第7章.こころというもの

 
   第7章.こころというもの
 
 フィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は「最終世界戦争」後の荒廃した地球を舞台としている。既に放射能のため多くの生物は死に絶えてしまっている。人間もまた多くが死に、多くが地球外の惑星へと移住している。しかし、それでも地球に残りたがる少数の人間がおり、政府はそういう人々の移住をうながすため、極めて精巧にできた人間型ロボット(アンドロイド)を移住者に僕として与えている。そのアンドロイドが人間に反逆し、地球外の惑星から地球へと侵入してくる。小説の主人公はその侵入アンドロイドを見つけだし〈処理〉することを仕事としている賞金稼ぎである。アンドロイドはとても精巧にできているため通常の方法では人間と見分けがつかない。しかし一つだけアンドロイドが人間と異なるところがある。それはアンドロイドには極めて低い感情移入能力しかないという点である。アンドロイドはとても知能指数が高いにもかかわらず、うまく感情移入することが出来ない。例えば、「主料理は生ガキと犬の丸煮である」といった言葉をきくと、人間は激しい感情の反応を示すのに対して、アンドロイドではそれが見られない。だからこの小説では、人間とアンドロイドの鑑別に感情移入度測定テストが行なわれている。人間の特徴、人間の人間らしさを示すものは、何よりも感情移入能力にあるという訳である。
 もしも人間の人間らしさがこころにあるのであれば、こころない人間は人間ではないことになり、人間以外の動物でもこころがあるならば、人間に近いということになる。ところで、この小説では、感情移入度測定テストはそもそも分裂病患者のためのテストから発展してきたものであることになっている。その言っていること、やっていることが〈了解不能〉であること、それが現在、分裂病患者を診断する上での大きな根拠の一つとなっている。しかし、だからと言って分裂病患者は人間ではないなどと言えるだろうか。分裂病患者はあまりに人間的であるがゆえに病気になるという考えかたもあるし、分裂病患者の言動は〈了解可能〉であるという考えかただってある。
 精神医学はおそらく現代医学の中で一番混乱した分野の一つである。前章でとりあげたベイトソンが提唱したダブルバインド理論、あるいはレインの「引き裂かれた自己」における分裂症理解と、分裂病ドーパミン仮説までの距離は余りに大きい。ダブルバインド理論によれば、分裂病は人間関係の病であるが、ドーパミン仮説によれば脳内化学物質の過剰である。もちろん、それらを結びつけて考えることも出来ないことではない。分裂病は人間関係の破綻から生じるが、一方それは脳内化学物質の増加をもたらす、とすればよい。しかし、それは結局、心身問題、つまり、こころとからだの間の関係の問題を説明するための様々な説(例えば、中性的一元論や随伴現象説、あるいは相互作用説といったもの)をどう考えるかということに帰着してしまうように思われる。現在の医学、少なくとも西洋医学を支えているのは器質的疾患という考えかた、病気はそれぞれの臓器に生じた異常により生じるという考えかたである。だが、従来、精神疾患のみは、それが脳の病気であると思われていたにもかかわらず、脳に何らの異常も発見出来ないため、器質的疾患という考えでは説明出来ないと考えられてきた。ところがそれが、分裂症におけるドーパミンや欝病におけるカテコールアミンなどの脳内化学物質の異常にもとづく器質的疾患としてある程度までは説明しうると考えられるようになってきた、そのことが精神医学の分野を大きく混乱させている。
 だが、精神医学の問題はひとまずおいておくことにして、感情移入、あるいは、もう少し一般的に言って、思いやりということに戻ろう。「文明の状態は我々が人を人と思うということに尽きる」と吉田氏は言う。思いやりは、人を人と思うということの一部である。だが、そう言っても、ことは簡単にはならない。山川方夫氏に「他人の夏」という短篇がある。その主人公である青年は海辺のガソリン・スタンドにつとめているが、そこに高級車で来たことのある女性にある夜、海であう。女は自殺しかけているようである。その女に主人公はこう言う。「べつに、やめなさい、っていうつもりじゃないんですよ。・・・親父がぼくにいったんです。死のうとしている人間を、軽蔑しちゃいけない。どんな人間にも、その人なりの苦労や、正義がある。その人だけの生き甲斐ってやつがある。そいつは、他の人間には、絶対にわかりっこないんだ、って。・・・人間には、他の人間のこと、ことにその生きるか死ぬかっていう肝心のことなんかは、決してわかりっこないんだ、人間は、だれでもそのことに耐えなくっちゃいけないんだ、って。・・・だから、目の前で人間が死のうとしていても、それをとめちゃいけない。その人を好きなように死なしてやるほうが、ずっと親切だし、ほんとうは、ずっと勇気がいることなんだ、って・・・」 すると、しばらくして主人公の前にあらわれた女はこう言う。「あなたに、勇気を教えられたわ。それと、働くってことの意味とを」 また、大岡昇平氏の「来宮心中」では、男と女が完全に相手の気持を誤解したまま心中してしまう。他人の気持を思いやるなどということは、随分と傲慢な行為なのではないだろうか。時には、相手を無視することが、相手を一番思いやることになることもあるのではないだろうか。 
 曽野綾子氏は「山川方夫全集」の解説で、山川氏のことを、東京人と言い、「東京人は深刻になることを好まないのです」と言って、「あなたとお会いすれば、もう、下らぬ話ばかりでした。下らぬ話というのが、実は私たちにとっては意味があったのですが」と言っている。吉田健一氏もまた都会人、東京人であった。そして、曽野綾子氏の今の文章は、福田恆存氏の「チェーホフ」の中の次のような文章を思い出させる。
 
