中村哲氏の訃報に接して

 中村哲氏の訃報に接して、本棚から氏の「医者井戸を掘る アフガン旱魃との闘い」を取り出してきた。2001年10月刊行の本で、わたくしが持っているのは2001年12月の第3刷。
 この本は2000年6月にアフガニスタンに久しぶりに戻った中村氏が赤痢の大流行をみて驚くところからはじまっている。その原因は旱魃による飲料水の欠乏。それで「素人集団」が井戸を掘り始めるわけである。「医者井戸を掘る」。
 この地域はもともと乾燥地帯なのではなく、前年までは水であふれる水田地帯であったらしい。中村氏が医者をやめて、飲み水と灌漑用水の確保にその後も邁進することになったのは、2000年を境に気候が変化し旱魃が続くようになったのか、それは2001年に出版された本書ではわからない。
 本書の後半はアフガニスタンの政治状況への言及が増える。それは2001年3月のタリバンによるバーミヤンの仏跡の破壊が一つのきっかけとなっている。「生身の人々より死んだ遺跡に執着するほうが異様に思えた。」 中村氏が井戸を掘り始めたころはアフガニスタンでのタリバン政権が世界の耳目を集めていた時期なのである。
 本棚に同じころ(2001年11月)に出版されたマフマルバフの「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」が並んで置いてあった。「一切れのパンを求める民を前にして、バーミヤンの仏像は自分の偉大さなど何の足しにもならないと恥じた。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて、自ら崩れ落ちたのだ」
 2001年9月11日の事件がおき、ビンラディンがその首謀者とされた。しかし「タリバンは遠くからみれば危険なイスラム原理主義者だが、近づいて個々を見ればそれはバシュトゥーンの飢えた孤児である。」 だが、「一人の死は悲劇だが百万の死は統計に過ぎない」
 アフガニスタンがわれわれの関心をひくようになったのは1979年のソ連のアフガン侵攻からではないかと思う。確実にソ連崩壊の遠因となったとされるこの事件をきっかけにアメリカはタリバンに肩入れし、それが結果として9・11にもつながったという文脈のなかで、アフガニスタンが一時期われわれの関心をあつめたわけだが、最近ではまた忘れられていた。中村氏の死によりまた一時われわれはアフガニスタンのことを思い出すことになった。
 もう20年近く前のことなので、わたくしがどのような理由でこの「医者井戸を掘る」を購入したのかは思い出せないが、バーミヤンの石仏の破壊、タリバンといったことでアフガニスタンという国に関心をもっていたからであるかもしれない。
 そしておそらくはこの「医者井戸を掘る」というタイトルに何かを感じたのかもしれない。栄養が悪く衛生状態も不良である地域においては医療にできることは極めて限られてしまう。結核は貧困の病である。ストレプトマイシンが発見される以前から日本で栄養状態の改善により、結核はすでに減り始めている。日本における上下水道の整備は新生児や乳幼児の死亡率を劇的に減らしたはずである。
 医療にできることはごく限られているので、時と場合によっては医療行為などより井戸を掘るほうがはるかに有効である。そういう警鐘としてこの「医者井戸を掘る」という本のタイトルを受け取ったのかもしれない。
 そして中村氏のこともアフガニスタンのことも忘れてしまっていた。今回、中村氏の死という「一人の死」によって、つかの間、また氏のこととアフガニスタンのことを思い出すことになった。実は、中村氏がアフガニスタンの水にかかわる仕事をずっと続けていたことさえ知らずにいた。
 中村氏は自分の死によってつかの間アフガニスタンのことをわれわれがおもいだすというようなことをのぞんでいないのではないかと思う。しかし時間がたつとアフガニスタンのことはまた統計の問題へと戻ってしまう。われわれはどうしても顔がみえないひとに親身にはなり切れないのではないかと思う。
 

医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