第3章.西と東・文科と理科

 
   第3章.西と東・文科と理科
   
 医学について論じるといいながら、医学と関係があるといえないこともないような話題に終始してきた。もう少し医学自体について論じることとしたい。とは言っても、すぐまた脱線してしまうかも知れないが。
 さて、これから医学という場合、原則として西洋医学をさすこととするが、それは一つにはこちらが東洋医学につき、ほとんど知識を持たないためである。しかしそれ以外にも、これからも医学の主流となるのは西洋医学であろうという考えもある。西洋医学にも得手な分野があり、不得手な分野がある。東洋医学も然りであろう。たとえば、心身症といわれるものは、現在、西洋医学がもっとも不得手とする分野と思われる。アフリカのまじない医者は、心身症をわれわれよりずっとうまく治せるに違いない。一方、肺炎や胃潰瘍は西洋医学の方が少しは上手く治せる。とは言っても、そもそも、肺炎や胃潰瘍という言葉が既に西洋医学のものである。器官、臓器を分別し、それぞれにおきる異常として疾患を考えるというやり方は極めて西洋的な発想である。そしてこの西洋的な発想は医者のみならず、患者さんの側にまで深く浸透している。患者さんが何らかの症状をもって病院へきて、「一体、どこが悪いのでしょう」ときく。この「どこが悪いのでしょう」という言いかたが、既に著しく西洋的なものである。病気が誰かの呪いによっておきるとか、体の何等かの因子の不均衡でおきるとは、信じられていないわけである。病気が呪いによっておきると信じられているところでは、心身症の治療はずっと簡単なはずである。西洋医学心身症を上手く治せないのは、臓器中心の疾病観が患者さん側にもひろくいきわたっていることも関係している。
 西洋医学にも得手、不得手がある。それなのにこれが、それ以外の医学より勝れているとする根拠が何かあるだろうか。思うにそれは、西洋医学が、重い病気、命にかかわるような病気の治療において、その他の医学より少し勝れているからなのである。これは、こちらが医者であることからくる偏見であるのかも知れない。正直に告白すると、医者は、生き死にや、大きな機能障害に結びつかないような病気はどうでも良いと思っているところがあるものなのである。
 西洋医学も、重い病気、命にかかわる病気の治療において、それほど強力なわけではない。全く、無力であることもしばしばである。しかし、その場合でも、何故無力なのか、病気がどのようになっているのかという理解においては、他の医学より圧倒的に勝れている。だがそれは医者の側の都合であって、患者さんにとっては、自分の病気が充分理解はされているが、ちっともよくならないという事態は少しも有難くないに違いない。また自分の腹痛が心身症だと診断はされても、少しもまともな治療はしてもらえなければ、おおいに不満であるに違いない。
 近年、医学がひどく評判を落としている原因の一端はこの辺りにあるのだろう。そして、そのことは、西洋の科学を支えてきた発想の根源への近年の強い批判と無関係ではないものと思われる。西欧科学を支えてきた一番根本的な発想は、自分の外側にモノがある、という考えかたである。モノは自分から独立した客観的な存在であって、モノについては、各人の主観を離れた共通の認識に到達しうる、これが科学の信念である。しかし、「そういう科学の見方では人間は全然解りはしない」というのが批判者に共通の認識なのである。
 では、科学は、生物学は、医学は人間を理解することを目指しているのだろうか。多分そうではないのだろう。人間の身体を、あるいは人間の病気を理解することを目指しているとしても、人間の理解などは目指していない。人間から身体や病気を分離して考えることが出来るというのが科学の信念なのである。人間をからだ足すこころと考える、からだはモノなのだから、客観的に論じることができる、そう信じているわけなのだ。身体は機械である、病気は機械の故障である。これはきわめて明解な信念というべきである。この考えかたのどこかにおかしなところがあるだろうか。
 最近、養老孟司氏の著書「ヒトの見方」を読む機会があり、大変面白かったが、例えば、そこに、こんな部分がある。
 
 生物学には昔から、生気論と機械論、統合論と還元論、という対立がある。・・・生気論、統合論は同系で、機械論、還元論は同系である。つまり、生物学というものは、物理化学に還元できる、と思うのは還元論の方である。・・・ところで、現実に生物学をやっている人と話し合うと、機械論者というのは、探せば探すほど居なくなる。・・・考えてみれば、これは当り前のことで、近代の生物学は人間も生物の中にまぜてしまった。生物学をやるのは人間であるから、誰も自分を機械だとは本当のところ思っていないし、あの女に惚れたのはホルモンの故だ、とは思っていないのである。・・・
 ところで、もう一つ厄介な事がある。患者は医者に行くと、薬をもらいたがる。注射をしてくれ、と言う。これは明らかに、機械論、還元論の立場に立っているのである。自分の体の動きが悪いから、油を差したら何とかなるか、
と思っているのである。
 
