第1章.文明開化

 
   第1章.文明開化
 
 「吉田健一は文明開化だ」というのは、河上徹太郎氏の吉田健一評なのだそうである。(「ユリイカ」77年12月号「特集=吉田健一」の座談会での清水徹氏の発言による。)
 どのような文脈のなかで河上氏がそのように言ったのかは述べられていないので、以下論ずることは河上氏の本旨からは全くはずれることになるかもしれないが、この「文明開化」という言葉を手懸かりにして、吉田氏のことを考えて見たい。
吉田氏の晩年の著作の主題はすべて文明であったと言ってもあながち間違いとは言えないくらい、氏は文明について語り続けた。吉田氏が称揚する文明は十八世紀のヨーロッパである。吉田氏は文明をヨーロッパに発見した。発見してみれば、それは孔子の時代の中国にも、「千一夜物語」のアラビアにも、そして勿論日本にも見出されるのであったが。
 
 莫春者春服既成冠者五六人童子六七人浴乎沂風乎舞 詠而帰
 
 吉田氏は実に勤勉にヨーロッパを教師として勉強したひとであったように思われる。自分にとって本当に良いもの、価値あるものを氏は独学でヨーロッパから学びとった。自分にとって学ぶべき手本がヨーロッパにあるとするこういう姿勢を文明開化と評することは、それ程見当はずれなことではないだろう。
 十七歳から十九歳までを吉田氏は留学生としてケンブリッジで過ごしている。そのキングス・コレッジでの指導教官であるディッキンソンやルーカスについては「交遊録」に詳しいが、そこで学んだルーカスの文学に対する態度は吉田氏のその後の文学に対する態度を大きく規定した。
 
 この正常であるということがルカスから受け取った最も貴重なものであることが漸くこの頃になって解った。別にそういう話をルカスがした訳ではなくて正常を英語で何と言うのか現在でも知らない。併しルカスの本の選択にもそれに対する批評にもそういう人間の精神の病的であることを斥けた働きが感じられてそれは本の世界全体に光が及んで行く感じだった。(F・L・ルカス「交遊録」)
 
 イギリスの形而上派の詩人である Jhon Donne のことを吉田氏はいつもドヌと表記するが、ダンと読むのが本当らしい。それでも氏がドヌと書くのは、ケンブリッジでそう習ったからだという。氏は若いころイギリスで学んだことをずっとまもり続けているひとなのである。だが右に引用した文章にもほのめかされているように、イギリスで学んだことはすぐには氏の血肉とはならなかった。二十歳頃日本へ帰ってから三十六歳で「英国の文学」を出すまで、翻訳をのぞけば氏にはこれといった業績はない。それには、間に戦争が入ったということもあるかもしれないし、氏自身がイギリス文学よりもフランス文学(特に象徴主義文学)を身近なものと感じるようになったことも関係しているかもしれない。そして、氏が会得したヨーロッパ文学の精髄と日本の現実との間に充分な接点を見出すことが出来なかったことが、その一番大きな理由となっているに違いない。「英国の文学」以後、旺盛な執筆活動が始まった後も、吉田氏の書くものは、氏にとって奇妙に見える日本の現実をテーマとする随筆と、「文学概論」「文学の楽み」などの文学原論の二つに分かれており、その間の関係は必ずしも緊密なものとは言えなかった。吉田氏の文学論と文明論が一つとなって開花したのはやはり五十八歳の時刊行された「ヨオロツパの世紀末」以降であり、ほぼ同時に刊行された小説「瓦礫の中」、続く「絵空ごと」から後約十年の爆発的な執筆活動については、知るひとぞ知るところとなっている。そういう点から言えば、吉田氏は大器晩成のひとであった。
 日本の文明開化はヨーロッパの十九世紀に相当する。したがって日本が憧れ、学び、受けいれようとしたヨーロッパは、吉田氏の嫌う「科学と進歩」の野蛮な十九世紀であった。だから吉田氏を文明開化と評しても、それは現実の日本の文明開化とは全く異なったものであることは言うまでもない。ヨーロッパ十八世紀こそが文明であり、文明である以上、中国、アラビアなどの文明と共通の性格を持つという吉田氏の主張についてはすでに述べた。しかし、そうではあっても、ヨーロッパ十八世紀、十九世紀にはともに存在していて、中国、アラビアの文明には見られないものがある。合理主義の精神である。吉田氏はヨーロッパに学び合理主義を深く身につけたが故にヨーロッパの十八世紀を他のどのような文明より親しいものと感じるのである。
 十八世紀と十九世紀の合理主義は著しく異なっている。十九世紀に発達した科学もどこかで合理主義と関連している筈であるが、吉田氏なら十九世紀の合理主義は狂信であるというかもしれない。十九世紀は科学や進歩を盲信するあまり理性がまどろんでしまった時代ということも出来るからである。
 
