高の美質である、真摯、誠実、正直、清純を備えている」女性。
 この養老氏の本でも、「坊っちゃん」の末尾が清の記述で終わっているに注目するように、生徒の中学生たちに促している。
 吉本隆明氏の「夏目漱石を読む」でも「虞美人草」での宗近くんがする糸公賛美の甲野くんへの大演説を、「文学とはこういうものだったんだという感じが油然とわいてくる」部分といっている。「虞美人草」という欠点だらけの小説も、この部分があるから読むに値するのだ、と。
 糸公は君の知己だよ。・・糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解している。・・糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ。・・糸公は尊い女だ。誠のある女だ。正直だよ。・・
 内田氏もほぼその辺りを引用しているが、こちらは小野くんへの宗近くんの演説の部分。
 こういう危うい時に、生まれ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中には真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間が幾何もある。・・真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰の据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。・・
 そして「坊っちゃん」の清を、坊っちゃんは、
 清なんてのは見上げたものだ、教育もない身分もない婆さんだが、人間として頗る尊い・・
 という。
 本書での養老氏の「坊っちゃん」の読みはごく正統的なものであって、特に養老氏に特有な読みというのは示されていないように思う。むしろ、「坊っちゃん」でのいくつかの出来事を自分自身におきたこととの関連で読んでいるという読み方が特異なのであろう。
 養老氏があちこちで書いてきている、大学紛争時に当時助手であった氏が、学生たちがから「この非常時に何が研究か!」といわれて研究室封鎖をされ研究室を追い出されたという体験が本書でも語られる。しかしそれが、「坊っちゃん」とどう関係するのかがよくわからない。しかし、氏のなかではどこかで関連があるものと捉えられているのだろうと思う。
 氏は助手という新米の社会人として大学紛争に遭遇したわけだが、わたくしは医学部の1年生として、それに遭遇した。今から考えるとおかしいとしかいいようがないのだが、学生たちはストライキをして授業を拒否していることになっていた。そしてたくさんの学生のなかには、自分は医学の勉強をするために大学に来たのだから、授業を受けたいと言い出すものがあって、それらはスト破りと呼ばれて徹底的に嫌われ排斥された。「この非常時に何が勉強か!」である。自分は勉学や研究を拒否しているのだから、その間に抜け駆けをして、勉強したり研究したりしているようなやつがいるのは許せない、そういう論理(心理?)である。自分が止まっているのだから、ほかの人間もまた止まらないければならない。ひとりだけ先にいくようなやつは許せないという理屈あるいは心情である。
 そして、わたくしのまわりで飛び交っている言葉もまた、その根底にあるのが、どのような言辞を弄すれば、人の上に立てるか、他人に対して偉そうな顔をできるかというものなのではないかと感じることがしばしばあった。猿山のボス、あるいはマウンティングである。この学生たちの運動が糾弾の対象としたものの一つが、その当時「進歩的文化人」と呼ばれた人たちであった。この人たちは本当に言葉で扇動することをもっぱたらにしていた人たちだった。
 いわゆる進歩的文化人の権威が大いに失墜したことはこの学生たちの運動の大きな成果であったと思うが、それはその当時の学生たちが、進歩的文化人の弱点、脅かしどころを心得ていたからで、文化人たちは、「お前らは口先だけではないか!」といわれることにとても弱かったのである。学生たちはとにかくも口先だけではなく、石を投げていた。
 さて、どこで読んだか忘れたが、吉田健一が「坊っちゃん」のことを無責任な人間であり、鷗外なら絶対に書かない人物であるといったことを書いているのを読んだ記憶がある。そしてまた、山崎正和氏に「鴎外 闘う家長」がある。
 「坊ちゃん」対「家長」である。漱石対鷗外あるいは下町対山の手。本書にあるように「坊っちゃん」の根底にあるのは「東京の下町の倫理観」である。「そういう汚いことはできねえ」という感覚。
 わたくしは東京の山の手生まれの山の手育ちのためか、坊っちゃん的倫理に憧れがあるにもかかわらず、どうもそれだけでは、という感覚もまたある。わたくしのような万年子供がそんなことを言ったら笑われるにきまっているが、どこかに家長的なものへの憧れもあることも感じている。
 下町=坊っちゃん、山の手=家長、というのはあまりに単純化した話になってしまうと思うけれども・・。


「おじさん」的思考 (角川文庫)