 まことに、間然するところのない文章で、こちらのいいたいことが既につくされている気がする。一言で言えば、人間が自分について抱いている信念や常識と、生物学が人間を扱うやり方とのギャップの問題である。
 人間がビルの十階から飛びおりて、しばらくして地上にぶつかる。あるいは、自動車どうしがフルスピードで正面衝突する、その時、ヒトの身体におきることは純粋に物理学的な現象である。ヒトにこころがあろうとなかろうと、死ぬときは死ぬ。ビルから墜ちる人間は物体で、イヌやネコやカナヅチと何ら変るところはない。これが医学の出発点である。(しかし出発点ではあっても、終点ではない。人間は女に惚れたりもする。恋愛は何程か精神異常に似たところがあるが、とにかく、精神異常だって医学が扱わなければならぬことになっている。)
 人間の病気も、イヌやネコの病気と少しも変るところはない、というのは清潔な考えである。人間が万物の霊長であろうと、理性の存在であろうと、シンボルをあやつるものであろうと、死ぬときはモノとして死ぬのである。
 今から百年前の医学、二百年前の医療は何をしていたのだろうと思うことがある。有効なことはほとんど何も出来なかったに違いない。それでも医者は何かをしていたはずである。とにかく何かをしなければいけないというのが、実に困った医学の宿命である。近年になって、医学は体に対してはようやく何程かのことをなしうるようになってきた。しかし、心に対して出来ることは百年前、二百年前も今も余り変っていないのではないだろうか。あるいはむしろ、心に対してはその頃より鈍感になっているのかも知れない。何故なら、一見花やかな体に対する医療技術の進歩に多くの人が目を奪われているから。
 あと百年か二百年たつと、われわれは心も少しは上手く扱えるようになるのだろうか。それはこころを科学が扱えるか、という問題に帰着する。ということは、こころが物質の現象であるかということである。何故なら、科学は物質しか扱うことが出来ないから。
 こころは脳が司る何らかの現象であるように見える。しかし、脳は途方もなく複雑なものである。その余りの複雑さゆえに、ついに還元論的分析を拒み続けるのだろうか。理論的には一個づつの気体分子の運動を知れば気体全体の挙動を解明出来るのに、実際には、余りに複雑で不可能なため、温度といった集合全体を示すパラメーターを新たに導入するように、脳も一つ一つの神経細胞の分析の積み重ねからは終に分析不可能なのであろうか。少なくとも、今のところは、そのように見える。
 とにかく、ここしばらくは、こころについての科学的理解は期待出来ないものとして、われわれは医療をやっていかなければならない。どうも、困ったことであるが仕方がない。 ところで、昔からこころは文科の専売特許で、理科の出番ではないとされてきた。それでは、医学は理科ではないのだろうか。文科なのだろうか。
 最近、医学はアートである、などという主張が一部でなされている。そう主張する人は医学は理科ばかりではないのだぞ、と言いたいのであろう。
 一方、今まで文科の領域と考えられてきた分野に理科側の勇敢なひとたちが殴り込みをかけている。動物行動学が文科の領域にあたえた影響は随分と大きなものであると思うし、最近では、ウイルソンの「社会生物学」が大変な物議をかもしている。
 しかし、そうではあっても、文科が理科を軽蔑し、理科が文科を馬鹿にするという状況は根本のところでは、スノーの「二つの文化と科学革命」の頃から余り変っていないように思われる。 さて、文科の人間、吉田健一氏は理科に対してどのような発言をしているであろうか。しかし、それを考える場合にも、文科と理科という区別はあまりにあいまいである。理科を科学といいかえてみよう。それならばどうか。すでに論じたように、吉田氏は科学を評価はしたが、科学は世界のごく一部の狭い領域のみに妥当する、しかも世界のどちらかといえば二義的な領域をあつかうものと考えた、といったところであろうか。
 しかし、吉田氏は、人間が動物であるということから目そらすことはなかった。その見方は文学的なのか、科学的なのか。多分どちらでもないのである。人間が動物であるということは人間の現実なのである。もし人間が動物であることを科学的な見方だと考えるものがあるとすれば、その人は人間が動物であるということをおそらく必要以上に狭く考えすぎている。
 ここに吉田健一氏の相貌のもうひとつの特徴である、観念的な考え、超越的な考え、狂信的な考えに対抗する者としての側面があらわになってくる。人間が他の動物とは根本から異なる優れた存在であるとする見方を吉田氏はきびしくしりぞけた。人間は理性を持つゆえに他の動物とは比較を絶した優れた存在になったのであり、それ故、理性を徹底的に働かせることが人間の人間たる所以なのであって、その理性の活動の産物こそが人間の栄光をしめす、といった考えを吉田氏は非常に嫌った。そうであれば、吉田氏が観念論に対立するものとなるのは当然といえる。観念論というのは人間が動物であることを忘却した議論なのである。人間以外の動物でも思考するものは沢山有るだろうが、観念的、超越的、狂信的にものを考えるのは、おそらく人間だけである。
 しかし、こうは考えられないだろうか。すなわち、確かに観念的にものを考えるのは人間だけであるとしても、良かれ悪しかれそれは人間の現実であるのだと。あるいは、もうすこし生物学での表現に近づけてみるならば、人間は観念的にものを考えるように遺伝的に規定されているのだと。吉田氏の文明論がこれに答えるものとなっている。氏によれば、観念的なもの、超越的なもの、狂信的なものを克服することは可能なのであって、それらが克服された状態が文明の状態なのである。文明が完成してようやく人間は当り前の動物に戻れるのである。
 科学が物質のみに関るという吉田氏の主張についてはすでに何回もとりあげてきた。ある意味では、そういった見方は現在常識となっている見方とも言えるが、そのことから、科学のさまざまな営為は、観念的なものや超越的なものとは無縁な、冷たい非人間的なものだとする見方も生れてくる。ところが最近になって、それとは対立する、暖かい科学、人間的な科学とでも呼ぶべき動きが一部で目立って来ている。日本においては、ニュー・サイエンスあるいはニュー・エイジ・サイエンスと総称されることの多いこれらの動きは、人間のそとにあって人間とは無関係である物質をあつかう科学ではなく、人間もそのなかに含んだ人間と無関係でない科学を主張しているようにみえる。人間の外側に人間とは無関係に物質があるとする見方は西洋に極めて特徴的なものであるから、それに反対する動きは当然、非西洋あるいはもっと積極的に東洋への志向を含むことになる。そして、この動きが医学と関りをもってくるのは、ニュー・サイエンスといわれる運動の主要な敵の一つがデカルトに由来するとされる機械的な生命観であるからである。川喜田愛郎氏の労作「近代医学の史的基盤」では、西洋医学の流れを前後二つにわけるエポック・メイキングな出来事としてハーベィによる血液循環の発見を挙げている。ハーベィの血液循環の見方が機械論的なものであることはいうまでもないし、そのハーベィの血液循環の見方がデカルトの「方法序説」で大きくとりあげられていることも衆知のことである。川喜田氏も言うごとく、ハーベィの仕事では、仮説とその実験的検証(しかも量的な)という近代科学の方法がすでに用いられている。体のさまざまな構成要素のなかから血液という一つの要素だけを分離してとりあげて、しかもそれを量的に検討するというやり方は、西洋の近代科学に典型的なものである。血液の循環は、勿論、われわれの生命にとって必須のものである。しかし生命から切り離された血液の循環を研究しても生命はすこしも明らかとはなってこない、そういう形での西洋科学のやり方への批判もまた極めて根強いものがある。前章でとりあげたD・H・ロレンスもそのような反西洋科学の急先鋒の一人であった。だからニュー・サイエンスのひとたちの書く文章がときにロレンスのものと極めて類似してくるのもまた当然なのかもしれない。ニュー・サイエンスの代表的な著作家のひとりライアル・ワトソンの「(われわれは)われわれ自身と自然とのかかわりを感じはじめたのだ。宇宙とその一部であるわれわれとを、ひとつの動的な総体として、または精神的であると同時に物質的である、常に動いている一個の生体として感じるようになったのである。(生命潮流)」という文章など、そのままロレンスのものだといっても通るのではないだろうか。ユングはニュー・サイエンスのひとたちのお気にいりの思想家の一人であり、ワトソンもしばしば言及しているが、ユングとロレンスは極めて類似した考えをもっていたことをコリン・ウイルソンが指摘している。
 ワトソンとならぶニュー・サイエンスの論客であるF・カプラでは東洋への接近がより顕著であるが、それもまたデカルトのもたらした不幸を癒すものとしてなのである。彼によれば、デカルト哲学の分割と機械論的な世界観は、古典物理学と科学技術の発展という効用をもたらしはしたが、同時に文明をそこない多大な損失をももたらした。二十世紀の科学は、デカルト哲学の二元論と機械論的な世界観を源とし、その世界観に支えられることにより、はじめて現在の状態まで発展することができた。しかし、科学はいまや、デカルト哲学によりもたらされた分裂を克服し、初期ギリシャや東洋思想にみられた合一の思想へと立ち戻りつつある、ということになる。そして、その東洋の世界観は西洋の機械論と違って「有機体的」なのであり、東洋の神秘思想家にとっては、知覚された事象はすべて相互に関連しあったものなので、ある同一の究極的リアリティの諸側面、あるいはそのあらわれでしかない。われわれには知覚した世界を個々別々の事物に分割し、自己を世界の中で独立した自我として体験する傾向があるが、それはデカルト以来の西洋に特徴的なすべてを測定・分類しようとする心が生みだした幻想なので、仏教からみれば、それは無明あるいは無知とよぶべき克服すべき心の乱れということになる。(タオ自然学)
 デカルトの見方に対する批判は今に始まったものではないし、東洋の神秘思想にいたってはデカルトの思想よりずっと古いことは言うまでもない。ニュー・サイエンスの奇妙なところは、最新の科学上の知見が、デカルトの見方を否定し、東洋の神秘思想を支えるものとして用いられている点にある。デカルト以来の二元論に立つ西洋科学を批判しながら、その批判の根拠として、その西洋科学の最新の成果を利用するのである。
 このニュー・サイエンスの見方は、近代において見られた拡散と混乱が、現代において人間を中心に修復される、とする吉田氏の見方と通じるものがあるだろうか。科学のもっている近代的性格、非人間的性格という認識については両者は共通している。しかし、科学の発達がついにはそれまでの科学を支えていた世界観をつきくづし、新たな世界観を生み出すといった予定調和的な視点は吉田氏のとるところではない。ニュー・サイエンスの立場から言えば、それは吉田氏の科学観が古いからだということになるのかもしれない。ニュー・サイエンスが依拠し、われわれに発想の転換をせまる新しい科学上の成果であるとしている知見は主として量子力学の分野で得られたものである。極く簡単に言ってしまうと、量子の世界においては、われわれがモノというイメージで考えているものが見出せないのである。そこから、「観察者問題」とか「シュレディンガーの猫」といった問題が生じてくる。一例として、シュレディンガーの「量子力学の現状」から一部引用してみる。(何度も言うようであるが、ここに書かれていることを、それを引用している人間が理解しているとは思わないで頂きたい。)
 