 貴方は幸福になることを諦めたとおっしゃいます。・・・そのような望みを今まで持ってお出でになったことの方が不思議ではありませんか。凡ての人間の経験は気違いでない限り人間が平静の状態にしか達することが出来ないことを教えてくれます。これに対して幸福というのは幻影に過ぎなくてもしそのようなものがあったならばそれが何れは終らなければならないという動かせない事実に対する絶望から自滅するでしょう。
 
 これは「ヨオロツパの人間」のなかで吉田氏が引用しているデツファン夫人にあてたホレス・ワルポオルの手紙の一節であるが、このように出来ないことは出来ないと認めることが十八世紀の人間にとっての理性の働き、合理主義なのである。一方、十九世紀はといえば、
 
 十九世紀の後半頃からの短い期間は災害にはその対策があり、例えば渇水は貯水池、疫病は薬、飢饉は食物の輸送、戦争も国際会議で防ぐことが出来るという考えが行われていてその結果が人為的な災害も自然のものも既になくなったも同然だという気持でいることに人を馴れさせて来た。・・・どういうことにでもその対策があるという種類の考え方が既に理性が許さない筈の何かに対する過信であって人間は人間の状態を忘れる時に醜くなる。(覚書)
 
 確かに吉田氏には十九世紀の評判は悪いようである。氏に言わせれば、十八世紀の合理主義は狂信的なものや超越的なものを排して、人間のなしうることには限界があることを理性によってみとめたのに対し、十九世紀は科学や技術に対する盲信が生じたがゆえに、不合理にも人間には限界があることを忘れた、といったことになるのだろうか。確かに十九世紀の科学や技術に対する期待には狂信的と呼びたいものがある。しかし合理主義にはもう一つの側面があって、それは経験を越えたものや超越的なものを認めないということである。この点においては十九世紀の科学も合理主義の範囲に入るといえよう。
 この辺りから少しずつ医学の問題が関係してくる。医学が科学の一分野であると言いうるかどうかは大きな問題であって(以下、何も断らない場合、科学といえば自然科学を指すこととする)、ここで簡単に論じることはとても出来ないけれども、医学が科学になろうとして懸命に努力してきたことは事実であり、その結実が現在われわれが持っている医学なのである。
 近年、合理主義や理性に対する反発が一つの風潮となってきており、非合理、反理性といった動きも顕著になってきている。吉田氏に対する当方の関心の一つは、氏が(決して科学の信奉者ではないとしても)理性と合理主義の立場に立つものとして、このような動向に対立するだろうと考える点にある。科学を盲信することは野蛮であるが、そうかと言って非合理や反理性に走ることはそれ以上に野蛮なことなのである。だが、そのことを論じるためには、科学についてもう少し深く考えてみることが必要であろう。
 科学が成立するためには、次の二つのことが必要である。即ち、物質があることを認めることと、物質について探求することに意義を認めることである。物質があると考えることは錯覚に過ぎないとするような見方はどの文明においても存在しているし、物質があることは認めても、それらは探求するに値しないものであり、本当に重要な課題は心の問題、魂の問題であるとする立場はごくありふれたものでさえある。物質を探求することに意義を認めることが、キリスト教の世界観、即ちわれわれの世界には秩序があるとする見方、宇宙をカオスではなくコスモスと見る立場と深く結び付いているということは、既に科学史での常識となっているといってよい。物質が構成する規則を見出すことは神の栄光を明らかにすることなのであった。科学が西洋において開花した最大の理由はここにある。神秘体験とか冥想とかいったことによってではなく、ただわれわれの頭脳を用いて神の栄光を明らかにしようと努めること、そのことが知性のみを用いて世界を理解しようとする西洋の伝統を生み出した。スコラ哲学は今日のわれわれにはまったく無縁なものであるかも知れないが、それが西洋の哲学にも科学にもつながっていることは疑いない。そして、吉田氏は、一見そうは見えないにしても、知性のみを信じるというヨーロッパの伝統に連なるひとであったのであり、その知性ということをヨーロッパから学んだという点においても、また文明開化のひとなのであった。