「おじさん」的思考 (角川文庫)

夏目漱石を読む (ちくま文庫)

夏目漱石を読む (ちくま文庫)

亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(2)

  
 23ページで亀山氏は「革命は善であるという前提がいつ、どこで崩れたか」ということをいい、それに対し沼野氏は自分にはその前提はない」と答える。それに対し、亀山氏は自分は「暴力というものに嫌悪感をもつのだが、ロシア革命というのは正義の暴力だったと思っていた」と答える。あとから考えると浅はかだったが、自分たちの世代の大半がそうだったのではないか、と。
 亀山氏はわたくしより2歳年少であるのだから同世代といっていいのはないかと思うのだが、わたくしは革命が善であると思ったことは一度もない。それは革命というものが暴力を内包するからではなくて、社会の体制を変えることによって人間を変えることができるとする見方を信じたことが一度もないからであると思う。そして、そういう自分の見方は文学によって培われたと思っているので、文学の側の人間である亀山氏がそういうことをいうのがわからないことになる。
 第一章の最初で「文学がロシア革命を準備したのだ」(沼野氏)ということがいわれて、ドストエフスキーの「罪と罰」をロシア革命に至る歴史の流れのなかにどう位置づけるかというというような方向に議論が進んでいく。
 しかし何よりもロシア革命というのはフランス革命なしには生まれなかったものであり、フランス革命は西欧の合理主義あるいは啓蒙主義の一つの結節点なのであるのに対し、ドストエフスキーはその西欧合理主義への抵抗ということを自分の根幹においていたひとであると思われるので、議論の方向が根本からおかしいように思う。「罪と罰」について、「一人の人間が一人の人間を個人的動機で殺したという殺人のむこうに、結局革命にいたる巨大な歴史をのうねりが背景として透けて見えてくる」などといわれるのだが、「罪と罰」はこの殺人が否定される話なのだから、この小説をテロリズムの問題と結びつけるというような議論も理解しがたい。
 第2章と第3章はチェーホフトルストイが取り上げられるのだが、チェーホフロシア革命を結びつけるのは無茶としかいいようがない。トルストイは晩年の家出のあたりが主に論じられるのだが、人によっては老年の錯乱とみなすであろう出来事に過剰な意味づけをしているだけのように思える。
 急に話が飛ぶが、福田恆存の「チェーホフ」に、チェーホフのスヴォ―リンあての手紙というのが紹介されていて、そこにこんな部分がある。「俗衆はなんでも知り、なんでもわかっているとおもひこんでゐる。ばかなほど視野が広い気なのです。俗衆から信頼されてゐる芸術家が、自分の頭にうつるものでなにひとつわかるものはないといひきる勇気をもつたとすれば、それこそ思想にとつての一大収穫、一大進歩といふべきでありませう。」
 本書を読んでなによりも感じるのが、本書の二人が何でも知っていて、なんでもわかっているということである。もちろん、このことについては知らないとかわからないといっている部分もあるのだが、それでもである。
 福田恆存ついでに、同じ「福田恆存評論集2 人間・この劇的なるもの」(1966年)から「ふたたびロレンスについて」からも。「問題は・・・スラブ人だといふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフリュードフ対カチューシャは、西欧対スラブといふことなんだ。」
 明らかにマルクス主義は西欧の出自である。福田氏によれば、それはスラブと対立するものなのである。亀山氏も沼野氏もロシア文学と文化の専門家として「スラブ」ということについてわたくしの何十倍、何百倍もくわしい。そして帝政ロシアが1917年に倒れ、ソヴィエト社会主義共和国連邦という共産主義国家が地上はじめて出現したという事実が一方にあると、どうしてもそれを生み出したものの根底にあるのがスラブであるに違いないということになって、延々と「ロシア革命100年の謎」が探られることになる。
 ここにないのが、ロシア革命というのが何かの間違い、ほんの偶然の産物であってなんら必然の産物ではなかったのではないかという視点である。そもそも共産主義国家は資本主義の爛熟に果てに出現するはずだったものであり、農奴制ロシアなどから生まれるはずはなかったのである(中華人民共和国についても同様であろうが、中国にあった易姓革命による王朝の交代という歴史観は、ソ連の場合よりはずっと共産中国を正当化しうるものであった可能性がある)。
 本書の前半半分はロシア革命前の前史にあてられていて、ソヴィエト建国後は後半に論じられる。したがってもしもロシア革命が「スラブ」の産物ではなかったのだとすれば、本書の前半は二人のロシア文学者のスラブというものへの蘊蓄をきくだけの無駄話ということになってしまう。
 第4章は「世紀末、世紀初頭」と題されていて、そこで語られることは、例えばトルストイの「戦争と平和」が西欧近代の文学の規範からみていかに異様なものであったかというようなことである。そして19世紀末のロシアは終末論に覆われていて、1900年に世界はおわり、永遠に女性的なるものを仲立ちとして神の国が出現するという思想がロシア知識人たちにひろく受け入れられていたということが指摘される。この話ははじめてきいたので勉強にはなったのだが、今までわたくしが知らなかったのは、このことをロシア革命前史として指摘したひとがあまりいなかったためだろうと思う。つまり歴史としてのロシア革命を研究しているひとには少しも説得的ではないということなのだろうと思う。
 そして、ここで語られるのが、2月革命まではよかったが10月革命がまずかったのではないかというような心情である。つまり2月革命でとどまることができず、10月革命まで進んでしまったことで、国家的暴力や粛清というものがその後の必然としてソヴィエト国家に生じてきてしまった、その後のソヴィエトの悪として現在のわれわれが認識しているようなものがすべて10月革命で解放されてしまったという見方である。沼野氏はこういう見方を「歴史や政治に素人の、きわめて文学的な説明」というのだが、亀山氏は「その説明が唯一正しい説明かもしれないなと思うことがある」という。しかし、そんなことを言ってどうなるにだろうと思う。事実として10月革命はおきたのであり、圧制も粛清もおきたわけである。
 だから1917年の問題が「マヤコフスキーの運命」というようなほうに収斂してしまい、革命のおこなった偉大なる父殺し、形而上学的には神殺しというような議論にむかってしまう。こういうものは閑人のたわごととして思えなくて、しかもそれぞれの教養のひけらかし競争にも見えてくる。
 みたび福田恆存の「チェーホフ」より、「退屈な話」からの引用。「いいかげんにしなさい。だういふつもりできみたちは、二ひきのがまみたいに座りこんで、自分たちの息で空気を腐してるんです。もうたくさんだ。」 19世紀ロシア文学に登場する人物像の一つに余計者というのがあったような気がする。
 小説というのは西欧近代の産物であって、小人の説、神々や英雄ではなく市井の一個人もまた語るべき物語を持つという信念から生まれた。亀山氏も沼野氏もともに文学者なのであるから、その思いから文学にむかったはずである。小説にくらべれば韻文というのはもっと古代的、神話的起源を持つものであり、本書でスラブであるとかロシア語ということでいわれているものは小説のための言語としてではなく、韻文のための言語としてのロシア語である。わたくしはロシア語を一句も解せぬものであるので、ここでいわれていることの正否は判断のしようもないが、日本語の翻訳で読んでも、「戦争と平和」も「カラマーゾフの兄弟」も面白いと思う。そして、それがロシア革命と関係があるとは少しも思えないのである。

ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎

亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(1)

  2017年 河出書房新社
 
 本書は昨年刊行されている。ロシア革命が1917年だから、昨年はロシア革命100年の年であったわけである。そういわれてみればそうだったと感じるくらい、昨年がロシア革命から100年の年であることについて論じたり考察したりしたものが目につくことはなかった。というよりも何だかソ連という国があったこと、それがマルクスレーニン主義といわれるもので主導されていたことついて、そういえばそんなものもありましたね、でもそれはもう昔の話でしょ、とでもいった感じで、今さら、そんなことを考えてもしかたがないし、生産的でもない、それよりもっとこれからのことを考えましょう、とでもいうように。
 わたくしは1947年の生まれなので、ロシア革命30年の生まれということになる。当然、第二次大戦後の生まれなので、ずっと東西冷戦の影のなかで生きてきたという気持ちがある。自分が生きているあいだはこの東西冷戦というのが続いていくだろうと固く信じていたので、1991年のソヴィエト崩壊には心底驚き、震撼させられた。
 そしてもう一つ、まったく個人的な体験であるが、二十歳のころに遭遇した東大紛争(闘争)ということがあり、それを担っていたのが革命的マルクス主義派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)だったり、社青同解放派社会主義青年同盟解放派)であったりし、それに対抗していたのが日本共産党の下部組織である民主青年同盟だったりしたわけで(ある時代、「民主」という言葉はほとんど日本共産党となんらかかかわっていることの標であった・・民主主義科学者協会等々)、それらがマルクスの考えたこととどの程度関係があったのかはよくわからないし、それはほとんどあらゆるものに反抗し抵抗していく心情という以上のものではなかったのかもしれないが、そのころはまだ「革命」という言葉が一部のひとにとってはリアルであったのであり、革命を起こすために銃器を奪い、射撃訓練にいそしむ人たちもいた。
 そういうことすべてが、ソ連の崩壊によって、一挙に過去もものとされてしまって、いまさら真面目に考えても仕方がないものとされてしまって誰も論じることがなくなってしまった。そういう中で本書は珍しく現在の時点でロシア革命を論じた本ということになる。しかし。この著者(対談者)の二人はいづれロシア文学者であって、政治や歴史の専門家ではない。とすれば、話の中心は文化と文学ということになる。
 そして、本書を読んで、教えられるところは多々あったのだが(たとえば、現在のロシア人がもっとも尊敬する歴史的人物はスターリンで、二番目がプーチン、三番目がプーシキンで4番目がレーニンで、最悪がゴルバチョフであるとか)、文学的観点からロシア革命、あるいはソ連という国家を論じるという行き方に強烈な違和感を感じた。それで、以下、その違和感が何によるのかということを少し考えてみたいと思う、
 たとえば、亀山氏は「社会主義は、ある意味で人類の理想です」という。また沼野氏は「物質と精神」などということをいいだす。ここで物質といわれるものは西欧の合理主義と通じるものとされ、一方、精神はロシア語が代表する何かで「ロシア語の単語を発するという行為を通して、ロシア人は一種の霊性のなかにはいっていく」などという、わたくしからみるとかなりとんでもないことがいわれる。その一方で亀山氏はロシアにおいて西欧的個人が生まれにくくしているものとしてロシア正教を挙げる。
 沼野氏はロシア革命を生んだのはロシア人のもつ終末論的で黙示録的な想像力なのであるというようなこともいう。
 どうもこういうところを読むと、漢心と大和魂といったことを想起してしまうし、先進ヨーロッパに対抗して生まれたドイツのロマン主義といったことも頭に浮かんでくる。
 文学者が政治を語るとしばしばおかしなほうにいってしまうということを常々感じているが、本書もその典型的な例の一つではないかと思えてくる。
 しかし、まだ序章を見ただけである。各論をみていきたい。


ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎

岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(5)