 チェーホフはとりとめのない談話をたのしみ、成心も目的もない、ただその場かぎりの精神の交流に身をひたしていることが、なによりも好きだった。かれが機智や諧謔を愛したのは、それがいかなる行為の要求もいかなる現実の責任ももたず、なんびとをも傷つけることなく、なんびとをも裁くことがないからである。・・・ひとびとはむだ話においてしか完全にたがいを愛しえぬということを、チェーホフは本能的に感知していた。
 
 こんなことが医学と何の関係があるのか、というものがあるかもしれない。しかし、関係あるのである。医学の分野で用いられる言葉にラポールという言葉がある。フランス語の rapport で医者や看護婦と患者さんの間の関係、つながりといった意味で用いられる。
 
 患者が医療者を信頼し、医療者が自発的な責任を感じ、そこに「愛」がある。そんな出会いを「ラポール」と言うとするならば、ぼくは「ラポール」を感じていた。津川さんへでも、娘さんへでも、ご主人へでもなく、娘さんやご主人が母を看護し見守る目に対してであった。
 
 これは徳永進という若いお医者さんの書いた「死の中の笑み」という本の一節であるが、医療を行う側と医療を受ける側の間には、特にそこで問題になっている病気が重大なものであればある程、何らかの人間関係が生まれざるを得ない。医療者の側が患者さんに好感を持つ場合もあるし、不愉快な感じを持つこともある。患者さんの側の医療者への反応も同様であろう。そしてある場合には、そういう関係が治療の成否に決定的な影響を持つ。問題は、医療者の側と患者さんとの間に形成される関係が、つねに医療者の側が患者さんを支配する、少なくとも、医療者の側が患者さんの上に立つという形でしか結ばれ得ないという点にある。医者の側は患者さんに対し絶対的に強者の立場にある。そこで対等な人間関係など期待できるはずもない。医療を行う側が優位な立場に立つということに関しては、いくつかの側面が考えられる。まず第一は、医療を行う側の医療知識の専有化と、医療技術の高度化ということが考えられる。医療の場で用いられる様々な専門用語、あるいはものものしい機械などは、丁度われわれ素人が量子力学相対性理論不完全性定理といったものに感じる神秘的な感じを、医療に対し患者さんの側に抱かせるのではないだろうか。〈ω無矛盾でしかも帰納的であるような、論理式のどんな集合κに対しても、ある帰納的な集合式γが対応していて、υ Gen γも Neg(υ Gen γ)もFlg(κ)に属していない(ここでυはγの自由変数である)〉というのがゲーデル不完全性定理なのだそうであるが、これが〈数論の無矛盾な公理系は、必ず決定不能な命題を含む〉ということであると解説されても、なんとなく少しは解ったような気はするにしても、本当のところは少しも解りはしない、それと同じような事情が患者さんの側に存在しているのではないだろうか。ゲーデル不完全性定理などというものは解らなくても少しも困りはしない(もっとも、これが解らないと文学も理解できないのだ、といったとんでもないことを主張しているひともいるらしいが)。しかし、自分のからだの中でおこっていることとなれば、話は別である。病気は自分のからだにおきている出来ごとであるのに、自分ではそれをうまく理解できない。然るに、赤の他人が自分以上にそのことをうまく解っているらしい、などというのは、随分と奇妙な状況である。しかも、その赤の他人である医療者の側は、手に入れた情報を必ずしも自分に伝えなくても良いことになっているらしい。場合によっては積極的に嘘をついても構わないことにさえなっているらしいのである。それも自分にとって大切な情報であればある程、嘘は正当化されるらしいのである。自分の命があとどの位であるのか、自分の病気は重症であるのか軽症なのか、ということについては医者は平然と嘘をつくというのは(少なくとも日本では)常識となっている。こんな人を馬鹿にした話があるだろうか。そういう自分にとって一番大事な知識を相手に一方的に専有されているところで対等な関係などが期待できるわけがないではないか。それほど重い病気でない場合には医者は本当のことをいってくれることになっているけれども、医者の言葉が何となく解ったような気はするけれども本当のところは理解できない言葉の羅列であるとしたら、結局のところ病気に関しての医療者の側の優位は続く訳であり、病気が患者さんの外にあって自分のコントロールを離れた出来事と感じられるという事態は改善されない。
