小玉武「開高健」

  
 著者はサントリーの宣伝部で開高健の後輩であった人らしい。それですでに「「洋酒天国」とその時代」「「係長」山口瞳の処世術」「佐治敬三」といったサントリーとその宣伝部、あるいはそこに関わった作家についての本を書いていて、本書はその最後となるものであるらしい。
 わたくしは開高健の書いたものをそれほど読んでいるわけではないが、読んだ中で一番印象に残っているものとしては、やはり「夏の闇」ということになるのかもしれない。後は「オーパ!」以降の一連の海外での魚釣りもの、「ロマネ・コンティ一九三五年」だろうか。最後の「珠玉」はちょっと痛々しいような感じがした。
 しかし開高氏がかかわった本で実はわたくしにとってもっとも大きく後に残っている本は開高氏と谷沢永一向井敏の鼎談「書斎のポ・ト・フ」かもしれない。この本でA・フランス「神々は渇く」、ツヴァイク「ジョゼフ・フーシュ」、D・クーパー「タレイラン評伝」、S・モーム「昔も今も」、篠沢秀夫「篠沢フランス文学講義」などの本を教えられ堪能させてもらった。殿山泰司の書くものが面白いということを教えられたのもこの本によってであったのかもしれない。
 この鼎談で見るかぎり開高氏は非政治的人間の典型のようなひとであるので、その氏が若いころ「べ平連」などという組織にかかわったということがよくわからない。この辺りの経緯は233〜234ページに書かれているが、その結成者の一人である開高氏について、「のちにべ平連と開高氏の距離は微妙なものになっていく。・・やがて開高はべ兵連からはっきり離れ、独自の立場を貫くことになる」という事実のみが書かれていて、市民運動などというおよそ開高氏の資質とは水と油のようなことにそもそもなぜかかわるようになったかというその点については何も書かれていないように感じた(鶴見俊輔のようなひとが呼びかけ人になったというのもまったく理解できないのだが・・)。
 わたくしの中にある開高氏のイメージは書くべき主題をごくわずかしか持たなかった作家というものなのだが、そのことに開高氏は若い時から自覚的で、それゆえに自分を書かない、自分の内面を歌わないということを自分に課して出発したという点で、大江健三郎倉橋由美子とは異なる立ち位置にいた作家であったのだと思う。その氏が、自分に課した掟を破って書いたのが「夏の闇」で、これ以前の作とこれ以降の作は肌合いがあったくことなったものになったのだと思うが、禁則を捨ててしまうと、残る主題は自分の中の空虚ということだけに収斂していってしまう。これは「オーパ!」のような魚釣り世界紀行のような本でも同じであって、氏の後半の作は自己模倣という匂いが消えなかったように思う。
 開高氏というと奥さんの牧羊子さんのことがとかく問題にされる(というか牧さんが一方的な悪役になる)ことが多いが、その点にかんしては本書は随分と筆を抑えて書いているようである。
 
夏の闇 (新潮文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

オーパ! (1978年)

オーパ! (1978年)

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)