 
 岡田氏のいう「自己表現するロマン派」というのは、大きな視野でみれば、フランス革命の産物ということになると思うが、それと対立する「反=フランス革命」路線というのも、また西欧の思想のなかでつねに一定の勢力を占めてきている。わたくしが二十歳をすぎるころから親しんだ思潮もそういった「反=フランス革命」派であった。
最初にいかれた福田恒存はD・H・ロレンスを神輿にかつぐひとであったし、三島由紀夫フランス革命の関係というと難しい問題になるが、あの最期あるいは晩年の天皇陛下万歳路線を横においておくと、三島はとにかく「明るい」ものが嫌いで、「暗い」方向を好むひとだったのだと思う。その点で三島は太宰治の系譜の属するひとであった(「明るさは滅びの兆しか。暗いうちはまだ滅びぬ」)。戦後民主主義派の能天気な明るさと対立する路線にわたくしはつねにひかれてきたように思う。
 以前、清水幾太郎の「倫理学ノート」を読んでいて、D・H・ロレンスとブルームズベリー・グループとの対立ということを知って面白く思ったことがある。ロレンスもブルームズベリー・グループもどちらもビクトリア朝的道徳のようなものを仮想敵としたのだと思うが、ブルームズベリー・グループがそれを茶化す方向で対抗しようとしたのに対し、ロレンスはビクトリア朝的道徳を生命力に欠けた萎えた思想であるとして全否定した。そのロレンスから見るとビクトリア朝的道徳もブルームズベリー・グループも同じ穴の狢に見えたようなのである。
 「倫理学ノート」にブルームズベリー・グループがそのころ刊行されたムアの「倫理学」に熱狂していたことが紹介されていて、そこに紹介されているムア「倫理学」のあまりに内容が空疎であることに唖然とした記憶がある。このムアの「倫理学」が現在の英米の哲学の主流である言語哲学の源流なのだそうで、それを知って、とにかく自分は欧米の思潮のなかでも主流派には一貫して共感できない人間なのだなということを思った。
 なぜ、このようなことを書いているかというと、福田恒存三島由紀夫とともに親しみ、結局、最終的に自分の神輿にすることに決めた吉田健一ブルームズベリー・グループの系譜のひとだと思うからである(特に、リットン・ストレイチー?)
 吉田健一は反=観念論、反=カトリックの人というのがわたくしの見立てで、その点、D・H・ロレンスは長生きしたらカトリックにいっていたであろうとし、晩年、T・S・エリオットに入れあげていた福田恒存とまったく異なる立ち位置にいたひとなのだと思う。
 ロマン主義というのはヨーロッパでの後進国ドイツが、イギリスやフランスを物質文明と腐し、自分たちは精神文明なのだから、彼らよりも上であるとする負け惜しみから生まれたとする説がある。ロシア正教を錦の御旗としたドストエフスキーもその系譜に属するということになるのであろう。われわれが親しんでいるクラシック音楽がイタリア・フランスのものよりもドイツ・ロシアのものに傾いているのもそのことと関係があるだろうと思う。
 それで問題は「音楽での19世紀ロマン派」である。このロマン派によって開花したのが「自己表現」であると岡田氏はし、その祖はベートーベンであるという。その「英雄」でも「運命」でも「悲愴」でも「月光」でも「熱情」でも、あるいは中期の弦楽四重奏でも、それが「自己表現」であるかといわれると、少し違うような気がする。ベートーベンは人間にとって共通する感情の何かを自分は音によって表現できたと思ったのではないかと思う。それは自己表現ではなく、変な言い方だが、人間という「類」の表現であると考えたのではないだろうか? 人間という類には普遍的に共有される感情があるというような見方がまさにフランス革命の産物かもしれないわけで、その点、ベートーベンは間違いなくフランス革命の申し子なのかもしれないのだが、そういう類としての思考というような見方は、粗野で繊細さを欠くものでもあるので、われわれがベートーベンに感じるある種の野蛮さというのもまたそこに由来しているのだろう。