 吉田氏は十八世紀ヨーロッパをヨーロッパにおける文明の達成とした。氏によれば、文明の状態とは人間の精神があらゆる束縛や拘束を離れた状態である。ギリシャ幾何学、ローマの法律、ユダヤ一神教を引き継ぎ、世界に秩序と法則を求めるヨーロッパの精神は、十八世紀に入り、あらゆる拘束から自由になり、すべての事をその精神活動の対象とするようになった。だが、それが昂じると、ものごとの軽重を判断するという感覚が失われてゆく。自由な精神はあらゆることを、神の属性も、天体の運行も、動物の体の構造も、総てをその対象とする。あらゆるものがそれ自体の価値と秩序を持ち、その秩序を明らかにすることが人間の精神活動の成果であるとしたら、すべてのものは人間の前に平等であることになってしまう。そこには、極度の豊富があるが、それが同時に極度の無秩序を意味することになる。神の属性は、それが人間の精神活動の対象となりうるという点において、動物の体と変るところがなくなってしまう。吉田氏はその混乱状態がすなわち近代であるとした。吉田氏に知性をそして近代を教えたと思われるヴァレリーはそういう近代精神の典型をダ・ヴィンチに見ている。しかしダ・ヴィンチがどんなに多くのことに興味を持ったにしても、その興味はダ・ヴィンチという一人の人間のなかで統一されていた。解剖に興味を持つこと、絵画を描くこと、機械を発明すること、建築の設計をすること、それらはみなダ・ヴィンチという人間の持つ関心の様々な表れにすぎなかった(・・・あるひとりの人間−彼のさまざまな行動が、それぞれにまったく異ったものと見えるので、かりにそれらの行動の基底にひとつの思考を想定しようとすると、これ以上ひろい思考はないだろうということになるような人間・・・ヴァレリーレオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」)。だが、解剖学と建築と絵画と発明とが互いにまったく脈絡のない相互に無関係な活動と化してしまうことがあるとしたら、それが近代の状態なのである。このように書けば、この近代の状態というのが科学の現状と深いかかわりをもっていることがすぐに見てとれるはずである。吉田氏はヨーロッパの近代は十九世紀後半から第一次世界大戦まで続き、第二次世界大戦で完全に消滅したとしているが、科学は依然として近代の状態にあると言っている。
 現代の科学のいくつかの例を考えて見るならばこのことははっきりとする。素粒子の研究とブラック・ホールの研究とDNAの研究とチンパンジーの集団行動の研究は相互に何の関りもない。そして、科学の近代的性格を示すもう一つのことは、これらの研究の目的がはっきりしないということである。素粒子研究の目的は物質の究極の単位を明らかにすることであろう。ブラック・ホールを研究するのは、宇宙における不可思議な現象を理解し宇宙生成の秘密を解き明かすことにあるのであろう。しかし物質の究極の単位を明らかにすることや、宇宙における不可思議な現象を理解し宇宙生成の秘密を解き明かすことがわれわれとどういう関係にあるかということはすこしも明らかではない。宇宙の本態を理解すれば、人間のいわれのない自己中心主義を脱することができる、といったことが宇宙を論じた本にはよく書いてある。しかし、人間のいわれのない自己中心主義から脱出するために宇宙の研究をしているのではないはずである。結局は、それを研究することが面白いから研究しているということになるのではないだろうか。とすれば、それは一種の知的な遊びであり、良くできた探偵小説を読む楽しみと特に選ぶところはないのではないかという気もしてくる。
 近代においてはあらゆる基準、あらゆる要請が失われるため、ひとが何をするべきかという指針が一切失われるのだ、と吉田氏は言う。ひとがあることをするのに意味を見出すのはその仕事の価値によるのではなく(それを決める基準はない)、その仕事がそのひとにもたらす充実、あるいはその仕事の完成度による。いまだに近代の状態が続いている科学の活動に従事しているひとを動かすものも、本当のところはその仕事が何かの役に立つということではなく、その仕事の完成度、あるいはその仕事の過程で知性を使う喜びなのであるかも知れない。
 いわゆる科学上の成果がヨーロッパだけで生れたわけではないことは言うまでもない。しかし科学の本当の完成を見たのはヨーロッパにおいてなのであり、それはヨーロッパの性格に依拠している。ということは、科学をヨーロッパの文明から切り離して考えることは出来ないということであり、科学を受けいれることは同時にヨーロッパ流の物の見方を受けいれることでもあることになる。
 その点を吉田氏はこう述べている。
 
