第5章.カール・ポッパー (アンチ吉田健一・その一)

 
   第5章.カール・ポッパー
      (アンチ吉田健一・その一) 
 
 ここで医学と吉田健一からしばらく離れて(とは言っても、今までもそれ程くっついていた訳でもなかったかもしれないが)、現代イギリスの哲学者カール・ポッパーについて論じてみたいと思う。ポッパーが西欧思想の一つの極北を示しているというのが、ここでポッパーをとりあげる一つの理由である。その他の理由については、以下の文章が自然に明らかにするだろうということにしたい。
 吉田氏は学者の書いた文章はまず読まなかったそうである。学者の書いた文章は読めたものではないから、というのが、その理由であったという。吉田氏の著書のなかでとりあげられた哲学者はベルグソンだけではなかっただろうか。(ヒュームについてはしばしば言及しているが、文明人としてのヒュームであって、哲学者としてではない。)そういう点でも、観念論を嫌うという吉田氏の立場は徹底していた。多分、吉田氏にとっては、ベルグソンは哲学者ではなく、文学者であったのだろう。従って、当然のこととして、ポッパーの著作も読んではいなかったものと思われる。ポッパーの中には吉田氏が西洋の野蛮として斥けた要素が随分とある。河上徹太郎氏による自然人と純粋人という区分に従えば(「例えば赤い林檎を見て、「この林檎は赤い。」といった場合、自然人は純粋にそれだけを意味しているのに対し、純粋人は「その陰は紫だ。」という意味を必然的に含んでいるのである。」)、ポッパーは明らかに自然人であり、しかも、自然人であることに何ら引け目を感じておらず、むしろ自然人であることが西欧の特徴であり、誇るべき優越点であるとしているように見える。「花伝書」の文体とか、象徴詩の技法でなければ表せない哲学といったものには、ポッパーは一顧だにあたえないし、むしろ退嬰的で堕落したものとして排斥するのである。
 吉田氏とヨーロッパとの関係については、既にこれまでいろいろと論じてきた。また、吉田氏が西欧のものの考えかた、なかでもその合理主義の信奉者であることも既に述べた。ポッパーもまた西洋合理主義の熱烈な擁護者である。しかし両者の合理主義に対する態度はかなり異なっている。吉田氏が合理主義を信奉しながらも、合理主義が野暮あるいは野蛮に通じる可能性を秘めていることをも同時に認めており、合理主義と優雅の両立という希有なことが成就した時代としてヨーロッパ十八世紀を讃美はするものの、単に優雅ということだけならばヨーロッパよりもむしろ東洋あるいはイスラムの文明のほうに軍配をあげるのに対し、ポッパーは合理主義と自由主義(ポッパーによれば、それは合理主義と不可分の関係にあるのであるが)のゆえに、現代ヨーロッパを人間の歴史の中で最良の時代とするからである。「推測と反駁」の中の一章「われわれの時代の歴史−−楽観主義者の見解」においてポッパーは、現代西欧社会には重大で深刻なさまざまなもめごとがあるのは事実であるし、また現代西欧社会がありうる最良の社会でないことも確かであるけれども、それでもこの社会はこれまでのところ人類の歴史の進行中に存在した最良の社会であると主張している。というのは、ポッパーによれば、現代西欧社会における以上に人間が人間として尊敬された他のいかなる時代もないし、他のいかなるところもないからである。人間的権利と人間的尊厳もこれほど重視されたことはかってないし、これほど多くの人が他の人びとのために(特に、自分より不幸な人びとのために)大きな犠牲を進んで払おうとする気になったことはいまだかってなかったと言える、そうポッパーは述べる。 これに対して、吉田氏は何と答えるだろうか。両者が目標としているところは、それ程異なってはいないという気がする。また、政治的な考えかたについても、吉田氏とポッパーにはそれ程大きな隔たりはないように思われる。本章のタイトルには「アンチ吉田健一」というサブタイトルがついているけれども、政治についてなら、この二人のあいだにはおそらく大きな意見の食い違いは生じない。意見の違いが生じるであろうと思われるのは、科学について、あるいは科学と合理主義の関係をどう考えるかについてである。ポッパーの政治や思想についての考えかたは極めて興味あるものであり、また、それと吉田氏の思想との異同も面白い問題であるが、本書はとにかくも医学論を標榜するものであり、また、ポッパーも科学哲学者として一番良く知られているのであるから、以下は主として科学についてのポッパーの考え方について議論することとし、政治や思想については必要な範囲で簡単に言及することとしたい。
 「哲学的諸問題の性格と科学におけるその根源」(「推測と反駁」所収)において、ポッパーは、まともな哲学の問題はつねに哲学の外部に存在する切迫した問題に根づいていなければならない、そのような根と切り離されると哲学は堕落してしまうと述べ、外部の切迫した問題に基づいた哲学の例として、プラトンイデア論とカントの認識論を挙げている。ポッパーによれば、プラトンイデア論は、デモクリトスの原子論と無理数の発見の間の矛盾を解決するものとして構想されたのであり(算術的にではなく、幾何学的に世界を理解するやり方)、カントの認識論も、ヒュームの認識論とニュートンによる万有引力の発見の間の矛盾(ヒュームによれば人間は真理に到達できるはずはないのに、ニュートンが真理を見出したという矛盾)を解決するものとして提案されたのである。いずれも外部の切実な問題に対する解答たることを企図したものであり、したがって、まともな哲学ということになる。それならば、ポッパーの哲学はどのような外部の問題に答えるものなのだろうか。一言でいうならば、近代ヨーロッパにおける非合理主義の台頭に対し、合理主義を擁護するというのが、ポッパーのつねに念頭にある問題意識であるように思われる。ポッパーが科学を重視するのも、そこに合理主義の問題が最も鮮明な形で表れるからなのである。つまり、ポッパーにおいては合理主義と科学は緊密に結び付いており、決して切り離して考えることが出来ない。これに対し、吉田氏においては合理主義はむしろエピキュリアンティズムといったものと結びつくのであって、科学とはほとんど接点を持たない。
 もう一度、吉田氏の科学に対する見方をふりかえってみよう。既に一度引用した吉田氏の文には、「科学の世界でのことは凡て手段であって・・・」という部分があった。こういう見方を、ポッパーは科学理論に関する「道具主義的見解」として批判する。ポッパーによれば、それは「科学理論は計算規則にほかならない。あるいは「純粋」科学というのは誤った呼び名であり、科学はすべて「応用」科学である」といったテーゼとなる見解である。ここにも既に表れているように、ポッパーが問題にするのは、科学がわれわれの実生活にどのような恩恵をもたらしたかということではなくて、何よりもまず科学の理論なのである。もう少し具体的に言えば、それは例えばケプラーからニュートンをへてアインシュタインにいたる宇宙に関する理論の進展といった問題なのである。ところが、こういった点は、吉田氏においては全くといって良い程問題にされない。両者の問題意識は全然かみあっていないように見える。ニュートンあるいはアインシュタインがその宇宙理論を展開したのは、月まであるいは火星までロケットを飛ばしたくて、そのための手段、計算規則を手に入れたかったからなのであろうか。確かに、月まであるいは火星までロケットを飛ばすためにはニュートンあるいはアインシュタインの理論が必要である。しかし、どのように考えても、そのためにニュートンアインシュタインが自分の理論を展開したとは思えない。その点から言えば、吉田氏の「科学の世界でのことは凡て手段であって・・」という原則は、いつでもどこでも成り立つとは言えないことになる。だがそれならば、あらゆる科学者はニュートンアインシュタインのように宇宙に関する理論を求めているのかと言えば、それも正しいとは言えないであろう。
