第4章.生きているということ
第4章. 生きているということ
中村稔氏の詩「ふたたび訪れる春に」、
ほそい梢を透明な空にさしのべていた
樹木はじきに芽ぶかねばならぬ。
わさわさと鳴る葉をまとい
その繁みにじぶんを匿さねばならぬ。
じめじめと湿った大地の底で
やがて錆びついてゆかねばならぬ。
うらうらとおだやかな陽差しのなかで
身をかがめて眠っていなければならぬ。
ああ 私たち、
季節の推移に浮遊する蜉蝣のように
つかのまの光にまぎれゆくもの!
蕩々として今日春がおとずれ
ほそい梢を重たい空にさしのべたまま
樹木はじっと立っていなければならぬ。
を引用したあと、吉田氏はこう続ける。
この詩を知って我々はせいぜい辺りが静かになったのを感じる位なものだろうか。そういうものが詩である。その働きは精神の内方に向う為に涙を流すとか小踊りするとか外部にそれが現れることは余りなくて我々は自分の廻りにあるものが世界であることを認めた時と同じ状態に置かれる。・・・
その状態に即して我々に何が出来るのでもない。考えて見れば我々は何をする為に生きているのでもなくてただ生きているのである。又何かするにしてもそれはただ生きていることの一部である他なくて又そうでなければ我々は実質的に何をしたことにもならない。確かに自分が生きていると感じて始めてそれ以外の行為も自分のものになるからでそれなしで何か出来たならばそれをする為に自分を不具にしたことになる。又どういうことをしたということが我々にとってそれ程大事なことだろうか。もし大事なことというものがあるならばそれは生きていて又生きて来たこと、そのことに基いて世界と自分の繋りを知ること、又それを確認することとそれをするのを手伝う経験をすることでそれならばその中に詩に親しむことも入る。(読む領分)
吉田氏の遺稿の一つとなった「読む領分」にはまた大岡信氏の次の詩も引用されている。
すべてこともなげな春の日
この世はまだまだ青く
暮しの隅で
ふくらみはじめる欲望の
なまぐさい芽と意志のひかり
このいきものの哀しみを
あめつちへ捧げるために
男はうめき
女は吟じ
壁は息をつめ
ことばは墓をたてる春の日(「四季の木霊」の一部)
ここで話はいきなり野蛮かつ野暮なところへ飛ぶが、モノーの言うように人間が「宇宙という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている」のであり、人間の「運命も義務もどこにも書かれていない」のであるとするならば、われわれがただ生きているだけ、というのはごく当り前のことになる。動物はただ生きているだけであるのだから。モノーの言っていることは、人間もまた動物であるということに過ぎない。だが、そのことを言うために一冊の本を書かねばならないということは、ヨーロッパにおいては、人間もまた動物であるということは少しも常識となっているとは言えないことを示しているわけである。事実モノーの「偶然と必然」に対する反論は沢山書かれているし、ニュー・サイエンスといわれる動きもモノーの見方に対する反発の一つとも見られるということについては前章で述べた。英国の動物行動学者ソープの「生命=偶然を超えるもの」(原題「Purpose in a world of chance」「偶然の世界における目的」)では本文中に、モノーの著作に対する反論が執筆の目的であることが明言されているし、その序文でも「大部分の科学者たちは、自然界は合理的であり、またそこには或る種の基本となる設計の証拠がみいだされるという「信仰」をつねに抱いている」のだと主張されている。ソープによれば、その主張するところは「自然宗教」が可能であるという意味に非常に近く、理性的な土台をもつ自然宗教にとって可能な唯一の基本はわれわれが科学と呼んでいるものなのだという。「生命=偶然を超えるもの」の最終章(「自然における「精神」の卓越性」というタイトル)において引用されているハイゼンベルグ(量子力学のハイゼンベルグである)の文章は、こういった立場を要約するものとなっている。
価値の問題とは、われわれの行為やルールおよびモラルの問題にほかならない。それはわれわれが生涯を通じて真実の航路をとるならば、船をあやつるのに用いなければならない羅針盤に関連する。この羅針盤自体は諸種の宗教および哲学によって異る名称を授けられてきた・・・しかし私は、これらの形式はすべて、中心的秩序に対する人間の関連性を表現しようと努めているという、明瞭な印象を受ける。最終的な分析においては、中心的秩序、あるいはわれわれが宗教用語でいうところの「超越的存在」は勝利をおさめるにちがいない・・・