 科学の発達にはヨオロッパが必要だった。その語源からしてこれは知識を意味し、一つの事実に基いて次の事実を求めるという科学と科学的なことの普及の為に今日の我々には当り前なことに思われる精神の働き方はヨオロッパのものであり、現在では科学的で通っているこの働き方、或いはそれに固執することこそヨオロッパ的なのである。・・・ヨオロッパ人はこの態度で一切のことに向い、事実から事実へと論理を通すことを願って知識を得て行ったが、それには対象が事実と呼んで差し支えないものであることが必要であり、そこまで来て我々は我々の精神が普通に扱っているものが大部分が事実、或は事実とされているものの中でも事実と呼べないものであることに気が付く。・・・
 前提が一定していれば論理によってそこから得られる結論も時空の影響を受けずに不変であって、我々人間の世界でそういう前提になり得るただ一つのものに物質がある。・・・或る物質に就て解ったことは常にその物質に就て発見出来るもので、それで物質は事実の典型であり、何かの形で物質が介入しなくては事実は成立しない。・・
 事実に基いて次の事実を求めることに執着するヨオロッパ人の精神が物質に眼を転じて科学が生れた。・・・ヨオロッパ人は事実を求めて物質を得たのであって、アルキメデスが風呂の水に体を沈めた時にその体は物質であって水とともに物質を支配する法則の下にあり、それを認めて彼の精神が飛躍した。ここにヨオロッパの科学、或は一度ヨオロッパを離れた後はもうどこのものでもなくなった科学そのものの典型がある。・・・
 それは物質の世界であって、これは人間の能力から言って先づ無限に知識の材料を提供し、従ってそこから無限の知識が得られることになって科学がヨオロッパで加速度的に発達して行ったのは不思議ではなくとも、その為に十九世紀になって科学が漸く人間を追い越す形跡を示し始めたことも見逃せない。・・・物質の或る面からはその物質と同様に無限に知識が得られるから知識は分断されて出発点に戻ることなど思いも及ばなくなって、こうして科学の隔絶と細分化がこれも加速度的に進められるに至った。(「ヨオロッパの世紀末」)
 