 しかしながら、あいまいさという言い方がもはやまったく誤ったものになる、巨視的なわれわれが直接触れることのでき見ることのできる事象をも不確定性は支配している、ということに気がついたとき、重大な疑念が生じてくるのである。ある放射性原子核の状態は、アルファ粒子が跳びだしていってそれが崩壊するのがいつかということも、またアルファ粒子が核から跳び去るのがどの方向かということも確定しないといった程度の、またそういった種類のあいまいさをもつものと考えられている。原子核の内部の世界では、このようなあいまいさもわれわれにとってなんら妨げにならない。この跳びだしていっているアルファ粒子を直観的に解釈したいのならば、原子核からあらゆる方向にたえず放射されている球面波によってそれは記述されることになる。そして、それ
が進んでいって近くにおかれた蛍光性スクリーンと出合うときには、波の広がりの全面で出合うことになる。しかしスクリーンにはなにか一面にぼうっと広がった光が見られるのでなく、ある瞬間に一つの点でぴかりと光るのが見られる−−もっと真実を尊重した言い方をすれば、スクリーン上に、ここでぴかり、あそこでぴかりと閃光が見られることになる。それは、ただ一個の放射性原子だけを使って実験を行うことが不可能だからである。・・・
 ところが、次のようなまったく滑稽な例もつくることができるのである。猫を一匹鋼鉄の箱のなかに、次のような地獄行きの機械と一緒に閉じ込めておくとする(ただし、猫がこの装置に直接触れることのないように用心しておかなければならない)。一つのガイガー計数管中に微量の放射性物質を入れておく。この放射性物質は、一時間のうちにそのなかの一個の原子が崩壊するかしないかという程度に、ごく微量のものとする。もしこの崩壊が起ったとすれば、計数管は鳴り、リレーによって箱中の装置のなかの小さなハンマーが動いて、青酸ガス入りの小瓶が割れる。この全体系を一時間の間、そのまま放置しておいたとする。その間に、もしも一個の原子も崩壊していなければ、猫はまだ生きているということができるわけである。最初の崩壊が起っていれば、猫は毒殺されてしまっているはずである。全体系のψ関数を使ってこの事情を表現しようとすれば、全体系の波動関数には生きている猫と死んでいる猫がとが同じ割合にまじっている、同じ割合で塗り込められている、ということになる。
 
