第2章.人間らしさということ

 
   第2章.人間らしさということ
   
 科学がヨーロッパ近代の活動の一つの典型であること、その近代は第二次世界大戦で終りを告げ、以後の現代では近代の拡散と混乱に変って、総ての活動を律する中心として再び人間が現れたとする吉田氏の見方を前章で述べた。吉田氏の著作の中では、人間という言葉は二つの文脈であらわれる。一つは文明を規定するものとしての人間であり、もう一つは現代を統括するものとしての人間である。この二つはもちろん相互に無関係ではなく、大雑把に言って、ヨーロッパでは十八世紀に実現された人間らしさが一度近代で見失われ、そのあと再び現代で発見されるといった流れがある。しかし吉田氏にとっての十八世紀の人間が普遍的なものであるのに対し、現代における人間はもう少し理念的、抽象的なものであるという感じがする。 人間的あるいは人間らしさといった言葉はいまでは著しく手垢のついた言葉になってしまっているので、そう言っただけではそれが何を指すかあまり判然とはしない。例えば、「人間的な医学」といった言葉が何を指すのか誰か解るものがいるだろうか。われわれは普通、犬の犬らしさとか、猫の猫らしさ、あるいは鳥の鳥らしさといったことは考えない。犬はそこにただいるだけで犬であり、猫はただそこにいるだけで猫である。それなら人間はただそこにいるだけで人間なのだろうか。人間が人間となるためにはただそこにいるだけでは不充分で、もう少し特別な何かが必要なのだろうか。
 人間の起源は少なくとも二百万年位さかのぼれるとされている。ということは、二百万年前のわれわれの祖先もまた人間であるということである。それならば、何かSFめいた状況のもとで二百万年前の祖先がわれわれの前にあらわれ、しかもそれが病気であるとしたら、われわれはその二百万年前の祖先を医療の対象と考えるだろうか。こういうSF的状況が起きることはありえないが、民族的偏見あるいは人種差別という形でなら、現代でもいつでもおきうることである。人間らしさということは、他の動物と較べての人間らしさということもあるし、人間同士のなかでの人間らしい人間、人間らしくない人間ということもある。なかなか、一筋縄ではゆかない。
 科学からみた、すなわち物質からみた人間は二百万年前の人間でも現代の人間でもほとんど変りがない。それどころか、人間とチンパンジーだってほとんど変るところがない。生命の物質的基盤は遺伝子であるが、そのDNAを分析比較してみると、人間とチンパンジーとの差が余りに小さいことに驚かされるという。人間とチンパンジーをまったく異なったものと考えるのは、生物学的に見れば、人間の自己中心的な偏見に過ぎない。人間が自分を他の動物と異なったものと考えたがるのは主としてその文化的産物のためであるが、文化的産物などというものは生物学的には評価しようのないものなのである。しかし人間の歴史が二百万年から四百万年さかのぼれるとしても、そのうち文化と言えるものはたかだか数千年の歴史しかない。もしわれわれが文化の存在ゆえに自らをチンパンジーとは異なった存在であると考えるならば、同様の理由で二百万年前の人間は人間でないことになる。それならば、人間はいつから人間になったのだろうか。もしも文明の状態に達したのが人間であるということになれば、ネアンデルタール人どころか大部分の人間は人間でないことになる。
 
 もしホメロスの詩で歌われているのがミュケナイ時代のギリシャであるならば二人の勇士が戦って勝った方が負けた方の死骸を戦車の後に付けて引きずり廻すという種類のことが行われたミュケナイ時代のギリシャは文明ではない。それ故に文明は人智が或る段階以上に達して初めて現れるものと考えられて、この文明の状態は我々が人を人と思うということに尽きるが、それは技術が或る所まで来るとか、或は幾人かの優れた人間が卓越した業績を残すとかいうことで得られるものではない。(ヨオロツパの世紀末)
 
 我々が人間と言う時に文明人と野蛮人の区別を付けないのは断るまでもないことで人間は野蛮の状態にあっても生きているのであるから生きて行く上で文明は必要でない。又そこに医学の進歩というようなことを考えるのが意味をなさないのを理解するにはその医学の進歩で野蛮人を病気から守って長生きさせてもこれが文明人にならないことを思うだけで充分である筈である。併しそうしたことを離れて文明と野蛮を区別することを試みるならば歴史の浅さ、或は同じことながら歴史の刺戟の不足によって人間が人間らしさに達するのを何かの点で妨げられているのが野蛮の状態であり、そう考える場合にも人間らしくないことが人間が生きて行くのを少しも邪魔しない例はこれは現に我々の周囲に簡単に見付けることが出来る。(ヨオロツパの人間)
 