 ここでどうしてもポッパーの思想のキー・ワードの一つである「真理」という言葉を持ち出してこなければならなくなる。(ヤンマーの「量子力学の哲学」の中に、「ポッパーにとっては真理なるものを第一位とするか第二位にするかがこの世のあらゆることにもまして重要なのである」というボイルの言葉が引用されている。)真理というのは吉田氏の著作の中にはまず現れない言葉である。一般に、文学作品の中で真理という言葉を目にすることはほとんどない。文学者がもとめているのは、真理といったものとは別の何ものかなのである。科学について論じるとき吉田氏は事実という言葉を用いる。科学は事実を求める人間の活動であるという。だが、ポッパーにとっては、科学はわれわれの世界についてあるいは宇宙についての真である理論を求める人間の活動なのである。この違いは何なのだろうか。おそらく、吉田氏の科学観はわれわれが常識的に抱いている科学観に近い。そういう科学観においては、科学と神話的説明(天変地異をゼウスやポセイドンの怒りで説明するといったやりかた)は厳しく対立するものである(神話的説明は「非科学的」である)。ところがポッパーによれば、神話的説明も科学的説明(例えば地球物理学による)も、われわれのまわりでおきる現象を説明しようとする人間の努力という点においては同等なのであり、ただ科学的説明が神話的説明と異なるのは、科学的説明が批判的に検討しうるというただその一点においてだけなのである。そして、何故、科学的説明が批判的に検討しうるかといえば、それは科学的説明が事実とぶつかるからなのであるが、そしてその点で科学は事実と関係してくるのであるが、批判的に検討するということがなければ、そもそも科学と事実の関係ということも生じようがないのである。批判的検討が可能となる前提は、ある説明が必ずしも正しいとは言えないという認識である。自分はあることについてこのような説明を提出するが、それは必ずしも正しいとは言えないかもしれない、他の誰かが自分のものよりもっとよい説明を提出するかもしれない、そういう認識が絶対に必要なのである。こういう認識は世界の歴史のなかでただ一度、紀元前数世紀のギリシャでのみ生れた、そうポッパーは主張する。人間の自由あるいは尊厳のためには、このような認識が是非とも必要なのであり、現代西欧社会はこのギリシャで生れた批判的検討の伝統を受けついでいるが故に、人間の歴史のなかで最も優れたものとなっているというのがポッパーの主張なのである。
 科学と神話の関係について検討するため、次のようなことを考えてみよう。デモクリトスの原子論は科学に属するであろうか、それとも神話や形而上学に類するものなのであろうかという問題である。ごく普通に行われている考えかたによれば、デモクリトスの考えは純粋に思弁的なものであり、何ら事実のうらづけを持っていないが故に科学ではないということになる。だがそれならば、これは、世界はゼウスの意志によって動かされているとする説明と何ら変るところがないものなのだろうか。ゼウスの意志によるとする説明は反論不能である。また、ポッパーがあげている例であるが、ある言いかたで唱えるとあらゆる病気を治しうるあるラテン語の文句が存在する、といったことも反証できない。われわれ大部分の人間はそれを信じないけれども、それでもそれは、われわれがあらゆる言いかたであらゆるラテン語の文句を唱えることが不可能であるがゆえに反証できない。だがデモクリトスの理論は、どのようなことをすればそれが正しいか否かを確かめうる可能性があるがゆえに科学につながるものなのである。神話的説明においては真理という言葉が登場する余地はない。あるいは真理は人間の判断を超えている。一方、科学においては、何が正しいかということについて議論しうるということが前提となる。真理は人間の手のとどくものとなっているのである。
 だが、真理ということについては、ポッパーが批判するもう一つの見解、科学についての「本質主義」的見解がある。それは、「真に科学的な理論は、事物の「本質」ないし「本質的性質」−−現象の背後に横たわる実在−−を記述するものである。そのような理論はそれ以上の説明を必要としないし、またそうすることもできない。これらの理論は究極的説明なのであり、それを見出すことが科学の究極的目標である」と要約しうる考えかたである。ニュートンは宇宙に関する究極的真理を発見したのだろうか。あるいは、現在のわれわれはニュートン宇宙論が真理ではなくアインシュタインの理論によっておきかえられたということを知識として知っているから、今度はアインシュタインの理論が真理なのだろうか。それとも、ニュートンの理論が真理ではなくても現実をかなり良く説明したように、アインシュタインの理論も真理ではないが現実をかなりうまく説明する一つの方法にすぎないのだろうか。ニュートンが真理を発見したと誤解したことがカントを誤った思考に導いたとポッパーはいう。あのように正しく見えたニュートンの理論さえも結局は真理でなかったことが明らかになったことは、逆にあらゆる理論が単なる道具であるとする見解をつくりだしてきた。
 実は、アインシュタインの理論は真理ではないが現実をかなりうまく説明する一つの方法にすぎない、という考えかたこそがポッパーが道具主義として批判するものなのである。(吉田氏の見解も一種の道具主義ではあるが、道具主義としては素朴なものといえる。)そして、ニュートンが宇宙に関する究極の真理を発見した、あるいはニュートンは失敗したがアインシュタインはそれに成功したとするような見方が本質主義にあたる。ポッパーはそのどちらの見方も誤りであるとして斥ける。
 道具主義本質主義に代るポッパーの主張する第三の見解とは次のようなものである。科学理論は真理を見出そうとする真剣な試みではあるが、それは正真正銘の推測であって、真であると示すことはできない。しかし、厳しい批判的テストにかけることは可能な推測である。この見解は、科学理論は真理を見出そうと努力するものであると主張することによって道具主義を批判する。何故なら、道具主義においては科学理論は何かの目的のための道具として有用であれば良いのであるから、真理といった言葉が登場する余地はないからである。また、科学理論は推測であると主張することによって、人間が究極の真理に到達しうるとする本質主義をも批判する。こういうポッパーの主張を支えるものが、ポッパーの提案した有名な「反証可能性」の考えかたである。反証可能性の考えかたはもともと科学と非科学の間の境界設定の問題に関して提出されたものであるが、そういうポッパーの論点を「推測と反駁」の中の「科学」の章から、ところどころ引用しながらたどってみる。
 