 イヴァン・イリイチが展開している現代医療批判は、こういったことと無関係ではないと思われる。イリイチの議論は極めてラディカルなものであって、その批判の対象となっているのは西洋文明全体、産業化社会全体である。従って、医療のみを個別にとりあげて議論することはイリイチの本旨に沿わないところがでてくると思われるが、それでも敢えて言うならば、現代の西欧の医療体制は、病気をも患者にとっての他人ごととしてしまい、患者が病気に対し自律的、主体的にかかわってゆくということを否定するものとなっている、というのがイリイチの医療批判の根底をなす考えかたであるように思われる。イリイチは専門化した現代の医療体制そのものに反対しているので、単に医療者と患者の間に情報が充分に伝わるようにするといったことを求めているのでないことは言うまでもないが、それでも、現代の医療の在りかたがどこか歪んでいる、というわれわれの感じかたをつきつめてゆけば、何がしかイリイチの考えに近いところに行きつくということは、充分に考えられることである。そして、こういう歪みの何よりの原因となっているのが、病人から病気を抽出して理解するという、西洋医学成功の第一の原動力となった考えかたなのである。
 イリイチの指摘を待つまでもなく、公衆衛生的、疫学的に見た場合、西洋医学の成果というのはそれ程華々しいものではない。例えば、日本において結核が減少するのに与って力があったのは、抗結核剤の開発ではなく、経済状態の改善とそれに基づく国民の栄養状態の改善であったといわれている。しかし、一旦、結核が発症した場合においては、抗結核剤開発以前と以後では患者さんの予後が著明に変化しているというのも、紛れのない事実である。抗結核剤の開発をうながしたのは、結核症の原因を結核菌と考えるという、西洋医学の発想であった。結核感染症であるから、西洋医学のやりかたが最も効を奏した分野であり、ここで西洋医学の有効例としてもちだすのは公平な態度では無いかもしれない。「近代医学の壁」でディクソンが述べているように、「過去一〇〇年余りにわたって近代医学の発達を支えてきたのは、特定病因説、病気にはそれぞれ特定の原因がある、というあまりに単純な考えかたであった」が、それは細菌の感染などには有効であったとしても、現代の最も典型的な病気である心臓血管系疾患や癌にはうまくあてはまらないのである。「近代医学の壁」はなかなか面白い本で、興味深いエピソードがいろいろと紹介されているが、その中に、例えば、殆ど医者に見離された強直性脊椎関節炎の患者が、病気に対し受身になっていてはいけない、自分でもなんとかしなければと考え、病気は副腎疲労から来ているのではないか、笑うということは副腎機能回復に役立つのではないか、という仮説のもと、病床に「びっくりカメラ」のフィルムを持ち込み、大いに笑うことに努めたという話が書かれている。その結果はというと、一〇分間腹の底から笑いころげると、少なくとも二時間は関節の痛みがとれるといったことから始まり、数年かかって症状はほぼ消失したということである。そういう話を読んだからといって、すべての患者が病床で笑いころげることを薦める気にもならないが、それでも、この話は患者と病気の関わりということについて何程かの示唆を与えてくれることは確かである。手許の教科書には、強直性脊椎炎の治療としては、決定的なものはなく、痛みに対する薬物療法と、運動障害の進行を防止するための運動療法と日常生活の注意しかないと書いてある。そんなことを言われれば、一つ病気を笑いとばしてやるかと考える患者さんがでてきても、あながち不思議でもないという気がする。