 吉田氏がここで述べていることに従えば、ただ生きている人間と人間らしく生きている人間とは違うということになる。これは差別というものではないだろうか。だが吉田氏とは丁度反対の行きかたに出て、人類といった言葉を持ちだし、人類の名において人間は平等であるとするようなやりかたは、まさに吉田氏のいう十九世紀的な野蛮なのである。物質の観点から見れば、あらゆる人間は同等である。(とは言っても、人種的偏見を科学を装って正当化しようとする試みは実はたくさんあって、例えばS・J・グールドの科学エッセイの絶好のテーマのひとつとなっているのだが。)しかし一度物質の観点から離れれば、人間には人間らしい人間とそうでないものがいるというのは極く当然の見解ではないだろうか。人間がある程度の文化を経験してからは、いつの時代にもどこにおいても人間らしい人間はいた。だが、人間らしい人間が少数ではなくかなりの多数となり、一人の人間がそのひとが何かをしたということによってではなく、ただ人間らしいひとであるというそれだけの理由で尊敬され貴ばれる、そういう時代はそんなに多くはなくて、そういう時代を吉田氏は文明と呼ぶのである。
 すでに盛んに人間らしいという言葉を用いてきたが、吉田氏がどのようなことを人間らしいと考えているかはまだ必ずしも明らかではないかもしれない。今まで引用したいくつかの文章にも吉田氏の考える人間らしさは既に色濃く表れているはずであるが、断片的であるので充分には伝わっていないかもしれない。吉田氏の著作を限りなく引用し続けるというわけにもいかないので、一つに観点をしぼって吉田氏のいう人間らしさについてもう少し掘り下げてみることにしたい。その観点とは、人間がどのように人間以外の動物とは異なるのか、あるいは異ならないのか、ということである。前章で述べたような科学とそれにともなう活動も人間にしかないものであるし、人間が人間以外の動物と異なる点を数えあげてゆけば切りがない。しかし、ここで問題としたいのは人間の世界への関りかたが人間以外の動物の関りかたと異なるだろうかという点である。「人間の特質は意識にあり、意識の特徴は、そこに何ものが現われようと、現われるものすべてを不断に汲みつくしてしまうことであり、現われるすべてから休止なく例外なく離れていることである。」とヴァレリーは「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」で言っている。こういうやりかたは確かに人間、特にヨーロッパの人間に特徴的なものであるが、それなら、人間以外の動物は意識によってではなく他のどのようなものによって世界と関っているのであろうか。人間には意識とは別に情動という要素もある。人間以外の動物は情動によって世界と関っているのであろうか。
 知性による世界の認識というやりかたは近年余り評判が良くない。そして最近、科学がかなり不人気であることもそれと関連しているものと思われる。知性はあらるるものを自分の外にあるものとして認識する。外界は次々と認識され理解されてゆくが、その過程でわれわれとの関係は失われ、生命を欠いたものと化してゆきやすい。
 知性で対象をみてゆく場合、認識する主体は常に対象から切り離されそのため対象との生き生きした関係が失われることになるとする見方は以前からある。そういう考えかたを代表し、その点でまさに知性の立場に立つヴァレリーとは対極的な立場の思想家にD・H・ロレンスがいる。ヴァレリーがヨーロッパ精神の危機を認識し徹底的にヨーロッパ的知を貫き通すことによりその危機を乗り切ろうとしたのに対し、ロレンスはヨーロッパ的知を否定しようとする。「アポカリプス論(邦題「現代人は愛しうるか」)」においてロレンスはこう述べる。
 
 寓意はつねに説明しうるものであり、説明によってその力を失うものだ。真の象徴はあらゆる説明を拒否する。まことの神話も同様である。もちろんそのいずれにも意味を付会しえよう
−−だが、それで充分説明し尽くせはしまい。
象徴と神話とは吾々を単に理智の上で動かすのみではない。それはかならずや深く情感の中枢に迫ってくる。理智の大きな特長はその決着性にある。理智は《判断する。》それで万事は終ってしまうのだ。
 しかし人間の情動的意識は理智的意識とはまったく異なった次元の生命と運動とをもっている。理智は単に部分において、一部分一部分、いわば各文章のあとに終止符をうって理解するにすぎない。これに反して情動的な魂は全体を一括して、川の流れのように理解する。
 
