開高健 没後30年

 今朝、新聞を見ていたら、本の宣伝の惹句に「開高健 没後30年」とあった。ベルリンの壁崩壊からも30年だそうであるから、氏は東側の崩壊を見ずに亡くなったわけである。
 氏の一番の傑作は私見によれば「夏の闇」だと思う。今、本棚から取り出してきた「夏の闇」は昭和47年(1972年)の刊で、そこに「波」1972年3月号に掲載された佐々木基一氏との対談「『夏の闇』の意味するもの」というのが、全集なら月報というような感じで挟まっていた(どうでもいいことだが、この本は箱入りで、そういう小パンフレットまで収められていた。小説の単行本が箱入りでなくなってきたのはいつごろからだろうか? だんだんと出版社の小説刊行への熱意と敬意が乏しくなっているような気がする。もちろん出版不況がそこにかかわっているのは間違いないのだろうが・・)。そこで開高氏は以下のようなことを言っている。「ぼくが芥川賞をもらったころ、心中ひそかに誓ったことがあるんです。当時の日本の文壇には、抒情と告白、孤独とセックス、そして観念しかなかった。それが私にはがまんができなかったんです。・・・私にふさわしくないようなテーマばかり選んで、自分から逃げるというか、遠心力みたいな力で小説を書いていこうとした。・・・(しかし)それまでの方法ではもうやっていけなくなってきた。・・この作品はぼくの第二の処女作なんです。・・」
 それならば、「夏の闇」が「抒情と告白、孤独とセックス、そして観念」に戻ったのかといえば、それが難しいところである。それは、何かが欠落した男と女が再会して別れる話である。「当時の日本の文壇には、抒情と告白、孤独とセックス、そして観念しかなかった」という場合では、それらが一見は否定的に描かれているように見えても、最終的にどこかで肯定されていくのであるが、それとは違って、この小説では、欠落している二人の人間が、その欠落の不幸のままで救済を求めていく物語である。そしてそのままではどうにもならない物語に、最後に機械仕掛けの神様として現れれてくるのがベトナム戦争なのだである。
 「夏の闇」の前作が「輝ける闇」で、これは氏がベトナム戦争に従軍して九死に一生をえた経験をもとにしていることはいうまでもないが、それでもまだこれは「遠心力」路線の延長線上にあると思う。開高氏はベ平連の創立メンバーの一人であるが、途中からそこから離れたと記憶している。そこで政治というものについて非常に多くの経験を氏はしたのではないかと思う。それは、矢沢永一・向井敏氏との鼎談「書斎のポ・ト・フ」の中の「手袋の裏もまた手袋 *文学のなかの政治」の章にも色濃く反映されているように思う。そこで取り上げられている6冊の本のうちの4冊、アナトール・フランス「神々は渇く」、ツヴァイク「ジョゼフ・フーシュ」、ダフ・クーパー「タレイラン評伝」、モーム「昔も今も」はわたくしもその本で知って後から読んでみたくらい、その章は面白い章だった。ここでの「神々は渇く」についての議論は開高氏のベ平連での経験が色濃く反映しているだろうと思う。そして、氏がオーウエルの「動物農場」を訳したことについても大きく関係しているだろうと思う。
 わたくしの大学時代はベトナム戦争の時期と重なっているのだが、今でも不思議でならないのが、サイゴン陥落まではあれほど熱心にベトナムのことを報じていたマスコミが、その後のベトナムについてほとんど何もといっていいくらい報じなくなったことである。中越戦争などそれ自体があまり報じられなかったように思うし、今のベトナムの現状がどうなっているのかもほとんど報じられることがない。
 そもそも現在のベトナム社会主義国家なのであろうか? それなら社会主義というのは何を指す言葉なのだろうか? 現在の中国もまた社会主義国家なのだろうか? それとも社会主義とは現在においては一党独裁の別名に過ぎないのだろうか? おそらくベトナム戦争の時代まではまだ社会主義への憧れと熱気があって、それでこそホーチミンの神格化のようなこともおきたのだろうが、ソ連崩壊後、社会主義への熱気が失われると、現在のベトナムのような国をどう評価していいかわからなくなってきているのであろうと思う。
 そして開高氏は、政治に懲りて、ベトナムにかかわって、今度は「オーパ!」の路線に転向したのであろう。中年の倦怠と惨憺たるぬかるみを一時であれ癒すものとしての釣り!
 そして文学としては「ロマネ・コンテイ 1935年」から「珠玉」へ。きちっと構成された短編の世界へ。そして、そこにも色濃く漂う倦怠の影。
 氏は60歳にならない年齢で食道がんで死んだけれども、もしももう少し長く生きたら、どんな作品を書いただろうかと思う。なんだか成熟という言葉が似合わないひとだったようにも思うからである。それとも、時々、完成した掌編を発表する気難しい老大家のようになっていったのだろか?

夏の闇 (1972年)

夏の闇 (1972年)

  • 作者:開高 健
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1972
  • メディア:
書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

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オーパ! (集英社文庫)

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ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説 (文春文庫)

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珠玉 (文春文庫)

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