 少し長い引用になったが、ここで吉田氏が述べていること自体は極く常識的な科学観といえるかも知れない。しかし、それが常識的に見えるということは、それだけ深くわれわれがヨーロッパ的な見方を受けいれてしまっているということなのである。文明開化というのはヨーロッパにおける表面的な成果を受けいれることではなく、ヨーロッパの発想の根本を受けいれることである。吉田氏の魅力の一つは氏のヨーロッパ理解、ヨーロッパ受容が氏の血肉と化した全身的なものであるという点にある。和魂洋才といったいいかげんなものではないのである。そしてヨーロッパの魅力ひいては吉田氏の魅力は、そういったヨーロッパの特殊性がいつか普遍に通じてゆくことと切り離しては考えられない。吉田氏はヨーロッパを通じて日本を発見したように思われるが、吉田氏に日本を教えたのも、このヨーロッパの普遍なのである。
 科学は論理のみで世界にむかうヨーロッパ精神の一つの表れである。吉田氏はそれを肯定する。ただ吉田氏によれば既に近代という時代は第二次世界大戦で終止符を打たれ、そのあとに続く現代は近代の混乱をのりこえ人間の回復を目指しているにもかかわらず、科学がその性質上、依然として近代の混乱を続けている、それが問題とされるだけである。科学自体は決して否定されていない。
 そのように考えてゆくならば、近年盛んな議論、現在の科学に見られる混乱は西洋の発想それ自体に由来するのであり、その混乱を解決するためには西洋の発想そのものを捨てなければならない、そういった議論を吉田氏が受けいれないのは明らかである。
 科学が成立する前提として、物質の存在を認めることが必要であると前に述べた。吉田氏もまた物質の存在を肯定する。そして氏のいうごとく、科学は物質の間にしか成立しないものなのである。すると次の様な疑問が生じてくる。もしこの宇宙に全く生命が生じることがなく、宇宙を認識する主体が現われなかったとしたら、それでも、そこに存在する物質間に法則は働くのだろうか。宇宙の法則は数学の言葉で表される。しかし数学は人間が発明したものではないだろうか。この宇宙のどこにも1とか2とかいうものはない。それがあるのは人間の頭脳の中にだけである。それなのに何故数字の操作によって宇宙の法則は表現しうるのだろうか。科学法則は人間がいてもいなくても存在するものなのであり、人間はただそれを発見するだけなのだろうか。それとも、それは人間が発明するものなので人間がいなければ存在しないものなのだろうか。
 もちろん物質は人間がいなくても、それを認識する存在がなくても、それ自身の法則に従って動く。その法則を発見することによって、われわれは地球
に生命が誕生するはるか以前の宇宙を理解しうるようになっているばかりか、宇宙の創生さえ推測するようになっている(ビッグ・バン仮説)。物質を支配している法則はわれわれとは無関係に存在しているが、それをわれわれはただ自分たちの言葉で表しているだけである。われわれがその法則を発見しようとしまいと、宇宙はそれ自体の法則で動いている。いくらわれわれが宇宙運行の法則を見出しても、その運行に影響を与える力はわれわれにはない。しかし、もう少し身近な物質については、その性質、その規則を明らかにすることにより、その物質に影響を与えることが出来る。科学が著しく過大な評価を受けているのは、その側面についてである。
 吉田氏はこう言う。
 
 科学が物質の世界を開拓する仕事、或はそういう一つの専門であることが解っているならば科学の成果が凡て手段であることも明らかである筈であってこれは当の科学者にとってもそうであり、その研究の成果が手段になって次の研究という目的の為に用いられる。所が手段が込み入っている点でも科学は今日の我々を惑わす最も大きなものの一つなのでただ複雑であるだけで我々には何か特別なものに思われることになり、今日の科学の発達と言う時にそれを我々はそれだけの手段が人間に与えられたという意味に受け取らずにこれからの我々はどうなるのだろうと考えたりする。(覚書)
 
 科学の世界でのことは凡て手段であって仮に科学の力で不老長寿の薬が見付かるとしてもその薬が一つの目的なのではなくてそれで我々人間が年を取らずに長生きすることになるのであり、それに就いて序でに言えば一つだけ科学に出来ないことは、或は科学に出来ないことを一つだけ挙げるならばそれは我々人間に死なないですむことを得させることであってこれは人間が死ななくなれば人間でなくなるという原則論を離れても生命はこれを物質と見做せる面でだけ科学の領分に属し、その面は生命にとって寧ろ生命が物質に及ぼす作用に止るものだからである。そしてそれでも人間が火星まで機械を飛ばしたと言って驚くものがいる。併しその機械も火星もその為に我々が生きているものではなくて我々が何の為に生きているかということからすれば火星は我々が見馴れた場所の夕景色にも価しない。(同右)
 