 ロレンスは理知的見方を排し、それとは全く別のやり方での認識を主張する。「チャタレイ夫人の恋人」で、主人公コニイは花々のなかで花々とともに生きている。ロレンスは近代に毒されていない人間はみなそのように生きているのだと考えた。木々や花々の持つ生命とわれわれの生命は交感していて、われわれはその生の全体性のなかに生きているとする見方は非常に古い起源をもつものであって、ロレンスのそういう考えかた自体は特に目新しいものではない。むしろ、そのように考える構造的基礎が人間の脳のなかに存在しているのではないかと考えたい位であって、人間の歴史のなかでは、そう考えない行きかたの方が例外となっている。そしてその数少ない例外の一つがヨーロッパ近代である。木々や花々とわれわれが交感していると感じることは、われわれを幸福にする。だからその一体感が失われたことを悲しんで、何とかそれを取り戻そうとするひとがヨーロッパ近代に出てくることは不思議ではない。だが、ロレンスとヴァレリーは同時代人である。ヴァレリーのような見方がある時に、なお木々や花々との交感を信じることは可能だろうか。
 
 人間が最も激しく希求するものは、その生ける完全性であり、生ける連帯性であって、己が《魂》の孤立した救いというがごときものでは決してない。・・・人間にとって大いなる驚異は生きているということである。花や獣や鳥と同様、人間にとっても至高の誇りはもっとも生々として、もっとも完全に生きているということである。
 吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる実体をもったコスモスの一部であるという歓喜に陶酔すべきではないだろうか。眼が私の体の一部であるように、私もまた日輪の一部である。私が大地の一部であることは、私の脚がよく知っている。そして私の血はまた海の一部である。・・・私のうちにあって、理智以外に孤立自存せるものはなにもないのだ。(同前)
 
 本当にこのように信じることは可能であろうか。ロレンスは信じた、それは間違いがない。だが、最早われわれは信じることが出来ないのではないだろうか。それを信じることが出来ないというのは知的思考、科学的思考がもたらした不幸なのだろうか。このロレンスの文と前の章で引用したワルポオルの手紙を較べて見るがいい。何と言う違いだろうか。ワルポオルにおいて、そして吉田健一氏において明らかに断念されているものがある。人間における非日常の部分、祝祭的な部分、カーニバル的な部分である。もし人間の生きる喜びが日常の部分にはなく、祝祭的、カーニバル的部分にあるのだとしたら、本書の目論みは崩壊する。日常の生活にこそ意味があり、それゆえ、医療も日常生活の延長として構築されるべきだとする点が本書の主眼の一つであるのだから。
 ロレンスについてはまだ書かねばならないことがある。ロレンスは日常の生活を無意味とみる人間では決してなかった。オルダス・ハクスレイの回想によれば、ロレンスは決して退屈することがなく、その瞬間に自分がやっている仕事に何によらず没頭出来たのだという。ロレンスは料理も、縫物も、乳しぼりも、薪割もみんなうまくでき、それに完全に集中することができたばかりでなく、彼は無為に過ごすすべをも知っており、ただ坐っているだけで完全に満足することができる人間だった。ロレンスは、今自分のしていることは本来の自分のすべきことではなく、本当の自分の生活はどこかほかにある、と考えるような人間ではなかった。ロレンスは自分には可能なそのようなことが多くのヨーロッパ人では失われてしまっていること、それがヨーロッパ人の不幸であることを痛感した。ロレンスはイタリアの農民には、メキシコのインディアンには、そして多くの未開の野蛮人には、そういった能力がまだ残っていると考えた。ロレンスの著作は、そういったヨーロッパの不幸の原因を探り、それに対する処方箋を書くことを意図したものであった。ロレンスによれば、ヨーロッパの不幸の原因はキリスト教、特にピューリタニズムなのであり、それに対する処方箋はいろいろと書かれたが、最後は性であった。例えば、その点を福田恆存氏はそのロレンス論でこう述べる。
 