 科学の専門化にともなう問題、医療者の側が医療知識を独占しているという問題を離れても、医者の側は患者さんから信頼され尊敬されている方が仕事がうまくいく、ということがある。これは単に仕事が円滑に運ぶといった次元での問題ではなく、治療自体がうまくいくのである。前に、一般臨床で一番よく用いられる薬は医者自身であるというバリントの言葉を紹介したが、それはまさにそういうことを指している。そうであるなら、むしろ積極的に患者さんの信頼を得るように努めるということも考えられるし、もともとカリスマ的な能力を備えた人間は「有能」な医者になれるということも考えられる。前述の徳永氏はその本で見る限り、相当のカリスマ的才能を持っているようであり、恐らく患者さんの間にかなりの信者を持っているのではないかと推定される。そしてまた、患者さんの信頼を失わないために自分でも必ずしも信じてはいないことを口にしなければならないことも往々あり、時には「他人の夏」の主人公と同様に、自分でも信じていない言動を通じて他人の生きかたに影響を与えてしまうことさえ、無いとは言えない。ふんぞりかえって患者さんに何も説明しないというタイプの医者は最近ではあまり評判が良くないし、最近の医者が昔にくらべて患者さんに多くのことを説明するようになってきたのは事実であるとしても、それは単に、その方が患者さんの信頼が得られて仕事がしやすいからであって、患者さんのことを思ってのことでは全然ないということも考えられる。
 人間が他人を支配するための一番の道具が言葉なのである。こころの問題に一歩足を踏みいれたら、支配と被支配の関係から逃れることはできない。チェーホフの言うのは、他人の支配を意図しない唯一の言葉の使いかたが無駄ばなしである、ということである。都会人がなぜ深刻になることを好まないのかといえば、それは深刻になることがいやおうなく他人の注意を自分に向けさせることを意味し、他人を支配することを意味するからである。都会人は他人を支配することも、他人から支配されることも好まない。そういう感覚はしかし、精神分析をやっている人間に言わせると、単なる分裂性格ということになってしまう。この分裂性格というのは小比木啓吾氏によれば、人と人のかかわり合いを好まない、内向的で脱俗的で自分が頭のなかで考えていることや主観的なものとか知的な思考に価値を置いていて、感情が希薄で冷たい、人格としての自分の一貫性が弱く、いつも何かを演じているいるような感じを持っている、などという特徴をもつ。ところで、その分裂性格とある程度似た性格をもつ男性を倉橋由美子氏は液体型と名づける。それは、「紋切型を使うのを恥じ、精神の硬直性を憎み、その意識は融通無碍、あなたをすばやく理解し、水が方円の器に従うごとくあなたにあわせて自分の形をきめてくれる」男性なのだそうである。小比木氏と違って倉橋氏がこういう性格を肯定的にとらえているのは確かであるが、その反対の個体型というのが、「ユーモアを解さず、ばかばなしをするときびしい顔をして、『もっとまじめに話し合おう』といったり、『自分はそういうことに全然興味がありません。剣は心なりと武蔵はいっている。自分もそう信じて生きています』というようなことを口走る」男なのだそうだから、それよりは液体型のほうがまともなのは当然かもしれない。しかし、それにしても、同じこころの問題をとりあげても、精神医学者と文学者では随分と異なるものである。だから「人を人と思う」ということについても、一方では、分裂性格の人間は人を人と扱わない冷たい人間なのであるし、他方では、個体型の人間は自分の考えを他人に押し付けて平然としている、人を人とも思わない人種なのである。
 医者にも個体型の人間、液体型の人間がいるに違いない。そしてそのことはその人の医療に対する態度に殆ど決定的な影響を与えるに違いない。ある患者にとっては、個体型の医者が良い医者である。ある患者にとっては迷惑である。患者さんが医者の言いつけを守らないと厳しく説教し、どなりつける医者がいる。おそらく何がしか個体型の医者である。自分でやる気がないならしょうがないや、と考える医者もある。液体型に近い医者であろう。前者の医者こそが患者のことを親身になって考えている良い医者であるとするものがある。多分、個体型の人間である。そんな医者は息が詰ってかなわないと考えるものもある。おそらく、液体型の人間である。要するに、十人十色、ひと様々ということである。しかし、どのような組合せになるかはほとんどの場合偶然によって決るのだから、下手な組合せになったら悲劇である。だが、うまい組合せになったら芽でたし芽でたしともいかないので、医者と患者が馴れあったまま、病気だけ着々と悪化していくということだって充分考えられる。