西洋人に善とは何か、努力に値するものは何か、また排除すべきものは何かと問うとすれば、彼がキリスト教のイメージや寓話と一切接触を断ってから久しい場合でさえも、その答はキリスト教の倫理的基準を反映していることを、われわれは何度もくり返し発見するであろう。この羅針盤を動かしている磁力−−その源は中心的秩序以外の何であろうか?−−が消滅したとすれば、強制収容所や原子爆弾よりもはるかに恐ろしい事が人類に起こるかもしれない。
殺伐とした話で厭になるが、いきがかり上もう少し続けなければならない。強制収容所や原子爆弾はキリスト教の伝統があるところで生れたわけで、キリスト教に基づく善の観念や倫理の観念がこういった野蛮を防ぐ力がないことはすでに証明されているわけであるが、そんな上げ足を取るようなことを言わなくても、そもそも善の観念などというものが必要なのだろうか。善の観念や倫理観といったものがなくなったら、この世は地獄と化してしまうのだろうか。むしろそんなものがあるから、この世がおかしなことになるのではないだろうか。少なくとも、ロレンスはそう考えた。吉田氏もこう言っている。
そのお茶に来てくれた時にこつちはどうも自分には良心というものがないと思うと言った。大概の若いものが考えたり言ったりすることであるが、それだけでは話にならないので寧ろ自分の基準は見事であるか醜いかというようなことにあると付け加えた所がルカスが椅子から体を乗り出した。或は乗り出したのよりもいきなり体を起した感じだった。そしてそれがギリシャ人が標榜したことなのだと言ってその時kalosk'agathos という言葉を始めて聞いた。日本の理想もそこにあるのだということを解ってくれたかと思えば今でも嬉しい。(F・L・ルカス「交遊録」)
ボオドレエルの手記の一節の「真実の文明の説。我々が真実の文明と呼べるものはガスの器具にも蒸気機関にも、又霊媒の卓子にもない。それは原罪の痕跡の減少にある」という文は、素直に、われわれが原罪といわれるものを少なくしてゆくことが文明であるという風にもとれるけれども、また、われわれが原罪という意識を持たなくなることが文明なのであるという風にもとれる。原罪意識というのがキリスト教社会に特有の野蛮であるという見方も出来るからである。
科学あるいは科学の発想の根幹は西洋に特有のものである。キリスト教もまた西洋の背骨である。ソープも言うように自然界には秩序があるという見方は確かに科学の背景となるものであり、その見方がキリスト教の自然観と深くかかわっていることは確かであるけれども、だからといって、われわれが自然に秩序があると信じることと、キリスト教の倫理を受けいれることの間には無限の距離があるとしなければならない。事実、モノーのように、科学をつきつめてゆくことによってキリスト教的倫理を支持出来なくなり、そのことに困惑しているものもいる。モノーは、科学者として科学としての事実の積み重ねによって人間には何の目的もないこと、従って、当然人間にア・プリオリに課せられた倫理などないことを発見する。一方、キリスト教社会に育った人間として、モノーは自分の結論が倫理の基盤をつき崩すものであることに途惑っている。
キリスト教的倫理観などというものが本当にわれわれにとって必要なのだろうか。われわれ人間もただの動物であって、生きることには何の目的もないことを認めることがそんなに困ったことなのだろうか。そもそも、われわれ人間が動物であるということが、科学によって教えられなければ気が付かないことなのだろうか。こういうことを考えてゆくと、われわれはそこにどうしてもヨーロッパの歪みというものを見出さざるを得ない(吉田氏に言わせれば、それはヨーロッパ固有の歪みではなく、ヨーロッパ十九世紀の歪みなのであるが)。そして医学の世界においてもまた、そのような歪みは顕著に表れている。あるいは、別の言いかたをして、医学の世界はそのような歪みの最も表れ易いところなのかも知れない。
