伊勢田哲治 「擬似科学と科学の哲学」

   名古屋大学出版会 2003年1月10日 初版


 偶然、本屋でみつけた本。まじめな科学哲学の本であるが、科学哲学への視座として、いわゆる線引き問題−科学と非科学の間にどこに線を引くかという問題−を主として論じており、その例として、擬似科学の問題をとりあげている。
 いろいろな問題が論じられているが、比較的穏当な科学哲学概論になっている部分が多いので、ここではわたくしと関連がある「代替医療と機械論的世界観」のみを論じることとする。

 代替医療には、ヨガ、カイロプラステーク、マッサージ、アロマテラピーから、ユーモア療法、ホメオパシーまで実にさまざまなものがある。そうではあるが、それにはかなり共通した要素もあって、著者によれば、それは1)全体的視点、2)精神的面の強調、3)自然治癒への信頼、4)古代からの知恵の尊重、などである。著者もいうように穏当な形であれば、正統医学(というのが著者の用語であるが、わたくしとしては西洋医学といったほうがぴったりくる。しかし以下著者にしたがって正統医学という語による)とも両立しうる。しかしカイロプラステークによって腰痛が治ることはあるかもしれないが、癌も治るという主張がでると、正統医学と両立するとはいえなくなる。
 漢方医学はどうだろうか? 漢方薬には実際の有効性があるものはたくさんある。鍼治療の痛みへの効果も広くみとめられている。しかし漢方医療の依拠する理論は、五臓六腑説や気の理論、あるいは経絡といったものである。五臓六腑説は解剖学の知識と両立しないし、経絡も解剖学的には証明できない。
 ホメオパシーは「似たものが似たものを治す」という理論に基づく19世紀はじめに提唱された治療法である。この治療のために必要な物質は希釈して用いるが、使用量は、少量であればあるほどいいとされ、計算すると有効成分は一分子も残っていないほど希釈されたものが用いられる。つまりただの水である。しかし、有効成分の「記憶」は残っているのであり、それが有効に働くのだとされている。これは日本ではほとんどおこなわれていないが、アメリカではかなり有力は代替医療であるらしい。
 薬にはつねにプラシーボ効果の問題がついてまわる。それで二重盲検法がおこなわれる。しかし、鍼治療の二重盲検法など、不可能な要求である。

 代替医療は、正統医学が患部を特定してそこを治療しようとするやりかたを批判する。正統医学は機械論的世界観に基づいているのであり、それを乗り越えることが必要であると主張する。機械論的世界観とは何かをいうのは難しいが、生気論・目的論的説明の否定と、要素還元主義にささえられているということはできるだろう。「魂」というような非物質的で神秘的なもので説明しないで機械的な力のみで説明しようとするやりかたである。
 すべての文明において、伝統的な生物観は生気論的・目的論的である。生物学の歴史は、生気論・目的論的な思考が、機械論的思考におきかわっていく歴史である。生気論・目的論に最終的にほとんどとどめをさしたのが、1953年のDNAの二重螺旋の発見である。そのどこにも生気論・目的論の余地がない。
 このような歴史をふまえるならば、正統医学と代替医療の問題は、機械論的生命観と生気論的世界観の対立が現在にもちこされたものといえる。

 ここでもう一つ問題がある。「相対主義」の問題である。科学は価値中立的であり、客観的であるという見方への反論である。科学もある価値観ももとづいたものの見方であり、人間がもつさまざまなものの見方のうちの一つに過ぎないのであり、他の見方にくらべて特に優れているわけではないとする立場である。つまり科学は自分は合理的なのであると主張するが、科学は決して合理的な営みではないとするわけである。その見方からすれば、正統医学も代替医療もそれぞれに自己を主張する権利があることになる。(進化論も創造科学も同列のものであるという主張もこれに近い)
 当然、相対主義には合理主義の立場からの反論がでる。
 機械論自体は一つの形而上学的立場であって、それ自体を実験や観察で正当化することはできない。しかし、この見方は現在までのところ非常に強力であった。還元主義も同様である。機械論的に説明が可能であれば、まずそれで説明しようというやりかたは今まではとてもうまくいってきた。
 そうであるならば、正統医学と代替医療を同列にあつかうというのは問題であることになろう。