 しかも、医療の場においては、対等の関係など期待できないことは既に述べたとおりである。医者が液体型だろうと個体型だろうと、患者さんが何型だろうと、そこには対等な関係は存在していない。もしも医療が、医者は自分が把握している患者さんの病状に関する情報をすべて患者さんに伝え、そしてそのことをどのように考えるかはすべて患者個人の問題であって、医者はまったく関知せず、医者と患者さんとの会話は純粋に病気の技術的側面に関することを除けばただ冗談や無駄話だけというのであれば、両者の関係は平等であり、支配するとかされるとかといった問題は生じない。つまり、患者さんが病気を持つ健康人であるならば、医者と患者の間の問題はおきてこない。しかし、患者さんが病気になることにより病人になってしまうとしたら、医者は病気ではなく、病人を相手にせざるをえなくなるのであり、そこにこころの問題、言葉の問題が否おうなく生じてきてしまう。そしてもっと困ったことには、病気を持たない病人とでもいうべき人々がどんどん増えてきているのである。病気を持たない病人というのは変な言いかたかもしれないが、からだの不調を強く訴えるのに、西洋医学でいう意味での病気は特にない、そういった人々である。こういった人々は病気は持っていないにしろ、悩みはもっているわけなのだから、当然治療の対象とされるべきであり、もしそういう人々を西洋医学がうまく治せないとしたら、それは西洋医学の大きな欠点を示している、そういった議論がある。しかし、そういう病人(?)をつくりだしている最大の原因が実は西洋医学の病気と健康についての見方であるかもしれないのである。つまり、からだの不調があるからには、当然それに見合ったからだの異常があるはずであるという考えが人々の間にひろくいきわたっている、そのことがからだの調子が悪いことをそのまま病気と信じこませる原因となるのである。そういう病人を大量につくりだしている罪に比べたら、西洋医学がなしとげたささやかな成果などというのは誇るに足りないかもしれないのである。
 そして病人をどのようにあつかったらいいのかということについては、西洋医学は何ら良い知恵をもっていない。もちろん良い知恵などどこを探してもないということも充分考えられる。前章のベイトソンのホウレン草とアイスクリームの例ではないが、すべてはコンテクスト次第なのであり、コンテクストを離れた画一的な対策などありえないことだけは確かである。そして、医者は病気だけみていればいいので、病人の面倒までみようなどというのはおこがましい、という考えかただって充分存在しうる。もしも病人をどのようにあつかうかということについて根本的な対策があるとしたら、それは病人を病気を持つ健康人にもどすことである。そんなことが可能だとは思えないが、もし本当の対策といったものがあるとしたら、そういうことの筈である。前にヒュームの死の前の手紙を引用した。そこにいるのは、病気だが健康な人間なのではないだろうか。かっては可能だったことは現在でも可能なのではないだろうか。それともそれは最早とりかえすことが出来ないのだろうか。
 結局は、孤独という問題に戻ってくるように思われる。孤独などという言葉は何かとても大袈裟に見えるけれども、それは人間が人間であること、また人間が動物であることとほとんど同義語なのであり、そういう根本にたちかえることしか、現在われわれが陥っている何か奇妙な状態から脱出する術はないように思われるのである。吉田氏は、その「文学の楽み」の一番最後の章である「孤独」の中で、前にどこかで引用したかもしれないアーノルドの詩を例に引いて次のように述べる。
 