医学の世界においては、病気は(ここではこころの病気は考えないことにする)肉体のできごとと考えられ、肉体は究極的には物質の問題として論じることが出来るということが前提とされている。そして物質には生命が無いわけだから(テイヤール・ド・シャルダンのような立場をとるなら別であるが)、実は医学の世界には生命が登場する余地はないことになる。例えば、ある患者さんの診断をどのようにつけるかということについては、その患者さんが生きているか死んでいるかということは大きな問題とはならない。現代の病名診断の最大の根拠となっている病理組織診断は、そのために採取された組織片が生きている人間から得られたものか、死んだ人間からのものかを全く顧慮しない。現代医学は著しく死体学に傾斜している。
しかし、これはどう考えてもおかしなことである。そもそも人間が生きているということが医学の前提ではないか。しかし物質の言葉で語る限りそこに生命が表れてこないというのは、ヨーロッパで生れた科学のやり方でゆく限り仕方のないことなのである。科学のやり方での医学においては、人間が動物であるか否かという問題さえ登場せず、人間は生きたものでさえない。勿論、病気を肉体に生じた物質の問題としてあつかうという立場は人間が動物であるということを前提としてはいる。しかし、こころの問題はどこかに預けたつもりで、安心して物質としての病気をあつかっているのであるから、人間が動物であるとすることから生じてくる問題をつきつめて考えることが医学の場でなされることはない。医学は物質の問題をあつかうのかも知れないが、医学を離れ医療の問題になれば、物質の問題からは漏れてくる部分も当然生じてくる。例えば、
こころの問題とか、人間が生きているとかいう問題である。そういう問題には各人の良識というか常識というか、とにかく、そういったもので対応することになっているが、現代の良識とか常識とかいったものが人間が動物であるということとぶつかることがないのかどうかについては、余り真剣には考えられていないようである。モノーはその「偶然と必然」のなかで、「現代社会は、一方では科学のおかげで得たすべての力で武装し、すべての富を享受しつつ、他方ではまさにこの科学によってすでに根元を掘り崩された古い価値体系にのって生活をつづけ、それらの体系を教えているのである。・・・西欧諸国の《自由主義》社会は、その道徳の基礎として、ユダヤ=キリスト教的宗教性と、科学主義的進歩主義と、人間の《生まれつきの》権利への信念と、功利的実用主義とを、混ぜあわせた胸の悪くなるような代物をいまだに口先で教えて入るのである」といっている。医学の世界においてもまた、物質の言葉では対応できない場面においては、その時々に、功利主義やら、生まれつきの権利やら、時には宗教的な言説やらを適当に使いわけてその場をしのいでいるように見える。それらはいずれも医学の世界に固有に備わったものではなく、そとからの借りものである。医学自体は価値の世界にはかかわらないので、そういったことには関心を持たなくて良いということになっているらしい。
モノーの言うように科学がこれまでわれわれが自明と考えてきた価値観を崩すものであるのなら、医学も当然そのような動向のそとにいるという訳にはいかなくなる。人間が人間以外の動物と特に変るところのない動物であるとすれば、人間の生れつきの権利を無前提的に認めるということは出来ないし、また宗教もその根拠を大巾に失う。モノーは科学の立場で、すなわち物質の言葉で生物をそして人間をみている。その立場から見れば、倫理とかいったものが根拠を失うのは当然なのである。物質からは生きているということは説明できないのだから。モノーの「偶然と必然」も、また例えばシュレディンガーの「生命とは何か」も、物質から生命を見ようという試みである。しかし、そこで示されているのは結局、生命の物質的側面であって、生きているということではない。モノーの言うように科学の成果は、あるいはそんな大袈裟なことを言わなくても人間が一箇の動物であることを認めることは、われわれの価値観を根底から崩すのかも知れないが、逆に人間が生きものの一種であることを認識することが、われわれの価値観を支えるものともなるかもしれないので、問題はわれわれが生きているということに戻ってくる。そしてその生きているということは医学からは無視されているのである。
さて、吉田氏に言わせれば、詩に親しむことも生きていることであるが、また酒を呑むことも生きていることである。