 というあたりが大凡の著者の主張である。代替医療を否定することはないが、今のところ正統医療の有効性のほうがきわめて高いことは認めなければならない、というものである。
 ここで問題がある。正統医療の治療を拒否して代替医療にたよるひとをどうしたらいいかという問題である。多分、正統医療をうけながら代替医療もおこなうひとは現在でもきわめて多いと思われるが、正当医療の側からも代替医療の側からも問題視されることはまずないであろう。正統医療をおこなわず、代替医療のみを希望する場合が問題となる。
 そういう考えは間違っているから、患者がどう思おうとも、正統医療をおこなうべきであるという考えがある。一方では、患者が希望しない医療はおこなってはならないとする考えもある。医療の流れは大きくいって、前者から後者へと移りつつある中間段階であるといえよう。パターナリズムからインフォームド・コンセントへの転換である。もっともインフォームド・コンセントとは自分が正しいと思う治療法を患者にうけいれてもらうための儀式であると思っている医者も多いであろうから、現在でもパターナリズムは脈々として生き続けているのかもしれないが。因みに、水野肇は武見太郎の最大の欠点がパターナリズム的な考えを捨てられなかったことにあるとしている。
 ここで問題は、ある疾患の状態に対して”客観的に正しい”治療法があるのだろうかという点である。A・B・C・・・それぞれの医者で治療法が違うことはありうる。とすれば客観的に正しい治療法はないということになる。A医師は手術を、B医師は薬物療法を、C医師はその併用を主張する。そこにDという人間が「わたしが祈って治そう」といってわりこんでくる。とすると、A・B・C・Dの四者はまったく同じ地平にたっているといえるだろうか? A・B・CとくらべてDの主張はその有効性において同等ではないゆえに、同等ではないというのが著者の主張のように思える。しかし、そう主張することは、客観的な治療成績の比較が可能であるということを前提にしている。機械論的見方はいろいろと有効な手段を提供してきたが、全体論的見方はそうではないというのが著者の主張である。祈りによる治療が全体論的な見方による治療法といえるかどうかは問題であろう。カイロプラステークの信奉者は祈りなんて非科学的であるというかもしれない。しかし、A・B・CとDの間にはなんらかの線が引けるという直感がわれわれにはある。少なくともわたくしにはある。科学と非科学をわけるものがなにかあるという直感である。線引き問題が生じるのはそこからである。直感ではそうだが、もっと理論的にそれを説明できないかというのが線引き問題の出発点である。著者は線引きはできず、90%科学的なXと25%科学的なYという量的な差があるだけという立場である。しかしある問題に対して科学的なアプローチとそうでないアプローチがあるという直感が、この問題のそもそもの出発点ではないだろうか? ある時代には占星術は真摯な科学であった。現代においてはそうではない。なぜなら占星術はあることに対する真摯な答えの追求の中から生まれたものであったのに対して、現在の占星術はそのような態度から出たものではなくなっているからである。
 たとえば、腰骨の歪みを矯正することですべての病気が治る、というような主張には、直感的におかしなものを感じる。病気というものの範囲の広さと複雑さに対して、提唱される方法があまりに単純であるということがそういう思いをおこさせるのではないだろうか? そこには科学的でないものを感じる。つまり真摯に病気の治療をもとめるという態度が感じられず、批判に正面から答えるのではなく防衛的後ろ向きであるとこを感じる。しかし、それならば科学とは?と論じだすと果てしない深淵にいきあたってしまう。しかし、目の前にあるのが途方もない深淵であろうと、科学的な態度というものがあるという直感を捨ててはいけないのだと思う。
 われわれの行っている医療(正統医療?)が非常に多くの文化的偏見に汚染されていることは間違いないであろう。しかし、それにもかかわらず、それは後ろを向いていないということが大事なのであると思う。
 ポパーからクーン、ファイアアーベントにいたる科学哲学者が科学についてとる態度はさまざまである。あるものは科学を擁護しようとし、あるものは科学の傲慢にノーという。
 われわれは謙虚でなければならないけれども、夏目漱石胃潰瘍で、正岡子規結核で死んだ、そういう時代にくれべればささやかであるかもしれないけれども、何がしかの成果を手にいれてきている、そのことまでも否定することはないであろう。
 科学というものをささえているのは”合理性”というものに通じる何かである。われわれはもはや”非合理”であることはできなくなっている。”合理性”というのは人間のもつ傲慢の最たるものであるというものもあるかもしれない。しかし、それにもかかわらず、われわれは”合理性”を捨てることはできない。
 医療の現場には数々の”不合理”がある。”合理的”であるのは人間のごく一部であるにすぎなくて、わわわれの行動はきわめて”不合理”なものであることがほとんであるかもしれない。

 本書のおそらく一番の問題は、合理的という言葉をかなり不用意に使っているように思える点である。合理的であるとはどういうことなのか、というのが一番の問題なのであり、その点が十分に論じられていない点が一番不満な点である。養老氏は合理的であるとは人間の脳の法則そのものであるというであろう。しかし合理的なのは新皮質だけであり、もっと古い脳はきわめて非合理あるいは不合理にふるまうという可能性も高い。ケストラーは「機械の中の幽霊」でそのことに絶望していた。いくら理性が「闘い」の無意味を説いても、古い脳により血は沸き立ってしまうからである。
 医療もまた不合理がうずまく場である。正統医学?西洋医学?がいくら”合理的”に行動しようとしても、相手は”非合理”をもふくむ人間であるということには未来永劫変りはない。しかし、それにもかかわらず、それは合理的であり続けようとすることが尊いのではないだろうか?。
 それともいずれ人間は完全に合理的になって非合理にふるまうことはなくなると信じている人間もどこかにはいるのだろうか?