 愛すらも、現代では、金で、数量で計られるようになってしまった。愛においても物的証拠がすべてで、信頼というものは地を払ってしまった。現代人はどうしてもこういう逆説的事実から脱出できないと、ロレンスはいう。では、どうすればいいのか。どうしようもないのだ。われわれはどうしたって幸福になれないのだ。デモクラシーの世界では、だれもかれもが、愛と正義と平和とを唱えつゝ、相手を殺しあう。個人と個人のあいだでも、国家と国家のあいだでも、階級と階級のあいだでも、不信と殺戮とは永遠につづくであろう――愛しようとするために、救おうとするために。ロレンスはいう
――もしきみがだれかを愛するならば、手をひけ、と。孤独になり、山に入り、他人に向かって福音を説くな、自己にも掟を課するな、そうすれば、きみはきみの涅槃をえるであろう、と。
 が、そういうロレンスは最後まで福音を説きつづけ、自分に掟を課さずにはいられなかった男だ。愛も救いもけっきょくは自他を傷つけるに終るだけだといいながら、なお愛し救おうとした。・・・悲しい男じゃないか。人間はこんなにも不幸になりうるのだろうか。ぼくはまっぴらだ。人間が不幸であるのは罪悪だと思っている。文明のせいだとかなんとかいうんじゃない。そんな原因など捜しているうちは、けっして幸福にはなれないだろう。われわれのとって必要なのは不幸のたいする羞恥心である。原因を探すようでは、それが見つかったら、大手をふって不幸を自慢にするつもりなんだろう。
あゝ、どこまでおめでたい国民か。・・・
 『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつだって?――冗談もいゝかげんにしたまえ。あのなかでロレンスが説きたかった福音はかんたんなことだ。男は女にとって、女は男にとって、魅力ある生物になれ――たヾそれだけなんだよ。いゝ教えじゃないか。従い甲斐のある教えじゃないか。愛や誠実とちがって、こいつは自分も相手も苦しめずにすむ。きみだって魅力のある男になって、女から騒がれたいだろう。だれだってそうさ。人間が愛や正義や法律や論理を動員して、自他を縛ろうと決心したのは、つまり男が女に、女が男に魅力を失いかけたという事実を自覚しだしたからなんだ。性の魅力の恢復――人間の幸福はそれだけさ、とロレンスはいっているんだよ。ほかのものは全部その装飾さ。それがどうやら逆になって、現代では性のほうが装飾になってしまった。しかもひとびとはその無理に気づかない。で、不満の理由をいっしょけんめい他に求めている。そしてそれが文明ということだと思いこんでいる。
 