本当を言うと、酒飲みというものはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどいうのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変って少し縁側から中に入って暑さを避け、やがて日がかげって庭が夕方の色の中に沈み、月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向って飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(酒宴)
どうもこういったところばかり引用したがるのは困ったものである。第一、こんな飲みかたをしていたら肝臓病になってしまうのではないだろうか。こちらも素面の時は、患者さんにそんなことを言っているような気がしないでもない。しかし、なに、本気ではないのである。肉体という物質におこりうる現象の可能性について患者さんに説明しておくのは医者の義務であるという一般常識に一応従っているだけである。酒を飲んで肝臓が悪くなるのは、酒呑みの本望というものではないだろうか。一日五合ほど毎日呑んでいれば二十年もすればまず確実に肝臓がいかれるというのは何の価値も含まないことである。このことをどう考えるかには医学は関知しないことになっている。確か、酒も煙草も女も知らず百まで生きた馬鹿がいる、とかいう都都逸(だったかしら)もあったようである。とにかく、酒の話に肝臓のことをもちだすなどというのは何とも野暮なことであった(だから医者はこまる)。やっと話が少しは人間らしいところへ移ったばかりなのだから何とかその線を維持しなければならない。
それで、生きているということである。あるいは人間らしく生きるということである。われわれが小説を読むのも、あるいは紀行文や伝記を読むのも、詰まるところ、人間が生きていることに関心があるからに違いない。例えば、向田邦子氏の「あ・うん」における男と男の友情あるいは男と女の愛情というものは、確かにこの物語によってしか表せないもので、それは「雪国」の駒子と島村でも、「長いお別れ」のフィリップ・マーロウとテリー・レノックスでも同じことである。こういう例を挙げて行けばきりがない。他の言葉で代用できないと言うことは読むしかないということで、それならば、これらの作品を読んでいないひとにとっては、上の例は何の意味も無いことになる。そこで、ここにも人の生があるということで、詩をいくつか掲げてみることにする。いづれも天野忠氏のものである。
神さまについては
彼女はさんざん苦労したつもりだった。
宗教詩人として
文芸界ニュースのはしっこにやっと載るほど
彼女は有名になったから。
精根はたして六十三年
きつねのちゃぶくろの群生を見ていて
養老院の庭で ぽっくり倒れた
ミス・シドンズ
その名を知る人ぞ知る。
遠縁にあたる歯ブラシ屋のハメット氏は
スノウマン印特製歯ブラシの包み紙に
彼女の宗教詩(中でも一番短い)一篇を印刷することを
神かけて誓った。(「詩人」)
また、
病気が癒ってしまい
すっきりした腹の上に
新しい晒しをくるくると巻いて
せったをはいて
看護婦さんに仁義をきって
あばよッ
と出て言ったが
裏門から入って来た霊柩車に
轢かれて死んだ
萬(よろず)幸多郎・・・
押えると
直ぐ死ぬ虫のように
彼は生きた。(「虫」)
ここに描かれたシドンズさんや萬幸多郎氏も、ぽっくり倒れたり霊柩車に轢かれたりする以上は、医療と何らかのかかわりはもつかも知れない。しかし、それはお坊さんがお経をあげるのと何ら変るところはないという気もする(シドンズさんの場合は、牧師さんが何かするのだろうか)。そういう、お坊さんの代用としての医療というのも、現実ではとても大きな役割をはたしている。だがそれは、科学としての医学とどのようなかかわりを持つというのだろうか(勿論、萬幸多郎氏のお腹の病気がすっきりと癒ったのは近代医学の輝かしい成果である)。シドンズさんの生涯も萬氏の生涯も徹底的に無意味であるかも知れない。それは人間もまた一箇の動物であって動物の生に意味とか目的とかは無いからであるが、同時にその生は確実な一つの生でもあって、それは動物の生がそのようなものであるからである。そこに科学だの医学だのというものが入ってくる余地はない。