 当時わたくしを悩ましていた問題は、「どのようなときに理論は真であるか」ということでも、「どのようなときに理論は満足すべきものとなるのか」ということでもなかった。わたくしの問題は違ったものであった。わたくしは、科学もしばしば誤りを犯すし、擬似科学も真理を言いあてることもありうることをよく知っていたから、科学と擬似科学との区別をはっきりさせたいと思っていたのである。・・・
 おそらく、わたくしの問題は、最初、「マルクス主義精神分析、個人心理学のどこが間違っているのだろうか。なぜ、これらの理論は物理学の諸理論、たとえばニュートンの理論、そして特に相対性理論とこんなにも違っているのだろうか」、といった簡単なものだったのである。・・・ (気になっていたのは)これら三つの理論が科学の体裁をとっていながら、実際には科学よりも原始的な神話と共通した部分が多いように思われたということ、言ってみれば、天文学よりも占星術に似ているように思われたということであった。・・・
 これらの理論は、実際上、それらが言及する領域内で生じるあらゆる物事を説明できるように思われた。そのいずれかを研究すると、知的な回心ないし啓示といった効果が生じ、いまだに研究を始めていない者には隠されている真理に対して、新たに目がひらかれるように思われたのである。このようにして、いったん目がひらかれると、いたるところにその理論を支持する事例が見えるようになり、世界はその理論の検証例でみちあふれていることになる。何事が起っても、それは常に当の理論を確証していることになる。かくしてその真理は明々白々に開示されているように見え、それを信じない者は、明らかに、開示された真理を見ようとしない者どもであって、真理を見るのを拒んでいるのは、それがその者たちの階級の利益に反しているか、あるいは未だに「分析」されずに治療を切望しているかれらの抑圧があるからなのであった。・・・(しかし)「よい」科学理論は、すべて禁止を事とするものである。それは、ある種の出来事の起ることを禁ずる。禁ずる事が多ければ多いほど、その理論はよい理論なのである。
 考えうるいかなる出来事によっても反駁できないような理論は、科学的な理論とはいえない。反駁不能ということは(人々がしばしば考えるような)理論の長所なのではなくして、その欠点である。
 これらすべてを要約すれば、ある理論に科学的身分を与えうるか否かの判定基準は、その反証可能性、反駁可能性、ないしテスト可能性である、と言うことができる。
 
 つまり、ある理論が科学的であるならば、その理論は、かくかくしかじかの事実が見出されるならば自分の理論は否定されるという命題をも作りだすものであって、そのような点で、ある科学理論は否定されることはあっても、可能なのは反証のみであるので、確証される、あるいは真理であると証明されることはない、というものである。このような点をポッパーは、科学理論は事実とぶつかるという言いかたで表現する。ある事実についての言明(ポッパーの言いかたでの「単称言明」)が科学において重要であるのは、その単称言明がある科学理論を肯定したり否定したりするする力を持つからであって、単称言明を積み重ねてゆくこと自体は科学とは言えないことに、ポッパーの考えかたからはなる。ところが吉田氏の主張によれば、科学とは物質に関する知識の集積である。物質に関することは各人の主観を離れて客観的で普遍的な認識を得ることが可能な唯一の場所であって、それがつねに普遍をもとめるヨーロッパで発達したということになる。ポッパーもまた、物質に関する知識が客観的で万人に共通のものとなりうることを認める。しかし、それは科学理論を擬似科学から区別する、つまり科学にその身分をあたえる反証を用意するものとして重要なのである。
 医学は科学か、というのはきわめて微妙な問題である。医学が科学であると主張するひとも、医学はポッパーがいう意味での科学ではなくて、応用科学であることは認めるであろう。つまり、何かの目的のための手段としての科学、吉田氏がいう科学に近い科学である。だがこの宇宙がどのようになっているかということがわれわれにとってつきせぬ興味の対象であるのと同じように、生命という不可思議な現象が一体どのようにして営まれているのかということがわれわれの関心をひかない筈はない。また、どのように強弁しても、医学が生命の問題とかかわりがないということはできない。ポッパーにとっても吉田氏にとっても科学は物質あるいは事実とつながることが必要なのであるが、生命が物質の問題として説明しうるかということについて、現在一致した見解が得られると考えるものはいないであろう。また生命は植物にもアメーバにも認められる現象であるが、医学は人間の存在が前提となっている。人間では、単なる生命とは異なるこころの問題も出現してくる。だが、こころの科学と称するものが科学よりも占星術に近いとする見解があるということについては、今ポッパーの引用を示したばかりである。科学をどのように見るかということにつても、決して一様ではないことは、既に見てきた通りである。そして、科学をどのように見るにしても、医学がその科学の枠組の中に入るかどうかはきわめて微妙な問題なのである。
 既に引用した吉田氏の文章の中に「我々の精神が普通に扱っているものが大部分が事実、或は事実とされているものの中でも事実と呼べないものであることに気が付く」という部分があった。こういう言いかたは科学を人間の精神活動の対象としてはあまり重要なものとは考えない、という見方と結びつく。それをポッパーは次のような言いかたで要約する。
 
 ある人々にとって、科学はやはり、大げさにしつらえられた配管工事、機械制作−−「機械学」(力学)−−の類にすぎず、非常に有用なものではあっても、真の文化に対しては危険なものであり、・・・科学はけっして文学や芸術、哲学と同列に論じてはならず、科学が様々な発見をおこなったといっても、それはたんに機械の発見にすぎず、科学の理論もいわば道具−−つまりまた機械装置、あるいはきわめて優秀な機械装置−−なのである。科学は日常的な現象世界の背後の新しい世界をわれわれに明らかにすることはできないし、現にそうしてはいない。なぜなら物理的世界というものはまさに表面の世界であり、深みがないからである。世界はわれわれに見えているとおりのものである。科学理論は世界を説明もしないし、記述もしない。それは道具以外の何物でもない、というのである。
 
