[文春新書 2001年10月20日初版]
犬を、犬とかいていぬと読む、これにはもともと何の必然性もない。しかも犬は「ケン」とも読む。
犬をDOGと書いてDOGと?読む。これにもまた何の必然性もない。
もともと犬というものはなく、犬という言葉が発明されるときに、犬とよばれるある集団が他の動物と言分けられる、というようなことはおいておいても、DOGといえばただDOGである文化圏とくらべて、「いぬ」といいながら、すぐに犬という漢字を思いうかべる操作をしながらでないと日常の会話がなりたたない日本語の特殊性についてあらためてかんがえさせられる本。
日本語は欧米語にくらべて著しく文字に依存した言語なのであると思われる。それに較べれば、欧米語はずっと音に依存した言語なのであろう。
日本人の失語症が欧米人のもとと著しく異なることはよく知れれているけれども(漢字はよめるけれどかなは読めない失語というのは欧米人にはありえない。DOGは読めるけれど、ABC・・・が読めない失語というのは欧米人にはあるのだろうか)、日本人は欧米人とはまったく異なる脳の使い方をしているに違いない。
日本人と欧米人で音楽を聴くときに使う脳の半球は違うという話があったが、こういう背景を考えれば当然のことかもしれない。
2002年1月7日追記:
「文学界」2月号の養老孟司氏の深沢七郎についての文を読んでいて、上記の「失語症」が「失読症」の間違いであることに気がついた。訂正する。高島氏の「日本語は文字主体である」ということは、すでの自分がいっていた、と養老氏はいっている。いわれてみれば、そういう気がする。
養老氏によれば、深沢七郎の小説は日本では例外的な、音声的な文学なのだそうである。
(「文学界」2002年2月号 p213−214)
(2006年3月11日:ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

- 作者: 高島俊男
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2001/10/01
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