三浦雅士「青春の終焉」(1)
[講談社 2001年9月27日初版]
「一九六〇年代試論」の副題をもつ。
ある一つの熱気が一九六〇年代に高揚し、七〇年代に入り急速に醒めていったのはなぜかを考察したものである。その熱気を著者は「青春」と呼ぶ。
考察の範囲はきわめて多岐にわたっている。
「青春」という語は、もちろん60年代にはじめて出現したわけではない。「青年」という言葉が日本ではじめて使われたのは明治十三年(1880年)に「YMCA」の訳語として「基督教青年会」の語が用いられたのが最初であるという。
それまでは青年にあたる言葉は「若年」「壮年」「少年」などが用いられていた。それが二十年すこしで、小栗風葉「青春」、鴎外「青年」などの題名の小説が生まれるくらいの流行語として時代を席捲していく。
このように「青春」も「青年」も主として文学の世界での言葉であったわけだが、著者によれば、その「青春」を全身で演じた文学者が小林秀雄なのである。
その小林が演じた劇の台本を書いたのが実は夏目漱石で、漱石の時代にはまだ小説の中にしかなかった青春の劇を、実生活で演じたのが小林秀雄であるというのが、著者の見立てである。
見立てを続ける。
その点では小林秀雄は私小説家そのものである。青春とは、人間いかに生きるべきかという問いの別名であり、その問いにこそ文学の核心があった。そういう問いを信じられるという点で小林秀雄は真面目であり、その故に「笑い」を欠いた。
しかし、その小林もある時点で、自己意識とは滑稽なものでもありえて、自分の青春も見方によれば喜劇ではないかという地点に近づいたことがある。それが彼がドストエフスキーを論じた最後の評論である「『白痴』についてⅡ」であり、バフチンの「カーニバル論」の地点に接近したのだが、しかし小林は結局その道は進まず、微笑み交わす死者たちの世界、古典の世界の観照家へと戻っていった。
バフチンの「ドストエフスキー論」によれば、「ドストエフスキーにとって重要なのは、主人公が世界で何者かであるかではなく、主人公にとって世界がなんであるか」である。もちろん、これだけならば、自意識過剰な告白文学であるが、主人公にとっての世界というのが他者の意識でもあるというのがドストエフスキーの動的でポリフォニックな世界であり、モノローグの文学とは次元を異にする文学がそこに現れる、とバフチンは言う。
バフチンによれば、ドストエフスキーの文学は、近代というモノローグの時代への反措定なのである。そこには一義的なイメージはなく、悲劇はまた喜劇でもあり、そこからグロテスクな笑いが生じる。
ドストエフスキーの主人公たちも、社会的機能を強制される以前の、あるいはそこからはみでた人間たちであり、青春に生きる青年たちである。
十八世紀から一九世紀にかけてのヨーロッパにはそういうことが可能な巨大な集団が発生した。それがやがて辺縁部のロシアや日本にも広がっていった。そういう集団は、カーニバルの中にいたのである。
かっては季節の巡りにあわせておこなわれたカーニバルが、ある年齢集団に対しては、いつでも許容されることになった。
ところで意外なことであるが、小林秀雄と太宰治は似ている。両者ともに自己言及の逆説へのこだわりがあるからである。
しかし太宰には小林にない「笑い」があり、その「道化」はバフチンの「カーニバル論」のみごとな例となっている。太宰治は俳人でもあり、落語家でもあった。座の文学、場の文学という意識があった。
太宰にはまた、「女々しさのつよさ」といったものがある。これは雄々しさの弱さということでもあり、この点に三島由紀夫はひっかかるものを感じたのであろう。
日本の近代文学の主流は雄々しさの文学であり、その典型が志賀直哉であり、小林秀雄である。また、思想のない文学など考えることもできず、つねに革命を意識していた三十年代の文学者にも、女々しさの力といったものは理解できなかった。
その点でも太宰は異質であり、ある意味では通説とは異なり、反「青春」の作家であったのかもしれない。
なぜなら、日本の「青春」には大人の視点ばかりでなく、女の視点もなかったからである。