 これが有名な「シュレディンガーの猫」であるが、半分生きていて、半分死んでいるという変な猫である。またハイゼンベルグ不確定性原理ということもある。とにかく、量子レベルの問題になると、われわれが持っている物質像は成立しなくなり、客観的世界といったものも存在しなくなるということらしい。このことからニュー・サイエンスは旧来の科学の依って立っていた基盤は失われたとし、われわれのそとにわれわれとは無関係なものとして存在する物質をあつかうものとして発達してきた科学は、科学自体の成果によってくつがえされたとする。とすれば、吉田氏の科学観などは二昔前のまったく旧弊なものということになってしまうわけである。
 「シュレディンガーの猫」などの問題について何らかの判断を下すだけの知識も能力もこちらにはない。ただ何冊かの本を読んでの印象では、量子の世界ではわれわれの物質観が否定されるようにみえるが、それは量子の世界では事実としてそうであるという考えも、量子についての知識が不充分であるからそのように見えるとする考えも、さらにそのどちらとも言えない考えも、いろいろあるようであって、ニュー・サイエンスのひとびとが言うように、量子力学の成果によって、われわれの常識的に抱いている物質観が否定されるといった簡単なものでは必ずしもないように思われる。また、それが東洋の神秘思想につながるということについては、さらに議論があろう。
 量子力学の形成期における主要な登場人物たちは、シュレディンガーもハイゼンベルグも、あるいはボーアも、そしてアインシュタインも、それぞれの知性をかけてモノの本態を明らかにしようとしたのであって、その結果として、量子のレベルにおいては従来からの物質観が必ずしも成り立つとは言えないことが明らかにされたのであるとしても、彼らがみな理性に重きをおく西洋の伝統につらなるひとであったことは明白であり、知性あるいは理論による理解を重視しない東洋との隔たりは明らかである。カプラによれば、相補性の考えかたの提唱者であるボーアは、中国の対極的な考えにひかれ、ナイトに叙されたとき、紋章の図柄に陰と陽の相補的関係を表す「太極」のシンボルを用いたという。しかし、これは単なる比喩であって、いくら「太極」の考えかたをひねりまわしたとしても、そこからボーアの相補性原理が出てくるわけはない。
 ニュー・サイエンスのひとびとにとって、量子力学も東洋思想も一つの比喩なのであると思われる。彼らが諸悪の根源であると考える西洋固有の発想、デカルト的発想を否定するための比喩なのである。西洋に固有の言葉、それは、部分、還元、無機、機械、物質といったものである、と彼らはいう。それに対して東洋では、全体、統合、有機、生命といったものとなる。何故、そういう西洋の言葉が否定されなければいけないのか、それは力学的な古典物理学は通常の物理現象の記述には有効で、技術の基盤としても相当の成功をおさめたとしても、宇宙の全現象を分離不能な調和ある全体のなかの部分としてとらえることは出来ないからなのである(カプラ「タオ自然学」)。
 カプラらニュー・サイエンスの人々もそういう西洋の発想をすべて捨てさるべきだとは言わない。科学と神秘思想は人間のなかにある合理的能力と直観的能力のそれぞれのあらわれなのであり、それらは相補的で、ともに必要とされているという。いままで、科学は神秘思想をくつがえし否定するものと考えられてきた。しかし、そうではなくて、科学の最先端の知見が神秘思想を裏打ちするものとなっているのだから、神秘思想は科学によっても支持される人間の(合理的思考とならぶ)正当な活動の一つなのだ、というのがニュー・サイエンスの主張の眼目となっている。
 だが、ニュー・サイエンスといわれるものが主張され、一部のひとびとに熱心に支持されている最大の理由は、従来の科学が直観的理解を含む人間の素晴しい能力を否定し、人間をきわめて矮小なものとしてしまっているという点にあるのだと思われる。科学をそのようなものととらえ否定する見解は、ロレンスをはじめ枚挙に暇がない。ニュー・サイエンスの独特なところは、新しい科学がこのような従来の科学の否定的面を乗りこえると考えられている点である。
 次のような設問を考えてみる。「科学が人間についてある事実を明らかにし、その事実が人間を不幸にするものであったとする。その場合、人間は自分たちを不幸にする事実を、ただそれが事実であるというだけの理由で受入れなければならないのだろうか。」これはダーウィンの進化論以来ずっと繰り返されてきた疑問である。この疑問が生じる前提としては、人間は他の動物とは異なる全く次元の違う優れた存在として神により創造されたとするキリスト教の見方がある。進化が事実であり、しかもその進化が神の手の導きによるのではなく、全くの偶然の積み重ねによるのだとすれば、人間を人間以外の動物と不連続にするものは何も無くなってしまう。そうだとすれば、自分たちが他の動物より格段に優れていると人間が信じる根拠となっているもの、例えば倫理観といったものにもアプリオリな根拠は無いことになってしまう。
 ダーウィンの進化論以来、科学が示す事実がなし崩しに人間の倫理観を壊してゆくのではないかという危惧の念が常に表明され続けてきた。しかし科学の側は、われわれはただ事実を明らかにしようとつとめているだけだという態度をとることによってその問題を回避してきた。ダーウィンの進化論は仮説であって、その時代には仮説を具体的に裏打ちする資料には乏しかった。しかし、遺伝学や生化学の発達によって、進化をもう少し具体的に物質の言葉で語ることができるようになると、科学の側からも積極的に人間の倫理の問題に発言するものが出てきた。モノーの「偶然と必然」はその一つの典型であろう。このモノーの著作はヨーロッパの思想界に大きな衝撃をあたえたということであるが、われわれ日本人の目から見るとほとんど当り前のことが書いてある感じで、どこが衝撃的なのかよく判らない。キリスト教の伝統のなかにいないと、モノーの著作のインパクトは判らないのかも知れない。モノーの言いたい点は、その最後の部分の「人間はついに、自分がかってそのなかから偶然によって出現してきた〈宇宙〉という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれていない」という部分に端的に表明されている。モノーによれば、これは科学が示した事実なのであって、われわれはこの事実から出発しなければならないのである。モノーが極めて倫理的な人間であることは「偶然と必然」を読めばすぐに判るが(何しろ彼はレジスタンスの闘士なのである)、倫理を神が定めたといったアプリオリのものとして認めることは当然許されないこととなり、人間が何の目的のなく存在しているという事実を認めたうえで、あらためてわれわれが主体的に選択するものということになる。ということは、倫理を選択しないことも当然認めなければならなくなり、倫理の根拠は極めて薄弱なものとなる。「もし神が存在しないとしたら総べては許されるであろう」というのは確かドストエフスキーの言葉ではなかったろうか。ニュー・サイエンスは実は科学の側に発言しているのではなく、科学が破壊しつつある人間的諸価値を擁護することを本当の目標にしているように思われる。モノーの「人間はついに、自分がかってそのなかから偶然によって出現してきた〈宇宙〉という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている」という文と、ワトソンの「宇宙とその一部であるわれわれとを、ひとつの動的な総体として、常に動いている一個の総体として感じるようになったのである」という文はまさに対照的である。従来はモノーのような主張は事実に立脚しているのに対し、ワトソンのような主張は理念的で根拠の無いものと考えられがちであった。しかしニュー・サイエンスは、物質に関する探求をつきつめてゆくことにより、われわれが持っている物質という考えかたが崩壊し、われわれとわれわれの外にある物質を含めた外界という区別は消失し、内と外といった区別のない混然一体となった有機的な世界が表れてくると主張する。しかもそれは思弁の産物ではなく物質の探求の果てに生れるものであるがゆえに、事実なのであり(ただし内と外、認識するものとされるものといった区別は無くなるので、事実という言葉も適当ではなくなるのかもしれないが)、モノーの主張と拮抗しうることになる。ただ、ニュー・サイエンスの弱いところは、個々の事実に対する探求についてはほとんど発言できないことであって、ある病気の治療をどうしたらよいかとか、DNAのあるシークエンスがどんな働きをしているのか、といった点は旧来の科学にまかせたままになっている。ワトソンの「生命潮流」では、各セクションの初めにユングの著作からの引用がおかれているが、そこにはこんな言葉もある。「世界が客観的に存在すると決めたとき、人は生命や人間の精神を、予め決定された既知の規則に従って無自覚に動き続ける、細部にいたるまで計算しつくされた機械として見ることになる。冷たい時計仕掛けの工場のような世界には人や世界や神のドラマはない。われわれを〈新地〉に導く〈新しい日〉もなく、あるのはただ計算された、退屈な工程だけである。・・・予期しないことも信じられないことも、この世のことにちがいない。それらによって人生ははじめて全きものになる。」
 科学はひとの生の完全性を損ない、ひとの生を機械的な退屈なものと変えてしまう、ひとの生を全きものとしなければならない、それがニュー・サイエンスの本当に言いたいことなのである。これは、ロレンスの主張とほとんど同じことではないだろうか。ただロレンスは反科学に走った。ニュー・サイエンスは科学もそれをつきつめてゆくことにより、そういった道が開けてくると主張する。
 この点をもう少し医学の問題に引き付けて考えて見よう。カプラの著書「ターニング・ポイント」でも、デカルト的な考えかた、身体は機械であり病気はその機械の故障した結果だから、医者の職務は壊れた機械の修繕であるという考えかたは、病気のおこす全人的な不調和に気づかない著しく視野の狭い西洋的な見方であることが指摘されており、現在でも西洋以外の世界の大半の治療者たちはもっと包括的で全人的な治療を行っていることが述べられている。しかし、西洋医学に従事している人間であっても、デカルト的な機械的な疾病観では現実の医療には対応出来ないことは気づいているはずである。一例として、既に前に一度言及したキャッセルの「医者と患者」から引用しよう。
 