 確かに、アァノルドはドオヴァアの海岸で不信の時代の混乱に処するのにその妻の愛に力付けられることを求めている。併し彼は妻が妻以外の人間になること、例えば妻がもう一人の彼になって彼自身の力を倍にすることを望んだりしていなくて、彼が彼であり、妻が妻であることはそれまでと少しも変らず、それが一つの壁であるならば、彼はその壁が破れないのを悲む程幼稚な頭の持主ではなかった。今日の我々が孤独、或は我々が我々自身であることを嘆き、自分一人でいる時よりも他人といても自分の廻りに壁があることを何か現代の我々に特有の不幸という風に考えるのは他人が自分でないこと、或は自分が他人になれないことに対するそうしたないものねだりのようであって、自分の頭痛を他人が感じないのを現代の不幸と思い込む所に横着の極致が見られる。それに就いては自分の悩みが頭痛ではなくて、神がいないとか、存在が生命と矛盾するとかいう頭痛よりももう少し高級であることになっているものだという理由が用意されているが、矛盾を認めるのも自分であり、頭痛を病むのも自分である。
 
 こんなことは言われるまでもない当り前のことだろうか。そんなことは知っていても、いざ病気になったら何の役にもたたないだろうか。それは判らない。しかし、孤独を知ることは人を何がしか強くはするのではないだろうか。
 まだ感情移入ということが残っている。あることにこころを動かされるということと孤独とはどういう関係にあるのだろう。
 