そのことは自身でも感じていたはずで、ベートーベン後期のピアノ・ソナタとか弦楽四重奏曲などは、自分の気持ちをひとに伝えるのではなく、今度は自分ひとりのために書く音楽に傾斜していく。その点、ベートーベンは公共的な音楽から私的な音楽まで一人でやってしまったため、後に続いた作曲家が大いに困っただろうということは容易に想像できるところである。
人間という類に共通の感情というような見方はどこかで《普遍》ということとつながるはずである。この《普遍》と、西洋音楽は西洋に固有のヨーロッパのローカルな民族音楽であるとする岡田氏の見方がどう関係するかである。《普遍性》の希求はギリシャに由来するヨーロッパのバックボーンの一つである。西欧クラシック音楽作曲技法に存在する非常に煩瑣な禁則も音楽の世界には普遍的に存在する正しいありかたがあるという信念からの探求の反映であるはずである。作曲について多くの規則ができあがっているので、勉強さえすれば誰でも一定の楽曲を作ることは可能である。
シェーンベルクが12音技法を発明?したときに、これでドイツ音楽の優位を100年保てるといったという話があるが、これも個々の作曲家の個性よりも法則のほうが上という信念を示しているのであろう。
 西欧の文明を他の文明から区別するものとして、物質の尊重ということがあって、西洋文明を他から分別するものである科学もそれなしには生まれなかった。音は物質ではないとしても、一定の長さに張った弦というのはモノであり、だからこそピタゴラスの音階が生まれた。ピタゴラスの音階からはピタゴラスのコンマという不条理が生まれるが、そもそも二等辺三角形の対辺というきわめてありふれたものにさえ、無理数という不思議はすでに存在していた。
プラトンイデアというのは、本来ピタゴラス教の徒であったプラトンが数学に潜む無理数という不条理を回避するために作り出したとするポパーの説がある。専門家にいわせるとポパープラトン理解というのはとんでもなくレベルの低いものであるのだそうだが、要するにいくら不条理に見えるものでも、それと対応するものがイデアの世界にあるとすることで、不条理を回避できてしまうということである。
普遍性への追求はヨーロッパという地域でのローカルな行き方である、などというとほとんど言葉遊びであるが、音楽の分野においてもヨーロッパはある普遍に達したのではないかと思う。岡田氏がいうように、「私たちが「クラシック音楽」と呼んでいるものは、18世紀前半から20世紀初頭、わけても19世紀に作曲されたヨーロッパ音楽の名作レパートリーのことであ」り、「20世紀は主としてアメリカ発のポピュラー音楽の世紀であった」のだとしても、ポピュラー音楽の語彙は19世紀のクラシック音楽の域を超えておらず、何よりもそのほとんどが歌詞をともなう音楽であるということは、ロマン派の自己表現の部分が主として歌詞という言語の表現として生き残り、声というどの楽器よりも感情表出に秀でた楽器によって表現されることになっているわけだから、21世紀の現在でもわれわれはロマン派の自己表現の世界に生きているともいえるのだろうと思う。ということは音楽の世界は19世紀ヨーロッパのままといえるのかもしれない。
ヨーロッパは18世紀ごろ「個人」というものを発見して、それがすくなくとも20世紀は世界を席巻した。21世紀になってもその勢いは続くと多くの人が信じていたにもかかわらず、どうも最近は雲行きが怪しいと感じているひとが少なからずでてきている。
とすれば19世紀の博物館であったクラシックのコンサート・ホールが、21世紀になりもっとアクチュアルな意味をもつ場になることだってないとはいえないのかもしれない。
 