 何年も前、ニューヨーク市のベルビュー病院でレジデントの訓練を受けている時、私は真夜中に精神科病棟から、老婦人が呼吸困難であるとの呼び出しを受けた。行ってみると、患者は空気を求めて喘いでおり、彼女の皮膚は酸素欠乏のため青かった。彼女は肺血栓から生じた重度の肺水腫であった。私は看護婦に、緊急に必要な酸素と薬を取りにやらせたが、その日はスタッフが少なかったことと、エレベーターがなんとも遅く、うまく作動しなかったために、真夜中のベルビューの精神科病棟にいる危篤患者は、まるでイースト・リバーにでもいるかのごとくであった。必要な装置を待っている時間は無限のように思えたのである。私はベッドの傍で何もできないと思いながら立ちつくしていた。一方、その老婦人の表情と苦しみは助けを求めて訴えていた。私は静かに、しかし間断なく話し始めた。なぜ胸が締め付けられているのか、水が肺からどのようにしてゆっくり退いていくのか、その後には少しづつ楽になって、徐々にもっと調子が良くなるだろう、と説明したのである。本当に驚いたことに、それがその通りに起ったのである。彼女の恐怖が鎮まっただけではなく(このことだけだったなら驚かなかっただろう)、私の聴診器からは肺の雑音が消失し、肺水腫が事実鎮まっているという客観的証拠を得たのである。装置が届くまでには、事はすでに治まり、患者と私はあたかも共同で悪魔をやっつけたかのように感じていた。
 