 この美的という語だが、私はさしあたって次の詩でワーズワースがうたっているピーター・ブライとは正反対の性質、というふうに定義しよう−−−
 
  川辺に咲いた桜草も
  彼にはただの桜草、
  ただの黄色い桜草。
 
美的感覚に優れた彼らは、サクラソウに出合うとき、あっ、サクラソウだ、とそれを認知し、そこに感情移入を行う。《美的》とは結び合せるパターンに対して敏感であるという意味である。
 
 このベイトソンが「精神と自然」の中で述べている例は解りやすい。これは言わば静的な感情移入であり、人間の側が対象に対して一方的に感情移入をおこなう場合である。われわれが詩や音楽に動かされるというのも同じ状況であろう。詩や音楽は人間の精神活動の産物であるから、サクサソウと同一のものとして論じることは適当でないかも知れないが、われわれがベートーベンのピアノソナタに動かされるとしても、そのことによってベートーベンのソナタが別のものに変るということはない。しかし、ひととひとの間の感情移入ということになればそうはいかない。それはダイナミックな相互関係であって、その間の感情のやりとりは相手に影響を与えないわけにはいかないのである。大部分の小説は人間の間の感情のやりとりと描くことを目的としている。中でも恋愛を扱ったものが多いのは、恋愛において感情のやりとりが一番典型的なかたちであらわれるからであろう。しかし、小説などで一所懸命ひとのこころの動きを追いかけているうちに、段々ひとのこころがわからなくなり、信じられなくなって来てしまったのである。
だから、例えば、
 
 なんぢの敵を愛せよ、なんぢ自身の徳を完成するために−−ひとたびこの矛盾に気づくや、チェーホフの心は執拗にその矛盾を固執した。(福田恆存チェーホフ」)
 
 現代人はソーニャの善良さより、そのまえにひざまづいたラスコリニコフの誠実さを、カチューシャの純情よりはネフリュードフの誠実さを採る。が、ラスコリニコフやネフリュードフを主役と見たら『罪と罰』も『復活』もまっかなうそさ。なるほど傲慢であったから謙遜になりえたともいえよう。相手を裏切ったから、真に相手を愛しえたともいえよう。が、それはたゞあの二つの小説があそこで終っているというだけのことだ。もしぼくに才能があったらあのあとを書くね−−ふたゝびソーニャを捨てるラスコリニコフを、カチューシャに冷酷になるネフリュードフを。あの小説で、才能だけが本物だよ。誠実なんてうそっぱちさ。(福田恆存「ロレンス」)
 
 といったことになってしまうのである。
 小比木氏が述べているような性格の分析は、ひとのこころが理解出来るということを前提としている。ところが、ひとのこころどころか、自分のこころさえ理解できないというのが文学の前提であるかも知れないのである。自分で自分のこころがわからない、あるいは自分で自分が信じられないという、二つの自分ないしは自分の分裂を生み出したものはキリスト教であり、それが西洋キリスト教文明特有の後ろめたさを作りだしたと吉田氏はいうのであるが、後ろめたさなどというものは決して有難いものではないのであり、西洋の知性の努力の多くは西洋文明から後ろめたさを取り除くことに注がれてきたとも言えるからである。
 人間同士の関係には、その影として、支配と被支配ということがつきまとう。それは避けられないことなのかもしれない。医療の場では、特にそのことが生じやすい。患者さんの方が積極的に幼児化して支配されたがるという傾向さえないとは言えないようである。医療者の側ではそのことを利用して、カリスマ的に振る舞うことにより治療効果を上げることを意図的に行うこともあるかも知れない。むしろそれは医者にとって必須の一つの技法でさえあるかもしれない。しかし、例えそうではあっても、それは基本的に誤った人間関係なのではないだろうか。
 精神医療の場では(少なくとも精神療法、心理療法の場では)、この問題はもっとはっきりとした形をとる。ここでは、患者さんは一人前の人間ではないのである。患者さんにとってははっきりしない自分のこころの問題も、医療者の側には明らかであるばかりか、治療のために患者さんのこころを操作することさえ正当化されるのである。そして治療の目的は、患者さんを成熟させ、社会で互してやってゆける一人前の人間とすることにあるのである。フロイトの説がいかに奇怪に見えようとも、それによって治る人間や救われる人間がいるのは事実である。それがひとのこころの理解に多くを付け加えたのも事実である。しかし、精神分析の場における医者と患者の関係が、父と子、あるいは大人と子供の関係であり、対等のものではないこともまた確かであるように思われる。
 一見科学が進歩したように見える現代においても、こころについてはほとんど何も解ってはいない。だから次の様なラフォルグの詩は今でも新しい。
 