クラシック音楽とは何か

クラシック音楽とは何か

須賀敦子詩集「主よ 一羽の鳥のために」

 
 本屋を覘いていたら、「主よ 一羽の鳥のために 須賀敦子詩集」というのがあった。
 これは須賀氏の死後、見つかったもので、1959年の1月から12月に書かれたものであるが、たまたたその時期のものだけがみつかったのか、この時期だけ詩作をこころみたのかはわからないらしい。須賀氏30歳、イタリア留学してしばらくの時期であるらしい。
 (おかあちゃま じかんってどこからくるの?)という詩(無題なので、冒頭の一行を題名としてある)に、以下のようなところがある。行分けせずに引用する。
 「そのむかし こどもよ ひとは じかんをもってゐなかったのだ。 そのとき いのちは よろこびで ひかりは たえることない うた だった。あさのつぎには ひるが来 ひがくれると よるがきた りんごの木には りんごがなり はるには はるの花が咲いた。」
 ここで「じかんをもっていなかった」というのは、あるいは現在しかなかったと言い換えてもいいのかもしれない。人間以外の動物は過去も未来ももっていないだろうと思う。いつも現在にいる。
 吉田健一の「時間」は、人間に現在をとりもどそうとする試みであったのだろうと思う。「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのではなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。・・・」
 精神科医の計見一雄氏は、上記の「時間」の出だしの文章を引用し、人間にとっての時間についての、重要なことはすべて述べられていると書いている、といい、さらに以下を引用する。「我々がどれだけ生きてゐるかはどれだけ現在の状態にあるかで決る。・・・」(「脳と人間」) そしていう。「精神分裂病の人から、ほとんど決定的に奪われてしまうのが、かくの如き時間である。」
 丹生谷貴志氏は「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という吉田健一論(「吉田健一頌」初出、後に「天皇と倒錯」に所収)で、吉田氏晩年の「時間」や「変化」で吉田氏が示したものは、近代の病理に対して氏が導き出そうと試みた解決策の提示ではなかったのではないだろうか、ということをいっている。因みに、「奇妙な静けさと・・・」というタイトルは、精神科医中井久夫氏が精神分裂病患者がその発症前後の短い時間に経験する「奇妙な静穏期」について述べた論文から、とられている。
 この須賀氏の詩では、時間を持っていなかった人間が、時間を持つようになったのはアダムとイブが知恵の木の実をたべたときからである。
 この須賀氏の小さな詩集が氏のもつキリスト教信仰に基づいていることは明白で、ある部分はほとんど主との対話である。
 わたくしが若い頃、福田恆存から学んだのは宗教のもつ二面性ということであった。魂の救済にかかわる宗教と異教徒を呪詛し自民族に救済をもたらす黙示を示す宗教である。20世紀が脱宗教の世紀であったとすれば、21世紀はふたたび宗教の世紀になるのではないかという気がするが、そこでの宗教は個人を救済するものとしての宗教ではなく、民族を統合するものとしての宗教である。
 須賀氏のこのささやかな詩集を読んでみても、そのキリスト教信仰はもっぱら魂の救済もかかわるものであって、集団のための宗教という部分はいささかもふくまれていない。これは須賀氏だけのことではなく、日本人のキリスト教信仰というのはもっぱら魂の救済だけのものとなっているように思われる。いわば新約聖書だけでどこにも旧約聖書のないキリスト教である。氏がイタリアでかかわるようになったコルシア書店の運動は単なる宗教運動ではなく、ナチスへの抵抗運動からはじまっているわけで、そこにかかわるようになって宗教は単なる魂の救済ではなくなったときに須賀氏はそれまで書いてきたような詩を書き続けることができなくなったのかもしれない。
 