 この要約は吉田氏の態度、そして大部分の文学者が科学に対してとる態度、さらにはニュー・サイエンスと呼ばれるひとたちが旧来の正統的な科学に対してする批判をもかなりよく表しているように思われる。そのような態度をポッパーは、「われわれの世界について既知のこと以上に何かを学んだり理解したりすることはできないし、またそうする必要もないという狭量で防御的な信条」であるとして非難する。どうせ世界には新たな発見とか驚きとかいったものはありっこないのだ、という態度であるというのである。文学は、少なくとも詩は、言葉によって世界について新たな発見をしようという試みと言えよう。吉田氏は「文学の楽み」の中の「新しいということ」の章でエリオットの「プルフロックの恋歌」の冒頭を引き、
 
Let us go then, you and I,
When the evening is spread out against the sky
Like a patient etherised upon a table;
 
 本当に沈滞というものがあって、それが長く続いた後に言葉らしい言葉に出合ったならば、その時に受ける印象が新しいというものであり、それが新しさの定義、或は尺度にもなる。
 
 と言っている。また河上徹太郎氏の初期の文章から次のような文も引いている。
 
 おお、アルプスの氷河が浄い花崗岩の岸壁を軋りゆくその接触よ。天上の星の運行の如く、刻々変りゆく貌よ。汝の名は「時間」又の名は「倦怠」! 言葉はその間隙から抜け出て、春孵った羽蟻の如く、次々に昇天して遥か天界なる道理の許へ憧れ赴く。おお、旋回! おお眩暈!
 
 文学での新しさは新しい事実の発見ではない。世界の事物や法則について何が未知であるかということとも関係がない。むしろ、われわれの周りにあってわれわれが当り前に思っており何とも感じていないものの中に別のものが見えてくる、あるいは既知の言葉の組合せではうまく表せなかったものを、別の言葉、別の組合せを発見することにより言い表せるようになる、といった過程と関係している。しかし、科学においては世界について未知なことを明らかにしてゆくことが何よりも重要なことである。ポッパーによれば、世界についてわれわれはまだほとんど何も知らないのであるが、上述の文学者的な防御的信条は、そういう点からわれわれの目をそらし、世界への探求の意欲を殺いでしまうものなのである。西洋文明を構成する最も重要なものの一つは、ポッパーによれば、彼が「合理主義的伝統」と名付けるものであり、これは西欧文明がギリシャ人から受けついでいる批判的論争の伝統なのであるが、この合理主義的伝統においても、科学はそれがもたらした実際的成果による以上に、科学がわれわれに様々な知識をもたらし、われわれの精神を古い信仰や古い偏見、古い確信から解放し、代りに新しい推測や大胆な仮説を提供することができるという点において、一層大きな評価を受けているのだという。
 われわれのこころが、古い信仰や古い偏見、古い確信から解放される、ということについては、吉田氏にも何の異存もないであろう。吉田氏がヨーロッパ十八世紀をたたえるのは、そこに偏見から解放された精神、自由な精神をみるからである。またヨーロッパ十九世紀を嫌うのは、科学に対する狂信的ともいうべき信頼に代表されるような精神の不自由があるからである。問題は、古い信仰や古い偏見、古い確信からの解放をもたらすものがポッパーのいうように科学とつながる批判的討論の伝統であるのか、それとも別のなにものかであるのかということである。
 「ヨオロツパの世紀末」において吉田氏は、ギリシャやローマなどの古代とそれ以後のヨーロッパをはっきりと断絶したものとしている。それを吉田氏はギリシャやローマの文学には後ろめたさというものがない、という言いかたで表現する。あるいは、それは、古代以降のヨーロッパ文学は暗い、あるいは影がさしている、ということでもある。キリスト教による人間の魂の不滅と永遠の地獄の責苦という説教が、それをもたらしたと、氏は言う。というのは、永遠の地獄の責苦を免れるために常に自分を点検しているということが、自分の内面に目を開かせるからであるが、自分の内面を常に見ているということは、結局、自分を見失うことにもつながるからである。
 
 こうしてヨオロツパ人は自分というものをなくしたのである。或はもしなくすことの反対が所有することであるならば、古代では自分というものが光や影とともに、或は山や川とともに明かにそこにあるものであるから人間はそれを点検することも、分析することも、その個から全に思い及ぶことも出来たので、初めから限界があるものを他の初めから限界があるものと区別する必要がなかったからその輪廓がはっきりしていた。それは所有することであるに違いない。そしてそれ故に、自分を知れということに意味があり、これは後のヨオロツパで余り聞かなくなった古代の格言の一つである。・・・もしヨオロツパ人に自分はと聞いたならばその答えは少なくともかなり最近までは自分の魂ということだった筈で、そういう魂というようなことになればそれが何かの形で永遠とか、不滅とか、無限とかいうことに結び付いてしまいにはその行方が知れなくなるが、その他にその魂の持主である自分という事情が生じてヨオロツパ人の精神を支配し、或はこれに特定の働きを与えることになった。
 その働きは古代人にはなかったと確実に言えるものである。そしてそれはヨオロツパ人に特有のものでもないが、自分の魂の救いとか、それが受ける永遠の地獄の責苦とかいうことが常に念頭にあればその魂をどのように考えるにしてもその魂がある自分の行為のみならず、内面の心理の動きさえもがその魂の救いや堕獄に響くということが魂、或は自分というものに対する理解を殊更に深めはしなくても、そうして存在し、活動する自分がそこにいることを一種の生活感情にまで強めないではいない。又事実それは生活感情にその跡を残すものであって、自分がすることなすこと、又それをする自分というものを見守るこの第二の自分が古代の後にヨオロツパ人の意識に加えられた。それは自分ではないが、一度それが現れればそれなくしては自分というものが成立しなくなり、これが自分に就ての一切を彩って、自分の中心はその自分からこの自分を絶えず映しているものの方に移る。
 ヨオロツパ人の場合はこうして自意識が生れた。
 