 吉田氏は晩年ロレンスに言及することは全くなかったが、それにもかかわらず今ここにその一端を示したロレンスの問題意識、危機意識は吉田氏にも深くその影をなげかけているように思われる。序章の終りに氏のお正月を叙した文章を示した。それと、薪割に乳しぼりにあるいは何もしないことに退屈しないロレンスの生きかたとは深いつながりがあるのではないだろうか。吉田氏がその晩年の著作で追求したのは、一見何でもないあるいは何もしていないように見えることに自足すること、充実を見出してゆくことであった。これは、ロレンスの疑問への一つの解答であるように思える。ただ、それでも吉田氏の解答とロレンスのそれとは著しく異なっている。吉田氏がついに日常のなかに留まっているのにたいし、ロレンスは日常のそとへでてゆく。ロレンスはヨーロッパ十八世紀などというものに何の価値も見出さなかったであろう。そこにみられるのは生命力の衰弱であるというかもしれない。ロレンスはヨーロッパに背をむけて、非ヨーロッパへ、おそらくは何がしか東洋的なところへでてゆく。一方、吉田氏はヨーロッパから離れることがない。吉田氏は文明開化なのである。
 ロレンスの立場をとるか、吉田氏の立場をとるか、ということに正しい選択がある訳はない。自分が日輪の一部であるとか、自分の血が海の一部であるとかいうことが、本当に信じられるか否か、ということだけである。信じられるものもいるであろうし、信じられないものもいるであろう。ただ、こういうことは言える。自分が日輪の一部であるとか、自分の血が海の一部であるとかいうことを、人間以外の動物は感じているのだろうか、ということである。
 ロレンスは人間が精神と肉体が分離した奇妙な動物であることをやめ、太陽の下、当り前の動物に戻ることを主張した、ということも出来るだろう。もし人間以外の動物が自分が日輪の一部であるとか、自分の血が海の一部であるとかいうことを感じているとしたら、ロレンスのいうことは正しいことになるが、そうでなければ一種の観念論であるということになってしまう。つまり問題は、ロレンスがそうと考えている動物のありかたが事実であるか、ロレンスの観念が動物に投影されたものに過ぎないのかということである。ロレンスは生真面目なひとであった。ユーモアの才も欠いた人だったように思われる。どこかで吉田氏は、「息子と恋人」のなかの主人公がとても粗末なものを食べている場面について、どうせ小説なのだからもうすこしおいしいものを食べさせればいいのに、といった意味のことを書いていた。このことはロレンスの思想とは直接関係ないように見えるかもしれないが、ロレンスの急所をついている。ロレンスの主張がやや奇矯でイクセントリックなのも、それだけキリスト教による思潮の圧力が強かったということなのではないだろうか。もしロレンスが東洋にそして日本に生れていたならば、吉田氏とそれほど違わないことを述べていたのではないだろうかという気がする。
 知性によって世界を分析し解体して理解してゆくやりかたも、情動を利用して世界を全体としてそのまま一挙に理解しようというやりかたも、ともに人間以外の動物にはない人間固有のものなのだろうか。人間に生じた特有の解剖学的構造としての脳の新皮質、それがもたらした人間のシンボルをあつかう能力、それが人間を人間以外の動物と徹底的に断絶させ根本的に異なる存在としたのだろうか。シムボルはさびしい/言葉はシムボルだ/言葉を使うと/脳髄がシムボル色になって/永遠の方へかたむく(西脇順三郎「えてるにたす」)ということなのだろうか。永遠という観念を持つ動物は人間だけである。未来という観念を持つのも、過去という観念を持つのも人間だけである。だからヴァレリーの言うように、人間は過去をふりかえり未来を考える存在であるがゆえに、現代の時間にいることが稀な存在となりやすい。人間以外の動物はすべて現在にいる。吉田氏の言いかたを用いれば時間とともにある。あるいは自分とともにある。吉田氏の目指すものは、人間も人間以外の動物と同じように現在の状態にいることをとりかえすこと、すなわち、時間とともにあり自分自身であることをとりかえすことである。吉田氏の著作で時間が繰り返し論じられ取りあげられる理由もそこにある。吉田氏によれば、人間は言葉を含めた特別の能力を付与されたことにより、かえって人間以外の動物では常態である現在にいることが難しくなっているので、われわれは人間という一箇の動物に戻るためにも意識的にならねばならないのである。人間の特徴は意識であるかもしれないが、その意識がかえって人間に動物であることさえ失わさせかねないこともあるので、人間は自分自身であるためにも時に意識的な努力が必要なのである。無意識でいて、しかも時間とともにいて自分自身であること、それがロレンスの求めたものであった。だがロレンスはそれを近代ヨーロッパには見出すことができなかった。近代ヨーロッパの特徴は意識であったからである。われわれは既に近代ヨーロッパの意識の追求ということを知ってしまっている。その追求の結果としての倦怠と退廃と人間の解体をも知ってしまっている。その上で人間をもう一度取り戻すためには、意識が失なわせがちな現在を意識的に回復させなければならないのである。
 だが何故人間が現在を取り戻し当り前の動物に戻ることが必要なのだろうか。またそれが、人間らしさとどのようにつながるのだろうか。人間がただ動物として生きてゆくだけであれば、人間らしさなどは必要ない。しかし人間がただ動物として生きているとするならば、それは動物以下のものとしかならないのである。人間に過剰かつ不必要に与えられた意識のために、人間はただ動物として生きることが出来なくなっている。人間らしくなることによって初めて人間は人間以外の動物と同じ地平に立つことが出来るようになるのである。
 これでもう人間らしさということはいいだろうか。人間らしさということは多分、孤島の独り暮しでは成立しない言葉であろう。何人かの人間が集まって暮している、その暮しを過ごしやすくするものとして初めて意味を持ってくる言葉であろう。人間らしさを成り立たせるためにどうしても必要な要素の一つに孤独ということがあるけれども(・・・我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり、それは命が惜しくなったり、必死になって就職の口を探したりする自分ではなくて、人間であることを止めず、ここに一人の人間がいるという意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得をしなくても、その瞬間に少くとも我々が自分というもの、自他の区別というものを忘れることで解る。・・・「文学の楽み」)、人間の集団がだんだんと大きくなり、膨張してゆくと、孤独などということは無視して人間を呑みこんでいってしまう。政治が顔を出してくるのである。例えば、司馬遼太郎氏のベトナム紀行文「人間の集団について」では、個々の人間としては極めて人間らしい善意の人々が集団の原理にまきこまれてゆく場合の悲劇が如実に描かれている。ほとんど自給自足に近い「食べる・寝る・祈る・愛する」といった素朴な暮しをしているひとびとのところに急に近代国家が持ち込まれ、イデオロギーが侵入してくる。ひとびとは食べて寝る幸福を離れて、「正義」のため戦わなければならない。
 この正義やイデオロギーの問題は吉田氏からは殆ど無視されているという印象を受ける。正義やイデオロギーをかかげて他人に向かうことは真に野蛮な愚かしいことである。しかしいくら野蛮で愚かしいことであってもそれもまた人間の現実なのである。もしも吉田氏の説くような人間らしい人間が大多数をしめるような時代が来るとすれば、そのような愚かしいことは起らなくなるであろう。しかしそれは「絵空ごと」であって、そんな時代が来るとは吉田氏自身考えてもいないであろう。あらゆることに対策があると考えること、戦争も国際組織をつくるといったことで防げると考えることは、人間を過信した十九世紀の野蛮なのであるから。そのかわりとして吉田氏が主張するのは、愚かしい時代においても人間らしく振る舞うことは出来るということである。吉田満氏の「戦艦大和の最期」の次のような一節、
 