時間 (1976年)

時間 (1976年)

脳と人間―大人のための精神病理学

脳と人間―大人のための精神病理学

天皇と倒錯―現代文学と共同体

天皇と倒錯―現代文学と共同体

公と私

 
 養老孟司さんの近刊「半分生きて、半分死んでいる」を読んでいて、「国だけを公とする考えを右翼といい、個と公をごっちゃにするのを左翼という」という文が目についた。
 前半はわかりやすい。公と対立するものは私であろうが、右翼は私のために生きる方向を否定し、公=国のために生きることこそ人の道であるとする。
 自分のために生きるという方向は不幸なものとして排除される。
 しかし、「国だけを公とする」左翼というのもいるだろうと思う。たまたまいま自分が生きている国の体制が自分が身をささげるに値しないと思っているから国が公にならないだけで、かつて、北朝鮮の千里馬運動のマスゲームを見て感涙にむせび、中国で毛沢東手帳をかざした群衆を見て目を潤ませるひとはたくさんいた。要するに、自分さえよければほかの人間はどうなってもいいというような利己主義を嫌う心情であって、だから戦前、転向ということは比較的容易におこなわれた。自分が「公」と思う対象がマルクスから天皇にかわるだけで、滅私奉公という行き方においては一貫していることになる。
 後半の「個と公をごっちゃにするのを左翼という」というのはわかりにくい。それは養老さんの使っている「公」の概念がわかりにくいからで、上記の養老さんの文の前には「日本のシステムでは商売は三方良しである。店良し、客良し、世間良し。「自分」はどこにも入っていない。それを私は「公」とよびたい。国だけが「公」というわけではない。」という文が置かれている。
 つまり「公」というのをいきなり国といった抽象度の高いところにもっていくのではなく、もっと身近なところに公というのはあるのだぞということを主張している。そしてそのことは「公」と対立するものが自己実現や自分探しであるとされていることにもあらわれている。
 戦前の神風特別特攻隊に多くのひとが懲りた。それで国とか公とかから降りた。滅私奉公などとんでもない。「私」が大事だ!ということになった。
 だから「個と公をごっちゃにするのを左翼という」というのは、わたくしを追及していくことが公に通じるのだというような方向のことをいっているのかもしれない。なんだかマンデヴィルの「蜂の寓話」である。「かように各部分は悪徳に満ちていたが、全部そろえばまさに天国であった。・・・」 竹内靖雄氏によれば、「近世における私利私欲抑制メカニズムの最初の構想がホッブスの『リヴァイアサン』であった」ということであるから、右翼というのはホッブスの系統ということになる。マルクスもまた私利私欲抑制メカニズムの系譜に属するであろうから、マルクスも右翼というなんだか変なことになる。そしてアダム・スミスはマンデヴィルの系譜であるからアダム・スミスは左翼ということになり、いよいよ変である。
 長谷川三千子さんとか佐伯啓思さんなどの右のひとは民主主義が嫌いであり、フランス革命以来の啓蒙主義が嫌いであり、普遍的な目的設定が嫌いであり、近代が嫌いである。そういったものが「文化」を破壊していくことを何より懸念する。一方、左の人たちは基本的に近代を肯定する。その見地からすれば、マンデヴィルもホッブスアダム・スミスもみな左の人ということになる。
 何だか変なので、もうひとつ補助線を引いてみる。快楽主義と禁欲主義である。とすると、快楽主義右翼、禁欲主義右翼、快楽主義左翼、禁欲主義左翼の四つが区分される。あるいは、快楽主義を「不真面目」、禁欲主義を「真面目」と言い換えてもいいのかもしれない。
 基本的に西洋近代は真面目路線である。とすると近代の思想は右も左も禁欲派で占められることになる。そういうこちこちに対しできることはせいぜい「水を差す」ことぐらいかもしれない。
 西欧の骨格はキリスト教で、キリスト教は真面目で禁欲の方向である。啓蒙主義というのは、それに水を差そうというものであったのであろうが、フランス革命でたちまち超真面目路線にもどってしまった。
 「個と公をごっちゃにするのを左翼」というのは左翼思想が西洋渡りのものであって、必然的に左翼は真面目路線であるということである。
 養老さんが信用できるとしたら、何の役にもたたない虫捕りに倦まず励んでいることで、「日本のシステムでは商売は三方良しである。店良し、客良し、世間良し。「自分」はどこにも入っていない。それを私は「公」とよびたい。国だけが「公」というわけではない」のかもしれないが、商売だからそうなるので、虫捕りなどは、絶対に三方良しにはならない。ただ自分良しだけである。
 どうもわたくしは真面目派が苦手なのだと思う。だから右も左も苦手で、どちらにも近寄りたくないと思う。
 「死にたい奴は死なせておけ。俺はこれから朝飯だ」というのは昔、吉行淳之介の本のどこかで読んだ記憶があり、いかにも吉行らしいと思っていたのだが、前回の文にも書いたように、どうも吉行的感性というのが自分の根っこにあるらしいことを最近感じる。(この「死にたい奴・・・」は富永太郎のものとしているひとがいたが本当なのだろうか?)
 