 吉田氏によれば、このようにヨーロッパはギリシャ・ローマとはほとんど別の文明に属するともいえるのであるが、そのヨーロッパが最もヨーロッパらしくなった時代が十八世紀なのである。そのヨーロッパ人は影あるいは後ろめたさということを知っている。われわれがポッパーを読んで感じる魅力というのは、われわれがギリシャ悲劇に感じる魅力とどこか通ずるところがあるように思われる。ポッパーには影とか後ろめたさといったものがない。吉田氏のいう古代人なのである。ポッパーはギリシャ、ローマとヨーロッパの間に特に断絶を感じていないように見える。むしろ、自意識に足をすくわれている現代の哲学を捨て、ギリシャの哲学が持っていた単純性へ回帰することを主張している。(「ソクラテス以前の哲学者へ帰れ」という論文がある。)そのためには、なるべく主観と係らない客観的な議論が必要だとする。(「認識主体なき認識論」といった論文もある。)物質には影とか後ろめたさといったものはないし、物質はギリシャの時代でも現代でも別に変りはしないのだから、物質が構成する世界をどのように見るかということについてなら、ギリシャから現代までの連続性を主張することは可能であるし、物質について、あるいは物質が構成する世界をどう見るかということについて、二千年以上前と現代とである程度共通の態度が認められる地域といえば、確かにヨーロッパしかない。しかし、自分というものをどう見るかという点になると、この二つは全く別の世界とも見られるという吉田氏の主張については既に引用した通りである。とすれば、吉田氏とポッパーの違いは、心と物との、あるいは文科と理科との相違に再び帰着してしまうのであろうか。
 だが、ポッパーは狭義の科学について、あるいは物質にかかわる科学についてだけ発言する訳ではない。政治の分野については「歴史法則主義の貧困」や「開かれた社会とその敵」といった著作があるし、身心問題はむしろ最近の主要な関心事項といえる位である。ここでは兎に角も医学とのかかわりという点で、身心問題についてのポッパーの議論を検討してみたい。この問題についてのポッパーの主著はエックルスとの共著の「自我と脳」の中のポッパー執筆部分であるが、これはポッパーの著作の中では最も錯綜した単純でない著作となっており、非常にわかりにくい部分が多い。そこで、むしろずっとわかりやすく書かれた「果てしなき探求−知的自伝」のなかの該当部分によってポッパーの論点を追ってみたい。
 人間は真理に到達することは出来ない(あるいは仮に到達したとしても、それを真理であると知ることは出来ない)、ただ出来ることは仮説を提出しそれが反証されるかどうかをテストすることだけであるとするポッパーの考えについては既に述べた。これはもっと普通の言葉で言えば試行錯誤なのであり、試行錯誤という点において生物が進化の過程で示してきた変異と淘汰のアナロジーとして捉えることができるという。勿論、変異は無意識のものであり、われわれ人間が意識的に行う仮説の提出とは異なるものであるが、それが自然に対する生物体の問いかけであるという点においては何ら変りはないと考えるのである。このようにポッパー(特に近年のポッパー)は生物学、特に進化論の枠組のなかで自分の理論を展開しようという考えが強い。その場合、変異と淘汰という言葉でも分かるように、ポッパーの採用する進化論とはダーウィンの理論であってラマルクのものではない。
 身心問題に関するポッパーの考えを知るためには、世界3というの彼の説を理解する必要がある。ごく簡単にいえば、世界1とは物質の世界、世界2とは心の世界であり、世界3は人間の作りだした業績の世界である。その世界3にはユークリッド幾何学とか、ニュートンアインシュタインの物理学、バッハやベートーベンの音楽、プラトンやヒュームやカントの哲学、シェイクスピアゲーテの文学といったものが含まれる。世界3についてのポッパーの主要な論点は、世界3に存在する様々なものは人間の主観から生れたものではあっても、一度生れてしまうと客観的かつ自律的たりうるというものである。例えばユークリッド幾何学は一度生れてしまうと、それ自体のほとんど必然的な展開として非ユークリッド幾何学を含んでしまうというような考えかたであって、確かに非ユークリッド幾何学はリーマンあるいはロバチョフスキーがつくりあげたのであっても、それをつくらせる力はユークリッド幾何学自体の中にあるのだと考えるのである。この世界3はプラトンイデアの世界とどこか通じるところがあることはポッパーも認める通りであるが、プラトンイデアと異なり人間から独立して存在するものではなく、人間が作りだしたものである。しかし一旦作りだされてしまうと自律性が生じるので、地球の上で人間が亡びてしまった後でも、あるいはあらゆる生命が消滅してしまった後でも世界3は残るとポッパーは主張する。世界3についてのポッパーの考えを十分にここで説明しつくすことはできないが、身心問題についてのポッパーの主張は、人間のこころを世界3を産出しそれらと相互作用する一つの身体器官であると考えようというものである。人間が世界3を産出しうる基礎は、人間にのみ叙述的言語の使用が可能であるという事実にある。ということは、人間のこころの生理学的基盤は言語中枢にあるかもしれないということである。
 以上略述しただけでも分かるように、ポッパーは身心二元論の立場にたつ。この点は次章でとりあげるベイトソンの立場と明確に異なっている。また意識と心を区別する。意識の状態はすでに動物にもあるが、心そしてそれと密接に結びついた完全な自我意識は人間にしかないものだという。何故ならそれに必要な叙述的言語をもつのは人間だけであるからである。そこで言葉が問題となる。
 ポッパーは言語を道具と考える。ある理論あるいはある主張を客観的で批判可能な形で提出するための手段と考える。したがってそれは何も自然言語で述べられる必要はなく、場合によっては数式であるいは図表その他どんな形によってでも述べられても構わない性質のものである(数式による表現は勿論、自然言語が背景になっているが)。ポッパーが反本質主義的訓戒と名づけている以下の主張はその立場を明確に表したものとなっている。
 
 言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である。
 
 この主張をポッパーは、今なお自分が現代のほとんどの哲学者と意見を異にしている点であるといっているが、吉田氏ともまた意見を異にするであろうことは一目瞭然である。人間が言葉をもったこと、こころをもったことの意味は、ポッパーによれば、事実についての問題を発見したり解決したりする能力を与えられた点にあるのである。ここでも再び、人間の影とか後ろめたさといった視点はでてこない。
 「ヨオロツパの世紀末」のなかで吉田氏は、「もし哲学に一般の人間にとって取り上げるに足るものがあるならばそれはそこに一人の人間がいてものを考え、その結果が他の人間に言葉で伝えられる時で、当然のことながらその考えが明確であるということはそれが名文の形を取るということと同一であり、こうして哲学は文学の列に加わる。ヒュウムはそういう哲学者の一人である。」と述べた後、ヒュームの文章を引用する。
 
 悟性が悟性だけで、そして又その基本的と認められる各種の原則に従って働いた結果がその働き自体を否定し、哲学上のことでも我々の日常生活に属することでもどんな命題からもその根拠を取り去る。・・・
 こういう悟性の幾多の矛盾やその構造の不備が私を悩し、頭を熱して私はどのような考えも推理も否定したくなり、どういう意見も他のどういう意見より増しともう思えない。私はどこにいて何なのだろうか。何が私の原因でどういう状態に私は戻るのだろうか。
 
 そして、「名文というのはそこに人間の声が聞こえるということであって、ヒュームがその悟性論、宗教論などで哲学というものの限界を示し、そのことに即して哲学にどういう方向を取ることが許されているかを明らかにしたことはその文章と一体をなしている」と述べる。その文章でどのような理論が、あるいはどのような事実が主張されているかということより、それを書いたひとの肌ざわりといったものが感じられることの方が重要なのである。だから、
 