 第四波左前方ヨリ飛来ス 百五十機以上 
 魚雷数本、左舷各部ヲ抉ル 直撃弾数発、後檣及後甲板来襲機ノ艦橋攻撃イヨ  熾烈ナリ
 銃撃ハ投下、反転ノ後、直線的ニ艦橋ニ迫リツ、概ネ二斉射ナリ
 火柱、唸リ、硝煙、カレラガ息吹キノ如ク窓ヨリ吹キ込ム
 紅潮セル米搭乗員ノ顔、相次イデ至近ニ迫リ、面詰セラルヽ如キ錯覚ヲ起ス
 カツトマナコ見開キタルカ、シカラズンバ顔ノ歪ムマデニマナコ閉ヂタリ 口ヲ開キ、歓喜ノ表情ニ近キ者多シ
 砲火ニ射トメラルレバ一瞬火ヲ吐キ、海中ニ没スルモ、既ニ確実ニ投雷、投弾ヲ完了セルナリ
 戦闘終了マデ、遂ニ体当リノ軽挙ニ出ヅルモノ一機モナシ
 正確、緻密、沈着ナル「ベスト・コース」ノ反覆ハ、一種ノ「スポーツマンシツプ」ニモ似タル爽快味ヲ残ス ワレラノ窺ヒ知ラザル強サ、底知レヌ迫力ナリ
 今ヤタダ、被害ヲ局限シ戦闘力ヲ温存シ、敵数量ノ消耗ヲ待タンノミ
 果シテソノ間隙アリヤナシヤ
 艦橋ノ窓ハ目ノ高サ、横ニ一メグリクリ抜カレタル狭キ見張窓ノミ
 弾片ソノ間ヲヨギラントシテ、多クハネ返リ、無軌道ニ噴キコム 戯レ舞フニ似タリ
 
 を引用したあと、吉田(健一)氏はこう続ける。
 
 その雷撃機の爆音が聞えるような文章であるとも言える。併し何故か、それは遠くから伝わって来る爆音であって、恐らくはこの傑作の著者にもその時そう聞えたのであり、それ程に一種の静寂がこの文章を支配している。ここでも、この文章の現実がその時の現実であって、著者は艦橋に立って各瞬間が静かに過ぎて行き、爆音と轟音は遠い海岸からの海鳴りと間違えられたかも知れない。これは人間が緊張している際にはそういうことになるということではなくて、我々がこれが現実であると認めてそこにいれば、時間はこうして静かに過ぎて行くのであり、一人の若い士官が既に傾きつつある戦艦の艦橋に安息の場所を見出していると言っても、この文章の現実を前にしては少しも誇張にならない。験しにこれと例えばロンサアルの、貴方が年を取って炉の傍で糸を紡いでいる晩という、その恋人にあてた十四行詩を並べて見るならば、その二つにあるものの質が同じであることが解る筈である。(文学の楽み)
 