 これほどドラマティックではないにしても、似たような経験は臨床にたずさわる人間なら誰でもしているだろうと思う。しかし、このような経験をした場合、大部分の医者は何か自分がインチキをしたような、イカサマ師か何かになったような変な感じを味わうものである。「プライマリ・ケアにおける心身医学」でバリントがのべているように、一般臨床で最もしばしば用いられる薬は、実は「医者自身」である。それにもかかわらず、その医者という薬の投与量、薬形、投与回数、治療量と維持量については何も教科書には書いていないし、さらには医者という薬が患者にもたらすアレルギー症状、あるいは医者という薬の副作用についての記載も何もない。しかし、そんなことを教科書に書くことが可能だろうか。医者は工場で厳密な品質管理のもとで大量生産されるわけではないし、患者さんもまた純系の実験動物ではないのである。医療がアートである、といった主張をするひとは恐らくそういった側面を考えているのであろう。医者という薬の使い方についてなにがしかの経験則を見出してゆくことは恐らく不可能ではないだろうし、そういう技術(アート)が医療のなかで大きな比重を占めていることを理解することは是非とも必要なことではあろう。しかし、それを認めた上で言えば、医者という薬がどういう薬効を示し副作用を示すかということは、最終的には出たとこ勝負なのであり、やってみなければ結果は判らないものである。つまるところ、それはアートにとどまるものであり、科学に転化することはありえないように思われる。
 ある雑誌の座談会で、川喜田愛郎氏が次のような発言をしている。
 