 吉田氏の論は、技術としたほうよいと思われるところにも科学という言葉を用いているためやや不明確なところがあるが、その主旨ははっきりしていて、人間なくして科学はなく、科学はすべて人間が何かをなすための手段であるというものである。
 科学という言葉は非常に広い範囲のことを指して用いられる。ニュートンの力学も科学であれば、DNAの研究も科学である。原子力発電も、農薬の合成も、ブラック・ホールの研究も、インシュリンの作用機序の研究も、月ロケットも、アブラムシの短吻型幼虫の研究も、3K輻射の発見も、ネズミの洞毛の研究も、あれもこれもみんな科学である。ダーウィンの進化論を科学といってよいかどうかにはかなり疑問があり、またあらゆる科学の背景をなす数学それ自体は科学ではないなど、科学の境界をどこに定めるかには様々な問題があるにしても、科学という言葉がこれほど多くのものを含んでしまうということが、科学についての議論を混乱させている。
 いま引用した吉田氏の文章の主旨、科学はすべて人間に与えられた何かをするための手段であるという考えかたに照らして今ここに列挙した事例について考えてみても、それに合致しない例がすでに沢山ある。ブラック・ホールの研究やアブラムシの短吻型幼虫の研究がわれわれ人間の生活に何らかかかわってくるとは思えない。それはもっぱらわれわれのまわりの世界がどのようになっているかを知りたいという好奇心に端を発していて、実用とはつながらない。言ってみれば、それは既に述べた科学の近代的性格を反映したものなのである。一方、科学には実用とつながる面があることもいうまでもなくて、農薬の合成も、原子力発電も(ついでにいえば、原水爆も)、もっぱら実用を目的としている。
 第二次世界大戦で近代が終りをつげたあとの現代の特徴として、吉田氏は人間の回復ということをあげている。近代において人間の精神活動があらゆることに拡散して収拾がつかなくなったあと、人間のあらゆる活動を規制する基準として人間が再び現われたのが現代なのである。いま引用した文章での科学は吉田氏のいう現代から見た科学である。その観点からみれば、火星探査などということには何の意味もない。問題は人間の科学活動を吉田氏の現代の視点から、すなわちすべての尺度を人間とするという視点から規制しうるだろうかということである。あるいは、人間を尺度としてというのが誤解を招きやすいとするならば、猫を尺度にしてと言い換えてもよい。われわれの科学活動は猫の暮しを暮しやすくするために必要なものだろうか。人間も動物なのである。もし猫にとって必要ないものであれば、人間にとっても必要ないかもしれないから。
 人間はどういう訳か、世界を理解したいと希求する存在である。人間は何の役にも立たないことをしたがる存在でもある。ゲームもやる。(ところで人間以外の動物はゲームをするのだろうか。)ひとがゲームをやることと人間の科学活動、特にその近代的側面とはどこかで通じているはずである。役に立たないといえば、小説を読んだり、音楽を聴いたりというのも、何の役にも立たないことである。それでは、ユークリットの平行線公理を研究することと、ポーカーゲームをやることと、アブラムシの研究をすること、「坊っちゃん」を読むこと、新しい農薬を開発すること、「熱情ソナタ」を聴くこと、それらの間にはどのような関係があるのだろうか。こんなばらばらのことに関係を見つけようというのは無理な話だが、強いていえばみんなひまつぶしにはなりうるということだろうか。しかし、ひまつぶしという言いかたをするのならば、人間が生れてから死ぬまでにすることはすべてひまつぶしであると言っていえないこともない。人間は何もしなくて良いということにはなかなか耐えられないようである。だから、もし何もしないということに耐えられるひとがいたら、それを貴族と呼ぶのかもしれない。(そういえば吉田氏の小説「絵空ごと」は登場人物がすべて働いていない、すなわち何もしていない人間ばかりという著しく反時代的な小説である。)とにかく、以上かかげたことがひまつぶしになりうるとしても、それは人間にしかないひまつぶしなのである。
 ユークリットの平行線公理の代りに別の平行線公理を導入して、別の幾何学を構築するなどというのは、非実用的なひまつぶしの最たるものかもしれない。けれども、リーマンあるいはロバチェフスキー幾何学が相対性原理とつながってくるとすると、遊びが遊びでなく、現実とつながってくることになる。逆に、極めて現実的な活動が極めて抽象的な原理と結び付くこともある。宇宙創生のビッグ・バン仮説を論じた本に必ずとりあげられているその仮説を支持する3K輻射の発見は宇宙通信に用いるアンテナ雑音の測定の過程で発見された。(こういったことを筆者が理解して書いていると誤解しないでもらいたい。筆者は数学と物理がわからなくなって、しかたなく医者になった人間なのである。)
