タリバン政権ははなはだ評判が悪いけれども、アフガニスタンに近年唯一秩序をもたらした政権であることは事実のようである。
したがって中村氏の著にあるように、市民たちは概ねその政権を歓迎したが、この政権に批判的であったのは、「一握りの中流以上の旧知識層」だけであったのかもしれない。
「収縮する世界・・・」の冒頭で村上氏が書いているパキスタンのパシュトゥーン人ドライバー同士のチキン・レースのようなスピード競争が象徴するものは「知識層」とは正反対の何かである。
マフマルバフもまたイラン人のインテリである。彼がアフガニスタンをみる目は、「個人の生」という視点からである。たぶんタリバン政権下のアフガニスタンは「個人」が生きることがはなはだ困難な場所なのである。
村上氏は「収縮する世界・・・」のなかで、「自分の仕事は政治にかかわることではなく、日本人のなかから個人という概念にめざめるひとを増やしていくことだ」といっているが、「個人」にめざめたひとはタリバン政権下では生きることはできない。わたしもまたタリバン政権下では生きたくない。
世界にはまだ「個人」になっていないひとがたくさんいる。その多くは飢えていて、個人になるといった贅沢はもとめず、パンをもとめている。そして「個人」になることは必ずしも幸福なことではないから、その個人以前の世界を懐かしいと感じるひともでてくる。
たぶん、日本人や西欧人がいままでアフガニスタンにほとんど関心をもってこなかったのは、そこに「個人」がいなかったからかもしれない。そこにはマスとしての人間はいても個人はいない。
フォースターが「ハワーズ・エンド」に書いた「この物語はひどい貧乏人には用がない。こうした連中はお話にならないので、問題にするのは統計学者か詩人くらいなものだ。この物語が問題にするのは、一応の身分の人々、またはやむをえずそういうふりをしている人々である」というおそろしい言葉が、アフガニスタン問題にもまた関係しているのかもしれない。
(2006年3月11日:ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植。)
- 今ではだれも(ではないかもしれないけれども)アフガニスタンのことなどいわなくなってしまった。わたくしもまた、関心がなくなってしまった。基本的にわたくしの関心は西欧と日本にしかないのかもしれない。中国などへの関心も日本とのかかわりにおいてだけなのかもしれない。(060311付記)

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
- 作者: モフセンマフマルバフ,Mohsen Makhmalbaf,武井みゆき,渡部良子
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