三浦雅士「青春の終焉」(2)

 
 三浦氏によれば、「青春」とはヨーロッパ近代の産物である。社会への参入を猶予された若者たちが一定程度の大きさの集団として産生されることによって、それは生まれるのだが、その集団があまりに大きくなると、もはやそれは終焉するしかなくなる。したがってそれは、教育の普及と大衆化に平行していることになる。
 ヨーロッパでそれが可能であったのは、ヨーロッパの文明が特別にすぐれていたからではなく、ヨーロッパという地域がたまたま、世界に先駆けて、働かなくてもいい相当多数の若者集団を養っていけるだけの生産力を獲得することができたからである。
 すなわち、ブルジョア階級の勃興と拡大、産業資本主義が、青春という現象を生んだ。もちろん生産力の背景には科学技術があり、その背景にはキリスト教がある。しかし、中世のヨーロッパはその当時のイスラム圏にくらべれば、どう考えても野蛮な地域であった。
 ヨーロッパという後発の文明が現在世界の中心となっている逆説が、「青春」という問題の背景にある。ヨーロッパというのは異常な文明で、本来文明に反するはずの、野蛮と若さによって世界を席捲した。現在のイスラム世界の西欧への反発もそのことと無関係ではないだろう。
 西欧は、すでに成熟していた文明世界に「若さ」を輸出していった。
 この「青春の終焉」は、江戸時代という文明をもっていた日本に、西洋の「若さ」がはいってきたことによっておきた混乱の物語でもあるのかもしれない。
 三浦氏によれば「青春」は終焉したのであるが、さてそれならば、われわれは「若さ」を卒業し成熟したのであろうか? 三浦氏は「青春」が終焉したのはわれわれが成熟したためではなく、資本主義の内実が変化し、階級がもはや人格と結びつかなくなったからであるという。それともう一つ、女性が解放されたためでもあるという。「青春」は実は男のものであり、そこには女性の参加はゆるされていなかったのである。
 もしも、「青春」が成熟により克服されることで終焉したのではないとすると、われわれはさらに幼児化したのかもしれない。「青春」はただ単に消滅しただけであり、青春の病理はそっくりそのまま残されているということはないだろうか。青春の病理の代表である「過剰な自意識」はあるいはその姿を消したのかもしれないが、それは自意識が適量になったためではなく、単に自意識が無くなってしまっただけかもしれないのである。
 仮に、「青春の終焉」は、それを支える経済社会の変化によって、おきるべくしておきたことであったとしても、それははたして望ましいことであったのか、それともはなはだ遺憾なことであったのか、それはわからない。「青春」が終焉すれば、確かにその病理も消失するであろうが、同時にその健康もまた失われてしまった可能性もあるからである。
 三浦氏もいうように、「青春」と「小説」には密接な関係がある。英雄、偉人の物語ではなく、平凡人の物語としての小説である。小説を書くことは、ごくつまらなく見える生にも意味があるという認識の表明にほかならない。そして、そういう小説は西欧近代に生まれた。
 西欧近代が世界にもたらした最大のものは、この認識であったのではないだろうか? もちろん、それは最初は白人、キリスト教徒、男性、に限定された認識であったかもしれない。しかし、「青春」がロシアへ、日本へとひろがるうちに、それは非白人、非キリスト教徒にもひろがっていったのである。「青春」という病がこれだけの感染力をもった最大の理由はそこにある。
 そういう認識はひょっとすると滑稽でもあり、野暮でもあるのかもしれないのだが、世の中には、洗練されていないが故に発揮される強さというものもある。「青春」が終焉したとすると、「ごくつまらなく見える生にも意味がある」という認識もまた消失したのであろうか?
 60年代はサルトルの時代であり、70年代はレヴィ=ストロースそしてフーコーの時代であったと三浦氏はいう。フーコーの登場によって実存主義ロマン主義の最後の火花であることが鮮明となったのであり、フーコーサルトルをふくめたヒューマニズムを否定し、主体的人間の時代の終りを宣言した、というのである。
 フーコーロマン主義的人間を否定したのだが、ロマン主義こそは近代ヨーロッパの別名であるのかもしれず、そうであるなら、フーコーは近代ヨーロッパ自体を否定したことになる。そして「青春」とロマン主義が同じ根っこから生じたことはいうまでもない。
 すると問題はこういうことになる。「ロマン主義」は確かに、もはやわれわれの信条ではなくなったのかもしれないが、それでは、それによってわれわれが得たもの、失ったものは何なのだろうかということである。
(続く)


(2006年3月11日:ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)