ひとが生きていることを示すものとして詩を引くと言った。この二つの詩はその例として少し暗すぎるだろうか。「詩人」は、「意地わるで、しゃれている。皮肉で、心がやさしい」(丸谷才一氏の評)ということはあるかも知れないが暗いものではない。「虫」はほとんどライト・ヴァースとも言うべきユーモア詩である。そういうものを材料に、医学を論じるなどという無粋なことをするから何となく話が暗くなってくるのであった。医学などというのはどうでもいいので、生きていることの方が大切である。それならば、こういう詩はどうだろうか。大岡信氏のもので題も「ライフ・ストーリー」という。
一羽でも宇宙を満たす鳥の声
二羽でも宇宙に充満する鳥の静寂
この二行詩に言われていることは、全くここに言われている通りのことで、何もつけくわえることは無いが、「ライフ・ストーリー」という題のごとく、われわれが人の生に感じる手触りといったものが確かにここにはあって、人の孤独、あるいはその裏返しとしての人と人との結び付きが、われわれの前に具体的な言葉として示されている。だからこの詩をエロティックと評してもそれ程見当外れとは言えないので、そこから大岡氏の別の詩の「ひと晩じゅう/眠らなかった者たちに/昨日と今日の境目が/あっただろうか/ふたりは天を容れるほらあなだった/そこに充ちるマンダラの地図だった」(あかつき葉っぱが生きている)という部分を思い出してもいいし、それが少し極端であるのなら、マシュー・アーノルドの「 Ah,love,let us be true / To one another!」 を思い出してもいい。そのどこにも人の生はある。そして、ふたりがひと晩じゅう眠らないのも、アーノルドが妻に Ah,love! と呼び掛けるのも、ともにホルモンのせいではないのだから(それが全然関係ないとはいわないけれども)、科学はひとの生には関れないのである。男が女に惚れるのはホルモンによるのかもしれない。しかしホルモンは一人の男がなぜ特定のあの女に惚れたのかは説明してくれない。もっともオトコはオンナなら誰でもいいという傾向があるのだそうで、そういうオトコの貞操観念の欠如(?)には立派な科学的な根拠があるということについては、デズモンド・モリス以下動物行動学の大先生がたが膨大な事実の蓄積の上に詳細かつ厳密に証明してくれている。(要するに、オスがそのような傾向をもっているほうが種は繁栄するということである。それが難しい数学を駆使して説明されているのだが、内容は全部忘れてしまった。まあ、結論だけ覚えていれば、それでいいのである。男は種のために遊んでいる、とかいう科白が太宰治の小説のどこかにあったのではないだろうか。)その点では、科学というのもなかなか馬鹿にしたものではない。しかし、それはオスとメスの話である。人の生ということになればとてもそんなものではない。だから「あ・うん」であり「長いお別れ」なのである。
だが恋愛ということになれば、
女人が指の血をもつて岩に歌を書きつけるといふ仕打は、文学の目にはなにかの象徴のやうに見えるかも知れないが、これは恋愛の現実であり、また恋歌の骨法となる。死んでもあきらめない。ひでえ執念である。恋愛の流血はただちに人間の生活の場にそそがれる。男女を逆にしても、この力学的関係には代りがない。ただし伊勢物語の男は足はやくさつさと行きすぎる。これはあきらめたどころか、恋愛生活の変位といふことなのだらう。「わがせしがごとうるはしみせよ」なんぞとあぢなセリフをのこして、ドン・ファンの貫禄、一箇の女の流血を踏まえつつ、死ぬやつは死ね、あとふりむかず、行くさきざきに女あり、すべての柔媚なる指を食ひつくし、食つてしまつたものに未練は微塵も無いといふ気合はけだし陽根の栄養学である。この器官はそれの構造に於てあたかも身体の他の部分から解剖学的に自由であるかのやうに見受けられる。陽根の運動は必ず倫理的に無法でなくてはならない。それゆゑに、恋愛といふ肉体の操作はただちに精神の場に乗りこむことができる。精神上の恋愛といふ観念およびその実現は、つひにこれ男子のものだらう。たとへば、プラトニック・ラヴといふごとき陽根否定のチンピラ精神にしても、やつぱり男子の、ただし男子の心情の発明に係るやうである。心情上のヴィジョンが鰯のあたまぐらゐの神格を現ずることは、むしろ女子の例に属する。女子には御方便にも否定すべきなにものもあたへられてゐない。心情はことごとく女子のものである。心情ほど肉体に密着するものはない。