経済思想の巨人たち (新潮文庫)

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民主主義とは何なのか (文春新書)

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資本主義はニヒリズムか

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根性

 最近、ちくま文庫で刊行された「吉行淳之介ベスト・エッセイ」に「「根性」この戦後版ヤマトダマシイ」という文があった。文庫にはいつ書かれたものであるかが記載されていないが、「オリンピック前後」とか「女子バレーボールの大松監督」などとあるから、1964年の東京オリンピック前後のものである。もともとは心だて、気だて、心根、性質などという意味であったこの言葉が、このオリンピックのころから「倒れてのちやむ精神」といったものに限局されてきていることを指摘し、そうなると自分たちの世代の人間は、「国民精神総動員」とか「撃ちてしやまん」といったことを思い出すという。
 戦時中の年少時代、吉行氏は軍人タイプの人間がきらいでしかたがなかった、という。日本的精神主義のにおいが「根性」というコトバにくっついているという。戦時中の「大和魂」というコトバも連想するという。
 わたくしは東京オリンピックの時に高三で、その前から、大松博文(という名前だったと記憶する)とかニチボー貝塚といかいうという名前と根性というコトバを始終きかされていて、嫌だなーといつも思っていた。わたくしは高一まで文学部に行く気でいて、その夏休みに思うところがあり、文学部志望をやめた。そうするとどういう職業をめざすか考えなくてはいけなくなったが、とにかくサラリーマンだけにはなるまいと思った。そのころの根性ブームを反映して、新入サラリーマンに自衛隊体験入隊とか寒中の禊とかを課す会社が多々あることが報道されていて、今でいう「へたれ」で筋金入りの「根性なし」であることを強く自覚していた人間として、到底そういう新人研修に耐えられるとは思えず、とにかくも組織とは無縁であるように思えた職として医者を選択した。
 本書にも収載されている「戦中少数派の発言」での真珠湾攻撃報道に歓声をあげることができず感動することのできない吉行氏の姿というのも自分と重なるところがある。
 文学部の志望はやめても、自分の感性は吉行淳之介太宰治に近いところにあると思っていて、大学3年で東大闘争(紛争)に直面することがなければ、それは変わらずにいたのではないかと思う。吉行氏はあらゆるものの判断の基準に自分の生理というものをおいて揺るがない強さをもっていたが、生理というのは言葉にできないものなので、毎日、議論にあけくれることになった大学の日々では、言葉による理論武装が必要になった。それで福田恆存吉田健一を神輿に担ぐことになった。それによって、それまでのいわゆる文学青年的な読書から、もっと広い範囲の書物に世界が広がったので、そのことを少しも後悔するものではないが、それでも自分の根っこにあいかわらず吉行淳之介的な感性が残っていることを、このようなエッセイ集を読むと改めて感じる。