 ヒュウムは、或は十八世紀のヨオロツパ人は数学と存在がそれぞれ違った世界のものであることを苦にせず、ヒュウムも炉に燃えている火やその前に手を翳して受ける温いという感覚が実在するものかどうか解らないままに冬は炉の火を楽み、旨いものを食べることを好み、友達との付き合いで心を温められ、晩年に重症に掛って危篤に陥るとデツフォン夫人を感嘆させた別れの手紙を彼の愛人とも言われているブフレエル夫人に宛てて書いて死に、この無神論物が一向に悔恨の情を示さないで平穏にこの世を去ったことで当時の信心家達を憤激させた。
 
 ということがあれば、ヒュームがどのようなことを述べたかということはどうでも良いのである。
 だが一方、ポッパーにとっては、ヒュームは帰納の問題について重要な貢献をしたという点において重要なのであって、愛人にどんな手紙を書いたかということなど、どうでもいいことなのである。
 ポッパーは自分は帰納の問題を解決したと主張する。帰納の問題とは未来は過去に(きわめて)似ているであろうという信念を正当化するものは何かという問題であり、ヒュームが論じたように、それを正当化するものは何もないのであるが、帰納論理を正当化するものはないと認めた上で、なお科学を擬似科学から区別することは可能か、というのがポッパーの問題意識なのである。というのは、従来、帰納の方法こそが科学を科学たらしめるものであるとされてきたからである。帰納論理を否定した上で科学を擬似科学と区別する、そのための方法としてポッパーが提唱するのが反証可能性の考えかたであるが、ポッパーのこの考えは広く受け入れられているとは言えない。科学を科学たらしめるものは帰納であるし、帰納の論理は正当化されると考えているものも多い。また、あることが真理であると実証しうることが科学を科学たらしめるものであるとしているものも多い。ニュートンの力学がアインシュタインの理論で置き換えられたのと同じ意味で、ポッパーの主張が広く受け入れられるようになるとは考えられない。つまりポッパーの主張は哲学なのであって科学ではない。科学ではないから事実とぶつかることはなく、従って、客観的に肯定されたり否定されたりするということはない。ただ批判が可能な形で提出されているというだけである。ポッパーの哲学はヴィットゲンシュタインの哲学(というのだろうか、反哲学というのだろうか)のアンチテーゼたることを意識していることは明らかであるが、例えばヴィットゲンシュタインの、
 
謎は存在しない。
いやしくも問いを立てることができるのなら、その問いに答えることもできるのである。
 
 とか、
 
 だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。
 
 とか、
 
 本来哲学の正しい方法は、語られうること、従って自然科学の命題、従って哲学とは何の関係もないこと、これ以外の何も語らない、というものである。
 
 とか、
 
 話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。
 
 とかいった言葉にいくらポッパーが反発するにしても、ヴィットゲンシュタインのほうをよしとする人も沢山いるのは事実であって、要するに、科学でないことについては客観的に正しいことなど存在しないのである。
 もし正しいことが存在しないのなら、どんな主張がされているかということよりも、その主張がなされる際、その主張をする人間の精神の運動が、あるいは理性の働きがどのような軌跡をとったかということのほうが真実である、という考えかたも成り立つ。しかし、ある人がある説をなす時、自分が述べていることについて十分に考えぬくことをしないならば、精神も十分な運動をするはずはない。そして、十分に考えぬくためには、自分の述べていることが自分にとって真実であることはどうしても必要なことである。逆に、一人の人間が自分の主張をいくら客観的であり、自分という個性を離れたものであると考えようとも、それが思想であり世界観にかかわるものであるならば、そこに一人の人格があらわれてくるのはさけられない。ポッパーの著作を読んで、われわれはそこに一人の巨大な人格を感じとる(大部分の著作において、自己の内面に関することはほとんど述べていないにもかかわらず)。吉田氏もまた自己を主張するといった趣味を全く持たない人であるが(ごく初期の著作を除けば、氏は自分の著作に一人称を用いることを全くしなかった)、その著作の隅々にまで氏の個性が刻まれていることは言うまでもない。
 ニュートンの「プリンシピア」を読んで、「もし科学に一般の人間にとって取り上げるに足るものがあるならばそれはそこに一人の人間がいてものを考え、その結果が言葉で伝えられる時で、当然のことながらその考えが明確であるということはそれが名文の形を取るということと同一であり、こうして科学は文学の列に加わる」などと言うものはいないであろう。ニュートンの考えが明確でないということはない。しかし問題はニュートンが名文を書いたかどうかということではなくて、その理論である。今日のわれわれはニュートンの理論をいくつかの数式として理解している。その文章など思いだすこともない。だからこそ吉田氏にとっては、科学は一般の人間には関係のないものということになるのかも知れないが、科学がわれわれの生活と関わりがないなどとはとても言えたものではないことは、誰でもみて直ぐにわかる通りである。
 パイスのアインシュタインの伝記「神は老獪にして・・・」はこんな風に書きだされている。
 
 1950年の頃だった。私はアインシュタインのお伴をして、プリンストン高等研究所から彼の家まで歩いていた。彼は突然立ち止まって私にふり向き、月は君が見ているときにしか存在しないと本当に信じているかね、と尋ねた。
 
 このアインシタインの問いは認識論的にはきわめて古いものと言えよう(例えば、バークレィの議論)。これは従来は科学の分野とは関わりのない問いであった。しかし量子力学の発展につれて科学と密接な関わりを持つようになってきた。そして更には、その動向は量子力学の分野ばかりでなく、それ以外の分野にも広く拡がる気配を見せてきた。その一つが、いわゆるニュー・サイエンスないしはニュー・エイジ・サイエンスであり、物質が人間から独立したものであるという認識自体に挑戦している(そのことについては、次章でもう少し詳しく述べる機会があるかもしれない)。ポッパーの哲学は、このアインシュタインの問いに対する常識的な答、月は自分が見ていない時でも存在する、を守ろうとするものであると言えよう。吉田氏もその点はポッパーと同じ側に立つであろうが、月は自分が見ていない時でも存在するかどうか、といったことを議論すること自体馬鹿ばかしいとして斥けるであろうと思われる。その判断のためにはただ常識があればいいのである。だが常識を守るということも一生を賭けるに値する大変な仕事なのだ、とポッパーは答えるかも知れない。
 パイスはこのアインシュタインの問いを、量子力学における最も主要な問題点、われわれはあるものの位置と運動を同時に知ることはできない、の比喩である、とみなしているようである。しかし、今述べたように、もう少し広い文脈での解釈、ものがあるとはどういうことなのか、それがわれわれのそとに客観的に存在するとはどういうことなのか、それは正しいのか、という問題としてもとらえることも可能である。そして、この問いが切実であるのは、次のような主張が現在では極めてポピュラーになっているからである。
 