さて、青春という言葉は明治以降のものであるが、文学において青春という主題を用意したのが滝沢馬琴である。馬琴は明治はじめの文学者に決定的な影響をあたえている。なぜなら「八犬伝」は徹底して若者の物語だからである。
馬琴は徹頭徹尾、真面目である。馬琴は二宮尊徳の同時代人でもある。馬琴も尊徳も儒教的というより、清教徒的といいたいくらいである。それが清教徒的な北村透谷などにつながってゆく。
清教徒すなわち青年なのである。それは同時に野暮ということでもある。
現在の滝沢馬琴はたとえば吉川英治である。「宮本武蔵」は現在の「八犬伝」かもしれない。もっとも「宮本武蔵」は「八犬伝」とは異なり、成長の物語、教養小説ではあるが。
教養という言葉が現在の意味で用いられるようになったのは和辻哲郎からである。
和辻以前には、教養のかわりに修養という言葉が用いられていた。
修養という言葉にはまだ西洋に抵抗して儒教とか禅とかの型に依ろうという意識がある。しかし、教養という言葉は全面的な西洋の受容を意味する。
明治は修養の時代であり、大正は教養の時代である。
教養という語はドイツ語のビルドゥンクに由来するが、それを用意したのは一九世紀になって整備されていった大学制度である。そこからエリートが生まれてきた。しかし、大学という制度はもはや耐用年数を過ぎたのかもしれない。近年の大衆化によって、実態としては大学はもはや死に瀕している。
その大学の死、教養の死をもたらしたものの象徴がフーコーの「知の考古学」である。一九七〇年に刊行された。
これにより六〇年代のサルトルから七〇年代のフーコーへと時代は変わっていった。サルトルのヒューマニズムは終わったのである。フーコーによれば、サルトルはロマン主義者なのであった。
そして「教養」の代わりに、「知」という言葉が用いられるようになってゆく。
そもそも、思想には、急進的かつ根源的であることで思想たりうるというという部分がある。ヨハネ黙示録の「われ汝の行為を知る。なんじ冷ややかにもあらず熱きにもあらず、我は寧ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願う」という部分には、思想の秘密がある。
この論理と情熱が60年代の学生運動、新左翼の思想の淵源であった。
1967年の大江健三郎の「万延元年のフットボール」は、この問題に正面からとりくんだものである。そしてその主人公たち、行動する鷹四は村上龍に、動かない密三郎は村上春樹に引き継がれていくのだが、この両村上においては、大江に濃厚にあった歴史への執着はまったく消失してしまっている。
したがって村上龍の小説においては、破壊はただ破壊のための破壊であり、村上春樹の小説においては、世界はすでに終わっており、主人公は何か悟りきったような老成した印象をあたえる。
ラディカルであるとは、その背景に「失うものは何もない」という考えをひそませているものだ。大江の小説にはまだあった「失うものは何もない」と発想が、両村上においては、もはや意味をもたなくなってきている。闘うべき相手がもはや見えなくなってきているのだ。
「失うものは何もない」というのは、また、冒険へとむかう精神でもあり、ある意味で西洋近代の若さの根源でもあり、イノベーション、創造的破壊を繰り返して、資本主義をささえてきたものでもあった。
しかし、ヨーロッパでは文明はもはや黄昏ている。だが、それは見方によれば成熟でもあり、吉田健一はそこのヨーロッパの精髄をみた。
「失うものが何もない」時代は終わったのだ。それが青春の終焉ということである。
以上、要約をこころみた。もちろん、この浩瀚な書のごく一部をとりだしただけである。そもそも、この本の面白さは細部にあるのかもしれない。それは承知のうえで、以下感想を書いていきたい。(続く)
(2006年3月11日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
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