 要するに、私は、「貴方を愛しています。」と言おうとして、
 私自身というものが私にはよく解っていないことに
 気付いたのは悲しいことだった。
 ・・・
 それで、蒼い顔をした哀れな、貧相な人間で、
 余程暇な時でもなければ私自身というものが信じられない私は、
 丁度、夕方、一番美しい薔薇の花が散るのをただ見ていなければならない刺と同じ具合に、
 許婚が自然のなり行きで姿を消すのを止めることができなかった。(日曜日)

 また、

 もしあの女が私の代りに
 Aか、Bか、或はDに会ったのだったら、
 そのどれでも一生愛しただろうに。
 
 私にはそのAやBが見える。
 或は寧ろ、私にはそのAやBといる
 あの女が見える。
 あの女はそのどれもの為に生れて来たので、
 それがどれだろうと、その他に誰もいないことが
 女の様子で解る。
 女は穏やかに頷いて、
 どんなことがあっても、貴方と一緒にいるのが
 自分の運命であることに変りはないと言う。
 
 間違いなくその人で、女はそれを相手に話す。
 「あゝ、貴方の眼、そして貴方の歩き方。
 どうにも聞き逃せない貴方の声。
 私は前から貴方を探していて、
 今度こそ間違いがない。」・・・
・・・
 私は一時の間に合せ以上のものではない。
 
 一時の間に合せに過ぎなくて、
 それは時間の流れの中での私の一生、
 又、空間というものに私が占めている位置と同じことなのだ。
 こんなひどい状態に
 誰が我慢出来るだろうか。・・・(或る亡くなった女に)
 
 「書架記」の中の「ラフォルグの短篇集」の章で、吉田氏は次のようないささか奇妙なことを述べている。
 
 これを最初に読んだ時に経験したことはその後にも先にもないもので、こんなことを書いた人間もいたのかと思うよりも前世か何かで自分が書いたことをそれまで忘れていた感じだった。
 
 吉田氏は若い頃こういう詩を愛読する人だったのである。その吉田氏が後年次のような文章を書く。中村光夫福田恆存大岡昇平三島由紀夫氏らとつくっていた鉢の木会という会について書いたものである。
 
 つまり、そうして飲んだり、食べたりして、後は自分はなるべくいやな思いをせずに人をいやな気持にさせるのが目的の会で、それだから誰か一人か二人来ないとなお更、楽しめるのであるが、それだけの要するに、つまらない会であることを繰り返して言っておく必要がある。それならば、誰か会員以外の人間の悪口を言えば、銘々がいい気持になっていられそうなものでも、縁が薄ければ、そ奴が不愉快になっている所が想像し難くて、欠席したものが廻り廻って伝え聞きに、自分に就いてこんなことが言われたと知って赤くなったり、青くなったりするのを思い浮べるのに遠く及ばない。やはり、悪口を言うのは友達に限る。それに、次の集まりで一身上の弁明を試みるなどという野暮なことをするものは流石に一人もいない。それだけ内攻して、素知らぬ顔をして次の集まりに出て今度はこっちがどんなひどいことを言ってやろうかと隙を狙う気持には、何となく無我の境地と呼んでいいものがある。(書き捨てた言葉)
 
 また馬鹿話、無駄話についての話題になってしまった。どうも、この章はそれについての話に終始した感がある。結局、無駄話についての無駄話になってしまったのだろうか。こちらとしては、無駄話はどこかでエピキュリアンティズムに通じるという含みがあるつもりなのだが、そのことが伝えられたかどうか、自信はない。そして、一番論じなければならないのは、エピキュリアンティズムと医学の関係である筈なのだが、そのことについてはいよいよ自信がない。本書全体がそのことに対する回答になっているという風になれば言うことはないのだが、さて、どのようなものだろうか。