 科学的方法というものがわれわれに仕掛けた最大のワナは、観察者や実験者がその対象にとっては外的な存在であり、それからは「自立した」存在であるとする暗黙の前提である。これが昔から今に至るまで真実であったかというと、はなはだ疑問だ。この問題について量子力学は非常に明解である。何かを望めば望むものは必ず変化する、とそれは言う。(ライアル・ワトソン「生命潮流」)
 
 もしワトソンのいうことが正しいのなら、吉田氏の科学やポッパーの科学は崩壊してしまう。何故なら、事実のもとになる誰にとっても一定である物質とか、理論を客観的に否定しうる能力をもつ単称言明とかいったものは存在しなくなってしまうからである。勿論次のような論点回避は可能である。量子レベルでは確かに問題かも知れない、しかし巨視的なわれわれの生活のレベルにおいては、物質はわれわれのそとに客観的に存在しうるのであるという言いかたである。吉田氏は人間の生活の次元を離れたことに意味を認めないから、あるいはそういう立場をとるかも知れない(われわれの生活にとって火星の風景などどんな意味があるのか。経験の届かない量子の極微の世界にどんな意味があるというのか)。しかしポッパーは絶対にそういう立場はとらない。ニュートンの理論が正しくなくても、われわれの巨視的生活にあてはまれば良い、という立場をとらないのと同様に。
 身心問題についてのポッパーの見解を論じていた筈であるのに、いつのまにか問題がずれてしまった。しかし自分のそとにある客観的な物質という問題は身心問題と密接に関連する。というのは、認識する主体は自分の外部ばかりではなく、自分の身体をも自分の外部にあるものとして認識するようになるからである。それは即ち、自分というものが身体をも含めた全体ではなく、こころあるいは魂だけになってしまうということを意味する。これをつきつめたのがデカルトの考えであって、われわれは延がりを持つ身体と延がりを持たないこころの、二つの部分に分割される。そしてこの延がりをもつ身体は全くの物質であって、完全な機械として作動する。言うまでもなく西洋の医学はこの機械としての身体のしくみを徹底して追求することによりなりたってきた。だが、その追求がある壁につきあたりつつあるという感じを一部の、あるいはかなりの人が持ちだしつつある。量子力学まで持ち出してのニュー・エイジ・サイエンスの最大の敵はこの身心二元論にあるのであり、その背景としては、科学はいのちをすこしも明らかにしてくれない、あるいは端的に言って、科学はわれわれを幸福にしてくれないという苛立ちがあるように思われる。
 医学が身体に生じた故障を修理するものであるとすると(正しくその方向に西洋医学は進んできたように思われるのだが)、そしてその身体をこころから完全に独立して扱うことが可能であるとすると、医学はその当初の出発点から外れて自律的にすすむことができるようになる。量子について研究したり、ブラック・ホールについて考えたりすることは、われわれ人間の必要から発してはいない。その研究が何らかの形でわれわれの生活を益したりすることは初めから期待されていない。とにかく、われわれにとって未知なことがあり、それを何とか明らかにしたいという好奇心や欲求があるということ、それ以外にこういう研究を動かす力はない(研究者個人の名誉欲とかいったことは勿論あるだろうが)。しかし医学はその出発点が明らかであって、人間の病気あるいは苦痛といったものがなければそれはありえない。しかし、病気であるのは、あるいは苦痛を感じるのは身体ではない。その人あるいは(反論もあるかも知れないが)その人のこころが病気なのである(例え、身体の病気であっても)。もし身体とこころが分けられるとして、そしてある人のこころが完全に働かなくなっており、これからもこころの営みが回復することは期待できないとして、なおそれでもその人の肉体が苦痛を感じているということはあるうる。そしてわれわれは薬物を用いたりしてその苦痛を軽減させたり消滅させたりすることは出来る。しかしそれは医療なのだろうか。
 身体がそれ自体で自閉したオートマティックな機械であるとしたら、そこにこころが介入する余地はない。だが現実にはわれわれはこころと身体が深く結びついていることを知っている。知っているけれども、その上でなお、身体をオートマティックな機械とみなして研究する、そういうやりかたで西洋の医学は進んできたし、またそれにより非常な成功をおさめてきた。そして、それが余りに大きな成功をおさめたために、われわれは身体をオートマティックな機械とみなしているだけなのだということを忘れてしまったようにも見える。身体をオートマティックな機械とみなすという単純化した系においてだからこそ、ある程度の成功が勝ちとられたので、その単純化した系においてもまだまだ成果は不充分でなさねばならないことは沢山ある。そこにこころなどという身体よりも何層倍も手強いものを持ち込んできたら、得られる成果も得られなくなる、そういう考えもあるかもしれない。しかしオートマティックな身体という考えは何か他人ごとのようなよそよそしい感じがすることもまた事実なのである。
 そのような科学がもっているどこかよそよそしい感じ、科学はわれわれにとって本当はどうでも良いことをやっているのではないかという印象、それが近年の科学批判の根底にあるように思われる。しかし一方、いわば科学に血を通わせようという試み、科学を人間的なものにしようという試みは、科学を科学たらしめていた事実との照合という性格を失わせ、科学を容易に擬似科学に転落させてしまう危険をもっていることもまた事実であるように思われる。
 科学を科学たらしめることを信条としているポッパーがこころの問題を扱うやりかたは、従って、通常の身心問題への接近法とはかなり異なっている。ポッパーはこころの問題を心理学的にではなく、生物学的に考える。その前提となるのは生物学的過程は最終的には物理化学的過程によって説明できるとしても、生命のない物質だけの世界には何一つ問題というものは存在せず、問題は生命の発生とともに生れるのであり、いわば生命体は問題解決体なのである、という考えかたである。生命体は自分のそとに問題が存在することを予想して、そして体のなかにそれを解決するための構造を備えて生れてくるとするわけである。ポッパーは生命体は生れつきある期待、具体的には世界には規則性が存在するという期待をもって生れてくると仮定する。この仮定は動物行動学が見出した様々な事実、例えばローレンツによる「刷り込み」(新たに孵ったガチョウの子が最初に目についた動くものを自分の母親であると認識するように生まれつき決められているといったこと)などにより一部支持されるであろう。生命体はそのような規則性への期待に賭けて問題をいわば試行錯誤で解決しようとしてゆくわけであるが、そのような問題解決のために生命体にそなわっている装置が進化したものがこころであると考えるのである。人間以外の動物はいわばいきあたりばったりに世界に問いかけ、問題に答えてゆかなければならない。しかし人間はそれに批判的に検討して対応できるようになった。それがこころの機能であるとするわけである。通常の身心問題で中心となる自我意識、自分というのはこころだけなのか、それとも身体をも含むのか、その関係は、といったことはほとんど顧みられない。
 既に何回も論じたように、人間を人間以外の動物と連続したものとし、人間もまた動物であるということから目を離さないのが吉田氏の特徴であった。ポッパーもまた人間を生物学的にとらえ、こころの問題も進化論的見地から考えようとする。人間が言語をもったこと、特に言語の叙述的側面が、人間を人間以外の動物から非常に隔絶させるものとなっているとポッパーは主張するけれども、それでも人間が言語によって行っていることは、他の生命体が世界にむかって行っていることの延長なのである。ただポッパーの描く人間は目があくまで外に向かう。問題は外にあるわけである。一方、吉田氏によればヨーロッパが何よりヨーロッパらしくなったのは、キリスト教の影響によって人々の目が自分の内側に向いたからなのであった。吉田氏も人間を特別な動物であるとする見方を斥けるけれども、自分の内側を覗きこむ動物は、まず間違いなく人間だけなのである。
 人間の内側、あるいは人間を駆り立てる暗いもの、といったことを、ポッパーはほとんど無視する、少なくとも重要視はしない。例えばこう言う。
 