按ずるに、こころのうつろひといふものは肉体エネルギーの微妙なる作用である。「むかしよりこころは君に」といふ女のおもひの、よく三年間の時間的距離に堪へたやつでさへ、たまたま「いとねんごろにいひける人」の奉仕に逢ふと、肉体がついこれとちぎるといふ現象は、どうしても生理の必然なのだらう。浮気という技巧派の策動とはちがふやうである。ドン・ファンは優越的にこの消息を見ぬいてゐる。したがつて、おれが道をつけてやつたんだ、ありがたいとおもつて死んぢまへといふ見識を示すことにもなる。たつたこれだけの、むかしの物語の一節でも、事が恋愛にかかはると、肉体と心情はてきめんに精神と生活との二重の場に於てもつれあふ。後世に至つては、世の中の仕掛けとか男女のヒステリーなんぞまでここにどやどやと割りこんで来るのだから、恋愛の身上相談といふやつは、事態錯綜、いつまで行列に立つてゐても解答が配給される日は無い。とても道徳ごときものの口出しをする席ではないだらう。死んぢやいなさいといふのが、なるほどもつとも早い、つまりもつとも親切な忠告かも知れない。精神は永遠にこの処理に手を焼く仕儀となる。といふのは、肉体と心情との結託はならびに不埒にも精神にたたかひを挑んで来るものだからである。
凄い名文である。勿論、吉田健一氏のものではない。吉田氏はどうも恋愛音痴の兆しがあって、こと恋愛ということになると、えらく観念的になる傾向があった。だから、この文を書いた石川淳氏は、吉田氏の小説「絵空ごと」を書評して、「すでに都市のまんなかに、せつかく人工の新館が建つたのだから、ここに然るべきものを迎へてもよささうにおもふ。エロスである。このサロンには女性もあらはれるが、これはどうも男性の同類といふ嫌疑があつて、うつかり手もにぎれまい。他のなにかをもつておぎなはなくても、十分にホンモノであるやうな、肉を取つた女。さういふものを配置しては精神の構図にヒビが入るといふこともないだらう」と言って、からかっている。「絵空ごと」に出てくる女性は、それぞれの男の belle amie (情人とでも訳すのだろうか)ということになっていて、結婚などという無粋なことはしていないのであるが、フランス語をしゃべったり、アンデルセンがどうしたとかアナトール・フランスがこうだとか言ったりする、本当に手も握れそうもないものたちである。それで、「牧田さんは夜になると顔が一層蒼ざめて眼と髪が昼間と違った色になり、そして却って声が生き生きして来た。それで例えば人間がどれだけ丹精を込めた器具でも人間には及ばないことが解り、勘八はどうかすると息を呑む思いをすることがあってその牧田さんを抱くというのがどこか遠い所にあることのような気がした」といったことになる。だが、男が女を抱くのにこんな理屈をこねる必要があるのだろうか。どうもこういった描写は観念的であるという気がして仕方がない。まあ、誰にでも得手不得手というのはあるので、こういった分野は吉田氏の得意とするところではなかったということなのであろう。そして勿論、石川淳氏のいうことが正しいということでもない。とにかく、恋愛ということになれば、精神だとか、心情だとか、あるいは肉体だとかいったものが、ごちゃごちゃと絡んできて、理性とか知性とかいったもので解決するというわけにはなかなかいかなくなる。とすれば、エピキュリアンとしての吉田氏はそんなものは敬して遠ざけるということなのであろう。酒のいいところはそういう心配をしなくていいところである。詩もまた同様である。
この章も段々収拾がつかなくなってきた。最後に、医学とは何の関係もないが、中村稔氏の詩でこの章を始めた関係上、終りも中村稔氏の詩から吉田氏の愛唱してやまないものを引用して終ることとしたい。「海女」という詩である。
りんりんと銭投ぐを止めよ
さうさうと
かなしみわたる ゆふぐれの
岩うつ波に 瞳をうつせ・・・
見よ
海は海女くくるそこ
うつばりの 白きはいかに
いま たそがれ 風あふれくる
舟舷の きみしく揺るる
ああ
波に 消えてゆくひと
こんぜうの海のとぎれに
颯々の風の逸ぎへに
沈みゆく 肩 あかきくちびる
海はしも よひの明るさ
なめらかの肌に水沫きて
海そこに 波か立つらむ
岬めぐる
新潮たえて
ひとよ
りんりんと銭投ぐを止めよ
絶品である。こういう傑作を前にすると、やはり詩を読む楽しみというのは女の楽しみよりずっと濃いと思えてくるのでは無いだろうか。