 科学は物質を相手にするがゆえに、全くゲームとして行われていても現実を変える働きをすることがあるし、完全に実用を目指した行動でも時に我々の現実とは遠く離れた一般原理に結び付くこともある。(それにしても、知的ゲームの最たるものである数学が現実と対応するというのは何とも不思議なことなのだが。)従って、科学を全く実用のためのみに奉仕するものとすることは、吉田氏の説にもかかわらず難しいように思われる。吉田氏の言っていることが間違っているということではない。火星までロケットを飛ばすなどというのは、まことに馬鹿ばかしい意味のないことである。しかし人間はそういう意味のないこともしたがる存在らしいのである。(火星までロケットを飛ばすことを、ポーカーゲームをしたり、幾何学の研究をしたりすることと同様の人間の知的好奇心の表れという観点からのみ見ることには大きな落し穴がある。火星までロケットを飛ばすことは極めて大きな政治的、軍事的な意味をもっているからである。現代の科学活動は肥大し大型化しており、それを遂行するためには政治的枠組から独立でいることがきわめて難しくなっている。これは現代の科学がかかえている最も大きな問題であって、この点に目をつむって科学を論じることは出来なくなっている。その点からいえば、吉田氏の科学観は古き良き時代の科学観であるといえなくもない。だが、それを考えてゆくためには吉田氏の政治についての見方、あるいは広く人間についての見方を検討する必要がある。次章でそのことは改めて考えてみたい。)
 以上のように考えてくると、医学が科学であるといって良いかどうかは二重三重の意味で難しい問題となる。医学は人間の体、人間の病気をあつかう。一方、科学は物質のみを対象とする。それでは人間の体、人間の病気は物質のみから説明しうるものなのだろうか。また、医学はどうしても実用から離れられない。科学は実用から発しても実用から離れたがる傾向がある。そして、こころを物質の学である科学があつかいうるか否かには大きな問題があることはあらためて指摘するまでもない。
 以前、脳外科医を主人公にしたアメリカのテレビ番組があって、それにこんな場面があった。患者が医師(脳外科医の主人公ではなく、老院長であったと思う)に、「あなたは医学という科学の一部門に従事している人間なのに、どうして神を信じることが出来るのか」とたずねる。すると(信仰を持っているらしい)老院長は「人間の体の仕組の精妙さを知れば知るほど神の存在を信じざるをえなくなる」といったことを答える。ここでの問答の焦点は信仰であるけれども、そのことはあらためて論じることとして、人間のそして動物の体の仕組の精妙さというのは真に感嘆を禁じえないものであるのは確かである。それが進化の産物であるなどと言われてもにわかにはとても信じられない。そういう絶妙に良く出来た体の仕組を探ってゆく仕事が面白くない訳がない。
 糖尿病は一言で言えばインシュリンというホルモンの不足でおきる病気である。バンティングとベストによるインシュリンの発見は臨床と直結する直ちに患者の救命につながるものであった。しかし一旦インシュリンが発見されると、その不足が何故あのような糖尿病の症状をおこすのか、すなわちインシュリンの働きはどのようなものなのかということが直ちに問題となってきた。その点の探求はベンティングらの発見以来現在まで六十年以上にわたって営々として続けられてきている。その過程で得られた多くの知見により、糖尿病患者に見られる様々な異常がどのようにして起きるのかということが明らかにされてきた。インシュリンの作用機序の研究は近年では細胞レベルから分子レベルへと移ってきているが、研究のレベルが個体から器官へ、器官から細胞へ、細胞から分子へと進めば進むほど、そこで得られた結果がすぐには臨床へは還元されにくくなってくる。それでも、インシュリンは生体のホメオスターシスの維持に最も重要なものの一つであるから、たとえ研究の結果が臨床とはすぐには結びつかないにしても、われわれ生体がどのように調節されているかについての知見にはなにごとかを付け加えることになる。しかし糖尿病が極めて頻度の多いありふれた病気でなかったとしたら、インシュリンを研究するひとがこれほど多くはならないのではないだろうか。インシュリンを研究するひとは出発点ではやはり糖尿病の存在を頭に置くのではないかと思う。だが次第にインシュリンというホルモン自体が面白くなってきて、糖尿病がどこかへいってしまうことが多いのだろうという気がする。そして糖尿病の臨床はといえば、相も変らず食事指導である。糖尿病の臨床と研究の解離は大きくなる一方である。