 わたくしが人間を信じるという場合、わたくしがいっているのは、あるがままの人間を信じるということであって、人間はまったく合理的であるといおうとはわたくしは夢にも思わない。人間は感情的である以上に理性的であるか、それともその逆であるか、といった問いが発せられるべきだとはわたくしは考えない。そのようなものを秤量し比較するすべはないのである。人間および人間社会の非合理性についての(精神分析学の俗流化から主として生じている)ある種の誇張に対して抗議したい気持をわたくしがもっていることはたしかである。しかし、わたくしは、人間生活における感情の力をよく承知しているだけでなく、それら感情の価値についても承知している。合理的態度の獲得がわれわれの生活における一つの最も主要な目的となるべきである、といった主張をわたくしは決してしないであろう。わたくしが主張したいことはただ、この合理的態度はどんな場合にも−−たとえば愛といった激しい情熱に支配された関係においてさえ−−決して完全には欠如してしまうことのない態度になりうる、ということである。
 
 ポッパーが批判するのは、例えばヤスパースの次のような言いかたなのである。「熱狂的な態度が愛なのであって、このゆえに愛は残酷無情なものであり、そのようなものであってこそ、愛は真に心の底から愛する者によって本物の愛だと信じられるのである。」ポッパーはこういう態度は野蛮人のように振舞おうとするヒステリカルな試みであるといっている。野蛮人のように振舞おうとする、非文明人のように振舞おうという態度はロレンスにもみられた。ロレンスは、理性的、合理的、批判的に考えるということが、動物である人間に本来備わっている生命力を結局は萎えさせ枯れさせてしまうことであると考え、文明人には失われてしまった生命力がまだ未開人には残っているとした。しかしロレンスは文明人だったのであり、そのような思考のはてにいきついた理想が、男と女の間のやさしさといった、ある点からみれば極めて文明的な態度であったということは示唆に富んでいる。ロレンスによれば、キリスト教倫理、それから生じた自我意識が西洋文明からやさしさを奪ったのであるが、吉田氏ならロレンスが批判するキリスト教倫理は十九世紀的なものというであろう。吉田氏にも、激しいもの、熱狂的なもの、忘我的なものはまったく見られない。それは愛といった激しい情熱を合理的態度で制禦しているのではなくて、もともとそのような激しいものが存在しないのである。吉田氏の著作を読んでいると、十八世紀にはそのような激しい感情はなくて、みんな穏やかに過していたようにみえる。本当にそうであったかどうかは知らない。しかし、それが吉田氏の理想だったのである。
 池島信平氏との対談で、池島氏から「恋愛小説でも、ひとつ書きませんか」といわれた吉田氏は、「どうやるんだい、恋愛って」などと言ってあきれられたあと、「注文がきたら、書くかもしれない。勉強してさ。あんなもの恋愛小説読んでもだめだから、人に実験談を聞くんだね。『そのとき、どんな気持がしましたか』『ああそう』なんて。」と答えて、「吉田健一からは、あんまり恋愛は想像できねえなあ。いまのは失言だった」と池島氏に嘆かれている。ポッパーもまた、その自伝で、自分の結婚といったことには一言も言及せず、ひたすら帰納の問題、真理とはどういうことか、量子力学は客観的か、ダーウィン理論と科学との関係、われわれが感じている時間の方向は主観的なものか、とかいったことを倦まず論じ続けるのであるから、この二人の著作から恋愛や情熱といったことを論じるのが間違いであるのかもしれない。
 吉田氏とポッパーは似ているのであろうか。それともやはり、相反するのであろうか。今まで書いてきたことがそれに答えることになっているかどうかはわからない。似ているところがあるのは事実である。それは恋愛に疎いといった点ばかりではない。パイスの次のようなアインシュタインに対する評言もまた吉田氏とポッパーにもあてはまると思われるのである。
 
 彼は非常に自由だったので、理性以外のいかなる形の権威も彼にとっては抗しがたく馬鹿げて見えたのである。
 
 どのようなやりかたで理性を守ろうとするのか、その方向はかなり違っているにしても、理性を擁護するという姿勢においては二人に共通のものがある。
 吉田氏の愛唱する詩人ジュール・ラフォルグの詩に次のような一節がある。
 
 市民達よ、武器を取れ。「理性」がこの世から失われたのだ。
 
 そしてこの一節は次のように続く。
 
 彼が風邪を引いたのは、この間の秋だった。
 或る美しい日の夕方、彼は狩りが終るまで
 角笛の音に聞き惚れていたのだ。
 彼は角笛の音と秋の為に、
 「焦れ死に」するものもあるということを我々に示したのだ。
人はもう彼が祭日に、
部屋に「歴史」と閉じ篭るのを見ないだろう。
 この世に来るのが早過ぎた彼は、大人しくこの世から去ったのだ。
 それだけのことなのだから、人よ、私の廻りで聞いている人達よ、銘々お家に帰りさい
 
 これが吉田氏のいうヨーロッパの世紀末であり、ヨーロッパ十八世紀なのである。
 この詩を河上徹太郎氏は、吉田氏の告別式の時、弔辞として読んだという。