 医学校の先生は「病気でなくて病人を治せ」と偉そうな顔をしてお説教をする。看護学校ではそれをもっとしばしば言いますね。「病人こそ大事だ」と。それは、もっともすぎるほどもっともな話だと私も思います。ですが考えてみると、一番わかりやすいのは虫歯です。これは第一、痛い。食べ物がかめなくなる。しばしば熱がでる。なによりも当人にとって、痛いとかはれたとかいう症状のアンサンブル。・・・ ひっくるめて病気は、人間の悩みごとですね。その「悩み」から科学の定規に合う「病気」を抽出したところに近代医学の成果も、限界もあったわけですね。限界、ないし欠落に気がついたまともな臨床家が、「医者は病気を治すんじゃなくて病人を治せ」ということを教壇から訓示を垂れられる。それはまことにもっともなので、その限りにおいてはいささかも異存はないんだけれども、病気の科学でさえきびしく言えばなお不備が多いのに、まして病「人」を治すということがどれほどむずかしいか、ということが本当にわかって、あるいはその鋭い意識に心の痛みをもちながら、あえて言っているのかどうか。
 その場合、人間が人間であるというのは、一人でいるより、いつも他人と一緒にいるのであって、多くの病気においては人の悩みは同時に家族の悩みであるし、子供の病気はむしろお母さんの悩みごと。だから小児科のお医者さんは、子供とお母さんと、二人の病人を処理しなくてはならない。・・・
 そうすると、こと人間にかかわることだとすると、「一体人間とは何か」という極度にむずかしい問題を医学は抱えちゃって、私に言わせれば、医学というのは諸学の中で最もむずかしい学問に属するのではないかとさえ思うのです。
 