 吉田氏の文章を読んで驚かされたことは何回もあるが、この文章を初めて読んだときの驚きも忘れることが出来ない。正直に言えば、未だにまだ充分には納得出来ずにいるのだが、弾丸が飛び交う戦場が静寂なものでありうる、というようなことは考えたこともなかったので、はじめは何か詭弁のような感じがして仕方がなかった。今では、氏がこれを奇をてらって書いているとはまったく思わないし、これが氏の信念であることにも何の疑いも持たないけれども、本当にこう言いきっていいのだろうかという疑念のようなものはまだ少し残っている。おそらく吉田氏もひとの生の時間の流れが時に乱れることがあることは充分承知していたであろう。しかしそのような時は黙ってそれに対応するしかないのであり、それについて女々しく泣き言を言ったりするのは、およそ氏の趣味ではなかったということなのかも知れない。序章において、病気になることは、当り前の時間の流れを切断するものなのだろうか、という疑問を提出した。それに対する吉田氏の答えは明らかであって、どのような状況においても時間が正常に流れることは可能なのである。
 ひとが病気になるということは、健康な時とは変った人間にそのひとを変えてしまうものなのだろうか。あるいは逆に言って、たとえ病気を持っていたとしても、健康なひととなんら変るところがなければ病人ではないのであり、健康なひとと何か変ったようになったとき、初めてそのひとは病人になるのだろうか。
 E・J・キャッセルの極めて示唆に富む著書「医者と患者」(原題は「The Healer's Art---A New Approach to the Doctor-Patient Relationship」)において、著者は次のような興味ある実験を紹介している。その実験はもともとスイスの有名な心理学者ピアジュによるものらしいのだが、透明なコップを二箇と細長い試験管を一本用意する。ベッドサイドの患者の見ている前で試験管に水を充たしそれをコップに移す。もうひとつのコップにも同様のことを行う。そして二つのコップには同量の水がはいっていることを患者に確認してもらった後、一方のコップの水をこぼれないように試験管にもどす。そして水のはいった試験管と水のはいったコップを並べてみせて、患者に、どっちに水が多くはいっているか、と尋ねる。すると重症の患者では例外なく試験管を指さすのだそうである。このことからキャッセルは、病者は健康人とは異なる判断を下す可能性があり、重い病気では思考の過程そのものが変化するのだ、と結論している。病気になるということは、患者が持っている世界との様々な繋がりを喪わせ、患者が持っている身体的な全能感をも喪わせるものであるがゆえに、当然思考をも変化させうるのだとキャッセルは言っている。
 科学としての医学、疾患の物質的側面をあつかう医学においては、疾患が患者に生じさせるこのような社会的あるいは心理的な変化をとりあげる余地がない。科学が扱いうるのは患者の持つ病気だけであって、病気がひとを病人にするという過程は無視される。もしひとが病気になってもその前後で何も変化を被ることがないとしたら、医療は病気の治療のみに専念すればよい訳である。吉田氏の言うように、ひとはどのような状態にあっても時間が正常に流れることが可能なのだとしたら、医療が扱うものは体という機械の故障だけでよい。だが、吉田氏の述べているのは理想である。それを得るために意志的な努力が必要なことである。いつでもどこでもひとがそのような状態でいられるといったことは考えられない。病気になるということは、やはりひとの時間の流れを乱し切断することが多いに違いない。そのことを認めたうえで、われわれが念頭においておくべきことは、時間の流れが乱れるのは異常な事態であるのだということ、常態は時間が正常に流れることだということである。あくまでも正常な状態の回復は目指されなければならない。しかし、そこで問題が生じる。一つは、正常の状態の回復を目指すのは患者の課題なのかそれとも医療者の課題なのかということであり、もう一つは、そのことから派生するより大きな問題として、そもそも医療者の側が自分の正しいと考える生きかたを患者側に強いるといったことが可能であるのか、可能であっても許されることなのかということである。
 現代のコンピューター理論の基礎を築いた一人であり、量子力学の分野ではその数学的基礎をつくりあげるのに貢献し、またゲームの理論など様々な学際的分野でも業績を示したフォン・ノイマンは今世紀最大の知性の一人であったといえるかも知れないが(その伝記を読んでいると、普通にいう頭の良さなどというのとは桁の違った頭のよさであって、凡人のこっちとしては全くいやになる)、五十一歳のとき骨肉腫を発見され、それまで神とか信仰とかに全く無縁なひとであったのが、にわかにカソリックに入信したが、それでも安心立命は得られず、完全な精神崩壊、パニックの状態となり、毎晩、抑えられない恐怖の叫び声をあげる状態になって死んでいったという(ハイムズ「フォン・ノイマンとウィーナー」による)。ハイムズの著書のこのフォン・ノイマンの死の部分は極めて印象的であるが、それは、数学的あるいは論理的な知性が、われわれが死をどう受けとめるかということには全く無力であり無関係であることの典型が示されているように思われるからである。フォン・ノイマンの死は一個の人間の死という厳然たる事実であって、それをいいとか悪いとかいっても何の意味もないことである。ただそれが非常に無惨な感じを与えるということは言える。吉田氏の言いかたを借りるならば、ここでは時間の流れが全く滞ってしまっている。
 もし、フォン・ノイマンの死を無惨と感じるのがかなり一般的であるとしたら、吉田氏のいう正常な時間の流れを目指すことは、ある程度は共通の目標になりうることになる。そうではなくて、フォン・ノイマンの死こそ崇高であるとか人間の本来の姿である考えるひとが多いなら、吉田氏の時間論を医学に持ち込むなどというのは全く馬鹿げたことになる。哲学者ヒュームは吉田氏が称揚する十八世紀人の一人であるが、そのヒュームの死はフォン・ノイマンのそれとはあまりに対照的である。ヒュームが死の直前に書いた手紙は吉田氏の「昔話」にも一部引用されているが、ここではジルボーグの「医学的心理学史」から引用してみる。
 