 もう一つ例をあげる。発癌の研究は癌という臨床の問題がなければ絶対に生じえない研究部門である。発癌遺伝子あるいはそれとレトロ・ウイルスとの関係についての本など読んでいると本当にわくわくするほど面白い知見ばかりであって、こういう研究をしているひとは毎日が楽しくて仕方がないのではないかと思う。そういう本を読むと、癌がどういうものかは殆ど解ってしまったという感じがするが、同時に癌がそういうものであるなら、一体どうしたら治療が可能なのか絶望的にもなる。もし癌の根本的な治療法が発見されることがあるとしたら、癌患者のそばにいて慰めの言葉をかけたり鎮痛剤を工夫したりしている人間から出てくることは絶対になくて、こういう基礎的な研究から出てくることは間違いがないが、こういった癌自体の面白さに較べたら、癌の治療などということはどうでもいいことに思えて来るのではないかという気がする。
 糖尿病はインシュリンの不足でおきる。ということは糖尿病は物質の言葉で表せることになる。ということは科学である。従って、治療の方針も自動的に決って、インシュリンの不足に対応した身体の調整を行い、それでも駄目であればインシュリンの補給を行うのが治療ということになる。だが、臨床の場に踏み込むと問題は簡単でなくなる。インシュリンの不足は通常たいした症状を起さないことが多いし、その状態を放置した場合の患者さんの予後がどうなるか誰にも解らないからである。食べたいものを無制限に食べてめちゃくちゃに不摂生を重ねた場合は、厳格に食事の注意を守った場合よりまず間違いなく予後が悪いということは言えても、その二つを較べてどちらが良いか決めることなど出来ることではない。ただどちらを選ぶかということであり、どちらを選んでも一回限りのそのひとの人生である。同様に、抗癌剤を可能なかぎり大量に使って二年生きるのと、何もしないで一年生きるのとどちらがいいかなどということも誰にも決められないことである。ここにはもう科学が登場する余地はない。それは単に物質の問題でなくなるということばかりでなく、一回限りしか起らないことは科学の対象とはならないからである。
 こころの病気といわれるもの、精神分裂病うつ病が物質的基盤をもっており、体の病気と同様に理解しうるのではないかということが近年強く主張されるようになってきている。とすれば、こころの病気も科学の対象であることになる。しかし、そもそも、こころをどのように見るかということについて共通の理解がまったく得られていないのが現状であるのだから、こころ全体が科学の対象になりうるとはとても思えない。こころの問題は人間をどのような動物と考えるかの鍵となる訳だから、これからも繰り返し論じることになると思うが、とりあえずここでは次の点だけ指摘しておきたい。こころが物質の問題に還元されうるか否か、すなわち科学の問題としてあつかいうるようになるかどうかには疑問があるにしても、こころの存在は事実であって、事実を探求するヨーロッパの精神の対象となるであろう、ということである。もしも物質の問題に還元されえないとしたら、こころの問題が各人に共通のものとして理解されることは期待出来ない。しかしそれでも、理性による考察の対象とはなりうる筈であり、その問題点がどのようなものであるかということについては、ある程度の共通の理解が得られる可能性がある。従って、こころについて論じることがまったく不毛なものとはいえないと考えても大きな見当違いではないだろう。
 文明開化を論じるとしながら、ほとんど科学のことばかり論じてきた。本論が医学論を目指すものであり、医学も科学と接点を持つものであるからやむをえないことであったが、吉田氏のヨーロッパにとって科学は中心に存在するものではなく、医学も科学の観点からのみで理解しうるものではない点を考えれば、もっと別に論じなければならないことがある。吉田氏も言うようにわれわれの精神があつかうものは、事実あるいは物質でないことのほうが圧倒的に多いとすれば。今度はそちらのほうへ目を向けなければならない。