 人間の生きかたにかかわること、人間とはどういう存在なのかということ、それは旧来、文科の扱うべき領域と考えられてきた。川喜田氏の言うように、医学が「人間とは何か」という問題まで抱え込んでいるのだとすると、当然、医学は理科の領域のみにはとどまっていられないことになる。だが、その場合、医学の位置は非常に難しいところにあると言わなければならない。まず、物質の側からの人間へのアプローチ、生物学から見た人間像というものがこれまで伝統的であった文科的な人間観を急速に突き崩しつつあるという状況が一方にある。先に言及したモノーは分子生物学のパイオニアの一人である。分子生物学を含めた最先端の科学の成果は人間の独自性という人間が古くから抱いてきた自己イメージをもはや許さなくなっている。他方、医療においては、科学すなわち物質の面からだけでは解決出来ない問題が山積している。医学は理科にも文科にもその片方のみには安住できなくなっているばかりでなく、医学における理科と文科はそれぞれ相手の主張を否定するような形で共存しているのである。ニュー・サイエンスに対し一部のひとが感じる魅力というのは、ニュー・サイエンスがそのような理科と文科の対立、相互否定を解消し、相互を融和させる方向を示しているように見える点なのであろう。ニュー・サイエンスには当然、人間という視点が入ってくる。そして、人間をどう見るかということについてなら、東洋は西洋よりはるかに年季がはいっている。ニュー・サイエンスがわれわれから見て少し滑稽なくらいナイーブな讃美を東洋の叡智にささげるのも、東洋の歴史の厚みにはじめて接した驚きによるのであろう。だが東洋の叡智がいくら優れたものであるとしても、それをすぐに西洋の科学の成果と結びつけようというのは余りに性急で無謀な試みである。今しばらくは(あるいは永遠に)耐えなければならない分裂がおそらく存在するのである。そして、その分裂を見据えて耐えてゆくのは、これは西洋の知性によるしかないのかも知れない。西洋の歴史の浅さ、それに基づく若さの力によるしかないのかも知れない。
 この章では、これまで、吉田健一氏の文章からの引用は一度も行わないできた。それで最後に、氏の「文学の楽み」のなかの「東と西」の章から、いままで述べてきたこととあるいはどこかで関係しているかもしれない部分を引用して、結論の出ないこの章の終りとすることとしたい。
 
 
 我々が例えば老子の、

  常無以ってその妙を観んと欲し常有以ってその徼を観んと欲す。

 というような句、或は再び淮南子の、

  知物と接して好憎生じ好憎形を成して知外に誘われ己に反る能わずして天理滅す。

 という言葉からも確実に受け取る論理的な映像を支那人は論理を知らなかったで片付けることは出来ない。それが三段論法でも、ヘエゲル風の弁証法でもないから論理ではないと見るのが、十九世紀までのヨオロッパ人が取って来た鋤を鋤と呼ぶ自然人の態度であって、ヨオロッパ人が知っている論理の形式以外に論理はないと簡単に決めるものの繋がりに対する無意識がそこにある。・・・
 象徴の形式で詩も劇も書けるならば、ものを考える時だけこの形式が通用しないということはない。或る言葉が別な言葉と組み合されて我々に一つの動かせない印象を与えるにはそこに論理がなければならず、一つの言葉があって、それが他の言葉と繋るべく四方に手を伸ばしているのを認めることが出来れば、その方向を追うことで三段論法も、ヘエゲルも及ばない微妙な論理が辿れるので、微妙に考えるには実際この方法の他ないのである。・・・我々が例えば、世阿弥の『花伝書』を読んだ後でテエヌの『芸術哲学』を読めば、何か恐しく野蛮で窮屈な世界に来た感じがするのはその為である。・・・
 ここで又ヴァレリィの説を紹介すれば、ギリシャとロオマとユダヤがヨオロッパをなし、それならば、ヨオロッパはその形をなしてから千年ばかりたって漸く文字通りの文明の状態に達したのであり、日本や支那の歴史に照して見ても、それが格段に遅かったとは思えない。併し東と西の違いということになれば、先ずこの年齢の差がものを言う。それがものを言うというのは、本を読んでいてもそれが実際に感じられるということで、二千年も前に成熟した人間がこの二百年ばかりの間に若ものと付き合うことになり、その若ものが今では成熟した。世界の文明史から言えば、そういうことになりそうである。そして成熟したばかりの人間にはまだ若さが残り、成熟した人間が若ものと付き合って若返るということもある。今日の時代に生れてよかったということになりはしないだろうか。
 
 一言だけ言い添えるならば、近代の科学を発達させたのも、勿論この若さであって、従って当然そこには若さにともなう野蛮もある。そして今の医学にも野蛮なところが多いことはあらためて指摘するまでもない。われわれは成熟することによって、野蛮をなくすることは出来ないにしても、少なくとも野蛮を野蛮と感じることは出来るようになるわけである。今なにより必要なことは、そういう感覚なのではないだろうか。