 私の病気は下痢、つまりお腹の病気で、これは過ぐる二年間私を少しずつ弱らせておりましたが、最近六ヵ月間に目に見えて急速に私を最期へと追いやって来ました。私は死が次第に近づいて来るのを見ておりますが、何の不安も未練もありません。ここに大なる愛情と尊敬をもって最後の御挨拶をお送りする次第であります。
 
 このヒュームの手紙を読むと、どうしても大岡信氏が「岡倉天心」で紹介している天心の晩年の手紙のことが浮んでくる。
 
 奥様
 何度も何度もペンをとりましたが、驚いたことに何ひとつ書くことがありません。すべては言い尽され、なされ尽しました−−安んじて死を待つほか、何も残されていません。広大な空虚です−−暗黒ではなく、驚異的な光にみちた空虚です。炸裂する雷鳴の、耳を聾せんばかりの轟音によって生みだされた、無辺際の静寂です。私はまるで、巨大な劇場にたった一人で座り、みずから一人だけで演じている絢爛たる演技をみつめる王侯のような気持です。おわかりでしょうか?
 いいえ−−何も書くことはありません。
 お元気でいらっしゃることを念じます。具合はよくおなりですか? 私は元気で幸せです。
             あなたの覚三
 
 天心の手紙はまたラブレターでもあるのだけれども、死をまつことを伝える手紙が同時にラブレターでもあるという余裕あるいは遊びは、天心に流れていた時間を想像させるに足るものである。 物質に属すること以外では共通の認識に到達するということは期待出来ないということはすでに述べた(それなら物質に属することであるのなら共通の認識に到達できるのかということが、別に問題となる。このことは後に改めてまた論ずる機会があると思う)。したがって、どういう生きかたが(そして死が)望ましいかについての共通の認識に到達することは期待できるはずはない。出来ることは、自分にとってはどのようなかたちが望ましいと考えるかを筋道を立てて述べることだけであり、そして読者に(もし読者というものがいればの話であるが)判断を仰ぐことだけである。すべてがそうである。医療が扱う問題のなかで、物質の言葉だけで解決しうる問題というのはそんなに多くはない。残りについては、ただ自分はこう考えるということが言えるだけである。だから、人間らしさということについても共通の認識が得られるはずはない。しかし、それでも、この天心の手紙はわれわれを打つのではないだろうか。